8. 交錯







 イラっときた。
 これほど生っぽい怒りの感情を感じるのは、指揮官ディウス=スブッラにとって久しぶりだった。
 突然侵入してきた、黒ローブ、黒髪、黒縁眼鏡の冴えない男。そいつを観察するついでに強くにらみつけながらも、指揮官ディウスは自分の砦内を素早く見まわす。砦内は豪風のためにめちゃくちゃになっており、味方のほぼ半分、5人が戦闘不能になっている。そのうえ――。
「デ、デグラン家軍を覆っていた防御魔術解除! さらに、全騎突撃してきます!」
 窓にとりついていた部下のひとりから、そう報告が入る。
 当然そうくるだろうな、とディウスは思う。
 この好機を、かのジュリアス=デグランが見逃してくれるはずがない。デグラン家の魔術師が砦に侵入し、またほぼ同時にこちらの遠距離攻撃の魔術が絶えたことから、全軍突撃を判断したのだろう。敵ながら、恐るべき観察力と洞察力だ。判断も速い。
 巨大な紅い枝の覆いが消え、敵騎馬が土煙を立てて駆けだすところまで、目に浮かぶようだ。
 これで、形勢は完全に敵方、デグラン家側に傾いたわけだ。
 そのきっかけを作ったのが黒猫――さきほどの豪風のときにどこかに行ってしまったようだ――と、この黒縁眼鏡の冴えない男。
 しかし、この男、砦内に入ってきたときの第一声が、
「たすかった」
 だったのだ。敵地に侵入してきて、「たすかった」。

「……我々をなめるにも、ほどがあるな」
 本音であったとしても、下手な挑発よりもよほど効果がある、とディウスは腹立ちのなかで認めた。
 そして、彼は手をあげる。そのしぐさにあわせ、部下たちはさっと戦闘態勢を取る。もちろん、標的は黒縁眼鏡の魔術師。
 まだ遅くはない。砦内に侵入してきたこの魔術師をすぐに排除できれば、形勢を逆転するのはまだ充分に可能だ。
 言わずとも、そのことを部下たちは充分に把握している。デグラン騎兵の突撃に惑わされることなく、侵入者の動向を注意深く観察している。
 ただ、もうひとりの侵入者である、黒猫の姿が見当たらないのが気になる。どこかから奇襲の隙を窺っているのかもしれないし、案外、先ほどの豪風に巻き込まれて、飛ばされてしまっているのかもしれない。
 そんな考えがちらとディウスの頭をかすめたが、まずは、明らかな脅威である、人間の敵魔術師を排除するのが先決だ。
(乱戦になる前に、先手!)
 ぶわり、と音が聞こえてきそうなほどの早業で、ディウスは魔術文様を描く。その後の作業など、その存在すら感じさせない速度。

「消えろ!」
 ディウスは衝撃を球状に圧縮し、撃ち出す。
 大砲のような音を立てて発動した魔術はしかし、黒縁眼鏡の魔術師が作りだした光の壁に阻まれる。続けて放たれた部下たちの魔術も、同様だった。
 しかし、手数に差がある。いくら防御魔術が易しいとはいえ、立て続けに攻撃されてはひとたまりもない。それを理解してだろう、黒縁眼鏡の魔術師は、自らを護る光の盾のうしろから横っとびに飛びだした。
 砦内には、まだ魔術が打ちあわされた、音と衝撃と熱の余韻が残っている。
 黒縁眼鏡の魔術師は、アンダースローで何かを投げた。回転して移動するそれを、ディウスや幾人かの部下は、身をそらしてかわす。
 それが牽制のために投げられた短刀だとディウスらが理解するのと、黒縁眼鏡が魔術文様を描くのは、ほぼ同時だった。
 ディウスのほうも、防御魔術の準備をする。
 ほんの瞬間の交錯。
 次に魔術の豪風が、再び砦内を襲った。
 ただしさっきのよりも弱い、単発的な風だ。一回きりの爆風と言っても良い。
 敵味方ともに、巻き添えを恐れて、威力を抑えた魔術を応酬している。
 だがその威力が抑えられた爆風に、ひとりの部下が巻き込まれた。
 派手に吹き飛ばされ、壁に激突した。
 死んではいないだろうが、あの様子ではしばらくは動けないだろう。
 自分の魔術の盾ごしにそれらを見て、ディウスは舌打ちしたい思いに駆られたが、こらえた。感情は表に出したくない。
「は、はやいっ!?」
 部下のひとりが声をあげた。今の黒縁眼鏡の魔術の発動速度のことを言っているのだろう。
 確かに、速い。文様の描画、それから発動。
 だがしかし、ディウスが見たところ、対抗策がないほど早い、というわけでもない。
 上の下、といったところの速さだろう。
 落ち着いて対応すれば、手数で充分に圧倒できるのだ。
「貫け、雷の矢よ!」
 貫き手にした右手を突き出して、ディウスは魔術を使う。
 黒縁眼鏡も魔術で応じる。
 彼の作り出した金の盾は、ディウスの雷をはじいた。
 そこで、攻撃を無効化されたディウスは違和感を覚える。何かがおかしい。
 けれどその答えが出ないうち。黒縁眼鏡の魔術師が腕をひとふりすると、奴の右手に金色に輝く魔術の槍が出現した。
(近距離戦に持ち込む気か。やりにくいな)
 思ったが、ディウスは素直に腰に下げていた剣を抜いた。
 だがそれは万が一の備えで、真の狙いは、黒縁眼鏡を近づけさせないことにある。部下が黒縁眼鏡を攻撃している隙に、ディウスは、また魔術文様を描く。
「ふたえの鎚よ!」
 微振動の魔術は、黒縁眼鏡ではなく、中間の距離にある床をうつ。すると胡桃が割れるかのような容易さで、岩でできた砦の床に亀裂が入り、砕けた。
 黒縁眼鏡は、自らを護る防御魔術を発動させていたが、足場を崩されてはどうにもならない。たまらずよろめく。
 そこを狙って部下の衝撃魔術が放たれたが、黒縁眼鏡はこれもやわらかな光の網を出現させて防いだ。
 そこで、ディウスはようやく、先ほどから感じていた違和感の正体に気づく。
 黒縁眼鏡が魔術を使うリズム。それが普通ではないのだ。
(呪文を、となえていないのか!)
 気づいてみれば、単純なからくりだった。注意して黒縁眼鏡を観察してみれば、魔術発動の一瞬に、呪文の代わりの役割を果たす、発動文様も確認できた。
 だが気がつかなければ、こちらの呼吸が乱されてしまう。
 それに、呪文を唱えないことで魔術発動を速く見せかける効果がある。実際は上の下程度の速さでも、見せ方によって上の中、あるいはそれ以上の速さだと相手に錯覚させることができる。おそらく部下たちはこの簡単なトリックにひっかかっている。
 相手が自分よりも魔術が速いと思えば、どうしても気遅れする。精神で負ければ、攻撃も消極的になり、不利になる。
 魔術の応酬は、切り札のやりとりのようなものだ。攻撃している最中は防御できない。だから、相手を恐れてしまえば、防御の札をとっておきたいがために、どうしても攻撃できなくなってしまう。
 しかし、攻撃しなければ勝てないというのは、勝負事の鉄則だ。
(だから……)
「うあぁぁっ!」
 最後の部下が、悲鳴をあげてその場にうずくまった。手で押えた腿からは、血が吹き出ている。不規則に伸びた金色の槍、黒縁眼鏡の魔術が、部下の足を貫いたのだ。
(結局は、こうなってしまうか)
 気難しげな眉間にしわを寄せ、ディウスは黒縁眼鏡の男を見遣る。
 砕けた足場の向こう側にいる男は、何故だか実際よりも大きく見えた。



                ■□■



(あと、ひとり……)
 肩で大きく息をしながらも油断なく目を光らせ、アッシアは頭の中で確認する。
 右手に提げた金色の魔術の槍は、ほんの少しの微振動を伝えてくる。
 敵の魔術によって足場が乱されているが、攻撃が不可能なほどではない。時宜を見つけて、相手に魔術を撃ち込めば戦いは終わりだ。
 だが、それを簡単にさせてくれるかどうか。
 そう簡単にはいかないだろう、とアッシアは考えていた。
 数歩離れた距離に立つ敵は指揮官のようだが、先ほどからアッシアの攻撃魔術をすべて防いでいる。隙がないのだ。
(この人だけ、レベルが違う……)
 相手を称賛するというよりも、ただその事実だけを確認し、アッシアはじりと足を動かした。
 そして、相手の呼吸をはかる。
 一対一の魔術の撃ち合い勝負。
 先手を取るか、後手を取るか。
 速さを競うか、読みを競うか。それともその両方か。
 ぴりぴりと緊張してくる空気を頬で感じながら、アッシアは相手の出方をじっとうかがっている。
 眉間に深い皺を刻む相手の指揮官も、同じことを考えているのだろう。
 剣を手に提げながらも、一定の距離を保つように移動している。
(つまり、接近戦に持ち込んだ方がきっと有利だな)
 静かにアッシアは判断する。

 さて何が、つまり、なのか。
 剣を抜きながら魔術の戦いを挑むということは、敵は魔術の方が得意だということを示す。剣が得意ならば、剣での戦いを挑んできてもよさそうなものだ。剣はきっと脅しか、保険なのだろう。
 それに、アッシアとて魔術師だから、魔術での戦いは望むところだが、幼いころから仕込まれてきた剣術の心得が彼にはある。騎士が相手ならばともかく、魔術師が相手ならば、接近戦では有利なはずだった。これが、つまり、の前段である。
 とはいえ以上は推論であり、結局は剣を合わせてみないと結果はわからない。
 しかし、危険を冒さず、虎の穴に飛びこまず、勝つことなどできはしない。それがどんな達人であってもだ。
 さらに、アッシアには他の敵を手加減して倒したという事情がある。これは不利な点だ。時間がたてば、何人かは気絶から立ち直るだろう。そうなればまた厄介なことになる。
 時間はない。
 その条件が、アッシアの背中を静かに押した。
 すっと体の重心を前へと倒す。自然に前に出た一歩に力を込める。意志をこめる。
(勝負は、一瞬でつく)
 両者の間は、ほんの20ヘートほどの距離。
 アッシアは地面を後ろに思い切り飛ばすように、右足で足元を蹴った。
 自然、黒縁眼鏡の魔術師の体は、前へ出る、思い切り。





(来た――)
 突撃してきた黒縁眼鏡を見定めるかのように、指揮官ディウスは剣を正面、水平にかちりと構えた。
 同時、魔術文様を描き出す。
 炎の壁の魔術。
 効果範囲を決める文様部分を変化させることで、防御にも攻撃にも使える。ディウスの得意魔術でもあった。
 突撃して来る黒縁眼鏡の右手、魔術光に輝く金色の槍が音もなく現れる。
 同時、突き出された槍がぐんと急激に伸びて、ディウスのところへと向かってきた。
(芸のない)
 ディウスは胸の内につぶやく。
 呪文もなく槍が出現するのも、また魔術で作り出した槍が伸びるのも、からくりを見破った今、不思議でもなんでもない。予想の枠内。だから動揺もない。
 鋭い金色の穂先も、見切れば脅威でもなんでもない。
 数秒にも満たないその時間、ディウスは自分が準備していた魔術を、防御型から攻撃型へと切り替えた。そして剣を握る手にちからをこめる。
 伸びてきた魔術の槍を剣で弾きかえし、ほぼ同時に炎の魔術を叩きこむ。
 それで幕引きだ。
 頭の片隅で思考を走らせながら、指揮官ディウスは槍先をしっかりと目で追い続けている。
 しかし、そこで、黒縁眼鏡の魔術師が繰り出した魔術の槍先が、ぐいと方向を変えた。今までディウスの顔面を狙うように飛んできた槍先は、ディウスの腹部へと狙いを移した。そのあたりには、ディウスの魔術文様が描画されている。
(ここで攻撃方向を変えるか!)
 ディウスの視線は、金色の穂先をきっちりと見切り、追い続けている。
(だが、そのくらいの工夫はお見通しだ。いずれにしろ、終わりだよ!)
 右手に提げた剣で、穂先を弾きかえす。次に、魔術で攻撃する。
 ディウスの放った炎は、確実に黒縁眼鏡を焼きつくすだろう。
 その段取りをはっきりと頭に描いたわけではなかったが、だが確かに、ディウスは自分の魔術文様を、攻撃用に切り替えた。
 続けざまに、剣を逆袈裟に振り上げる。
 攻撃を弾くべく振り上げられた剣は、あやまたず金色の穂先を捉えた。
 


 ディウス=スブッラは、こう考えている。
 偉大なる才能に奉仕することは、義務だ。そして同時に、名誉でもある。
 彼はずっと優れた存在だった。幼いころから、学生のころも、卒業してからも。何をやらせてみても、ひとよりもうまくできる。どんな分野でも落ちこぼれることはない。学業はできて。体を動かすことも得意。彼は楽器もできる。せがまれて、女友達に歌を贈ったことも実はある。
 いろいろな分野で彼は人並み以上だった。
 だがしかし、それだけだった。
 飛びぬけたものがなかったのだ。下世話に言えば、天才ではなく小器用な秀才だった。自分はいっけん人並み以上だが突き詰めれば人並みでしかない、という妙に屈折した劣等感を、ディウスは常に感じ、その劣等感は影のようにつきまとってディウスを苛み続けた。
 だから――自分は「才能」への憧憬が強いのだ。ディウスはそのように自分を分析している。
 才能とは生まれもったものだ。だからこそ超え難い壁になり、人を区別する峻厳たる基準になる。凡人は生まれたときから凡人であり、天才は生まれたときから天才だ。決まっている。決められている。どうにもならない。残酷なほどに。その残酷さが、逆に神の存在を意識させるとは、どういうことなのだろうか。
 そして、ディウス=スブッラはこう定義する。才能とは、神が決めた序列なのだと。
 だから、才能のないものが才能のあるものに奉仕するのは当然なのだと。
 そうディウスは考えていた。
 そのように考えて少年時代の日々を過ごし、成長を遂げたディウスが、ピエトリーニャという希代の天才に出会うことができたのは、彼にとって多大なる幸福だった。
 ピエトリーニャは、彼が敬う才能の中で、最高の才能だった。
 ディウスにとって、最高の才能とは最高の序列だ。
 その才能の傍にいるだけで、自分の序列があがってしまったようにも錯覚した。
 そうして彼はピエトリーニャを手伝うようになり、やがて彼はひとつの真実を知った。
 偉大な才能に奉仕することは、すなわち喜びであり名誉なのだと。
 ピエトリーニャを助けることは、ピエトリーニャという『最高の才能』をさらに高めるということ。つまり神の定めた序列をさらに上に押し上げることなのだ。
 自分がピエトリーニャを助ければ助けるほど、かの天才は高みへと昇る。そしていつか頂に立つ。頂に立てる存在は限られている。それは神に選ばれた者と呼ぶにふさわしい。そして、神に選ばれた者を助けられる機会を与えられたものも、また限られる――。
 自分が数限られた者のひとりだと自覚したとき、ディウスは身ぶるいした。
 体の奥底から、湧き上がってくる歓喜。そして興奮。
 自分には才能は与えられなかったが、最高の才能を助ける機会を与えられた。
 そのことに気がついたとき、そのときの彼は、その場所が街の薄暗い路地であったにもかかわらずひざまずき、そして満天の星空にましますであろう神に、感謝の祈りをささげたという。
 彼にとっては、ピエトリーニャの存在は、神の意向だとしか思えなかった。
 ディウス=スブッラにとって、ピエトリーニャとその意志は、世界のすべてに等しいものだった。


                □■□



 黒縁眼鏡の魔術師が繰り出してきた、金色の魔術の槍。
 その穂先を弾きかえすために、ディウスは剣を振り上げる。
 集中できているという証拠か。ほんの数瞬の時間が、とてつもなく長く感じられる。
 敵の攻撃がスローに、はっきりと見える。
 これならば間違いない――。
 ディウスは剣を握る右拳にさらに力を込めた。
 狙い通りの軌道を描く金属の刃は、魔術の槍を捕える。

 だがそこで、ディウスが予想していないことが起こった。

(なんだと……!)

 硬質な刃が、金色の魔術の槍に触れた途端、槍がするりと曲がった。
 剣が動いた分だけ、与えたちからの分だけ曲がっている。

(性質変化の、魔術!)

 さらにそこから、金色の魔術の槍はディウスの方へぐんと伸びてきた。
 あたかも獲物に襲いかかる蛇のように。

 そこから先は、考える時間はなかった。
 金色の穂先は、ディウスの左鎖骨を砕き。
 そしてディウスは、自らの体が後方へ弾き飛ばされるのを感じていた。