2. お前は徒歩





 集まった人々によるむわんとした熱気が、夏陽を受けてさらに膨らむ。暴力と狂気を帯び始めたこの熱が、あまり良い類のものでないことはすぐにわかる。火照った体に冷たい水を与えるように、一刻も早く、この熱気に一服の清涼を与えるべきだ。そんなことを、彼は野生めいた直感で感じていた。
「で、この街の警備責任者は、どこだ?」
 ぼり、と黒髪の頭をかきながら、彼――ダグラス=デグランは聞いた。馬上姿であたりを見回せば、封鎖された街の群衆がひたすらに街の門へと押し寄せている。城壁でぐるりと囲まれたこの街は、出入りできる門が5箇所しかない。城壁は外からの敵を遮るが、内からの移動も遮断してしまうというわけだ。
「あ、警備隊長殿は、事務所で指揮をとっておられます。いましばらくお待ちを、すぐに呼んで参りますので……」
「いい。こっちから出向く」
 門番役の警備兵の申し出を蹴って、ダグラスは馬の歩を進めた。乗り手である大柄な彼に相応しく、太い脚の頑丈そうな黒馬だ。しゅんとなった門番を背にして、黒馬の乗り手は群衆の中をゆっくりとかきわけるようにして前進する。
 その乗り手は、何も見ていないかのような目つきでまっすぐ前を見つめているが、そのくせ目端では群衆のひとりひとりの顔を観察している。いつも心がけているというよりは、実に自然に、昔からの癖だとでもいうように、ダグラスはそれをやる。
(こりゃ、みな難儀そうだな)
 ダグラスを見る、群衆たちの好奇の視線。だがしかしそのうらには、なんとも言えない張りつめた緊張をそれぞれが持っている。針でつついただけで溢れ出しそうな不安感情の高まりを、この人一倍人情に長けたダグラスは、全身で感じている。
(ひとりで早駆けして先行したのは、当たりだったな)
 蹄のリズムよく黒馬を進めていると、ダグラスの向かっていた方向から、慌てた様子で、髭面の男がやってきた。胴だけを覆う薄鋼の鎧を身につけている。
「ダ、ダグラス様。お早いお付きで。ご到着は明日とうかがっておりましたが」
「急いだ」
 ダグラスはぶっきらぼうに言って、わざと馬は止めずに進む。
 髭面は、慌てて並んだために、口輪取りのように並んで早足で歩くことになった。
「ザードリックは、この国の南境では一番大きな街で、さらにいくつもの街道が通る重要な拠点だ。いわゆる要衝だな」
 突然、ダグラスが大声で話しだした。騎上から降ってくる声に、さようで、と髭面が腰をかがめる。
「この拠点を預かるやつは、何よりも皆の通行に気を配らなければならない。なにしろ、ここは天下の街道が通る街ザードリックだ。旅人、商人、荷運び人、そういうやつらが骨を折ってここを通って、物やら人やら噂話やらを運んでいく。そんなふうにこの街は成り立っているわけだ。いや、この街だけでなくて、この国全体もそうだ」
 珍しいダグラスの長台詞。珍しいといえば、この人物が経済を語ることも珍しい。
 髭面は、ただ低頭している。
「そこの街を封鎖するには、よほど判断は慎重にやらねばならんだろう。どうしてかと言えば、ここを封鎖したら街も国も止まってしまうからだ。見ての通り、この街で足止めをくった奴らの混乱も相当なもんだ。下手をすれば暴動になる。姿も見えない賊ごときで封鎖とは、小心なことだ」
 放言して、ダグラスは辺りを指し示す。街埃のなか、人々はいらついた空気を放っている。その人々の群れの中を、ダグラスは黒馬に乗って進んでいる。
「ここの警備責任者に会ったら、一言文句を言って、とっちめてやらねばならんな。お前もそう思うだろう?」
 なあ、とダグラスは馬上から隣の髭面を覗き込むように声をかけた。
 そこで、髭面は顔を真っ赤にして、答えた。
「わ、わたくしが、この街の警備責任者でございます」
「そうだったのか」
 初めて聞いたように、ダグラス。しかし実は、この人物が警備隊長であるということは、薄々気が付いていた。向かい合ってしまえば面罵することになるから、こんな風に話したのだ。だがそれはそれとして、ダグラスの底意地は、少し、わるい。
「では、今よりこの封鎖を解除しろ。異論はないな」
 最後にダグラスが命じると、髭面の警備隊長は顔を真っ赤にしたまま、はっ、と再び低頭して、指示を出すべく関所へと駆けだしていった。
(まずは、これで良し)
 ひと仕事を終えたダグラスは、ゆるゆると黒馬を進めながら、青い空を仰ぎ見た。
 その空の向こう、長兄ジュリアスと弟のアッシアが戦闘に突入しているはずだった。
(大丈夫だろうか)
 そんな思いが胸をよぎったそのとき、道端の飴売りから、彼は声をかけられた。
 赤色黄色緑色。いろとりどりの飴を売るのは、汚い格好をした、まだ年端のいかぬ少女だった。ダグラスは馬を下りると、財布から銀貨を取り出して、その少女の手に握らせてやった。代わりに彼は色鮮やかな棒付き飴が入った袋を受け取る。おまけだよ、と飴を追加してくるあたり、飴売りの少女は年の割には如才ない。
 せわしげに立ち去っていく小さな背中。
 そんな後ろ姿を眺めて、ダグラスは袋から飴を一本取り出した。
 緋色のような鮮やかな紅い飴。
 ひとくち咥え、口に溶ける甘さに顔をわずかにしかめながら、小さく呟く。
「ま、長兄たちなら、そこそこうまくやるだろう」



                   □■□



 血のような魔力を受けて、淡く輝く紅い枝。
 まっすぐに向かった高熱魔術が、その紅い枝の外で音を立てて弾けた。
 続けて襲う魔術の火線も、だが、その紅い枝に阻まれる。
「ひるむ必要はない。続けて撃ち込め」
 顔色ひとつ変えず、気難しそうな男は、味方の部下たちに命じた。彫りの深い顔は無表情のままに、その男は遠目に戦況を見守っている。
 ディウス=スブッラ。ペルソナ、とコードネームで呼ばれる男は今、指揮官の顔をしていた。10名ほどの部下の魔術師を引き連れ、ジュリアス=デグラン率いる100騎ほどの先遣隊を攻撃しているところだった。
 デグラン先遣隊100騎が目指す先は、ピエトリーニャの隠れ家。その先遣隊を追い返すために、気難しそうな指揮官ディウスは、早い段階での攻撃を決断した。翌日には、1,000騎を超すデグラン本隊が合流するという情報がある。ディウスにすれば、本隊撃退の準備のために、先遣隊とは早々に決着をつけてしまいたいという胆があった。
 ディウスは、山の中腹につくった隠し砦から、休息中のデグラン騎士隊に向けて、遠距離からの魔術攻撃を指示した。数は少ないが、部下の魔術師たちは精鋭揃いだ。まるで大砲のような威力の魔術を、立て続けに撃ち込むことができる。100名程度、すぐに蹴散らせる。
 主戦闘を任務としていない先遣隊であれば、この奇襲を受ければすぐに撤退するとディウスは考えていた。
 しかし、攻撃を受けたデグラン先遣隊は、戦闘態勢を取った。その場に留まる決断をしたらしい。あるものは耐魔術の盾を構え、あるものは防御魔術を展開する。そして、いくばくかの被害を出しながらも、先遣隊はあっという間に隊列を整えた。
 そのあとだ。
 突如、紅い枝が、先遣隊を包みこんでしまったのは。
 紅い枝は強力な防御魔術だった。ディウス率いる魔術師たちが放つ遠距離攻撃魔術を、ほとんど跳ね返してしまう。一見すれば、ディウスの目論見は外れてしまったかのように見えるだろう。しかし、ディウスはまだ勝算があると考える。
(こちらの攻撃は当たる。しかし相手には有効な反撃手段がない。ならば、力押しで押し進めてしまえばいい)
 奇襲を受けたデグラン先遣隊は、意外に堅い防御を見せているものの、反撃の魔術は弱く射程も短い。先遣隊が散発で放ってくる反撃の魔術は、ディウスたちに届きもしない。逆にディウスたちが放つ魔術は、防御魔術に阻まれているとは言え、充分な威力と精度で命中している。
 魔術師の魔術と、騎士の魔術。このふたつの威力と精度の違いが、遠距離の魔術の打ち合いという行為を通して、明白な差が出ている。
 それに、ディウスたちが山の中腹に居るのに対し、デグラン騎士隊は平地にいる。騎士隊が有効な攻撃をするためには距離を詰めなければならないが、地形からしてそれは容易ではないだろう。それに、ディウスたちは高所を占めているが上に、デグラン騎士隊の動きは手に取るようにわかる。
 地の利もディウスたちが握っているのだ。
(しかし――)
 だが、ディウスは思う。
(デグランの騎士隊を守っている、あの紅い枝の防御魔術は予想を超えて強力だ)
 突如騎士隊を守るように現れた、紅の枝。通常防御魔術は広範囲になればなるほど脆くなるものだが、紅い枝は百人ほどの人間のほとんどを包みこみ、それでいてディウスたちが放つ魔術を見事に弾き退けている。しかも遠目を凝らしてよく見れば、紅い枝はまるで自らの意思を持つように動き、欠ければ自己修復をしているようにも見える。
 見たことのない魔術だが、大魔術のひとつに違いない。
 そんな風に思いながらディウスが傍らを顧みると、ひとりの部下がそれだけで指揮官の聞きたいことを理解したようで、言ってきた。
「あれは、『紅の魔女』が得意とするオリジナルの防御魔術です。北王戦争の時に見たことがあります」
「あの魔術が『紅の魔女』本人のものによるものだと、判別できるか?」
 気難しそうな指揮官の問いに、部下はしばらく攻撃の手を休めて考えたが、
「わかりません。しかしコピーした魔術だとしても、よほどよくできたものだと思います」
「そうか」
 淡々とディウスは頷き、そしてその平静な口調で、部下を鼓舞した。
「どちらにしろ、あれほどの大魔術は、そうそう長く続けられるものじゃない。焦らずに、このままの距離で攻撃を続けろ」
 敵は、手も足も出ない亀のようなものだ。甲羅がどれだけ堅かろうが、叩き続ければいつかは割れる。気難しそうな指揮官ディウスは、そんなことを想う。



                    ■□■



 アッシアとジークが隊に合流したとき、すでにエマ教師の魔術が発動したあとだった。ドーム状の天井をつくる魔術の紅い枝の下、騎士たちは緊張の面持ちで、枝の外で弾ける攻撃魔術を見つめている。
 アッシアは、すぐさまこの騎士たちの指揮官、ジュリアスのもとへと向かった。
 隊の中央に位置していたジュリアスは、爆音が響くなかで平然と自分の白馬にまたがっていた。
「戦況は?」
 駆けてきたアッシアが聞くと、白馬の将は、
「見ての通り、膠着だ」
 にこりともせずに応えた。
 その白馬の将の隣には、同じように馬にまたがり、防御魔術を発動するエマ教師がいた。魔術器具であるワンドをかざし、その格好で発現している魔術に魔力を送り続けている。攻撃で欠けてしまった枝を次から次へと修復しているのだ。つまり、この紅い枝の防御魔術は、エマ教師によるものだということだ。
 この紅い傘の下は今のところ安全だったが、それでもときおり攻撃魔術が同じ個所に集中して穴ができることがあった。そのときは、近くにいる魔術を使える騎士が、そこに魔術で防壁を張った。氾濫しそうな河に、土嚢を積むような作業だ。

 また、ばちりと光熱魔術が、紅い枝の外側で弾けた。
 眩しさに目がくらみ、アッシアは顔をかばうようにしながら、片目を細めた。
 そこへ、ジュリアスが言った。
「先ほどから観察していると、敵はあの岩山の中腹から攻撃してきているようだ」
 紅い枝の隙間、白馬の将が指さした先を、アッシアも遠望し、呟く。
「あんなに遠くから……」
「そうだ。敵はなかなかの手練れぞろいだな。それに遠目からではよくわからんが、あそこは隠し砦になっているようだ」
 ジュリアスは、それがまるで他人事であるかのように、淡々と説明する。
「こちらからの魔術による反撃は届かんし、隠し砦ということであれば、それなりに防御も堅かろう。急襲するのも一苦労だ」
「打つ手なし……ということかい?」
 黒縁眼鏡のアッシアが問いかけた。
「愚問だな」
 とは言葉にはしなかったが、そんな様子で、ジュリアスは目端だけで黒縁眼鏡の弟に応えた。そして、突拍子もなく、
「あと10分ある」
 と言った。なんのことだ、と黒縁眼鏡の弟が問い返す間もなく、白馬の将は説明を続ける。
「あと10分で、エマ=フロックハート女史の防御魔術が解ける。それまでに、小部隊をもって敵のこもる岩山の隠し砦を強襲し、これを破る」
 アッシアは、言われた意味を理解して、思わず天を仰いだ。いや、厳密には隊の頭上を覆う、紅い枝々を見上げた。まるで真赤に染まった空のような、防御魔術。これが、たった10分後には消えてしまう――。しかし、これがあるからこそ、隊の皆が安全なのではないか。
「すみません。もう少し保たせたいのですけれど、その辺りが限界です」
 ジュリアスの隣でそう言ったのは、今までのやりとりを聞いていたエマ教師だった。すでに額には玉の汗が浮かび、息もあがってきているようだった。100名をすっぽり覆う規模の魔術に、魔力を送り続けているのだ。疲れないわけがない。
「10分後に敵を殲滅しておく必要はない。ただそれまでに敵と迫撃戦に持ち込めば良い。迫撃戦となれば、敵も悠長に遠距離攻撃をしていられないはずだからな」
 淡々としたジュリアスの言葉だが、口端にほんのわずか、皮肉めいた笑いが浮かんだがしかし、すぐに消えた。白馬の将は、続ける。
「すでに強襲隊5小隊は選んである」
 白馬の将はそして、ギルバード殿、とアッシアの偽名を呼んだ。
「そこに、貴殿も加わってもらいたい」
「僕は……」
 アッシアは呟いて、黒いローブの胸元を握った。手に感じる一粒の固い感触。ここへ来るまでにジークから受け取った『それ』は、アッシアに決断を促す。
 そして、彼は決断する。
 右手の中にある、『それ』の感触をもう一度確かめる。
 黒縁眼鏡の奥の薄茶の目に、力が宿る。
「わかった。任せてくれ」
 意外にも力強い言葉に、ジュリアスは驚きで端正な眼を軽く見開いた。この弟のことだから、なんやかやとぐずるかと思っていたのだ。
 だが別に口に出して褒めたりはせず、指揮官らしく平静な顔で、指示内容の確認をした。
「10分だ。それまでに隠し砦に取りつき、敵と直接交戦へ持ち込め。部隊の残りは後詰として援護する」
「了解した」
 アッシアは頷き、身を翻して走り出した。しかしこの会話の間にも、持ち時間は減っている。
 あと、9分――。
 彼が胸中で目算し、駆けようとしたそのとき。

「あ、まて」
 ジュリアスがアッシアを呼びとめた。そして、軽い調子で続ける。
「お前は馬なしだぞ。徒歩だ」
「え……?」
 言われたことの意味が理解できずに、アッシアはひきつった表情で振り返った。