10. 邂逅再度
地獄の底で、巨大な火柱が立っている。火柱は巨大な竈の中にあり、すぐ上にある巨大な鉄釜を煮立てている。にび色の鉄釜の底は体技場の天井にしか見えない。それほどに大きい。その釜を熱する竈も、火柱もまたこの世のものとは思えないくらい。
激しい炎が渦巻いているのに、あたりは信じられないほど暗い。炎がはぜる裏側で、誰かの悲鳴や苦痛のうめき声が反響している。そんな場所に彼はいた。どうしてそんなところにいるのか、彼にはわからない。だが地獄であればいずれ来る場所のような気もしている。人にはさん種類がある。天国にいけると信じている人間と、地獄に行くしかない人間。そして、天国と地獄という存在そのものを信じていない人間。彼は、地獄に行くしかないと考えている種類の人間だった。悲観的なのかもしれない。しかし、人は長く生きれば、皆そう思うようになるのではないか。人は何らかの罪を犯さずには生きられない――。
だがしかし、こんな場所が現実だとは思えない。
暗く苦しいだけの世界。あるべきではないというより、あって欲しくない。存在して欲しくない。理不尽だから。理不尽は現実にはあるが、現実すべてが理不尽なんて、納得ができない。そんな世界は、虚構の中にしかないし、虚構の中にとどまるべきなのだ。それならば納得ができる。
いや、そうか。そこで彼は思い至った。これは夢だ……。
息苦しさにあげた自分の声で、アッシアは眼をさました。
意識が飛んでいたのはほんの数秒だろうか。それとも数時間? 脳内どこかで警鐘が激しく鳴っているが、頭は泥が詰まったように重く、体は神経を失ってしまったかのように動かない。それからしばらくして、猛烈な喉の渇きを感じる。そして、肌の灼けつくような痛み。
……何が起こった?
黒縁眼鏡のアッシアは、薄く眼を開ける。だがしかし、黒っぽい靄と赤いものしか視界には映ってこない。ここがどこだかも判然としない。立ち上がって状況を確認しようと思っても、体は言うことを聞かない。そこまで認識してようやく、アッシアは自分が壁にもたれて倒れている姿勢であることに気がついた。
息を吸おうとして、むせこんだ。咳ですら、今の体には負担だった。咳をするたびに全身が悲鳴をあげているかのようだ。咳にすら苦しみながら、アッシアは何が起こったのか思い出そうとする。
突然だったのだ。あのとき、突然、爆発が起こった。急成長する植物のようにうねり狂い迫る炎。とっさにほんの一部を魔術で防御するので精いっぱいだった。防ぎきれなかった爆発の衝撃に吹っ飛ばされて、そのあとの記憶はない。
(つまり、爆発に巻き込まれたのか……)
気づいてみれば、自分のダメージも理解できる。むしろ良くぞ生きていたと自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。そこでさらに、ふと、わずかな記憶が蘇る。爆発のほんの一瞬前、感じた激しい魔力。そして広がる魔術文様。
(そうか……彼が自爆したのか)
認識はいつも現実から遅れてしまう。記憶をたどり、ようやく起こったことを認識する。発生する現実の方が常に先なのだから仕方がないが、それにしても認識は遅すぎないか。動かない体で、黒縁眼鏡の魔術師は、誰にいうでもなく、頭の中で愚痴を言う。
アッシアの記憶の片隅に残っているほんの一瞬の記録。
敵のリーダーが、巨大な火炎魔術を編み上げて放った。きっと、最後に残っていたちからを振り絞ったのだろう。魔術を使えるような状態ではなかったはずなのに。魔術は、とても大規模なものだった。バックファイアのある屋内だからといって手加減などない。むしろすべてを巻き込み、消失させてしまおうという意志さえ感じられた。当然、自らが犠牲になったとしても構わないという、まさに生命を注ぎこんだ、全力の破壊魔術。
そしてすべては燃え上がった。
いや、いままさに燃えているところなのだろう。敵は陥落した砦に自ら火を放ち、そして自ら命を断った。
そこまで考えて、アッシアの胸に湧き上がってきたのは、悔恨だった。同時に、疑問と怒り。
(どうして自爆を止められなかった。どうして自爆なんてしたんだ。せっかく、殺さずに戦いを終えることができたのに……!)
認識は現実から遅れるだけでなく、他人を正しく捉えることもできない。
悔しさに歯がみして。そこでようやく、アッシアははっきりと目を開けた。
目の前にあるのは、変わり果てた砦の内部だった。
ままならない意識をかきあつめて、敵のリーダーがいたはずの場所を見る。そこには、炎以外に何も見えない。赤く揺らめく炎だけだ。
狭く密閉された屋内は煙が充満し、火の手も方々であがっている。まだ生きていたはずの、自爆した彼の部下たちも、これでは生存は絶望的だろう。
(いや、それは、僕も同じか……)
幸運にもアッシアがいるあたりには火の手が少ないが、それでも室内に充満した熱気は彼の肌を焼く。そうでなくても、このまま煙を吸い込み続ければ、それだけでも死ねるだろう。対策は一刻も早くこの場所から脱出することだが、なんとも体が動きそうにもない。自分が死ぬのは時間の問題のように思えた。なにかとんでもない名案でも浮かばない限り。
何かないか、と思考を巡らせながら辺りを見回すアッシアの目に、ひとつの黒い人影が映った。これまで気配を感じなかったが、どうやら背の高い男のようだ。
敵か味方か。それすらもわからないが、手がかりを求めるアッシアは、その動きを注視する。黒い影は、アッシアの方へと向かって進んでくる。
近づくとともに煙が薄れ、黒い影が徐々にその姿を現していく。
そしてその影は、煙から抜け出てきた。
それは、アッシアの思いもよらない人間だった。
目にしても、信じられなかった。
なぜ、奴が、こんなところにいる?
今までどこにいた?
もし黒縁眼鏡の魔術師の体調が万全であるならば、驚きの声が出ていただろう。しかし実際には、開けている目が、ほんの少しだけ大きく見開かれただけだった。
長身。肩を超す長い黒髪。黒外套。
落ち着いた物腰。
静かに進められる歩み。
死と不吉の死者であるかのような禍々しさ。
それは、ミティア王国の遺跡で出会った、レイレン=デインの姿をした男だった。
アッシアは警戒しようとしたが、ダメージが深くてみじろぎひとつできない。声をあげることも難しい。そして彼は諦めて、流れに身を任せた。近づいてくるレイレン=デインの姿をした男を、薄目で見ている。
レイレン=デインの姿をした男は、アッシアから三歩ほど離れた距離まで近づいた。そこで一度辺りを見回し、言った。低い、静かな声だ。
「全滅か。まさかディウスがここまで敗れるとは、予想外だったな。計算外の要素があると思ったが、ふん、それがどうやら貴様らしいな」
男の言う貴様、というのがアッシアを指しているのは明らかだった。しかし、アッシアには何かを言い返すちからは残っていなかった。重い瞼を必死で支え、そしておそらく虚ろに見えるだろう目で、黒外套の男を見返すのが精いっぱいだった。
黒外套の男は、無表情のままだった。見下すように薄く笑いを浮かべたようなそれも一瞬だけだった。まるで、死にかけている羽虫を見るような態度。
「身動きすら取れんか。まあいい。確か、貴様にはミティアでも邪魔をされたな。これで二度目。当然、死で償ってもらうが……しかし、もう虫の息だな。私が手をくださずとも、勝手に死ぬだろう」
アッシアの意識は朦朧としていたが、言葉は聞き取れていた。何かを言い返すこともできなかったが、ただひとつ、かすれる声で、問うた。
「お…………まえ……は?」
ふん。
黒縁眼鏡の問いを鼻で笑い、男は身を翻す。黒外套の裾が踊る。
「ラビット!」
黒外套の男は誰かに呼びかける。奥に人がいるのか。
「転移はまだ可能か?」
はい、と煙の向こうで、女性の声がした。
「転移機は多少外傷がありますが、まだ作動します。拠点の『素材』を使い切ってきましたので、再構成用の魔力もまだ残っています」
「わかった。移動する」
そこだけで用件は終わったらしい。黒外套の男は、首だけを動かし、相変わらず壁にもたれたままの黒縁眼鏡のアッシアに向かって、言った。強者が弱者に施すたぐいの、かすかな憐憫をこめて。
「冥土の土産だ、問いに答えて教えてやろう。私が、ピエトリーニャだ」
その言葉を聞いた瞬間、アッシアの頭の中は真っ白になった。
なに?
なんといった?
この男がピエトリーニャ?
なぜレイレン=デインと同じ姿をしている?
男の言ったことは、本当のことなのか?
だが頭の中で問いがまわるだけで、アッシアは結局何も言えなかった。煙に消えていく黒外套の男の背中をただ見ている。火は燃え続け、煙は濃くなり、砦内に充満する一方だった。それから数秒が過ぎ、黒外套の背中がすっかり消えてしまってから、ようやく、声がでた。
「ピエトリーニャ!!」
しかし、その叫びに応える者はない。そもそもなんの意味もない。しかし、アッシアの全霊をかけて絞りだした叫びだった。
事実、その名の直後、アッシアの意識は暗転した。
潮が引くように薄れていく意識の中で。アッシアは誰かの足音を聞いたような気がした。
□■□
それから、3日が過ぎた。
警戒態勢であった国境の街ザードリックも、封鎖が解けて今はすっかり日常を取り戻していた。街の上には青い空、そしてそこに広がる入道雲。青葉が繁る街路樹。樹と間違えて街灯に止まり、鳴く蝉の声。行き交う人々にも笑顔があり、旅人を相手にする店も商売に精を出している。
エマ=フロックハートは、そのころその街に居た。
今は軍装を解き、戦塵を落として、すっかり一私人の姿だった。膝丈の白いワンピースの裾をひるがえし、水がうたれた石畳を歩いている。歩くのは早いがしかしせかせかとした感じはない。気品があるとでもいおうか。樺色の髪をかきあげる仕草に、銀細工の装飾が陽光を受けてきらりと光った。
そしてまっすぐに目的地の建物へと入っていく。エマが入って行った瀟洒な木造の建物には、風見亭という看板がつけられている。
「どうしてこんなことになったのか、是非聞かせて欲しいわ。ひとづてではなくて、直接にね」
身柄受け取りの署名をした紙を差し出しつつ、エマは言った。表情はすっかり教師の顔だ。差し出した書類を受け取る担当官の後ろには、3人の少年少女が控えていた。
「話すと長くなるんです。エマ教師」
頬をかきながらそういったのは、赤毛の少年だった。
「それであれば、お茶をご馳走するわ。ポット1杯で足りるかしら?」
言いながら、エマ教師は風見亭に備え付けられている喫茶店を軽く指差した。
風見亭は、ピエトリーニャ捕縛のために本拠のデーゲブルクから出陣してきた騎士たちの仮事務所として供出されていた。事件が終息したために、騎士たちはほとんど帰ってしまっていたが、残務処理をする事務員がザードリックに残っていた。もう数日で、その残っている少数の事務員もデーゲブルクに帰る予定だ。
数日前に逮捕されたパットは、騎士たちの事務所となった宿に留め置かれていたのだった。調書が作成され、疑いが晴れて無罪が決まったあとも、身元引受人を待つためにこの宿に引き続き泊っていた。パット少年に同行していたリーンとヴァルも、騎士たちの厚意――ダグラスの指示でもあったらしいが――で、この宿に宿泊していた。
騎士たちの事務所に貸し出されていても、いや貸し出されるような宿だからこそか。風見亭は瀟洒でしっかりとした宿で、外出の自由以外は、特に生活に不便はなかった。宿代は騎士たちの負担なので、予想外の事態でザードリックに留まった少年少女たちから見れば、むしろ助かった、と言えるだろう。
エマ教師は、教え子(直接のではないが)たちから今回の事情について聞いた。エマ教師と3人の生と――パット、リーン、ヴァルが座った円卓には、お茶とお菓子が用意された。お茶は繊細な模様が入った白い陶器に入っており、中央の塔のような器材には、スコーンやケーキ、プティングと焼き菓子が乗った皿が層になって入っている。そして、パットは、今回逮捕された経緯――盗賊だと思われる白外套の女、ジャクリーヌと関わったことについて説明した。
しかし、エマ教師にとってはさほど有益な情報でもなかった。ただゆきずりに少年が出会った人間が、たまたま運が悪く、諜報活動をしていた盗賊らしき女性だったというだけだった。
話のあと、エマ教師は一般的な教訓を、他教室の赤毛の少年に話した。
「これからは、知らないひとには、容易く付いていかないこと。何があるかわからないという教訓ね。何事もなかったからよかったけれど、怪我をしたり、ひょっとしたら殺されていたかもしれないわ。貴方は自分が大人だと思っているのかもしれない。確かに、貴方には大人な部分があるけれど、まだまだ子供な部分もあるのよ。自分ひとりで大人だと思っていても、社会はそうは思ってはくれないわ。良く考えて、行動すること。そうでなければ、どんな不利益なことがあるか、身をもって体験したでしょう? 理解できるわね?」
パット少年にはもちろん異論はなく、頷いた。彼の前のカップに入った琥珀色のお茶はすっかりさめてしまっていたので、エマ教師はおかわりを促し、目の前の菓子に手をつけるように言った。だが、少年はためらったのち、質問を口にした。
「あの、今回のことは、学院に報告されますか?」
その質問について、エマ教師は自分のおとがいに指をあて、しばらく考える素振りを見せた。そして、
「今回のケースについて私の考えを話すわ。話を聞く限り、結果的に被害者もいないから、報告する必要はないと考えているわ。貴方は巻き込まれただけのようだから、報告をしたとしても、貴方に特に不利益なことはないでしょう」
それを聞き、赤毛の少年はようやくほっとしたようで、ありがとうございますと頭を下げると、目の前のお菓子に手を伸ばした。
一座の緊張がふっと溶けた。成り行きを心配そうに見守っていたリーンとヴァルもほっとした様子で、互いに笑みを送り合っている。よかったね、というシグナルだ。
砕けた空気になったからだろう。リーンは懐から一通の封書を取り出した。
「あの、エマ教師。これはダグラス様から預かった手紙です。アッシア先生かエマ先生に渡すように言われていたので」
どうぞ、と差し出された封書を受取りながら、エマ教師は樺色の髪を耳にかける。
「なにかしら?」
内容は知らされていなかったので、リーンはそれを正直に伝える。エマ教師は、今読んでおいた方が良い手紙のような気がして、不作法だとは思ったが、手紙をその場で開けることにした。
ごめんなさいね、と同卓の少女らに断り、蝋の封をはがす。封筒の中に入っていたのは、一通の報告書の写しだった。
その報告書の題名に、エマはまず衝撃を受けた。ピエトリーニャの密偵について。報告書の題名にはそう記されている。そして、今ほどパットから聞いたジャクリーヌなる白外套の女性がピエトリーニャの密偵だと思われることと、その根拠について詳細に記されていた。パットの証言以外にも、独自に集められたのだろう情報と組み合わされ、その報告書は強い説得力を持っていた。
そうして、末端構成員から辿っていくことで、ピエトリーニャに迫れる可能性があることの指摘で、報告書は結ばれていた。
手がかりだ、とエマは思った。歓喜に鳥肌が立った。一度断ち切られたと思われた、ピエトリーニャにつながる手掛かりを再び得ることができたのだから。
新たな手掛かりを得たという喜びと共に、老賢者ピエトリーニャに迫る手掛かりを絶たれた数日前の落胆が、エマの脳裏にまざまざと蘇る。
ほんの2日前、砦を抜いたあとのことだ。デグラン家のジュリアス率いる100騎に従い岩石地帯の騎行を続けて、ようやく老賢者の隠れ家と思われる場所にたどり着いた。しかし、そこには何もなかった。いや、厳密には、建物の痕跡だけがあった。
老賢者の判断なのだろう。おそらく隠れ家だったのであろう建物は、完全に打ち壊され、焼き払われていた。焼き払われてさほど時間も経っていないようで、炎はすべてを炭へと返しても、熱はまだくすぶりつづけていた。
焼け残った柱、打ち壊された機械の残骸などは残っていたが、それらを調べても何かわかるような気もしなかった。研究成果だとか書物のような、レイレンの猫化の手がかりになるようなものは何一つとしてなかった。それでも指揮をとるジュリアスは、後ほど調査隊を出して、焼け跡を調べる意向であったが、あまり期待できなそうだった。ジュリアス自身も、さほどその調査の有効性を信じているわけではないようだった。念のため、万が一。そういった言葉で表現される行動であった。
結局、ふりだしにもどった。
はるばる外国まで来て、軍隊に同行し、命がけで交戦したにも関わらず、収穫はなかった。
それが、つい先ほどまでのエマの想いだったのだ。
「ちょっといいかしら。パット君」思わず、エマの口をついて言葉が出た。「さっき言ってた、ジャクリーヌ――白外套の女性について、もう少し詳しく話を聞かせてくれないかしら」
パット少年は、少女たちとしていた雑談を止めた。そして、少し困惑した表情になる。
「なんでもいいから、何か、覚えていない?」
樺色の髪の女性は、重ねて問いかけた。
「それは、調書を作るときに騎士のひとたちにも何度も聞かれました。似顔絵も作ったんですよ」
言われてみると、封書の中の報告書には、似顔絵も添付されていたことにエマは気がついた。少年が有益な情報を持っているのであれば、それは報告書の中に記載されるだろう。
それでもなお何かを思い出そうと考える少年を、樺色の髪の教師は制した。
「じゃあ、言わなくても大丈夫よ。でも、ひとつ聞かせて。彼女、ジャクリーヌが、貴方に接触してくることは今後あるかしら?」
「それは」赤毛の少年は即答する。「ないんじゃないでしょうか。出会ったのもたまたまですし」
「でも、今度街で出会ったらその人だとわかる?」
「わかると思います。派手な人ですし」
それはそうなのだろう。白外套という格好だけで目立つ。諜報活動には不向きな性格なのかもしれない。
「じゃあ、今度彼女を見かけたら、私に連絡してもらうことはできるかしら?」
「それは、構いませんけど……」
少年の困惑が伝わってくる。理由もわからずにお願いされているのだ。困惑して当然だろう。少し迷い、エマは、説明することを選んだ。もちろん、核心までは話さない。それではこの少年を巻き込むことになる。
「今わたしは、個人的な理由で、ある重要な人物を探しているの。状況から見て、彼女、ジャクリーヌがその人物に繋がっている可能性が高い。その重要な人物の居場所を突き止めるために、彼女がキーになってくるのよ。もちろん、連絡をくれたら相応のお礼はするわ……そうね、こんなかたちでお茶をごちそうするのはどうかしら?」
わかりました、とパット少年は頷いた。どの道、もし今後、ジャックリーヌに接触することがあったときには、教師に何かしらの報告が必要だと思っていたところだった。パット少年には、報告先がエマ教師に決まったというだけで、損のある話ではなかった。
それに、エマ教師であれば、ジャクリーヌさんを悪いようには扱わないだろうとも考えた。デグラン家の騎士たちに調書をとられたときもそうだったが、なんとなく告げ口をしたようで、後味の悪い気分を持っていることも、彼にとって確かだった。
「あの、それで……アッシア先生は、どうしたのですか?」
おずおずと、ヴァルが聞いた。
「パット君の身元引受人は、アッシア先生だったと聞いていました。でもエマ先生が代理でいらっしゃいました。アッシア先生の身に、何かあったのですか?」
質問を受けた樺色の髪の教師は、もっともだというように頷いた。
「そうね。そのあたりも、貴方たちに説明する必要があるわね。でも、どこまで話したらいいものか……」
エマは少し考えて、別のことを言った。
「そうね、ケーキのお代わりを頼んでから、お話ししましょうか」
そして、樺色の髪の教師は、ポニーテイルの少女を見遣る。
ちょうど最後のひとくちを口に運んだリーンは、少し恥ずかしそうにして肩をすぼめる。
「ここのケーキ、すごくおいしいですね。甘すぎないし」
「ぜひ、私も食べてみたいわ。甘くないケーキって、好きなの」
そう受け応えしながら、エマ教師はオーダーを済ませる。注文を受けたウェイトレスは、品の良い歩き方で厨房へと向かっていく。
リーンは少し迷った素振りだったが、樺色の髪の教師に尋ねる。
「あの、エマ先生。……夏は、暑いですね」
「? そうね、暑いわね。今日も日差しが強くて、とても暑いわ」
「そうですよねー。毎日暑くて嫌になってしまいますよねー」受け応えしながら、自分でも奇妙な空気を生んだと自覚しているのだろう、リーンは説明を加えた。「あの、気を悪くしないでください。でも、こういう世間話をエマ先生とするのが、旅の目的だったんです」
それを聞いて、エマ教師はますますわからないという表情をした。
「旅の目的? 世間話をすることが、かしら? なんで?」
「ええ、最初は深い理由があったはずなんですけど、なんとなくというか、いつの間にか理由がなくなっちゃって……。自分でもわからなくなってきたんで、あの、よければあまり気にしないようにお願いします、はい」
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