7. 小蝿のように







「うぉおおおっ?!」
 白炎を受けた銀色の盾は、ぱりんと容易い音を立てて砕けた。
 騎士たちはそれぞれが装備する耐魔術の鎧、籠手、マントで自分を守る。そこへ一度受け止められたとはいえ、まだ牙が残る白炎が騎士たちの周りへと落ちる。
「岩影へ! いいように狙い撃たれてる、防ぎきれん!」
 その声――騎士シモンが出した指示に従って、他の3名の小隊員は慌てて岩影へとかけていく。敵の魔術の熱波が、余韻として空気を揺らしている。
 あたりは岩場。大きめの岩がごろごろしている。こちらの視界も悪いが、敵の視界もよくないだろう。だからこそ、砦のすぐ近くまでたどり着けたわけだが。
「どうする? さすがに相手は魔術師だ、魔術の撃ち合いじゃかなわんぞ」
「うるさい、さっきのはちょっと気が抜けたんだ。きちんと集中すれば、あのくらいの魔術、防げる」
 そうシモンは僚友に強がって、岩影からそっと敵の砦をのぞきみる。
 知らず知らず額ににじむ汗を、右手のグローブで拭う。
(相手は腕の良い魔術師。こちらは剣を振りまわす騎士。確かに魔術の打ち合いじゃ分はこちらに悪い。けれど時間稼ぎくらいはできる)
 思った瞬間、敵の魔術がまたたき、小楯にとっていた岩が半分持って行かれた。振動魔術。自分たちに当たらなかったことを幸いに、隊員たちは慌てて次の岩影に移動する。移動しながら、こちらから魔術で仕返しをするのも忘れない。もっとも、これは容易く防がれてしまったが。逆に続けざまに逆ねじを喰らい、岩を盾にしながら転がるようにして隊員たちは退く。
 だが、完全には退かない。敵の視界の範囲で、止まる。敢えてだ。
「ったくよお、やりきれねぇ」
 隊員シモンはぼやくが、むろんそれは本心ではない。その証拠に、退く距離は彼が一番少ない。そして常にしんがりに侍っている。
 まあ五十歩百歩と言われりゃ、その通りだけどな。
 皮肉な想いに彼は口端をひねる。無性に煙草が吸いたくなった。
「けれど、小隊長さまがあんなザマじゃあ、俺たちが踏ん張らなきゃならんよな」
 肩口から振り向くようにして、敵の砦の様子をうかがう。

 敵が立て籠る岩山。いくつかの窓から見える人影、あれが敵の魔術師たちだ。
 そしてその上方。
 ほんの10ヘートほど上だろうか。
 そこに黒いローブが張り付いている。いや、それは良く見ればローブではない。ひとだ。黒いローブをまとった男。
 落ちないように、ヤモリのように岩肌に必死に張り付いている。
 それはまごうことなく小隊長格の黒縁眼鏡の魔術師だった。窓から砦に侵入しようと魔術跳躍したのだが、高く飛び過ぎてしまったのだ。
 まあ方向を誤ってそのまま落ちることも考えられたわけだから、完全に不運とも言えない。重力を減らして跳ぶのは、方向や跳躍距離を定めるのが難しい。体重のバランスがまず難しいし、不定形なかたちをしている人間は、飛んでいるあいだに、風などの影響を受けるからだ。だから普通の魔術師はあまりやらない。偶然の要素が多い割に失敗すると死ぬことがあるので、セオリーではない。そういう言い訳は成り立つ。
 だが、本当に幸運なのはそこではない。どういう神の配剤か、はたまた存在感がないだけなのか、ヤモリの如き小隊長は、敵に気づかれていないのだ。
 10ヘートほど上の場所から、それでも彼はじりじりと岩を伝って下に降りて行っている。それ以外にやりようもないのだろうが、足場もろくにない場所だから、移動だけでも命がけだ。そのうえもしも敵に見つかったなら、まっさきにたたき落とされるだろう。それこそ小蝿のごとくだ。
 それをさせないために、敵の注意をなるべく下へ引きつけるために。シモンたちは退かずに、現場にとどまっているのだ。黒縁眼鏡の小隊長格が砦に飛び込むまで、時間を稼げればベストだ。

 閃光がひらめき、シモンたちがいるあたりがひと薙ぎされた。シモンは魔術の盾を作りだして、流れ来る熱波を防ぎながら、また移動する。盾にとった岩を背もたれにして、そこで荒くひと息つく。
 敵の注意を上の小蝿に向かせないために、下の小蝿はぶんぶんと精一杯飛び回らなければならない。
 なんてけなげなコンビネーションなのだろう。牙ももたず爪ももたず、指先ほどもない翅を全力で動かして、なんとか生き残ろうと必死だ。けなげさを通りこして、滑稽ですらある。
 魔術は人間の肉体が出せる力を、大きく超えた力だ。その魔術に差があれば、戦いの様相が、人間と小蝿のそれに似てくることもある。それを思うと、むなしさを感じることも本音ではある。
 しかし、できることが目の前にある。ならばそれをやるしかない。やるだけだ。
 ―― やれやれ。
 汗が珠のようにこぼれ落ちる。暑くてたまらないはずだが、ぎりぎりの状態なので、気にならない。日常の感覚は、今は消されているのだ。だのに、やけに一服つけたい。
「おい。タバコ、あるか」
「こんなときにかよ。頼もしいね」
 僚友が差し出してきた一本の紙巻き煙草をひったくるようにして礼を言い、敵の魔術の余韻の炎に近づき、じじと火をつける。
 大きく吸い込み、紫煙を肺いっぱいに入れて、そうして深々と細く吐き出す。
 ――ああ、旨い。
 次の瞬間、敵魔術の激しい火球が、驟雨のように襲いかかり、爆発した。



                  ■□■



 ひょっとして、自分は、今度は毬になってしまったのか。
 だだ、だだだだっ、だ、だだだ、だっ。
 そんな冗談が思い浮かぶほどに、黒猫レイレンは激しく動き回っていた。
 次々に振り下ろされる棒を、身をよじり、跳ね、くぐり、ときに止まりときに駆けてかわしていく。追い払うための棒ではない。殺意がしみ出す棒。ときに刃も振り下ろされるが、それもかわす。
 次々と繰り返される剣の舞をかわしつづける黒猫の姿は、そばで見ていれば華麗なものだった。だが、黒猫にとってみれば、一瞬一瞬に命がかかっている。たった一歩、足運びを間違えただけで死ぬ。
 必死、というやつだ。
 黒猫を囲んでいるのは4人。あの鋭すぎる指揮官も含めてだ。
 刃が猫のひげをかすめた。続けて背中に振り下ろされる棒を、黒猫は横っとびでかわす。だが、相手と距離は取らず、その場にとどまり続ける。相手の攻撃が届く距離に。
 的を絞らせないように小刻みに動きながら、黒猫は敵の動きを観察する。
 攻撃の軌道を読み、いちはやく体を動かす。体勢を低くし、頭をさげる。攻撃が、さかだつ毛をかすめていく。


 普通の魔術の欠点とは何か? それは、攻撃が強力で、広範囲に及ぶことだ。
 一見それは長所のようだが、違うのだ。
 たとえば、味方が多い場合、大きな魔術を使うには慎重でなくてはならない。周囲の味方を巻き込む危険があるからだ。魔術師同士で、挟み撃ちも危険だ。互いの放った魔術がお互いに当たってしまう。射線が向かい合わないようにしなければならない。
 そして、屋内の乱戦では、魔術はほぼ使えない。放った魔術が他の味方を巻き込んでしまううえに、バックファイアで自分もやられてしまうこともある。
 通常の魔術では強力過ぎるときのために、威力を減殺する魔術文様はある。近距離戦用の魔術として、魔力できた剣や槍というものもある。
 そうしたものもあるにはあるが、実際のところは、本物の剣や槍を使う方がてっとり早いので、そうした魔術を修める魔術師は少ない。それに、近距離戦は他の兵種――騎士や歩兵の仕事だ。近距離戦を苦手とする魔術師が、進んで自分の苦手な戦い方をする必要もないから、魔術師は近距離戦の訓練をあまり積んでいない。近距離用の魔術自体を修めたものも少ない。
 だから、魔術師を相手にした場合、近距離で戦うのが一番安全なのだ。同志討ちを恐れる魔術師たちは、魔術を使えない。
 逆に言えば、魔術師は距離を詰められてはいけないのだ。他の兵種が盾になるか、砦などの地形を利用するかして、敵と距離をとらないと魔術師という兵種は活きない。



                ■□■



(こいつ――!)
 振り下ろした棒は、虚しく地面を叩く。
 ディウス=スブッラは舌打ちした。足元を、めまぐるしく動く黒猫が駆けて――だが離れていかない。常に一定の距離、棒や剣が届く危険な距離に踏みとどまる。
 玄人の戦い方だ。そう指揮官のディウスは観察している。魔術師の弱点は何かということを知りぬいているから、黒猫は、剣が届く危険な距離に敢えて止まるのだ。剣があたれば致命傷になるのだから、普通はこんな戦法は取らない。獣であればなおさらだ。本能的に距離を取るものだろう。
 なのに、黒猫はそうしない。
 知識だけではできない。自分の身を命の危険にさらし続けるには、かなりの勇気が必要だ。そして、勇気を実現するための技量だっている。
 それらをすべて持ち合わせる者。それが人間だとしてもかなりのものなのに、こいつは、猫なのだ。猫だ。
(いったい、なにものだ)
 なかば感嘆と敬意まじりに、ディウスが思ったのも無理はなかった。
 だが敵を称賛する一方で、この指揮官は冷静な計算も働かせている。
 いくら素早いといっても、囲んでしまえばそれまでだと。それに動き続ければ疲労するし、疲労すれば動きが遅くなって囲みやすくもなる。黒猫を仕留めるのも時間の問題だ。
「壁際に追い詰めろ! 動きを制限するんだ」
「わかっているんですが、すばしっこくて……!」
 剣を地面につきさしながら、部下が答える。弱音とも愚痴ともとれる言い訳だ。だがこの部下に同感だったので、ディウスも叱責はせずに、
「まったくだな」
 苦笑して共感して見せた。それで、部下たちの空気が変わる。張り詰めるだけだった空気が、良い意味で柔らかくなった。肩の力が抜けたようで、部下たちの攻撃はさきほどよりも鋭くなった。
 ディウスのこれは、技術ではない。彼自身の器によるものだろう。



 右、左、後ろ、一度跳ねて、駆け抜ける。
 黒猫レイレンは全力で攻撃をかわし移動するが、敵の攻撃がだんだんと鋭くなっているのを感じていた。ひやりとする場面が、さきほどから続いている。
「それ、そっちだ!」
「了解!」
「向こう側にいかせるなよ!」
 雰囲気が変わり、敵の中で声をかけあって、連携も出てきた。先ほどまでの乱打とは違い、明らかに狙った一撃もある。ぐりんと腰をひねり、きりもみ回転するようにして攻撃をかわし、着地すると、黒猫はまた低く跳ねた。だが行先を剣によってふさがれ、急激に方向転換をする。方向転換して移動したそのすぐあとの地面を、棒が叩く。白砂が舞う。

 黒猫はまた跳ねる。
 頭上を棒がかすめる。
 足元を剣がえぐっていく。
 するりと着地するが、とどまれない。
 視界の隅に迫る壁が、だんだんと近くなっている。
 股のあいだを潜り抜けようとしたが、阻まれた。
 横っとびした着地点を狙われた。
 敵の攻撃がついに当たったと思った。
 しかし、当たらなかった。
 外れた? 否、かわした?
 黒猫自身でもどうかわしたのかわからない。
 考えている暇もない。
 攻撃は次々にふってくる。
 まるで雨のように。
 雨はかわしきることができるものか――?
 否。できない。


 攻撃がしっぽをかすめたと一瞬思ったが、その認識は違った。
 黒猫のしっぽが触れたのは、岩の壁だった。ついに追い詰められてしまった。
 掬いあげるような動きで、棒が迫ってきた。とっさに跳んだが、避けきれなかった。自ら飛ぶことで衝撃を減らしたものの、脇腹に衝撃と鈍い痛みを感じる。
 危機が本当に差し迫ったことを、黒猫は認識した。策はないし、もう足も鈍ってきている。
 残るは運だのみ。いかにも心細い。
 何といっても、日頃の行いは悪いからな――。
 元暗殺屋だった黒猫は、自らを嘲る。
 そして、敵が棒や剣を振り上げる。
 黒猫が死を覚悟した、そのときだった。


 敵の魔術師のひとりが、突然びくんと跳ねた。
 黒猫を攻撃する要員ではなく、銃眼ならぬ魔術眼にとりつきながら、デグラン家軍を遠距離攻撃していた男だ。
 彼は声もなく、その場に崩れ落ちる。倒れこんだ周囲の岩が、ひび割れ、崩れている。
 振動魔術だ。振動魔術を受けた。
 その場にいた魔術師たちはそこまではわかっただろう。
 だが、何が起こったのかまでは理解できない。誰が? どこから? 呪文は?
 理解がなければ、対処も防御もない。
 だから、彼らを救ったのは、その先の指示、具体的な行動。
 つまり、ディウスの叫び声だった。
「総員、魔術防御!」


 黒猫をあと一歩というところまで追いつめたにもかかわらず、ディウスはあっさりととどめを放棄した。そして部下への指示だけでなく、自らも防御魔術を発動した。
 結果として、その行動は正しかったことが実証された。
 ほぼ同時、ふわりと、音もなく黄金色の球が砦の中に侵入してきた。
 両拳ほどの大きさだろうか。
 そしてそれは、訝る間もなく突如として弾けた。
 途端、豪風が砦内を吹き荒れた。
 台風の速度を超えると思われるような風が、砦の狭い空間に吹き荒れる。
 風の概念を超えた、兇暴な凶器が牙を剥く。
 気流が狭い空間を走り、獣の雄たけびのような音を出す。
 風が砂を飲み込むように巻き上げ、物を撃ち飛ばす。
 その暴力が砦内を駆け抜けたのは、ほんの数秒だったろうか。
 しかし、豪風の前と後とでは、砦内の風景は一変してしまっていた。
 まるで巨大な獣に爪でひっかきまわされたかのように。



                   ■□■



 まだおさまりきらない砂埃の中、近くの部下たちも覆っていた鈍く光る防御幕を解除してみて――、ディウス=スブッラは砦の変わりように歯ぎしりした。
 5人。防御魔術が間に合わなかったのだろう、吹き飛ばされて動かない。おそらく気絶しているのだろう。その前に倒れた二人が5人のなかに含まれているので、これで現在の戦力はディウスを含めて6人。
 突然の事態に、理解が追いついている部下は少ない。
 人間とは、どうしても、今このときそしてその次、というように、現在の延長に未来があると思いこんでしまう。それは思考の慣性。あるいは感覚の慣性。
 現在を延ばした先に未来があるなどと、そんな保証はどこにもないのに。まして、次の瞬間が訪れないことすらありうるのに。
 だが、いま何が起こったかは、すぐに知れた。
 ディウスらが先ほどまで魔術を放っていた砦の窓から、ひとりの男が身をねじ込むようにして中に入ってきたからだ。
 黒縁眼鏡、黒いローブの男。格好からして、魔術師なのだろう。
 この男が、振動魔術と豪風魔術を使ったのだ。
 憎しみをこめて男を見る。
 次の指示を出すために、指揮官ディウスが手を挙げたのと、黒縁眼鏡の男が砦の床に降り立ったのはほぼ同時だった。
 そして、黒縁眼鏡の男は、大きく息を吐き、こんなことを呟いた。

「ふうぅ。ど、どうにか、たすかった」