3.『残酷な寛容





 その辺りは、殺風景な岩場だった。
 ほとんど草も生えないそこは照り返しが強く、夏の強い光が散乱している。そして、光が照らす岩には、くっきりとした黒い影が寄り添う。大きな岩の影に反射した光が入り込み、影を薄くする。そしてさらにその青い影の中に、入れ子のように小さな影。
 織物のように繊細な模様を描き出す、濃淡のある影の中。向かい合うふたりの男、そして少し離れたところに一匹の黒猫がいる。
「ジーク……」
 口元を手布で拭いながら、アッシアが呟いた。
 ジークと呼ばれた泣きぼくろの騎士は、愛想笑いはしない。だが、その表情には痛ましげな感情がかすかに浮かんでいる。
「大丈夫ですか? アッシア様。馬にでも酔いましたか?」
 はは、と黒縁眼鏡の教師は情けなさそうないつもの笑みを浮かべ、
「平気さ。いつものことだから」
「いつものこと――とおっしゃいますと」泣きぼくろの騎士が問い返す。
「戦いをすると、頭痛と吐き気がするようになったんだ。正直、厄介だよ」
 アッシアのその言葉に、泣きぼくろの騎士は少し驚いたような表情を浮かべた。その意外そうな表情は、かつての主君が、泣きも笑いもする人間であることを思い出したかのようだった。それは当たり前のことだがしかし、ジークにとって、アッシアはずっと記憶の中の少年主君だったのだ。
「それは、いつからのことですか」
「西パンドル基地のころだから……6年くらい前からかな」
「そうでしたか――アッシア様にも、その……色々とあったのですね」
 無きぼくろの騎士にそう言われて、黒縁眼鏡の教師はかすかに頷いた。そして、重みのある沈黙が斬時降りる。騎士は、語るに適当な言葉を選びかねていたし、教師は尋ねるべきことを聞けなくて、逡巡していた。
 けれど、いつでも時間は無限ではない。アッシアは意を決したようにジークを見据え、そして、懐に踏み込みでもするかのように、聞いた。
「ジーク。教えてくれないか。ケルヴィンの最期を」
 問いかけられた泣きぼくろの騎士は、一瞬呆気にとられた表情をしたが、すぐに表情を厳しいものへと引き締めた。そして喋る内容をまとめているのだろう、少し動きを止める。その静かな瞳の奥では、めまぐるしく頭脳が動いているのだろう。そして、その静かな瞳が一瞬なにかを懐かしむような色に染まったあとに、ジークは語り出した。

「あの9年前の戦いは、我がデグラン家と隣領との小競り合いの戦いでした。兵力を分散しての局地戦となりましたが、アッシア様が率いる左翼第2中隊100騎は緒戦で敵を撃破しました」
「そこまでは知っているよ」暗い声で、アッシアが言う。
「アッシア様の目覚ましい活躍で、味方は終始優勢に戦いを進めました」
 放った魔術が炎をあげ、敵陣を砕く。そして敵と味方から向けられる、化け物を見るような恐怖の視線――。
 思い出しながら、アッシアは右腕のざらりとした火傷の痕を撫でる。
「話を先へ」
 はっ、とジークは軽く低頭し、
「我が中隊は、敵軍を撃退し、戦闘に勝利することができました。しかし――」
 そう、しかし、だ。戦闘後にアッシアは隊を離脱した。だが、事件はそのあとに起こったのだ。
「戦闘に勝利後、アッシア様が離脱してのち――、本隊に合流する途中、敵伏兵の奇襲を受けました。突然左右からの挟撃を受け、隊は混乱。副官である私とケルヴィンとで隊をまとめあげながら、敵中を突破しました。しかし敵の追撃が執拗で、隊の半分以上を失いました。私もかなりの手傷を負いましたし、ケルヴィンも、ひと目でそれとわかる傷を5箇所以上負いました」
「……」アッシアは痛みに耐えるような表情のまま、黙って頷いた。
「ケルヴィンはかなりの重傷でしたが、一命だけは取り留めるかと思われました。しかし、傷から悪いものが入り、高熱と痙攣にうなされ、戦闘から3日後にこの世を去りました。ちょうど、戦勝の宴の翌朝でした」
 泣きぼくろの騎士はそこで言葉を切り、黒縁眼鏡の旧主の反応を見た。アッシアはしばらく沈黙を続けていたが、重たげに口を開く。
「ケルヴィンは……死の間際、何か言っていたかい?」
 逡巡は一瞬だけだった。問いかけられたジークは、冷静な口調のまま報告を続ける。
「あのとき、アッシア様は敵前逃亡の罪で、被告不在のまま軍法会議にかけられる動きがありました。しかしケルヴィンは、『何かの間違いだ。アッシア様の活躍は素晴らしかった』と病床にありながら弁護を」
「……わかった」
 唇を噛みしめながら、アッシアは応えた。
「痙攣のために言葉は不明瞭で、文字もろくに書けないような有り様で、ケルヴィンは弁護しました。看護につくものが彼の口元で言葉を聞き取り、それを伝えるというかたちでした」
 もうわかったと言っている――。
 そう叫び出したい気持ちをこらえて、唇を噛みしめながらアッシアは頷いた。
 そして。
「僕のせいだな」
 アッシアの呟いた声はかすれていて、ジークには届かなかったようだった。泣きぼくろの騎士は、軽く首を傾げた。なんでしょう、そんな感じに。
「僕の所為だ。ケルヴィンの死は、僕の責任だ」
 先ほどよりもはっきりと紡がれた、黒縁眼鏡の魔術師の言葉。
 しかし、受け止める泣きぼくろの騎士の反応は、静かなものだった。少時、言葉を受け止めるべく間を置いたあと、深い森の湖沼を連想させるような静けさで、ゆっくりと首を横に振った。
「ケルヴィンの死は、私と彼自身の責任です。アッシア様には、何の責任もありません」
「そんな……」
「主将の不在時に軍をまとめ率いるのは、副官、つまり私とケルヴィンの役目でした。あのとき我々は、ただ役目に従い、奮闘し、しかし力が及びませんでした。だから彼の死は、我々の責任なのです」
「それは……ちがうよ」
 反論するアッシアの声は、弱々しいものだった。むしろ、お前のせいだと責められたほうが、どれだけ楽かわからない。しかし、泣きぼくろの騎士は、アッシアに責任はないという。

 それは、残酷な寛容だった。

 罪悪感に胸がつぶれ、押し黙ってしまった黒縁眼鏡の魔術師に向かって、ジークは逆に問い返した。
「アッシア様。パンドル西基地でのことを、聞いてもよろしいですか? 貴方の転換点になった出来事について」
「転換点、か……」
 呟き、アッシアはゆっくりとした動きで黒縁眼鏡を外した。岩場の世界は相変わらずの強い光線に縁どられ、わずかな潤いも逃さぬという乾いた熱気に満ちている。彼の薄茶の目は、手に持った黒縁眼鏡を映しているようだが、実際はその向こうにあるものを、彼は見ていた。
(この眼鏡は、あの頃からかけはじめたものだったな、そう言えば)
 アッシアは思う。6年前の北王戦争のとき、職を探して西パンドル基地の文吏の仕事を得た。戦いたくないので魔術師という素性を隠し、普通の人間として働いていた。
 だがしかし、事件は起こる。運命は、追いかけてくる。
 あのときのつけを払えと。

 黒縁眼鏡のつるを弄ぶように回し。
 アッシアが何かを言いかけたそのとき。
 かんかんかんかん、と鋭い鉦の音が響き渡った。
 敵の出現、奇襲を告げる合図だ。
 その音に混じり、空気が震えるような微振動。魔術の攻撃でも受けたのか。

「話はあとで――」
「ええ、すぐに戻りましょう」
 ジークは身を翻し、岩場をすり抜けて隊へと戻る。まるで待機するように近くにいた黒猫はすでに先行しており、身軽に岩の間を飛び跳ねて進んでいく。そのあとを、アッシアが追いかける。
 鉦の音が、鳴り響いている。
 一歩一歩を駆け進むたび、アッシアの記憶が、ゆっくりと鮮明に蘇り出す。



                  ■◇■



 かぁん、かぁんと鳴り響く鐘の音。
 それは荷物の到着の合図だった。

「おーい、これはどこに持っていけばいいんだ?」
「それは第三大隊用だから、西門の方へ運んでおいてくれ」
「あとでここを通過する第五中隊が、食料をもう十袋、余計に欲しいと言って来ているんだが」
「食料の余裕はあまり無い。半分なら応じられると返事してくれ」
「アッシア! 第一大隊に送った武器の状況はどうだった?」
「いくつか足りないものがあったから、予備のものを回して置いた。それで当面は問題無いだろう」

 アーンバル軍とベルファルト軍が対決した、6年前の北王戦争。
 これはそのときの、アッシアの記憶。

 北王戦争で攻勢をかけていたのはベルファルト諸侯連合軍で、北と南との2面に分かれて侵攻していた。スイマール大公率いるベルファルト北面軍は、国境を越えアーンバルの北域に展開。そのため、補給のための輸送路は長く伸び、必然的にいくつかの中継基地を置いていた。

 そのいくつもある補給基地のひとつ、パンドル西基地と俗称される第十七補給基地。
 当時、戦時不況で職に困ったアッシアは、そこで文吏として働いていた。

 補給基地は都市を拠点として使うものと野外に露営基地を築くものとがあったが、アッシアのいる補給基地は後者だった。前線で戦う友軍を助ける兵站部門は、軍の生命線だ。補給基地で働くものは毎日繁簡常無く事務に追われ、アッシアも目の回るような忙しさの中で日々を過ごしていた。
 後方にいる兵站部隊は、戦場のように忙しいが、しかし、実際の戦場ではない。人が死ぬことは例外的な事故を除けばほぼ無いし、誰かを殺さねばならないようなことはまず無かった。アッシアが働く補給基地は前線から遠く離れているため、アーンバル軍から攻撃されるような心配も無く、ために純粋な戦闘部隊もいなかった。だから兵站部隊も、今が戦時だということを頭で認識してはいても、実感としての認識は強いものではなかったし、アッシアもまたそうだった。
 それだけに、突然やってきた捕虜輸送の連絡は、今が戦争の只中にあるのだと言うことを、兵站部隊の人員やアッシアに再認識させるものだった。


「敵軍の捕虜100余名を、この基地で預かる?」
 そうだ、と頷く将校の言葉に、説明を受けていた文吏たちは一斉に反発した。
 臨時の会議所となった広場の一角は、文吏のざわめきに満ちる。
「この基地には、戦闘員はいません。見張りはどうすればいいですか」
「捕虜を留めておく場所や、食事はどうしますか。そんな余裕はありません」
「しかし、既に上の決定が出ている。正式な命令書が発せられた」
 将校はそう言って、白い紙を掲げて見せた。
 ぴらりと振られた命令書は、軍隊における権威そのものだった。

 突然の命令に不満を表明しながらも、補給部隊の文吏たちは言い換えれば事務屋の集団なだけに、決まってしまえば行動は迅速だった。その日のうちに捕虜を留める空間を作り、捕虜見張りのための人員割を作成し、護送部隊からの捕虜引渡しに間違いが無いように、捕虜の確認点呼をした。そして注意事項を記載した回覧文書を回し、監視が円滑に行なわれるようにも気を配った。

 そして、パンドル西基地はその日、捕虜百余名の引き取りを行った。