4.『月が満ちるのを待つかのように <PAST>





                          ■◇■

 北王戦争当時。ベルファルト軍パンドル西基地で、アーンバル軍の捕虜100余名を預かることになった。
 見張りは三時間ごとの三交代制で、見張り当番に当たる各文吏は武装し、手足を戒められている捕虜を見張る。パンドル西補給基地には檻などの捕虜収容施設が無いために、見張りは何も隔てずに捕虜と直接に向かい合うことになる。捕虜が見張りに触ろうと思えば触れるような状況だ。
 捕虜たちは戦闘の訓練を積んだ兵士たちだが、見張りに向かう文吏たちは特に戦闘の訓練は受けていない。剣の扱い方もうろ覚えという彼らの気持ちは、総じて重かったという。
 アッシアと同室の雇われ文吏、ジャックもその手合いだった。

「はぁーあ。不安だなあ」
 基地では、粗末な木造の小屋が文吏たちの宿舎として割り当てられている。通気もろくにできないような採光のための小さい窓に、寝台と個人荷物しかないという簡素すぎる部屋。その中央で、伸ばした茶髪で後襟を隠す男が溜息をついた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよジャックさん」
 腰に剣帯を巻きつけながら、黒縁眼鏡の男が苦笑して言った。
「でもさ、相手は実戦で鍛えられたプロだよ?」不安そうに眉を八の字に下げて、ジャックが言う。「こっちは、名前は兵士だけど実際は素人。剣なんて俺、まともに使ったことなんてないよ」
 見張りに立つ人員には、予備として基地に保管されていた剣が配られていた。その剣を半ばまで鞘から放って、ジャックは鈍く光る刃を見つめる。鍛えられた鏡面のような鋼に、持ち主の不安気な顔が映る。
 そんな同室の男に向けて、アッシアは慰めるように言った。
「捕虜たちは、手に縄をかけられて動きが不自由ですから。そう敏捷には動けませんよ」
「でも、完全に動けないってわけじゃないじゃない。足かせはないし」
「食事とか、用足しとかもありますからね。ある程度、動けるようにはしておかないと」
「そこが、不安なんだよなぁ……突然襲い掛かられたら、どうしよ」
 そして、ジャックはさらりと剣を抜き放った。薄暗い室内、長くも短くも無い両刃の金属が青く光る。冷質な光に、アッシアは喉にまで昇ってきていた言葉を飲み込んだ。
「やっぱり、これで斬ったり突いたりしなきゃいけないのかなぁ……嫌だなあ」
 それにはアッシアも同感だったが、何も言わなかった。ただ手早く準備を済ませ、柄を手で触って冷たい硬質の感触を確かめる。そして無造作に剣を四分の一ほど抜き、刃毀れがないことを確かめて、さっと剣を鞘に落とした。
 ひとつ頷き、アッシアが慣れた動作を済ませて顔をあげると、ジャックの視線とかちあった。
「なんか、そういうの慣れてるみたいだね、アッシア君」ジャックが感心したように言った。「様になってるもん。剣とか、習ってたの?」
「いや……まあ……」曖昧に言葉を濁すと、アッシアは話題を逸らした。「不安だったら、捕虜たちに余り近づかないのがいいと思います。相手は手枷をつけていますから、距離さえ置けば、問題ありませんよ」
「そうだよなあ。なんとかは危うきに近寄らずって言うもんなあ」
 剣を持ったままジャックは腕を組み、アッシアの言葉に大きく頷いた。
 そんなジャックを横目で確認して、黒縁眼鏡の男は捕虜の名簿をぱらぱらと捲る。
 ヴォン=スーウェンハイム、二十一歳。アーンバル王国第二師団第三大隊所属。階級、一等兵。所属番号、Fの千百二番。未婚。ゴクセルム=キルフェット、二十八歳。ア国第二師団第二大隊所属。階級、三等軍曹。所属番号、Bの五百四十一。既婚。カスツール=ニッチェ、十九歳。ア国第二師団第四大隊所属。階級、三等兵。所属番号、Kの八百二十。未婚。クルトーム=ヘンツェル、二十四歳……。
 名簿には百十八人の名前が載っていた。そこには名前と年齢、所属と階級、それに所属番号という簡単な情報しか載っていなかったが、「彼ら」に名前があり、それぞれの人生があるのだと推し量るのには充分な情報だった。
 アッシアの脳裏を、父のかつての言葉がかすめる。

「これが戦場だ。そしてここが、お前の居場所だ。――儂も、お前の兄たちも、お前自身も。ここで生き、ここで死ぬ。――我が家に生まれた者の運命だ――」

 剣を振るい、魔術を撃つ。戦鼓の音が響く空に矢を放ち、震える大地を鉄騎が駆ける。誰かが剣を振るうたびに、血飛沫が飛ぶ。魔術が撃ち放たれると、肉の焦げる臭いがする。ひぅと空気を裂く音が聞えたかと思うと誰かの喉に矢が突き立ち、鉄鎧に飾られた馬が蹄を動かすたびに骨が砕ける嫌な音がする……。
 戦争で敵になるのは、意志無きただの肉ではない。感情とそれまでの人生とこれからの可能性を背負った、人間なのだ。
 もう殺したくはない。それは、アッシアの心の奥底からの本音だったし、そのためならば、幼少の頃に苦心して修めた戦闘術や魔術を封印してしまっても、惜しいとは思わなかった。
 ずっとこのまま封印して、過ごせたらいい。
 それは、アッシアの偽らざる想いだったのに。



                     ■◇■



「……軍曹。軍曹」
 呼びかけられて、男は薄目を開けて声の主を見た。必死に呼びかけてくる男は、童顔の所為もあって、まだ少年とも言ってもおかしくないように見えた。いや、それを差し引いても、この男は、兵士とは言えまだ十九歳なのだ。本来ならば、戦場になど居ていい存在ではない。真面目に仕事をして酒でも覚えて、幼馴染の娘との結婚の夢でも膨らませてりゃいい……。
 こんな思考をするとは、俺も年寄りじみてきたということなのかな。
 そんなことを考えて、軍曹と呼びかけられた男は口端を吊り上げた。
「何独りで笑ってるんですか。気持ち悪いスよ、軍曹」
 身を乗り出し両手を前に出して、童顔の男が言ってくる。その拍子に、じゃらり、と重そうな鎖の音がした。両手を前に出しているのは、童顔の男の意志によるものではない。手につけられている鉄手錠の所為で、こうせざるを得ないのだ。
「黙っていろ、カスツール。お喋りが過ぎると、殴られるぞ」
 軍曹は、童顔の男に向かって言ってやった。けれど、カスツールはそれで怯えた様子は無い。この男は年端がいかない所為もあって三等兵と階級は低いが、若さの特性で物怖じしないところがあった。
「大丈夫ですよ。見張りの奴ら、なんだか知らないけど、遠巻きに俺たちを見ているだけなんすよ。小さな声なら、ちょっとくらい喋っても聞こえやしませんよ」
 軍曹は、三等兵の言の正しさを軽く頷いてやることで肯定してやった。そしてそれは、軍曹の考えていることとも一致していた。この補給基地にいる見張りの兵士は、皆、ベルファルトの軍服を着て帯剣しているが、どこか逃げ腰で、おどおどしているようにも見えた。何よりも物腰が素人臭い。
 アーンバル王国軍のゴクセルム=キルフェット軍曹は、小隊で哨戒任務に当たっていたところにベルファルト軍の奇襲を受け、不覚をとって捕虜となった。そしてベルファルト陣中で数日を過ごした後、ベルファルト国内へと送られることが決まったキルフェット軍曹は、長い道程を鉄手錠をつけられたままで旅し、この補給基地――パンドル西基地に辿りついた。いや、辿りつかされたと言ったほうが正しいだろうか。
 運が悪かった、とは軍曹は考えない。もっと運が悪い奴はいくらでもいる。戦場で死んだ奴も居たが、戦場に出る前に事故で死んだ奴も居た。それに較べれば、まだ命があってまともに動ける肉体を持つ軍曹は、捕われの身であっても自分は運が良い方だと考えていた。
 手と足は、重く冷たい鉄手錠で戒められている。決して居心地が良いとは言えない地べたに腰を下ろして、見張りに許可されたとき以外は身動きすることは許されない。本当は、私語も厳禁だ。もしこれらを犯せば、その場で斬られたとしても文句は言えない。もっとも、殺されてしまえば文句の言い様も無いが。
 重い鉄鎖を持ち上げて、軍曹は太腿の刺傷を軽く撫でる。捕虜になったときに太腿に負った傷だが、日が経って塞がり肉も盛り上がってきた。痛みはまだ残るが、もう治ったと言っても良いくらいだった。
 捕えられたときは、本当に死ぬかと思った。太腿を突き刺され激痛に地に伏して、為されるがままに捕えられた。だが捕えられる代わりに、うっかり頭を馬の蹄に踏みつけられていてもおかしくはなかった。
 息を吸う。そして吐く。喉に感じる空気の流れと思いのままになる肺の膨らみに、軍曹は自分が生きているということを実感した。まだ死ねない、と彼は思う。月並みかもしれないが、自分には待っている女がいる。結婚二年目、あいつは独り故郷で大きな腹を抱えているはずだ。
 軍曹は、胸にぶら下がっていた銀のロケットを開き、中の肖像画を除く。幸せそうに微笑む新妻と、緊張で表情が固くなっている自分がいる。そして、ロケットの裏ぶたには、ひとつの日付が、へたくそな刃物傷で刻まれている。結婚したその日の日付だ。
 なんとしてでも、生きて故郷に戻りたい。
 そしてそれは、軍曹だけではなくすべての仲間たちに共通した想いのはずだった。
「……このくらいだったら、やれるんじゃないスかね」
 先程よりも声を潜めたカスツールの囁きに、キルフェット軍曹は思考に沈んでいた意識を引き戻した。そして、聞いてやる。
「やれる? 何をだ? まさか、ナニをとは言わんだろう」
「こんなときによくそんな軽口を叩けますね。さすが、軍曹」感心したのか呆れたのか、カスツールは鼻から長い息を吐き出すと、手の鎖をじゃらと鳴らした。「こんな状態なんですからね。考えることは決まっているじゃないスか。脱走ですよ」
「――脱走」その単語は、軍曹にとってどこか遠い世界の言葉のように響いた。「おいおい、冗談言うなよ。捕虜になったって、すぐ殺されるわけじゃない。運が良ければ、いや、悪くたって生きて戻れる可能性が高いんだぞ」
 戦時中でも、捕虜同士の交換や、身代金を払って捕虜を取り戻すという例はいくらでもあった。そのことを、軍曹はまだ若い三等兵に教えてやった。それで三等兵は納得するかのように見えたが、軍曹の背後からの囁きが、諭しに水を差した。
「士官だったらありそうですけど、我々兵卒の場合だとそれは考え難いんじゃないですか」
「クルトーム……」呟いて、軍曹はちっ、と舌を打った。
 クルトーム=ヘンツェルは二等兵ながら、小隊内では切れ者として通っていた。彼は、俺も家柄さえあれば士官だった、と繰り返し口にするほどの自信家で、だがそれだけに倣岸で賢しい態度が周囲の鼻についた。そのため、「あれはとんだ勘違い野郎だ」などと陰口も叩かれてもいた。
「たかが兵卒のために政府が金を出すとは思えないし、戦争が終わったら捕虜を解放するのが原則だと言っても、必ずそうなるとも限らない。下手をすれば、奴隷として世界の果てへ売られるかもしれない。そもそも、この戦争がいつ終わるかもわかりませんしね」
 だから僕は脱走に賛成ですよ。
 クルトームは早口でそう言うと、手を戒められたまま、器用に肩を竦めた。
「ヴォン。お前は、どう思うよ? 聞いていたんだろ?」
 キルフェット軍曹は、クルトームに反論することは避けて、その隣にいた男に水を向けた。ヴォン=スーウェンハイム一等兵は無口な青年だが、たまにする発言は、殆どと言って良いほど正鵠を射ていた。知恵者というものはこういう奴のことだと軍曹は考えていたし、また軍曹は彼の言うことを信用していた。
 だが、軍曹の予想に反して、スーウェンハイム一等兵は脱走賛成派だった。兵役を終えたあとの家族や周囲への体面と自尊心を守りたい、というのが彼の発言の要旨だった。そして、それに、と続けたスーウェンハイム一等兵の言葉が軍曹の心を揺り動かした。
「南部戦線が押されている所為で、戦況は少しずつアーンバルに悪くなっています。このままベルファルトが侵攻を進めれば、我々が帰る故郷が無くなってしまうかもしれない。我々が生き残っても、守るべきものが失われてしまっては、何の意味も無い」
 ヴォンの言葉を聞いていた軍曹の脳裡に、今にも泣きそうな笑顔で送り出してくれた新妻の姿が浮かびあがった。たとえ自分が生きていても、彼女が死んでしまっていては帰るところが無いではないか。
 軍曹が顔をあげて見渡すと、仲間たちが熱っぽい視線で軍曹を見つめていた。手足を冷たく重い黒鉄で固められていても、目には光が灯っている。
 ゴクセルム=キルフェット軍曹は、静かに断言した。
「やるぞ。だが、夜を待て」
 その言葉は短かったが、仲間たちの闘志を促すのには充分だった。それぞれに頷いた疲労に染まっていた顔に、生気が甦っていく。
 こら、そこ、私語を慎め。
 見張りの兵士の注意に、地べたに腰を下ろす捕虜たちは、さっと顔を伏せた。軍曹も三等兵も、それに倣った。そしてその後は、誰も発言しない。隣同士の者で囁きすら交わさない。全身の力を抜いて、ただ呼吸を整えながら、時間が過ぎるのを待つ。
 月が満ちるのを待つかのようなその様子は、狩りをする前の飢狼が放つ静けさに、よく似たものだった。