7.『舞台は整えられて』





 耳の羽虫でも気になったのか。馬は、何かを振り払うかのようにぶるると首を振った。
 揺れる馬体のうえ、あぶみで踏ん張りながら、アッシアは上手く平衡を保つ。
 彼の鞍にしがみつくようにして乗っている、レイレンを名乗る黒猫は、体に巻きつけてある落下防止の紐が幸いしているのか、ちっとも動揺した気配がない。これ以上目立たないようにしたいという気持ちがあるのだろう。黒猫は今まで一言も発していなかったし、これからもそうするつもりだろう。まるで石像にでもなったかのように、黒猫は、じっと目の前の地平を見つめつづけている。
 鞍の前の部分に張り付いている黒猫を一瞥すると、小さく息を吐き、黒縁眼鏡のアッシアは、現在の気持ちをそのまま呟いた。
「……緊張するな」
 ピエトリーニャ捕縛へ向けて、動き出そうとしているデグラン家の騎士一個中隊。公子ジュリアス=デグランが率いるこの隊の隊員たちは、特に知らされているわけではないが、きっと精鋭なのだろう。
「そうか。お前は、戦場に立つのはこれが2度目か」
 アッシアの呟きを聞きとがめたのか、それともアッシアの態度から緊張を察して心配したのか。恐らく後者だろう、銀髪の髪を揺らし、白甲冑に身を包んだジュリアス=デグランが馬を寄せてきた。
 何かを考えるようなふりをして、アッシアはこの白甲冑の指揮官とは目を合わせない。緊張を見せることが、弱みを見せることになるような気がして、少し虚勢を張った。そして少しだけのぞいた弱みを誤魔化すように、アッシアは、
「まだこの先が、戦場になると決まったわけじゃない」
「まあそれは今のところ事実だな。それで、お前は、この先が戦場にならないと予想しているのか?」
「……いや。きっと戦いになると思う」
 へそまがりな奴だ。
 声をあげて、ジュリアスは笑った。自分が屁理屈を言ったという自覚がアッシアにもあったので、結局、この黒縁眼鏡の魔術師も一緒になって笑った。公にはなっていないが、このふたりは兄弟なのだ。気もそれなりに合う。
「戦場で、こうしてふたりでくつわを並べるのは、初めてか」
 ひとしきり笑いを終えて、ジュリアスが聞いた。
「そうだね……ジュリアス」真面目な声で、アッシア。
「なんだ?」
「正直なところを聞かせて欲しい。ジュリアスは、僕らに何を期待している?」
 僕ら、というのは、アッシアだけではなくて、一緒にこのピエトリーニャ捕縛の中隊に客分として参加している、エマ=フロックハートのことも含んでいるのだろう。だが、勿論、銀髪の兄はその意図を正確に理解して答える。
「魔術師としての活躍だ。魔術師として相手の思考を読み、魔術で応戦して欲しい」
「僕は、足手まといになるかもしれない」
「……」
 数瞬の間、ジュリアスは黙った。そしてこの銀髪の兄は、思いを巡らせる。
 会っていなかった数年の間に、弟であるアッシアは、やぼったい黒縁眼鏡をかけるようになっただけでなく、戦闘行為と呼ばれるものができなくなっているということを知った。
 アッシアは戦闘的な行動を取ると、精神的なものらしいが、激しい頭痛と吐き気に襲われるということだ。以前、これも彼の弟であるダグラスとせドゥルス学院で戦ったときは大丈夫だったが、これはたまたまに過ぎない。
 戦闘ができない魔術師など、軍に置く価値は無い。だから、今回の作戦行動に加える意味は無い、とも判断することはできたが、しかし――。
 ジュリアスには、別の計算もあった。アッシアの戦闘能力というのは、そういう欠点を差し引いても、まだ価値があるものだと思ってもいた。
 ゆっくりと静かに、だがはっきりとした言葉で、ジュリアスは黒縁眼鏡の弟に告げてやる。

「6年前のパンドル西基地でのことは、報告を受けて知っている」
「!」

 アッシアの顔が、驚きに歪んだ。
 まさか、という表情。
 弟にとっては知られたくないことのひとつだったのだろう。
 そうジュリアスは頭の片隅で思った。
 初陣のときの出来事とは別に、
 アッシアにとって重要な出来事のひとつであるはずだった。
 けれどこの銀髪の兄は、敢えて弟の驚きを無視して言葉を続ける。

「ジーク=ギネットという男が、私の配下にいる。見渡せる範囲にはいないが、今もこの部隊に同行している。もちろんジークは知っているな? お前の付き人だった騎士だ。なかなか見所があるから、私が拾い上げた。その男が、方々をまわり、手を尽くして探してきた情報だ」
「あれは、公式の記録は無いはずなのに……」
「ああ。人づての話だ」
 アッシアの呟きを、ジュリアスは首肯して肯定した。そして同時に、銀髪の兄は、ジークという男の想いの深さを思う。公式には生死不明となったアッシアの捜索は打ち切っていたが、アッシアが不在だった10年の間、ジークはときおり、自分の休暇を使って、自分の旧主の調査を独自にしていた。パンドル西基地の話は、その成果だった。
「――そうか。僕の罪は、よく知られているんだな」
 下を向き、自嘲ぎみに、アッシアは言った。
「罪?」意外な言葉が出てきたと思いながら、ジュリアス。「それは違うぞ、アッシア」
 言いながら、銀髪の兄は、弟が何に苦しんでいるのか、その手がかりがつかめたような気がしていた。
「違う、だって?」
 黒縁眼鏡のアッシアが、疑問に思い聞き返したそのとき、強い風が吹いた。細かい土粒を巻き上げて、一隊を吹き過ぎる。

 反射的に、土埃が目に入らないように顔を覆う。
 襲い来る土粒と風を黒いローブの袖で防ぎながら、アッシアは思う。
 過去は消せない。どうやっても、消せない。
 どれほどうまく隠したところで、いずれは露見する。
 そして過去は現在を追いかけ始める。
 ちょうど、今このときのように。
 アッシアが薄く目を開けると、鞍にしがみつく黒猫が見えた。
 黒猫も、土埃を避けるために体を伏せ、目を閉じている。
 元暗殺屋だという黒猫にも、当然、過去はあるだろう。
 きっと、消し去りたい過去があることも、容易に想像できる。
 しかし、消し去りたいと渇望しても過去は無くならない。
 その事実を、この元暗殺屋は、どう考えているのだろうか。

 風が吹き止んでもしばらく、アッシアはぼんやりと物思いに沈んでいた。そのうちに、騎士の一隊は整列を終えた。整列完了を告げる報告の声が、隊中をかけめぐる。
「出発だ」
 兄の顔から、指揮官の顔へと表情を付け替えたジュリアスが、進発を命じる。指先で空を撫でつけるように、銀髪の指揮官は右腕を振った。
 指揮官の意志を隊に伝播させ、騎士たちは二列縦隊で動きだす。騎士たちの熱を持つかたまりは、鳥瞰すればひとつの生き物のように見えるだろう。勢いのある若武者で構成されている先発小隊が出発し、次の小隊が動きはじめた。
 そのとき突然、地面が爆ぜた。
 耳をつんざく音。
 飛散する土に気を取られる間もなく、続けて火炎が立ち昇る。
 爆発に巻き込まれたのか、何人かの騎士が馬ごと横倒しになった。
 突然の攻撃を受けて、わずか100名ほどの騎士隊に緊張が走る。
(魔術の熱衝撃波!)
 直感すると、アッシアは素早くこうべを巡らせる。
 どこからだ? どこから魔術を撃たれた?
 呪文は聞こえなかった。遠距離から狙撃されたのだ。
 飛び道具の一種である魔術は、戦場では、敵と隔てをおき長距離からの攻撃に使われる。しかし魔術にも有効射程があり、遠距離からの攻撃では、他の飛び道具と同じように命中精度と威力は落ちる。
 どこからか攻撃しているはずの魔術師を探すが、見つからない。
 焦る気持ちとは逆に、周囲には荒野しか見えない。
 背後にはザードリックの街並みが見えるが、そこから魔術を放つには遠すぎるはずだ。
「右だ、アッシア!」
 そう叫んだのは、アッシアの鞍の前の部分にしがみつく黒猫だった。
 黒猫に確認する間もなく、とにかくアッシアは右手側を見る。
 目を凝らすと、青い空に、空気の歪みが見えた。
 そして次の瞬間、再び地面が抉れた。
 地響きを立てて、大地を垂直に掘り下げるように突風が渦巻く。
 さらに次撃が来る。蒼穹に浮かぶ雲が歪んで見える。
「くっ!」
 こちらの攻撃魔術で撃ち落せるか――?
 訝りながらも、相殺するための攻撃魔術文様を、アッシアは右腕にまとわせた。だが。
「紅樹の護りよ!」
 どこからか、エマ教師の呪文の声が響き。次の瞬間、魔力でできた紅い枝が無数に伸びて、騎士の一隊を包むように広がる。まるで神の御手のように拡散した紅い枝はこれまた紅い葉をつけ、騎士隊の半分以上を覆う。非常に広範囲の魔術だ。
 その紅樹の外、敵の攻撃魔術が、弾けて消える。この細枝の紅樹は、防御魔術の一種らしかった。護られた、という安心が騎士の一隊に広がる。張り詰める一方だった雰囲気が、落ち着きを取り戻した。
 黒猫が目敏い言葉を発したのは、その時宜だった。
「アッシア。敵はおそらく、右手側にある岩群の陰だ。いくぞ」
 遠目に、岩が転がっている場所が見えた。岩の切り出し場も兼ねているのだろうか。距離があるから米粒ほどに小さく見えるが、ひとの背よりも高い岩々があるようだ。確かに、あそこならば身を隠して狙撃することができそうだった。
「……、くそっ!」
 数瞬迷った末に、アッシアは単騎で飛び出した。
「ひとりでは危険――」
 馬首をめぐらし、そう言いかけたのは、紅色の防御魔術を発動しているエマだった。だが、そのエマを、ジュリアスが腕を掲げて制止した。
「彼だけで充分です。おそらく斥候の嫌がらせだ――被害状況、確認を急げ! 隊列を整えろ!」
 銀髪の指揮官の言葉は、後半は隊全体に向けた命令だった。短すぎる説明に不安を抱きながら、エマは指揮官の言葉に従う。だが、土煙をあげて、隊から遠ざかっていく単騎の後ろ姿を、心配そうに見つめた。



 鞍から腰を浮かせ、鐙の上に立ち、アッシアは馬を走らせる。
 自分の精神的な持病――戦闘したときの頭痛や吐き気が心配だったが、短時間に決着をつけられれば、症状が出ることが無いかもしれないと楽観していた。いや、そう決め付けた。
(要は――殺さずに捕縛すればいい。そうすれば、罪を重ねずに済む)
 自分に言い聞かせるようにしながら、アッシアは揺れる馬上で手綱を握り締める。
 いま敵を排除しておかなければ、のちのち面倒なことになるはずだった。
 魔術の有効射程は、射程拡張の文様を使って、通常300から400ヘート。だから、半径400ヘート以内には敵がいることになる。
 敵の魔術攻撃は、本格攻勢ではない。魔術攻撃の規模からして小勢、目的はただの嫌がらせだろう。しかし、今後もずっとつきまとわれて、単発でも遠距離から魔術を撃たれたりすれば、騎士たちの精神の消耗は避けられない。
 それに、攻撃してきた敵の正体もつかむ必要もある。
 アッシアは、馬に拍車をかけて加速した。
 蹴立てる土埃が、一層大きくなる。
 敵からの魔術による狙撃を警戒して、馬上の魔術師は防御魔術の文様を頭の中に思い描いていたが、敵からの攻撃はなかった。
 そして、賊が潜んでいると思われる岩群に到着したアッシアは、馬の速度を落とし、さぐるようにあたりを見回す。
 ベルファルト王国には、荒野が多い。大昔は森深い地だったというが、大陸性の乾燥した気候と住民による伐採などがあいまって、土地は、ほとんど草が生えない荒地に変わってしまった。荒野の一角に、むきだしの大きな岩がその辺りにごろごろしているのも珍しくない。逆を言えば石材が豊富なので、削掘や石材加工が盛んな国なのだが、それは今のところ関係ない。
 とにかく、騎乗したアッシアの背丈を越える岩が散乱しているこの一帯に、おそらく賊が潜んでいる。
 いつでも対応ができるように神経をとがらせながら、アッシアが馬を進め、ある岩陰を出たそのとき。
「渦巻けよ炎!」
 どこからか呪文が聞こえ、ごうと音を立てて、炎が包むようにしてアッシアを襲った。
「竜のはばたき!」
 呪文の声に反応して、アッシアは咄嗟に防御魔術を発動させた。アッシアを中心にして風が渦巻き、襲いくる炎を蹴散らした。そして、吹き飛び消えた炎の先に、少しの距離を隔てて、ひとりの男が立っていた。頬に刀傷のある男だ。
 アッシアの予想は間違っていなかった。小勢――実際にはひとりだったが――の魔術師による魔術攻撃。
 そんなことを頭の片隅で確認する間に、馬の方向を変え、アッシアは次撃の魔術文様を既に中空に描き出していた。
 通常、魔術師が相対すれば、魔術の撃ち合いになり、戦いは長期化する。しかし、アッシアは短期決戦を選んだ。
 相手の死角にある魔術のための文様を描き、そして、アッシアは右腕の銀の腕輪に魔力を送る。
 腕輪型の魔術器具が起動して、複雑な積層型の魔術発動文様が浮かびあがる。
 そして、結果として、アッシアの意図していた魔術が発動する。――発動文様の効果は、呪文の代わりに魔術を発現させる。
 馬上の魔術師の右手に微振動波が一度収束し、次に超音波となって敵を襲った。

「ぐぅっ!」
 頬に刀傷の男は、頭を抱えるようにしてうめいた。
 アッシアの魔術を認識できず、結果としてまったくの無防備状態で超音波を受けたのだ。そして男が描きかけていた魔術文様が掻き消える。魔術は、術者が集中をとぎれさせれば発動できない。
 うめきながら、頬に刀傷の男は考える。自分は一体何をされた?

 その隙に。
 アッシアは、馬を駆って、頬に刀傷の男に切迫した。
 距離を詰めてしまえば、魔術の撃ち合いはできない。
 狙い通りの展開だった。
(敵に呼吸を読ませるな――。そうだよな、ケルヴィン?)
 馬をせかしながら、アッシアは、遠い記憶を思い出していた。



                      ■□■



 アッシア少年の放った魔術の衝撃波は、兄ダグラスが生み出した魔術防壁に阻まれた。
「くっそー、まただ! また止められた!」
「へっ!」
 悔しがるアッシアに向けて、ダグラスは得意の笑声をひとつ放つと、まだ少年だという年ごろの割には大柄な体を加速させて、アッシアへと接近する。
 その頃、まだアッシア少年は華奢な印象の13歳だった。対するダグラス少年は、ひとつ違いだから14歳。この年代の一年というのは一般的に大きなものだが、それとは関係なく、両者にはかなりの体格差があった。
 木刀だけでなく魔術をも使う『総合組み手』は、実質的な模擬戦闘訓練だった。
 伝統あるデグラン家の練兵場。
 その木の床を蹴り猪のように突撃してくるダグラスを迎え撃つために、アッシア少年は素早く右手を掲げて、魔術文様を描き出す。年齢の割には早く、精度の高い文様だったけれど、しかし――。ダグラス少年は、膨大に広がり茫漠な光を漂わせる文様に構わず突っ込んできた。
(魔術が、怖くないのか?!)
 アッシア少年のその驚きが、結果から言えば敗因になった。
 その一瞬の驚きの隙に魔術文様までたどりついたダグラス少年は、魔力を帯びさせた手で、アッシアの文様を引きちぎる。構成の一部を失って、魔術文様はただちにかき消えた。そして、そこから数歩で――時間にすれば一瞬――走ってきた勢いのまま、ダグラスは弟へ肩から体当たりをした。胸部に強烈な衝撃を受けて、アッシア少年は吹っ飛んだ。訓練場の木板の床に派手に転がり、場外で壁にぶつかって止まった。
 一本。
 審判が宣言し、兄弟による試合は終了した。


「どうしてさ! どうして、兄さんに僕が負けなきゃいけないんだ!」
 試合が終わって、床に尻をつけたままわめく弟。そのアッシア少年――体が痛くて動けないのだ――に向けて、ダグラスが嘲るように言う。
「決まってんだろ。お前が、俺より弱ぇってことだよ」
 年齢の近い男兄弟の多くがそうであるように、アッシアとダグラスは、互いが互いをライバルとして意識していた。結果として、このふたりはことあるごとにいがみあい、競い合っていた。有り体に言えば、仲の悪い兄弟だった。
「魔術文様精製の速度も精度も、魔術の威力だって僕の方が上なのに! この前の歴史のテスト、僕は100点だったけど、ダグラス兄さんは30点しか取れなかったのに!」
「……最後のやつは、組み手にゃ関係ねぇだろうが。もっぺん床に転がしてやろうか?」
 挑発されても体を動かすこともままならないらしい。一向に立ちあがれそうもない弟は、ただただ悔しさを噛みしめる。直立の姿勢で見下ろしてくるダグラスを、睨みつけることしかできなかった。
 そんな弟に張り合いをなくしたのか、ダグラスはどこか気まずそうに視線を外し、弟と同じ黒髪の頭をぽりとかくと、身をひるがえす。
「じゃあな」
「魔術を使っていい総合組み手なら……」
 ぽつり、アッシアは言った。落ち込んだちから無い声で。
「総合組み手なら、兄さんに勝てると思ったのに」
 弟の様子が気になったのか。立ち去る途中だったダグラス少年は、一瞬何か言いたそうな顔をしたが、結局アッシアには言葉をかけることなく、その場を離れた。

「大丈夫ですか? そろそろ動けそうですか?」
 ひとりになったアッシア少年に話しかけたのは、少年の護衛騎士のあるジークだった。まだ若いくせに、髪には櫛目がついており、詰襟は一番上の釦まできっちりと留められていた。泣きぼくろが印象的なこの男は、この頃まだ準騎士だった。
 声をかけられた、訓練場の床に腰をおろすアッシア少年は、何も言わず顔をうつむける。まだ、動けないということなのだろう。
 やれやれ、とジークが腰に手を当てたとき、栗色の髪の騎士が近付いてきた。いや、正確には彼も準騎士だ。
 アッシア少年の護衛騎士のひとり、ケルヴィン=マクゴナルだった。
 人懐っこい垂れ目のこの若者が、3年後に命を落とすなどと、誰が想像できただろう。
 垂れ目の準騎士は空気をはかるように一度頭を掻いて、そして、
「本当はうまく伝えるように言われたんですけれど、面倒なんで直接伝えます。ダグラス様から伝言です」
 胸を張って宣言して、敬礼の姿勢をとる。そして、ダグラスから何かを吹き込まれたらしい垂れ目の準騎士が続ける。
「『魔術には呪文の呼吸がある。それを捉えろ!』……ということです」
「どういうことだ?」
 そう聞いたのは、ジークだった。もちろん、伝言を伝えられたアッシア少年も、わけがわからない。
「いや、さっきそこでダグラス様とすれ違って、伝えるように言われたんだ」
 後方を親指でさしながらケルヴィンが答えるが、そういうことを聞きたいんじゃない、とジークが首を横に振る。
「伝言の内容がどういうことか、と聞いているんだ。さっぱりわからん」
「そうか? 勘が悪い奴だなあ」歯を見せて、ケルヴィン。
「悪かったな。だから、その勘が鈍い奴にもわかるように説明してくれ」
 癪に障ったのか、目を細めて腕組みをするジーク。それじゃあな、とケルヴィンが説明を始める。
「敵が、魔術文様を描いているとする。じゃあ、発動するタイミング。お前なら、どうやってはかる?」
「そうだなぁ……。発動のタイミングは、文様を見ればわかるな。魔力が文様に充填されれば、光るからな」
「それは違うな。魔力が充填されても、それだけじゃ魔術は発動しない。発動させるためには、呪文が必要だ。結局、呪文を唱えるタイミングが、魔術が発動するタイミングなんだよ」
「それはまあ、そうだが。しかし、呪文を唱えられれば魔術は発動してしまう。その時点でじゃもう手遅れだろう」
 泣きぼくろの準騎士が反論すると、そこが違うとケルヴィンが指を振る。
「呪文には言霊……っていうか、要は気持ちをこめなきゃならない。だからな。大抵の魔術師は、呪文を唱える前に大きく息を吸い込むんだ。それが、魔術発動の合図だ。だから、呼吸を捉えれば、魔術の発動がわかるし、それがわかれば、戦況もうまく動かせるってわけだ。だから、呼吸の間合いを知るのは、魔術戦闘でのコツなんだ」
「ほう、そうなのか。誰に習った?」
「誰に、ってことはないさ。自分で勝手に気がつくのさ。特に、俺みたいな……ってダグラス様もそうだけど、魔術スキルが得意じゃない奴は、その差を何かで埋めようと必死になっているもんなんだよ。呪文から魔術の効果を推測することもあるしな」
 それは魔術文様の勉強が足りないだけだろ、とジークが言うと、うるさいな、とケルヴィンが返す。そんなふたりのいつもの掛け合いの間に、そうか、と呟く声が挟まれる。
「そうか……そうなのか」
 今まで黙って話を聞いていたアッシア少年が顔をあげる。
「じゃあ、呪文が無ければ、相手は呼吸が計れなくて、タイミングが取れないってことだね!」
 少年主君の飛躍した発想がすぐさま理解できなくて、護衛騎士のふたりは互いに顔を見合わせた。



                   ■□■



(呪文を唱えないようにするだけで、相手はこちらのリズムをつかめず、勝手に調子を狂わせて自滅してくれる――)
 その発想は、戦闘を重ねるごとにアッシアの確信へと変わっていった。
 そして今、その確信をまた新たにして、彼は敵に向けて騎乗する馬を加速させる。
 黒縁眼鏡の奥の目は、狙った敵を射抜くように捉え続けている。
 蹄鉄が地面を砕き、黒縁眼鏡の魔術師は前へ前へと跳ねるように加速する。
 風を潜り抜けるようにしながら、アッシアは男から見て死角に小さな魔術文様を描く。
 小規模な文様に魔力を充填すると、文様が金色に発光し、ひそやかな高音を響かせる。
 そこで、さらに腕輪に魔力を送って魔術器具を起動させ。
 魔術器具のちからで、呪文なしにその魔術を発動させた。
 左手で手綱を操り、そしてからの右手に、魔力で作った槍が具現化する。
 彼の魔術文様と同じく、金色に発光する槍。

 魔術の槍を見た、頬に刀傷の男の表情に、驚愕が浮かぶ。
 いつの間に魔術を発動した――、そんな驚き。
 男の方はと言えば、ようやく魔術の効果が弱まったばかりなのに!

 その一瞬の隙に。
 アッシアは、相手に肉薄する。
(相手を殺さずに、だが行動を封じる!)
 心の中で確認しながら、アッシアは最短距離の動きで金の槍を振りおろす。
 頬に刀傷の男は、間一髪、横っ飛びでかわした。
 馬は小回りが利かない。
 アッシアが行過ぎてしまった馬を戻す間に、頬に刀傷の男は魔術を発動させる。
 不利だと判断したのだろう。男は、逃げを選んだ。
「我を、撃ち出せ!」
 男の足元に光る円が現れ、次の瞬間に男が消えた。
(消えた……いや、違う。瞬間跳躍魔術で、岩の上に逃れた!)
 アッシアは素早く看破し、そして自らも瞬間跳躍の魔術文様をするると描きだす。
 同時に、馬上で上方を確認する。そして、腕輪の発動作用を使い、またもアッシアは無声のまま魔術を発動させる。
 下から突き上げる衝撃。そして次の瞬間、アッシアは人馬一体で、岩の上へ登る。
「な……んだとぉっ!」
 見立て通り岩の上にいた頬傷の男は、音もなく現れたアッシアに、驚きの声をあげた。逃げおおせたと思っていたのだろう。だがしかし、そこは直径3ヘートほどの岩の上。男に、逃げられる足場などない。
 そこに、アッシアは容赦なく魔術の槍先を突き出す。
 槍先は、頬傷の男の肩口をかすめたが、動きを止めるには至らなかった。
 頬傷の男は身をよじり、岩から、自ら飛び降りるようにして落ちた。
 そして、落ちながらもなおも魔術文様を描き出す。
「我を……撃ち出せぇっ!」
 苦悶の呪文とともに、頬に刀傷の男は魔術のちからによって急速に加速し、姿を消した。
 その男を、アッシアはさらに追おうとしたが、しかし。
 突然岩場に押し上げられて驚いたのだろう、彼が乗っていた馬が暴れ出した。前脚、後ろ脚を激しく動かし、現状への抵抗を試みる。
「どう、どうどうっ!」
 アッシアは手綱を引いて抑えようとしたが、馬が言うことを聞く気配はない。馬上の魔術師は再び跳躍魔術を使って地面に降りて、馬から振り落とされないように、制御に集中せざるを得なかった。
 跳ね、蹴り、暴れ、踊り。
 そして、しばらしくして暴れ疲れて馬がおとなしくなってきたころには、頬傷の男の気配は消え去ってしまっていたのだった。



「……逃がしてしまったな」
 戦闘をした岩場。少し落ち込んだ声で、鞍の上のクロさんがアッシアに言った。攻撃を受けてからこっち、アッシアが戦っている間も、振り落とされないようにしっかりとしがみつき続けていたのだ――ひと言も発することなく。この黒猫も疲れたのかもしれない。
「ええ。しかし、あの男は着地制御をしないで瞬間跳躍の魔術を使って逃げましたから、無事でもないと思います」
 跳躍魔術は、術者を目標地点まで撃ち出すと共に、着地地点ではその撃ち出した力を相殺させて完成する魔術だ。要は、着地のことを考えずにただ速く遠くに飛ぶことだけを考えて、跳躍したのだ。だから、着地時には、撃ち出されたままの勢いで、地面にぶつかるしかない。
 戦闘は終始優勢だったが、相手を逃がしてしまった。だが、あの頬に刀傷の男はしばらく動くことはできないだろう。とりあえずの戦闘力を奪えたのだから、成功の部類だろう。そう判断するアッシアの黒縁眼鏡の奥の目は、冷静そのものだった。
「ところでアッシア。おまえは大丈夫か?」
「何がです?」
 クロさんは鞍の上、馬の首の根元あたりでしがみついているので、答える黒縁眼鏡の魔術師は、ついつい下を向いた格好になる。
「持病のことだ。戦闘をすると、頭痛や吐き気がするのだろう」
「それは、今のところは……いえ」目を閉じて、アッシアは頭を押える。「なんだかだんだん頭が痛く……吐き気もしてきた……。隊に戻る前の今のうちに、吐いておいたほうがいいんでしょうかね?」
「……ああ。その方がいいのかもしれんな」
 やはり、ひとの病気というものは、そんなに簡単には治らないものだな。そう思いながら、クロさんは頷くのだった。