1.『作戦活動はコードネームで





「ギルバート様」
 そう背後から声があがったとき、アッシアは特に気にしなかった。まさか自分が呼びかけられているとはついぞ思わない。
 加えて、アッシアは親切に人違いに対応できるような状況になかった。吐き気がするうえに頭がくらくらして、ふつか酔いを思いっきりひどくしたような状態だったのだ。
「ギルバート様」
 再び、背後から大声で呼びかけられた。声の方向が自分に向けられているとは感じたが、勘違いだろうとアッシアは思った。彼らは現在、馬で駆けて移動している。声をかける方も受ける方も、多少混乱することもあるだろう。
 アッシアの後方から一騎が速度をあげ、アッシアと並んだ。どうしたのだろうと隣を見ると、並走する騎士と目があった。そして、騎士が言う。
「ギルバート様。お加減は大丈夫ですか? 顔が真っ青ですが」
 どうやら、ギルバートとは、アッシアのことを指しているらしかった。
 このアッシアことアッシア=ウィーズ魔術学院教師は、100騎ほどの騎士たちに附き従い、ベルファルト王国国境の荒野を騎馬で東行していた。この騎士の一隊を率いるのは、名将と名高い大公家の銀髪の公子、ジュリアス=デグラン。国境近くの辺地で悪行を繰り返す奇術師ピエトリーニャを捕えるために編成された一隊だった。アッシアは、エマ=フロックハート魔術学院教師と共に、奇術師捕縛に協力している。
 季節は夏だが、ちょうど雲で太陽が翳ってきた時刻だった。大陸性の乾燥した空気、馬が蹄で地面を蹴るたびに土埃が容赦なく舞い上がる。
 その土埃に目を細めながら、アッシアは自分の黒縁眼鏡の傾きを直し、話かけてきた騎士を見る。6分ほどのちからで馬を走らせているので、余所見をしていられる時間はそれほどない。とりあえず、アッシアが大丈夫と頷くと、騎士の方も了解とばかりに頷いて、また隊列へと戻った。
 大丈夫だと答えてみせた黒縁眼鏡の教師だったが、実のところはそれほど平気ではなかった。朝の戦闘による頭痛と吐き気は、数時間が経った今でも、まだ続いていた。加えて、馬に乗っている時の振動で、酔ってしまったらしい。鎮まるどころか高まる一方の吐き気をこらえ、気力を振り絞ってこの教師は騎士の一隊について行っているのだ。余裕などどこにもない。しかし、そんな状態でも、一糸乱れず走る精鋭騎士の一団についていけるのだから、ここはこの気の毒な教師を褒めてあげるべきなのかもしれない。
 そんな気の毒な教師に、一騎がまた馬を寄せてきた。隊を率いる将、ジュリアス=デグランだった。凝ったつくりの鎧に流れる銀髪、駆る白馬にも簡易ながら品のある装飾がほどこされており、まるで絵物語に登場する将さながらだった。
「言い忘れていたが」
 声をひそめて、白馬の将軍は、アッシアに話しかけた。
「隊の者には、お前は『ギルバート』だということにしてある」
「え?」
 初めて聞いたというように――実際初めて聞いたのだが――驚いた表情で、アッシア。
「お前がアッシアだと知られては、都合が悪いのだろう? だが、隊の者にお前の名前も知らせぬままでもいられないのでな。勝手に偽名を作った」
「え、あ、そうか……。ありがとう」
 ようやくジュリアスの意図するところを察し、黒縁眼鏡の教師は馬上のまま礼を述べた。
 アッシアが家を出てから、10年以上が経つ。姿かたちも随分と変わっているから、身近な者でなければ、当時のアッシアと今の彼とをそのまま結びつけるのは難しいだろう。だが、アッシアという名前を名乗れば、かつてデグラン家を出奔した3男アッシア=デグランと、魔術学院教師アッシア=ウィーズが同一人物であることに気がつくものは多いだろう。そのあたりに気をまわし、アッシアの名前を公にしないように、ジュリアスは偽名で騎士たちに連絡したのだった。
 だが、ひとつ気になったことがあったので、黒縁眼鏡の教師は聞いた。
「ジークは……」
 言いかけたその一言で、ジュリアスは了解したようだった。
「ああ、お前と当時近しい関係だった、主だった者には、真実を伝えてある」
 それなりに気を使っているつもりなのでな、とどこか厭味のようにジュリアスは付け加えた。
 厭味には無言で答えて、アッシアはさらに聞いた。
「僕はどうすればいいのかな、その……ジークたちに対して」
 質問の意図は不明確だった。聞きたいことは、アッシア自身にもわかっていたわけではない。だが、かつて同じ時間を過ごしたジークたちに対して、どんなことをすれば良いのか、ただその手がかりだけでも掴めればと思ったのだ。
 涼やかな瞳で、黒縁眼鏡の教師を一瞥したあと、ジュリアスは銀髪とともに首を横に振って突き放した。
「さあな。それはお前の課題だ。私は、それが有用であれば用いる、ただそれだけだ。細かいところで私に面倒見の良さを期待するな。そのあたりはダグラスの担当だから、そっちに相談しろ」
「――ダグラスに?」
 嫌そうなのと意外さが半々で混じり合ったような声で、アッシアは問い返した。黒縁眼鏡の教師の感情を読み取りながらも、白馬の将はそうだと頷いた。
「嫌なら自分で解決しろ。お前とダグラスは仲が悪いから知らないだろうが、ダグラスは部下の面倒見が良い。部下からの信望という点では、彼奴は私を凌いでいるよ」
「うーん……」
 どちらかというと否定に受け取れる相槌。続けて、黒縁眼鏡の教師の脳裏に、学院でダグラスに再会したときのことがありありと思い出された。あのときは、再会の挨拶そこそこに、猪のようなダグラスに戦斧で斬りかかられたのだ。
 到底相談なんてできないなと思いながら、アッシアは話題を転じた。
「ところで、僕の『ギルバート』っていう偽名には、何か意味があるのかい?」
「いや……他意はなく思いつくままに偽名を決めたのだが、まあ……」
 馬を並走させながら、ジュリアスはアッシアを上から下まで一通り眺めて。
「少々優雅過ぎる名前だったようだ。本人が名前負けしている。残念だ」
「なっ! ちょっ……それはないんじゃないか、兄さん!」
「大声だすな。自分の正体を知られたくないのだろう?」
 いたずら小僧のように微笑んで、ジュリアスは手綱を操り、並走するアッシアから離れてそして、溶けるように隊列へと戻っていく。アッシアは、曖昧に笑ってひとつ溜息をついて、速度を保つために一度馬に拍車を入れた後、まるで眠るように顔を俯けた。波のように襲ってくる吐き気と頭痛に耐えるためだ。
 でこぼことした荒野を、まるで平地の道であるかのように精鋭騎士隊が駆けていく。あと小一時間ほどで、目的地まで到着するはずだった。そしてそこは、情報通りならば、敵の本拠地。



                         ■□■



 次々にあがってくる敵情の諜報を見る眼球に疲れを感じて、彼は少しの間、目を閉じた。眉間をもみほぐすついでに触れた顎、伸び始めた髭のとがりを指に感じる。
「……無精髭になってしまったな。剃っている暇もない」
 昨晩からほぼ徹夜で、彼はいくつもの情報を集め、命令文書を書き、部下に指示を飛ばしていた。事態が急転し、デグラン家が騎士団を動かしてきた。彼は、その対応に追われているのだ。
 茶色の髪、きりっとした眉、彫りの深い顔。だが、整った彼の顔に刻まれて消えようとしない、不機嫌そうな眉間の皺が、彼の気難しい性格をよく表していた。
「特任隊長には、無精髭もお似合いですよ。渋く見えます」
 声をかけられて彼が顔をあげると、女性の部下が彼の方を見て微笑んでいた。彼女も同様に徹夜に近い状態のはずだが、まだ余裕がありそうだ。少なくとも、冗談が言える。
「いっそこのまま髭を生やしてみようか。重みが出ていいかもしれん」
「特任隊長にもっと重みが出たら、大変です。今でも、黙っていらっしゃるとこわいぐらいなのに」
「いやいや、私など青びょうたんさ。まだまだだ」
 無精髭の特任隊長の呟きを、冗談だと受け取ったのだろう。女性の部下はくすくすと笑う。
「『あの方』に片腕として認められたディウス=スブッラ様が、ご自分のことをまだまだだなんて。私たちは、貴方を実質的な首領として動いているのですよ。それは、『あの方』が貴方を実行部隊長に任命したからではありません。我々も、貴方を首領に相応しいと考えているからこそです」
 彼――ディウスは、買いかぶり過ぎだと頬をひとつ擦った。女性の部下は、また笑う。
「そうかもしれません。わたし、徹夜でハイになっていますし、それに――興奮が醒めないんですよ。なんと言っても、あの大魔術師、ピエトリーニャのもとで働いているんですもの」
「『ラビット』」
 ディウスは、女性の部下の名を呼んだ。いや、これは名前ではない。
「おしゃべりが過ぎているぞ。この部屋に外部のものはいないが、気の緩みは肝心なところでミスとなって表れる。我々の存在と素性は、一切知られてはならんのだ。そうしなければ、本国に迷惑がかかる」
「了解しました。以後、コードネームを使います――『ペルソナ』」
 上司の意図を素早く察して、女性の部下が答える。『ペルソナ』とは、ディウスを指す暗号だった。
 部下の優秀さを快く思いながら、ディウスは仕事へと戻る。顎に生えている無精髭を指でいじりながら、いくつもの諜報を眺め、思考に沈む。
 2日前、デグラン家が、ピエトリーニャ討伐のためにとうとう軍を派遣した。
 その情報はすぐさまディウスのところへ届いた。ディウスは、老賢者ピエトリーニャの元に集まる魔術師たちを統括する立場にある。魔術師たちはピエトリーニャの研究を補佐するものであり、有事には戦闘要員となる。20人ほどの小勢ではあるが、ある国家の厳密な審査のうえで、老賢者の元へ送られている。隠密で進められている計画のため、選ばれた魔術師の中には半端者はいない。能力も忠誠心もトップレベルのものたちばかりであった。
 その飛びぬけて優秀な魔術師たちに、どう指示を出すか。
 それが、ディウスの――実務を統括する者の直近の課題であった。
 デグラン家軍は、1000名の騎士隊を本隊として、こちら――つまり、ピエトリーニャの隠れ家に向かっている。ディウスとしては、なんとしてもこれを退けなければならない。
 本隊の到着は、おそらく明日か明後日になるはずだった。兵力差は大きいが、手駒には優れた魔術師が数多くいる。正面から当たれば勝ち目はないが、地形を利用して奇襲と火計を繰り返せば、撃退できない数ではなかった。
 ディウスは敵の数などから侵攻路を割り出し、奇襲の計画を練り、また即席ながら魔術師たちの訓練を進めていた。
 その一方で、デグラン家の先遣隊が、老賢者の隠れ家を目指して進んできているという情報も入っている。確認したところによると、数は100名ほど。目的は偵察と露払いだろうが、しかし、率いているのはデグラン家嗣子ジュリアス=デグラン。無視はしにくい大駒だった。先遣隊に対しても、何かしらの対処が必要だろう。
 しかし、余剰な兵力などない。状況を可能な限り厳密に検証し、ぎりぎりの兵力をあてがわなければならない。そのためにはまず、詳細な諜報が必要なのだが――。
「ラビット。先遣隊について、何か続報は入ったか?」ディウスが質問した。
「いいえ、国境の街ザードリックを朝に進発した、というところで情報は途切れています」
「何故情報が途絶えている?」
「不明です」
 ラビットは簡潔に応える。いいかげんな推測などディウスは必要としない。だから、報告には主観を交えず、ただ事実だけを答えなければならない、というのが彼女の上司への理解だった。
「先遣隊の諜報担当は、確かフレッチだったか」
「はい、そうです」
 ふむ、と無精髭の上司は顎に指を当てる。
 その様子を眺めながら、諜報担当者の名前まで頭に入っているのか、とラビットは内心舌を巻く。諜報担当には、コードネームも割り当てられていない、いわば兵士のような個性の無い扱いだ。だがディウスは、名前だけでなく担当者の人物像も把握している口ぶりで話し始めたので、さらに驚いた。
「あの気性だから、手柄を焦って返り討ちにあったか、それとも情報を発信できないような状況にあるのか……」
 顎をいじりながら、何かを思い描くようにディウスは呟き、そして速断をくだす。
「ラビット。敵の先遣隊へ2人諜報を追加する指示を。先遣隊の状況を確認したい。それから、魔術師10名に対して戦闘準備の命令を伝えてくれ。先遣隊の鼻先を叩いて追い返す」
 言い終わるなり続けて命令書の草案を書きなぐると、無精髭の男は椅子から立ち上がり、部屋を出ようとした。そんな彼に向かって、ラビットが追うように声をかける。
「どちらへ?」
「戦闘準備だ。……先遣隊攻撃には、私も加わる」
 ――了解しました。
 女性の部下の返事を背に受けて、ディウスは灯りもない隣室へと姿を消した。
 上司がいなくなって、さほどの広さもない事務室に、女性の部下だけがひとり残される。魔術灯が明かりをなげかける部屋は途端に静かになった。所在なさげに、くるりと指先でペンを回したあとで彼女は、
「ホント、デキる男って感じ」
 呟いて、命令書の清書にとりかかった。