2.『彼女は7歩ほど先に進み





 ザードリックの関所は、混乱を見せ始めていた。
 賊を理由として、突如として閉められた街の門。だが、物流と情報とは日常的に流れ続けているものだ。それに、ザードリックは街道都市で、多くの物と人とがこの都市を毎日経由し通過する。それらが突然断ち切られ、足止めを食った旅人や輸送業者が、封鎖解除を訴えに関所に詰めかけていた。
 高まる感情が感情を煽り、まるで昇る太陽に合わせるように、群衆は熱気を帯び始めていた。不満の声はどんどんと大きくなり、一個の化け物のように関所へと浴びせかけられていた。
「うわー、すっげぇ人だかり」
 騒ぎ立てる群衆を眺め、赤毛の少年が感嘆の声をあげた。
 大荷物を背負った人馬や牛が、そこらじゅうにひしめいている。行き場を失くした川の水のように、人馬の群れは拡大を続けている。
「情報なんてとれないな、こんな状態じゃ」
 赤毛の少年――パットは、ひとり宿から出て、情報収集に出向いてきていた。同行していた従妹のリーンやヴァルは、宿に残している。本来の旅程から言えば、今日ザードリックを発って帰るつもりだったのに、突如の封鎖で計画が狂っているのだ。路銀にも限りがあるし、少しでも状況をつかむために、こうして関所へとやってきたのだが。
 目の前に広がるのは、同じような事情を持つ人、人、人。それから牛馬。
 一応、隣にいた目つきの鋭いおじさんに、パットは声をかけてみる。関所はどんな状況ですかね。
「あァ? そんなこと、こっちが知りてえよ。くそ、前の奴、邪魔だ邪魔! いいからどけよ!」
 その声に合わせたわけではないのだろうが、怒号と罵声が周囲から巻き起こる。まだ通れないのか! 契約の時間に遅れちまう! いつになれば通れるんだ! 邪魔だ役人! こうなったら押し通っちまえ! ……。
 騒ぎがだんだんと殺気立ってきた。そのうち、群衆同士でのいさかいも出て来たらしく、方々で怒鳴り合っている。
そのうち刃傷沙汰になるぞと思ったパットが思ったそのとき、老爺が赤毛の少年むけて倒れこんできた。弱々しい背が少年の足に触れる。
「ちょっ、大丈夫かい、じいさん?」
 よく見れば、老爺の顔は赤く腫れて、口端に血がにじんでいた。老爺を助け起こすために、パットが身をかがめたそのとき、近づいてくる影があった。顔をあげれば、横に広い体をした男が立っていた。身なりは商人風だが、もとは兵士でもやっていたのか、肉が隆々としている。
「どけ、ガキ」
 鋭く、男は言い放った。そしてきつく睨みつけて来る。どうやら、この商人風の男が老爺を殴ったらしい。
(しまった。やっかい事に巻き込まれちまった)
 心の中で舌打ちするが、この状況で、どけと言われて素直にどくわけにもいかない。パットの方も相手を見返す。挑発しないように、だがなめられもしないように気をつけながら。
「いきなり殴ることはないじゃないか。まず事情を……」
 言い終わる前に、顔面に衝撃を受けて、言葉が止まる。
 助け起こそうと低い姿勢のままだったパットの顔が、商人風の男に蹴り上げられたのだ。
 赤毛の少年がたまらず地面に転がる。
 続くはずの衝撃に備えて、赤毛の少年が身を丸めようとしたとき、聞き覚えのある声。
「そのへんでやめときなよ。大の男が、老人子供を相手に。苛立っているのはわかるけどさ、弱いものいじめはみっともないね」

 少年は、つむっていた目を、うっすらと開いた。
 その目の前に、白外套がひるがえる。
 いつの間に現れ、そして行動したのだろう。

 パットが体を起こすと、今朝宿屋で出会った白外套の女性が、商人風の男の首筋に掌小刀をぴたりとはわせているところだった。




「挑発は賢くないね。あのテの輩は、脳味噌がまともに入っていないもんだから、すぐに頭が沸いちまうのさ」
 言って、にっと笑ってみせる白外套の女性。
 助けられたパットは、白外套の女性と共に、乾燥した街道を歩いていた。老爺よりもパットの方の傷がひどいということで、傷の手当のために、女性の言う『職場みたいなところ』へと向かっていた。
「別に、挑発したつもりもなかったんですけどね。でも、あのときすでに、アイツの脳味噌は蒸発して全部無くなっちゃっていたみたいです」
 時折顔面を走る痛みに顔をひきつらせながらも、パットが答える。
「挑発するまでもなく頭が沸いてたってことかい。そりゃ、災難だったねぇ」
 ははは、と快活に白外套の女性は笑う。
 関所から離れると、住民はだいたいいつも通りに活動をしている。半日くらい物流が途絶えたぐらいでは街は活気を失わない。
「関所に行けば、何かわかると思ったんですけれど、結局何もわかりませんでした。いったい、いつ封鎖が解けるんでしょうね」
 白外套の女性は、笑顔のまま答える。
「封鎖なんて、大したことじゃないさ。でも、何にも情報を流さないで街を封鎖すれば、皆も混乱する。それぞれが色々と想像して噂も飛び交う。そりゃそうさ、何にもわからないんじゃ不安になるさね」
「まるで、いま何が起こっているかを知っているみたいな口ぶりですね」
 パットがそう言うと、白外套の女性は、口をへの字に曲げた。まるで喋り過ぎたとでも言うように。
「ん? んーいや、そうじゃないさ。当局のやり方がまずいんだって、そういう意味だよ。役人なんて、馬鹿ばっかりだからさ」
 それにしても、と白外套の女性は話題を変える。
「勝てない喧嘩だと思ったら、これからはすぐに逃げるんだよ。いつでも助けが入るとは限らないんだからさ。死んじまったら、元も子もない」
 諭すようなお姉さん口調だったのが、ほんの少しだけパットのプライドに触れた。
「でも、お姉さま。実は、僕、こう見えても魔術師なんです。だから魔術を使えば、あのくらいの男だったら充分に倒せるんですよ。ただ、魔術を使えば周囲に被害が出るし、相手も大怪我させちゃうから、あのときは使わなかっただけで」
「へぇー、魔術師。あんたみたいな子がねぇ」
 白外套の女性は驚きで眼を丸くしているが、虚言癖の少年だと思われても面白くない。パットは、正式に自己紹介することにした。僕は、パット=コーンウェルといいます。
「セドゥルス魔術学院の3号生で、出身はリーティア王国。今は夏季休暇で、ここに旅行に来ているんです」
「魔術学院……って、あの新しく出来た山奥の魔術学校だろう? あんたエリートさんなんだねぇ」
 大陸西部では、すべての者が初等より上の教育を受けられるわけではない。まして、国の補助金が出る公立学校ではなく、どこの国家にも属しない私立学院に子弟を通わせるには、そこそこの財力を持つ必要があった。
 上級の教育を受けていれば、将来、それなりの地位は保証される。官僚か研究者か、はたまた士官か。学院卒業生の進路は、まあそんなところだった。もちろん、時代が良ければ、という条件はつくし、ある一定以上は実力次第だが。
 それじゃあ、と白外套の女性は言った。
「魔術師だっていうんなら、手当てのあと、ちょっと手伝ってくれないかい? やってもらいたいことがあるんだ」
 いいですよ、とパットは頷く。僕に出来る事ならなんでもやります。
「それで、お姉さま、貴女はどんなお名前なんですか?」
 ここで快い反応が返ってくるはず――。
 そんな風にパットは予想していたのだが、意外にも白外套の女性は答えをしぶった。んーと唸ったあとに、言ってくる。
「アタシの名前なんて、意味がないよ。知ったってなんの得もない。だからアンタの別に好きなように呼べばいいよ」
「さすがお姉さま、相変わらず謎めいていて素敵です!」
 そう笑顔で答えるパットの頭は、少し膿んでいるのかもしれない。そして続ける。
「でも、名乗れないその理由を教えてください」
 赤毛の少年の問いに、白外套の女は不敵に笑う。
「悪い女だからね。名前がいくつもあるのサ」
 違う男との逢瀬のたびに名前を変えているのだろうか、などと少年は想像をたくましくする。しかしどの名前を呼ばれても、いずれも変わらず白外套の女性を示すのだろう。だから、この場合も好きなように呼べば――通じればそれでいい、そんな意味だろうか。
「なるほど。……でも、そう言われても、急には良い名前が思いつきませんよ。お姉さまに決めてもらってもいいですか?」
 んんー、とまた白外套の女性が唸った。少年のいうことも、もっともだと思ったのだろう。
 そして歩みを少しだけ早め、並んで歩いていたパットに先行する。そして7歩ほど歩いたところで、彼女は振り返った。
 そうさね。

「ジャクリーヌ。そう呼んどくれ」



                        ■□■



 行軍の砂塵の中、白馬の将が振り返り、高々と手をあげた。
 その合図が伝わり、まるでひとつ生き物のように人馬の群れはその歩みを緩やかにする。
 群れの動きに合わせて、エマ=フロックハートもまた、馬の速度を緩めるために手綱を引いた。騎乗する雌馬はよく訓練されていて、乗り手の意志を素直に聞いてくれる。気性もおとなしめだ。
 まさかこの馬のように大人しいわけもないが、騎士たちは白馬の将の命令の前に驚くほどに忠実だ。簡単な動作だけで命令が発せられ、また伝達される。白馬の将――ジュリアス=デグランがよほどの忠誠を得ているのか、それとも騎士たちが厳しく訓練されているのか。おそらく両方なのだろう。
 やがて、騎士隊は歩みを止めた。「小休憩」の合図が伝わり、騎士たちは微妙に隊列を崩し、それぞれに休み始める。エマも水筒の水で布を濡らして、その布で汗埃を拭い、そして水を飲む。すでに太陽が昇っているために、かなり暑い。わずかな水が、大地の恵みのようにも感じられる。そして、他の多くの騎士たちがそうしているように、馬を下りてわずかな日陰で憩う。
 そうしていると、銀髪を揺らし、ジュリアスが歩いてやってきた。
「お疲れですか?」
 暑いはずなのに、そんな様子はみじんも見せず、涼しい顔でジュリアスは聞いた。
「少し。ですが、まだまだ余力はあります」
 エマが微笑んで答えると、ジュリアスは頷いて、
「ここから先は山岳地帯が続き、敵にとって襲撃に適した地形が続きます。戦闘状態に入る前の、最後の休憩です。しっかりと疲れをとってください」
 はい、とエマが真面目な表情で頷く。彼女の花弁のような樺色の髪が揺れる。そして、銀髪の将は言葉を続けた。
「おそらく、敵の攻撃は魔術での中距離からの攻撃になるでしょう。騎士たちは耐魔術装備をしていますが、それでも魔術の直撃にさらされるのは危険だ。おそらく、貴女の防御魔術に頼る場面が多くなると予想しています」
「騎士の方々は、魔術は使えないのですか?」
 樺色の髪の魔術師が聞くと、銀髪の将は、いいえ、と首を横に振った。
「騎士たちも魔術を使えます。しかし、魔術は才能によるところが大きい技術です。短い距離を速く走ることと同じぐらいに。『魔術師の魔術』と『騎士の魔術』では、歴然とした差があります。やはり、魔術で、騎士が魔術師に挑むのは得策ではありません」
「騎士は、機動力を活かして近接し、武具での戦いを挑む――」
 暗記している文章を、まるで詩歌のように、樺色の魔術師が呟く。
 ジュリアスがにっこりと笑った。
「そう。セオリー通りです。また、その方法が有効だからこそ、セオリーとなるのです」
 興が乗ったのか。銀髪の将は、饒舌に続けた。
「しかし、騎士の中でも魔術に長けたものがいます。その者が、何故魔術師と呼ばれずに騎士と呼ばれるかご存じですか?」
 問い掛けに答えることなく、エマはふるふると首を振った。銀髪の将はもったいぶることなく正解を明かす。
「それは、騎士とは、単純な職業ではなく、存在に対する呼称だからです。騎士の精神と呼ばれる独自の価値観、倫理観に沿って生きる。盾でもって仲間を護り、日頃から鍛えた剣で、敵を斃す。ただ殺すのではなく、敬意と共に殺す」
「けれど……殺すという点では、敬意があってもなくても、同じことでは?」
「一見はそうです」
 その質問が返ってくることはお見通しだというようにジュリアス。
「しかし、敵に敬意を払うところが違う。その差は、禽獣と騎士とを分かつ、わずかでしかし峻厳とした差です。その差が、敵の死と自らの生に意味を持たせる……だから彼らは、騎士と呼ばれる」
「しかし、魔術師はそうではない、と?」
 樺色の魔術師は、結論を推し量って相槌を打つ。しかし、ジュリアスは、いえいえ違いますと手を振る仕種をして見せた。
「失礼。そのように聞こえたのでしたら謝罪します。ただ言いたかったのはこんなことです。相手に敬意を払うのに、戦闘の型は問題ではありません。要は、心です。敵を想う気持ちがあるかどうか。命の重みを感じられるかどうか。心の置き方の問題なのでしょう。そして、そのような心の置き方をしている者を、『騎士』と呼ぶのです」
 ただの雑談のつもりでしたが、くだらない話をしてすみませんでした。
 そう締めくくったジュリアスに気兼ねして、エマは、そう言えば、と話題を変える。
「ええと――ギルバートさんはどうしたのでしょう」
 ギルバートとは、アッシアの偽名だ。
 銀髪の将は、首を傾げて両手を広げてみせた。まったくわからないということだろう。
「さあ……。具合が悪そうでしたから、どこかへ行っているのかもしれませんね」



                    ■□■



「うー。一度吐いたら、少し楽になりました……」
 騎士の一隊から少し離れた岩場の陰。
 胃のあたりをさすりながら、出てきたのは黒縁眼鏡の魔術師だった。
「そうか」
 そう短く答えたのは、艶のある毛皮の黒猫――クロさんだ。アッシアが心配でついてきたのだ。今は、わずかな日陰に隠れている。これだけ黒くて立派な毛皮なら、さぞかし暑いに違いない。
「いや、また……うぷっ」
 口元を押さえ、アッシアがまた岩陰に隠れる。続けて、液体をぶちまけるびしゃびしゃという音。
(まったく、厄介な持病だな。どうしてこんな病をもったのだか)
 そんな感想をクロさんが思ったとき、黒猫の脇をひとつの人影が通り抜ける。
 黒猫を顧みずに人影は進み、さらにまわりこんで岩陰の魔術師へと向かっていく。
 その姿には、見憶えがあるとクロさんは思う。そう、最初に出迎えに来た騎士だ。
 無論、人影の方は黒猫へは目もくれない。岩陰にいる目的の人物へとまっすぐに進んでいく。
 
 ――アッシア様。

 人影が発した呼び声に、アッシアは体を起こし、そして涙ににじむ目を向ける。
 よく見知った立ち姿。太陽を背にしていても、見間違えようがない。
 口元を拭うアッシアの前には、騎士ジーク=ギネットが立っていた。