6.生きのこりをかけて
シモン=モヤーナナは、自分が突撃隊に選ばれたのは、まず当然のことだと思っていた。
選りすぐりと言われるジュリアス=デグランの隊にあって、さらに彼は経験豊富なベテランであるし、そして頑健な体を持ち、気力体力が衆より優れていると自負していたからだ。それはうぬぼればかりではなく、周囲もそう認めていた。だからこそ困難な場面で任務を任されたのである。そこまではいい。
だが彼がわからなかったは、どうして、客人の魔術師――ギルバートと名乗っているこの黒縁眼鏡――と同じ小隊なのだろうということだ。しかも、小隊長格は黒縁眼鏡の魔術師なので、その命令に従わなければならない。
命令に従うことに不満がないとは言えない。初対面の、しかも騎士ではない、魔術師なんかに自分を含め小隊の生死を預けるなんてことも、はっきり言って不安だ。
だが、騎士シモンはベテランである。この頼りなさそうな黒縁眼鏡をサポートすることが、自分の任務なのであれば、喜んでそれを果たしてやろう。それができるだけの判断力や適応力、そして経験が自分にはある。
だがしかし。彼は困っていた。困惑していたと言ってもいい。
思わず、煙草を一服つけそうになったが、それはこらえる。
この状況は、どう解釈したらいいものか。
「なあ――」騎士シモンは、助けを求めて他の3名の小隊員を見遣る。「俺たち、どうしたらいいんだ?」
同じように選りすぐりであるはずのほかの3人の小隊員たちは、岩の陰にはりつくようにして隠れながら、それぞれに首を横に振った。わからないということだろう。
彼が今いる場所は、敵の砦のほんの鼻の先だ。敵から攻撃されていないのは、少人数でここまで近づき、そして今はヤモリよろしく岩場の陰に隠れているためであった。
敵の攻撃魔術が、彼らのはるか頭上を飛び越し、後方の友軍へと降りそそいでいる。
ごぅっ、と音を立てて飛んでいく熱衝撃波を見送って、騎士シモンは向かって右手側の岩を見た。
大きな岩だ。
そしてその岩の陰には、小隊長格の黒縁眼鏡の魔術師がいるはずだった。あの黒猫とともに。
いつの間にかどこからか現れた黒猫。黒縁眼鏡の魔術師は、その黒猫の登場を天の助けとばかりに喜ぶと、「ちょっと失礼」と言って隠れるようにしてそこの岩影に入ってしまったのだった。
それから数十秒が経つ。通常ならばなんてことはない時間だが、敵に見つかるかもしれないこの距離、そしてもうすぐ10分、撤退か玉砕かぎりぎりの判断が迫られる今に、隊長格様は猫とどこかへ行って、不在。
仲好くおはなしでもしていらっしゃるのか。
「臨時小隊長様はネコとお話中で忙しい。退くか進むか、俺たちで決めようぜ」
侮蔑と厭味のこもった声で、シモンが問いかけると、隊員たちから反応があがる。
「猫と……そういえば、あの魔術師、ネコと一緒にどこかに行ったな。何をしているんだ?」
別の隊員が声をあげる。
「アレか。ネコと顔を取りかえるととてつもない力がでるとか、変身できるとか、そういうのじゃないのか」
なんだそりゃ。シモンが口に出すより先に、また別の隊員が応じた。
「いやあ、変形合体でもするんじゃないか。ついでに巨大化して火でも吐いてもらっても構わん。気持ちよく奴らを叩きのめしてくれるだろ」
「むしろネコの方が変形するんじゃないか? 3段変形とかしたら、面白いな。乗りものにもなったりして」
好き勝手に言い合う隊員たちを前にして、シモンは大きく溜息をついた。そして、そんな気はなかったのに、自分の知識を総動員して、ついついありそうなことを口にしてしまう。
「馬鹿かお前ら。魔術師と黒猫といったら、考えられるのは使い魔だろうが。精神魔術を使って動物を支配する使い魔の技術はかなり廃れているが、今でも稀にある技術だと聞くぞ。黒猫が集めてきた情報を聞いてるんじゃないか?」
そのコメントに、他の隊員たちは一様に讃嘆の声をあげた。さすがだな。物識りだ。確かにそれなら変身よりもありそうだ。
「い、いや、可能性の話をしたのであってな、実際にはあり得ない……」
シモン隊員は意外な反響の大きさに手を振って否定するが、使い魔説は他の隊員たちの心深くまで届いたようだ。
あの魔術師みかけよりもやるんだな。いや、俺は最初から結構すごいやつだと思っていたぜ。そう思ってみると味わいのある眼鏡をしているよな、あいつ。
眼鏡と使い魔がどのように関係するのかわからないが、とにかくあの魔術師は他の隊員の心を知らぬ間にがっちりつかんでしまったらしい。
その発端となったシモン隊員が頭を抱えてうめいたとき。
当のアッシア本人が岩影からふたたび現れた。
いままで噂の的になっていたとはつゆしらず、黒縁眼鏡の魔術師は真剣な目で、片腕に黒猫を抱いて、立っている。
ここは戦場。格好はともかく、表情だけはアッシアが一番、場にふさわしかった。
その戦場の表情をした魔術師が言った。
「頼みがある。聞いてくれないか」
そして、アッシアはシモン隊員と目を合わせた。
「特に、そこの体格のいい君に頼みたいことがある」
「本当にいいのか? こんなんで」
「ああ大丈夫。落ち着いて、思いきってやってくれ。でも絶対に外さないように。それに時間もない」
「プレッシャーかけたいのか、そうでないのかどっちだっ?!」
悲鳴のように騎士シモン隊員はささやいた。
ここは敵の真下。大声を出せない。そして彼は、投擲の前の大きく振りかぶった姿勢でいた。
投石機のように太い腕は、対象物を強く打ち上げるだろう。見ているだけでちから強い。
だか、悲しいかな、彼が持っているものは相手を貫くジャベリンでも砕くスリングでもない。彼の大きな右手に、器用に四つ足で立つ、黒猫なのだ。愛らしいというより美しいという形容が似合うような黒猫。
今まさに、ベテラン騎士シモンは、黒猫を投げようとしているところだった。
敵の岩砦の入口は見つからないが、魔術攻撃をするための窓が開いている。
そこへ黒猫を投げいれようというのだ。
ベテランは歯がみした。いやな汗が頬を伝う。ちらちらと雑念が混ざる。
本当にいいのか? 動物虐待になりはしないかコレ?
いやそんなことより……。
この策に勝算はあるのか?
時間がないからと押し切られてしまったが、本当にこれでいいのか?
っていうより、俺が黒猫をあの窓に投げ入れるのに失敗したら、
すべて終わりなんだろ?
ベテランは、思い切り不安げな顔でアッシアを見た。さすがに黒縁眼鏡の魔術師とて絶対の自信はない。正対はできずにわずかに目をそらし、
「すまない……。でも今はこれしかない。信じて欲しい。今から猫には減重力の魔術をかける。きっかり3秒後に投げてくれ」
後半はただの指示だった。そしてアッシアの金色の魔術文様が広がり、黒猫を包みこむ。そして、文様に魔力が充填されて高音を奏でる。まるで何かに焦らされているような。
そこで、騎士シモンは、唐突に理解した。
何がどうだ、ということはない。ただ、顔を伏せたままの、奇妙な黒縁眼鏡のこの魔術師の感情が、急にわかってしまった。
不安なんだ。こいつも。
自信なんてない。まして成功の保証もない。
でも今できる精一杯のことをやろうとしているだけなのだ、こいつは。
その納得は素直にすとんと騎士の心の中に落ちてきた。そして、何故だか黒縁眼鏡の魔術師に愛着がわいてきた。黄金の文様に包まれている黒猫にもだ。
黒縁眼鏡の魔術師が騎士シモンに提案した作戦は、ごく簡単なものだった。
敵の砦には、攻撃用の穴が開いている。ほんの小さい、身をかがめてようやくひとりが通れるくらいの穴だ。
ここから、侵入する。行くのは、黒猫と提案者の魔術師。
まず、黒猫が砦の中に入り、敵をかく乱する。
その隙に、黒縁眼鏡の魔術師がなんとか砦の窓から敵の本拠地に入りこみ、敵魔術師と直接交戦するというものだった。
騎士シモンにとっては、その黒猫がどれだけの戦力になるのかわからない。黒縁眼鏡の魔術師の実力も知らない。どんな理由や想いを持って戦っているのかも知らない。しかし、死地に飛び込んででもなんとかしようという、その意気ごみは気に入った。
「おい」
騎士は声をかける。アッシアは、伏せていた顔をあげた。
「こう見えて球技は得意だ。任せておけよ」
にっと騎士が笑ったと同時、右手に持っていた黒猫がすっと軽くなる。どうやら魔術が発動したらしい。その瞬間、いっさいの躊躇なく、騎士シモンは大きく振りかぶった姿勢からぐるんと肩を回した。いや、肩、腰、足、手首、全身を綺麗に使って。騎士は黒猫を空中へと放り投げた。
それまでの時間、それからの時間など、まばたきの間もない。
早いというアッシアの呟き。
軽い驚きの表情。
投げ終えた姿勢で、魔術師が驚いたことに満足する騎士。
そして、吸い込まれるように狙った窓へと飛び込んでいく黒猫。
「さあ、お次だ!」
騎士シモンは、不敵な笑いでアッシアに言った。そして敵の砦を背にし、腰を落としてへその前で分厚いグローブをつけた両手を組む。
間などとらない。ただ行動だけが続く。
アッシアは了解とばかりに頷くと、自らを包むような魔術文様を一気にえがいた。金色の文様が輝く。もうこの時点で、敵に見つかってもおかしくないため、可能なかぎり急ぐ。
そして黒縁眼鏡の魔術師は、減重力の魔術を発動させる。
つまり、自分の体重を減らせる魔術。
アッシアは、短い距離を思いきり蹴って、騎士シモンの方へと駆ける。
ほんの数歩の距離で小石を後方へ飛ばして。加速する魔術師は、右足をシモンの構えられた両手――足場にかける。
瞬間、空がまわった。
風を切る音がアッシアの耳に聞こえる。
放り投げる騎士のちからと、跳ねあがる自身のちからで、黒縁眼鏡の魔術師は、まるで鳥のように大きくジャンプしていた。
「行って来い!」
地上の騎士が、強い声で叫んだ。
黒いローブをはためかせながら、黒縁眼鏡の魔術師は、敵の砦へと飛んでいく。
飛んできた黒い謎の物体は、窓からするりと砦内部に侵入した。
もっと重量のあるものだったり、いかにもな武器であれば、もっと警戒もしただろう。だが投げ入れられるように飛んできたのは、黒い毛玉だった。いや……。
「ネコ?」
ディウスの部下のひとり、魔術師の若者が反応した。
戦場にそぐわない、非常識な生物を見て、一瞬だけ攻撃の手を休める。
その隙だった。
砦の床に一度降り立った黒猫は、ひと飛びし、魔術師の若者へと飛びかかる。
「うわっ?」
若者は腕を振り、黒猫を反射的に振り払った。
再び床に降りた黒猫は、その勢いで砦の中を走り始める。
突然現れた生物に、砦内の魔術師たちはほんの少し驚いたが、それが無害そうな猫だと気づいて安心しかけた矢先。
「気をつけろ! その猫、魔力を持っているぞ! 近づかずに仕留めろ!」
指揮官であるディウスが、叫んだ。
(ちっ。もう気付かれたか)
黒猫――元暗殺屋のレイレン=デインであるクロさんは、全速力で砦をかけぬけながら舌打ちをする。
決して広いとは言えない砦のなか。黒猫は物影を伝って、床にまかれている白い砂を精一杯蹴って移動する。もともとあった岩の隙間、そこをさらに削って作られた空間。それでも詰めようと思えば50人ほどを収容できるだろうか。
しかし現在そこにいる敵の数は……。
(8……9……10人。これだけ少数で、良くもデグラン家軍を止めたものだ)
胸中で呟きながら、敵の股の間をさっとくぐりぬける。敵はまだ反応できていない。的を絞らせないように直線的な動きを避け、柔らかな四肢を踏ん張ってジグザグに動く。
黒猫が何回目かの反転をしたとき、敵の魔術師の若者がひとり。
どさりと横向きに倒れた。
ネコが飛び込んできた窓にもっとも近いところに立っていた若者だった。
――何事か。
砦内の魔術師たちは、警戒するが具体的な行動には移れない。
事態がどんなものなのか、わからないからだ。
ただ驚き戸惑う。
だが大半のものは、行動の慣性、かつて出された命令通りに、遠距離攻撃を続けていた。
だが、すべてを把握できている男の声が飛んだ。
「その猫だ! 猫を仕留めるんだ!」
その声は、指示と同時に呪文だった。
黒猫の足元の砂が、ぱあんと弾ける。密度のある魔力を高速で打ち出したらしい。すんでのところで魔力弾を交わした黒猫は、方向を変え、肉球で砂を蹴り、叫んだ男――ディウス=スブッラから死角になる位置を選んで走る。
黒猫が金色の瞳を動かし、ちらりと走らせた視線の先、気難しげな、厳めしい顔つきの男がいた。
(なかなかやる男がいるものだな……あれが指揮官か)
早くも見抜かれてしまった、と黒猫は思う。
さっき黒猫が、今は気絶してしまっている若者に飛びかかったとき、ほんの小さな衝撃魔術を側頭部に当てたのだ。脳を揺らして、時間差で倒れるように。
黒猫が若者を攻撃したとき、魔術文様はすべて死角で他の人間からは見えなかったはずだった。
だが、武術の達人が相手の存在を気配によって感じるように、場の魔力の乱れを、気難しそうな指揮官は見つけたのだろう。だが場の魔力の乱れで感じることなど、かすかな違和感ということに過ぎない。しかしその違和感を危険だという警報だと解釈し、仲間に指示を出す――。
その判断力が恐ろしい、と黒猫は思う。早すぎる。
これで、気絶した若者と、黒猫との因果関係を、この場にいる全員が早くも理解してしまった。
それもすべてあの指揮官が気づいたためだ。
飛びこんできた黒猫が何かをした、危険なのは黒猫なのだと。
凡庸な指揮官ならばこれほど早く気付き、対応することはできないだろう。
この黒猫、レイレンとしては、相手が油断しているうちに、もう2、3人を行動不能にして、敵をひっかきまわしておこうと考えていたのだ。だがしかし、敵ははやくも警戒態勢に入ってしまった。
「人数を分ける。6人は窓にとりつき、継続して魔術での遠距離攻撃を続けろ! 残りは、攻撃組を守りながら、猫を仕留めるんだ! 魔術は使わなくていい、棒で充分だ!」
ディウスの続けざまの指示。さらに具体的に個人の名前を挙げて、あっという間に宰領を終えてしまった。
事態は思っていたよりも早く悪くなった。
黒猫は、動きながら集中を高める。駆ける四肢にちからをこめる。
神経が全身にいきわたり、つややかな毛並みが逆立つのを感じる。
敵は態勢を整えた。
全力でかわさなければ、この場を切り抜けられない。
相手に油断はない。一瞬の判断の遅れが、死につながる。
そしてネコは覚悟する。
ほんの数十秒が、何時間にも感じられる、そんな苦しい時間が始まる、と。
――生き残りをかけて。
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