9. 炎上







 白いふわふわとした雲に、横たわることを夢想したことがある。
 青い空に一面に広がる雲は、まるで豪奢な絨毯のようで。
 諸手でつかみ、顔をうずめたくなるような気持ちになる。
 きっと洗いたての敷布のように、良い香りがするのだろう。
 だがしかし、今、彼が置かれている状況は、そんな想像とは似ても似つかない。
 体を横たえる砂は白いが、空気は冷たくそして不気味なほどに重い。しかし心臓は早鐘のように踊り、呼吸もままならない。左上胸部から流れ出ている血はひどく熱い。
 ディウス=スブッラは、吸うとも吐くともとれない浅い息で、地面の砂を思わず握りしめた。痛みで飛びそうな意識を気合いだけでなんとかつなぎとめている。洞窟に敷き詰められた汚い白い砂から、空の雲を連想するなど、それだけでうつつを失いかけている証拠だと、ディウスは思う。脂汗が、彼の額にふつふつと浮かぶ。
 左鎖骨が折れて肉を突き破り、傷は肺に達している。この痛みと傷では、もう戦うことは不可能だ。全気力をふりしぼれば魔術のひとつぐらいならなんとかなるのかも知れないが、指先にちからも入らない状態ではどうしようもない。命を削るようにして息を吸い込んでも、穴の空いた肺から空気は漏れ出てしまう。
 ひっひっと聞き苦しい音を立てて呼吸を続ける自分自身に、彼は嫌悪感を抱いたが、呼吸は止めようがない。それでも歯を食いしばって立ち上がろうとして、体のあちこちが痛むことに気がついた。黒縁眼鏡の魔術師の槍に弾き飛ばされたときに、体を打ったのだろう。
 黒縁眼鏡の攻撃、槍の魔術は、至極単純なものだった。
 魔術の槍を作りだし、あとは死角で魔術文様を描いて、槍を変化させる。
 たとえば伸ばして間合いを広げたり、性質を変化させて鞭のようにしならせたり。
 魔術自体はさほど難しいものではない。初級から中級にかけてのレベルといってもいいだろう。だが、魔術の使い方が上手かった。そして発動が速くもあった。
 魔術で作り出した武器を使っての接近戦は、魔術師のセオリーにはない。しかし、黒縁眼鏡は、近距離戦に慣れていたのだ。ディウスは、それに気づけなかった。
 黒縁眼鏡が魔術の槍を作りだしたときに、必要な警戒ができていなかった。あのとき相手の手口を把握するべきだった。距離を取り続けて魔術戦を続けて相手の戦術を把握できれば、ディウスにも勝機はあったのだ。
 呪文を使わない魔術。魔術師の近距離戦。思ってみれば、黒縁眼鏡の戦術は、ほんの小さな奇策ばかりだが、初対戦のディウスたちにとっては、その効果は抜群だった。初めて出会う戦い方でペースを握られ、それからずるずると引きずられてしまった。
 もし、相手が少しでも高名な魔術師であれば同じ結果にはならなかっただろう。少しでも事前に情報があれば、対策が立てられる。混乱をあらかじめ押さえることができる。
 振り返って総括してみると、勝負を急いでしまったことを、ディウスは認めざるを得なかった。
 そう言えば、相手の名すら知らないな――。
 痛む肩口を右手で押えながら、無理矢理に口端をあげて、ディウスは薄目で黒縁眼鏡の魔術師を見た。
 彼は、ディウスを攻撃した場所から移動しておらず、その場で両膝をついている。




 黒縁眼鏡のアッシアは、荒げた呼吸をしながら、心臓がばくばくと鼓動するのを感じていた。洞窟のような砦の、白い砂の上に両膝をついた姿勢だ。ほんの少時前まで彼の右手にあった黄金の槍は、今はもう消えている。
 アッシアは、左手で自分の右胸を押さえている。その左手に、心臓の激しい鼓動が伝わってくる。そして同時に、ぬるりとした感触が左手にある。
 おそるおそる手を放してみると、手にはべったりと赤いものがついていた。アッシアの血だ。
 斬られた。
 それだけをアッシアは自覚する。鋭い痛みが胸部にある。
 敵の指導者を、魔術の槍で弾き飛ばしたその同じ瞬間、相手の剣がきらめき、銀色の糸が走ったのが見えた。敵が、きちんと反応していたとは思えない。おそらく無想の剣なのだろう。剣はアッシアの皮の胸当てを切り裂き、刃はアッシアの体に届いた。
(けれど)
 刃が切ったのは肉だけだ。骨には届いていない。つまり、傷は浅い。
 そこまで認識してようやく、アッシアは呼吸を整えはじめることができた。
 魔術を使って、傷の表面付近の細胞を活性化させて、応急処置をする。簡単な止血だ。
 現代の魔術技術では、完治など望めない。
 治癒魔術を使っているわずかな間、アッシアは砦内を素早く見まわす。
 10名ほどいた敵の魔術師たちは、すべて気絶したり怪我を負い、戦闘不能になっている。つい今ほど破った敵の指導者は、10ヘートほど前方で倒れており、まだ立ちあがっていない。アッシアの狙い通り、鎖骨を砕くことができた。これから手当すれば死ぬことはないだろうが、すぐに動くこともできない傷だろう。
 殺さずに、戦いを終わらせることができそうだ――。
 ここまで戦いを進めてこられたことに満足し、アッシアは細く息を吐いた。殺さないことを目指すのは、敵を助けること、生けどりにすることを目指すということ。それは、騎士ジークに指摘されたように、理想論かもしれない。アッシア自身も、自分が夢想家だと感じることもある。すべてが思い通りに運ぶような戦いなどはない。もし誰かの思い通りに戦いが進むのだとすれば、きっとそもそも戦いをする必要などないのだろう。何故なら、戦う前に勝負はすでについているのだから。
 しかし、現実には戦いは起こる。現実には、戦いには予測できないことが起こる。現実には、誰も勝敗を言い当てられない。
 だがそれでも、殺さない戦いを目指したい。すべての人間を生かすことは無理でも、そういう戦い方を目指すことで、何かが変わるかも知れない。そんなことをアッシアは思いつつある。
 いつの間にか、呼吸は静まっていた。
 油断なく、倒れたままの敵指導者へと注意を配りながら、アッシアはつい先ほどまで彼が立っていた場所を見る。白い砂の上には、彼が立っていた足跡が残っている。まるで残された影のように。
 もし、自分が、あるいは相手が、半歩だけ前に出ていたら。
 そう想像して、アッシアはぞっとする。
 敵の刃は、きっとアッシアの骨まで届いていただろう。そうなれば結果はまた違ったものになったはずだ。今は、相撃ちだが、アッシアが勝つことができた。しかし半歩の距離の差で、本当に相討ちになっていてもおかしくはなかったのだ。
 だが、もしの話は、意味がない。結果は出た。勝者がいて、敗者がいる。幸運があり、あるいはなかった。複数の判断があり、ある判断は正しく、ある判断は正しくなかった。技量を競い、ある技量において劣り、ある技量において優った。
 それらの集積の果てに、覆せない、結果だけがある。
 覆せない結果を覆すにはどうすればいいか? それは、新たな結果を上塗りするしかないのだろう。できた影には光を当てる。そうすれば影は消えないが薄くなる。
 その自分の思考に、何かの答えが隠されているような気がしたが、アッシアはそこで思考を打ち切った。今は物思いに沈むときではない。
 そして、黒縁眼鏡の魔術師は立ちあがった。



                  ■□■



 魔術によって金色の鎖が出現し、自分の部下をしばりあげたのを見たとき、ディウスは背中が極寒の吹雪で凍てついたような気分を味わった。
 黒縁眼鏡の魔術師は、動けなくなった部下たちをゆっくりと捕縛し始めた。
 それは勝者として当然と言えば当然の行為なのだが。自分に降りかかってきている切迫した事態を再認識して、ディウスは、呼吸すらままならない現実をいっとき忘れ、激しく歯ぎしりした。
 とどめを刺されるのであればまだいい。
 しかし、勝者である黒縁眼鏡は、自分たちを――ディウスたちを、生かすつもりなのだ。いや、最終的にどうするつもりなのかはわからないが、絞りとれるだけの情報を、自分たちから取るつもりなのだろう。なにしろ、ディウスたちは謎の賢者、ピエトリーニャにつながる手掛かりなのだから。
 だがしかし、黒縁眼鏡たちはピエトリーニャ=ノヴゴロド本人には迫ることはできないだろう。何故なら、ピエトリーニャは用心深く、秘された拠点や研究施設を複数所持し、渡り歩いているからだ。いくつかはディウスも知っているが、その全容は、ディウス本人ですら知らされていないのだ。研究の内容や結果についても同様だ。各所員やチームに対して細分化されたテーマが与えられるだけで、最終的にどのようにアウトプットされているのかは、老賢者にしかわからないようになっている。
 自分たちごときものから、ピエトリーニャに迫れない。自分たちは、偉大なる老賢者の意志を具現化するための手足、駒でしかない。盤上の駒をいくら調べてみたところで、盤前の床几に腰をおろす指し手に迫れるわけがない。
 自分や部下たちから、誰かに老賢者の情報が漏れる心配はないという、その点については安心できる。
 ただ懸念されるのは、ディウスたちを老賢者の元へ派遣した本体へ影響が及ぶことだ。いくら偉大だといっても、ピエトリーニャとて、生身の人間。研究には資金も資材も人材も必要だ。そのためにいくつかのパトロンが存在している。それらは世間に伏せられているが、貴族や領主などに留まらず、国家が秘密裏に出資するケースがあるなど、かなりの大物がパトロンとなっている。ディウス自身も、ある国家から派遣されてきた口だった。
 そうしたパトロンたちに、捜査の手が及ぶことはまずい。今は世間に明るみに出る段階ではない。思わぬところで足をすくわれて、計画に支障が出ることは、避けなければならない。
 老賢者ピエトリーニャの活動に、致命的とはいかないかもしれないが、大きな悪影響が出る可能性が高い。
 ディウス=スブッラは強く思う。
 やはり、情報は一片たりとも渡せない。
 万が一のときのための仕掛けも、この砦には施してあるのだ。
 
 偉大な才能を妨げることは許されない。
 神の序列を乱すことは、許されるべきではない。

 ディウスは、手元の砂を、一握の砂を握り直す。
 放してしまえば、ぱらぱらに散って土に還ってしまうもの。
 はかない。それは、すべてに言えることだ。自分にも。
 だが、今まで積み上げてきたものを妨げることはしない。大きな流れは滔々と流れ続けるべきなのだ。ちっぽけな自分がここで消えたとしても、老賢者に尽くしてきたことすべてを無事に保ち、次へ繋げる。そうすれば老賢者はより高みへと昇る。大事なのは、その道筋を妨げないこと――。
 
 気分が高揚しているせいか、傷の痛みはほとんどなかった。
 ディウス=スブッラは大きく息を吸い込んだ。
 そして、精神を集中し、魔術文様を描き出す。
 途中、ちらりと隠れ家に残したひとりの部下――ラビットの姿が瞼のうらに浮かんだような気がしたが、それはすぐに綾なす文様の色に消えた。



                   ■□■



 銀髪の将は、何一つ見落とすまいと、前方にある岩の砦をじっと見つめていた。
 数々の城や砦を経験したジュリアスにしてみれば、天然の岩を加工して作られた目の前の砦は、工夫はしてあるが、実に小規模なものだった。周辺にある岩や高台を利用して陣地を作り、連携させるようにすればもっとよく機能しただろう。
 これでは、砦というよりも孤立した砲台のようなものだ。不意打ちと時間稼ぎが主要な任務なのだろう。
(しかし、敵にしてみれば、その目的は充分に達せられたわけか)
 銀髪の将は胸中に広がる苦さを事実として飲み下し、まさに今展開しようとしている指揮下の部隊を眼前にしている。
 つい先ほどまでさかんに魔術攻撃を仕掛けてきた砦――いや砲台は、今は完全に沈黙している。さきほどまで内部で戦闘が行われているらしい魔術によると思われる破壊音や爆音が響いていたが、それももうやんでいる。決着がついたのだと思われるが、砦内の状態は、未だ不明だ。
 黒縁眼鏡、黒ローブの魔術師が、敵の砦の中へ侵入するのは、遠目にだが確認している。彼の侵入と確認と同時に、ジュリアスは騎士部隊の前進を命じたのだった。時間と状況を考慮して、黒縁眼鏡の魔術師の砦の侵入は、現在の砦の沈黙と無関係ではないだろう。銀髪の将は、砦のすぐ鼻の先にたどりつき、そこで指示を出している。
 部隊は3つに分けた。不意の砦からの攻撃に備えて、魔術攻撃・防御用の部隊が正面に展開し、もうひとつの部隊が、砦入口の探索に当たる。そしてもう一部隊、負傷者や疲労が著しいものは、後方に配した。戦闘というよりも、もはや戦闘後の後処理を考えた配置だ。
 実質上の戦闘はきっと終わっているのだろう。アッシア――黒縁眼鏡の魔術師の安否の心配が少し気になったが、銀髪の将は、敵が沈黙しているという事実をより重視することにした。黒縁眼鏡の魔術師が無事かどうかは、砦の制圧作業を進めればいずれ知れる。
「あのひとは――無事でしょうか」
 銀髪の将の背後から、女性の声がした。あのひととは、今まさに銀髪の将が思い描いていた、黒縁眼鏡の魔術師のことだろう。ジュリアスは、彼女へと振りかえらずに、前方へと視線を向けたままで応える。つまり、砦の様子からは眼を離さずに。
「大魔術を発動し続けてお疲れでしょう、エマ女史。後方に下がって待っていてくだされば、彼の安否は、のちほどご報告させます」
 銀髪の将は、白馬にまたがっていた。その人馬に、エマ女史と呼ばれた樺色の髪の女性は、細かく手綱を使って近づく。岩場のため、足場が悪い。
「いえ――、ここで待機します。まだお役に立てることもあるかも知れませんから」
 ジュリアスは、ただ頷くことで、樺色の髪の女性に応えた。せっかく申し出を受けない理由がなかった。しかしジュリアスが見るところ、樺色の髪の魔術師は魔力を使い果たし、疲労の色が濃かった。もはや戦力として数えることはできないと、冷徹に彼は判断している。しかしその判断とは無関係に、状況を説明する。
「今、砦の入口を探させています。巧妙に隠されているようですが、ある程度の人数をかければ、すぐに見つかるでしょう。砦の大きさから考えて、鉄扉一枚程度でしょうから、見つけ次第に魔術で破壊させて、攻撃部隊を突入させます。彼が無事かどうかもそこで確認できます。ええ――、無事を願っていますよ、本当に」
 兵士や部下の無事をいつも願っているというのは、銀髪の将の偽らざる本音だった。だがしかし、戦いの場ではその願いが簡単に裏切られてしまうこともまたよくある事実だった。心配は心配であるし、死は嘆くべきであるが、将がその種の感情に揺さぶられるわけにもいかない。犠牲は感情を挟まず計数的に把握し、頭脳は冷たく冴えわたっていなければならない。殊更に主張するようなことでもない。軍務をこなしていこうと思えば、必然的に身につける感覚だ。
「無事であって欲しいのですが、単独で突撃したような格好になってしまいましたから――」
 樺色の髪の魔術師は、そこで言葉を切り、祈るかのように自分の両手の細い指をからませた。
 そのときになってようやく、銀髪の将はそっとエマ女史を見た。目を閉じてアッシアの無事を祈る彼女の姿は清楚で美しく。戦場という場も彼女を引き立たせるための作り物の舞台なのではと思えた。
 そして、銀髪の将は再び視線を前へと向ける。
 砦の突撃には、5小隊を選んだ。しかし、実際に砦に侵入できたのは、エマ女史が指摘するように、黒縁眼鏡の魔術師アッシアだけであった。だが、それがもし、偶然の結果ではなく、銀髪の将のほぼ計算通りなのだとしたら。
 彼女はいったいなんと言って自分を責めるのだろうか。
 銀髪の将が、そんな小さな疑問を抱いたその瞬間。

 
 巨大な爆音がした。
 そして、砦の窓という窓から、まるで竜の息のように、火炎が噴き出した。
 なにごとだ、という声が騎士たちからあがり、皆、あっけにとられてそれを見ている。

 今まさに、炎上しだした砦を。