3. ビッグニュース





 彼は、大きく息を吸い込んだ。ほんの一瞬の行動であるそれが、彼の印象に残ったということは、それだけ彼にとってその歓喜が大きかったということだろう。
「失礼します! ありがとうございました!」
 一度礼を言ったはずなのに、扉を閉めるときに同じことをもう一度言ってしまった。きっと、扉の向こうの部屋の主は、白く立派なあごひげをなでつけながら、困惑していることだろう。いやそれとも、学院の長らしく、喜びに舞い上がって挙動不審になった生徒に対して、慈愛のまなざしを注いでいるのだろうか。
 けれどそんな一瞬の思考は、扉が完全にしまったあとに、彼の手元にある一枚の紙を見たら、再び吹き飛んでしまった。紙には、学院長の署名と学院の印章が押されている。つまりそれは、彼の提案が正式に承認されたという証。
 はじめは、ほんの夢想だった。実現できたらすごいだろうな、というくらいの。誰でも少しは考える。こんなことができたらいいな。あんな大イベントが開けたらいいな。けれど多くの人は、そこまでたどり着くまでに予想される障害を見越して、しり込みする。あるいは、諦めてしまう、挑戦する前から。
 彼自身も、それが実現するとは思っていなかった。だから仲間にも話さずに、ひとりでことを進めていた。手紙を書き、送った。返事などないのが当たり前だと思っていたが、意外にも返事が来た。そしてその返事は、承諾、だった。彼は狂喜した。その段階になって自分のしていることを仲間に内容を話したら、
「それ、本当? かついでいるんでしょう?」
 そう言われた。それはそうだろう、彼自身も、まだそのときは喜びながらも半信半疑だったのだ。
 それが、今、企画はかたちになった。提案は双方に承認されたのだ。あとは、実行を待つだけ。きっと企画は大成功するだろう。これだけ大きな企画をやれるということは、学院祭実行委員長冥利につきる、そう彼は強く思った。
 と、思考はここまで。もともと彼は冷静な思考タイプではない。
「ひぃやっっつほうぅ!」
 奇声をあげて、学院の廊下を走り出す。
 このビッグニュースをまずは仲間に伝えなければならない。
 それから、宣伝を死ぬほどうつ。うってうってうちまくる、ばらまく、それこそ山の向こうに知れ渡るようにだ。
 廊下をかける自分の足音が、っだだだと小太鼓のようになる。振動が体をつきぬける。
 そんな彼を、不審げに、他の生徒たちが振り返ってみる。
 彼は思う。そうだろう、怪しいだろう、でもすぐにわかる!
 駈けた勢いのまま、学院祭実行委員長は廊下で跳躍する。
「イぃエスっ!」



                       □■□



「だからね、ここをこう、ぴこんぷこんと光らせたりしたら、インパクトがあるんじゃないかと愚考しかつ思うのだよ」
「うん、悪くないね。けれど、もうひとひねり……、欲しいな。たとえば、こんなのどうかな」
「ううむ。リーン君のアイディアには見るべきところがある。さすがだねすばらしいね」
「それから、ワスリー、ここをこうやって、こうしたら……」
「おおお、火が出るわけか! それは意表をつける! 学内一、いや三界、天下一だ!」
「や、それほどでも……」
「そして、さらに上を行くべく、ここをこうしてあーして、こうやればさらなる破壊力が! うむ、これならいけるぞリーン君! 今季こそは、そう今年こそは、あの夢にまで見て皆で激しいぶつかりあいをしながら長年目指し続けた輝かしい全国大会優勝も夢じゃない!」
「うんうん長年の夢だったものね……、って、全国大会ってなに?」

 うんうんと頷くワスリーに対し、ノリツッコミをするリーン。学院の食堂、向かい合って座るふたりの間には、走り書きされた書類が散乱している。食事の時間ではないが、この時間の食堂には、このふたりのように話し合いをしている人間がちらほらいた。
 ふたりはちょうど学院祭の出し物について協議をしているところだった。
 ワスリーが学院祭実行委員会に企画の申請書を勝手に提出する事件のあとに、レクシア女史主催でホームルームが開かれた。申請に対して後追いでとにかく何か企画をやらなければならないというモチベーションのあがりにくいなか、予想通りのなんともぐだぐだな会合の結果、時間がなくても実行可能で、割合と受けそうな仮装喫茶が多数決で票を集めた。なので今年の学院祭ではウィーズ教室はそれをやることになった。やる以上はやりきるぞ、といういかにもしっかり者のレクシア女史が唱える扇動……もとい目標のもと、教室各員は割り当てられた仕事をこなしているわけである。
 そのなかで、ワスリーとリーンのふたりは仮装を準備する仕事を割り振られた。誰がどんな格好をするのか決めたり、仮装する衣装をどこかから調達したり作ったりするのが仕事だ。それで、先ほどからどんな仮装をするべきか、紙に殴り書きをしながら、ふたりは意見を出し合っているのだ。
「それでねー、この役のひとは、こうしたらいいと思うのよね」
「おお、なるほど! 浮かせるわけだねぇ、これはいい! いいぞいいぞ、これは面白い。ならば早速手際よく迅速に、材料の手配にかからねばなるまいな」
「そうよね。早くしないと、間に合わないかも。時間もないし」
「資材を運ぶのに、大型な馬車も必要だろうね、そうだ、いっそのこと、材料を運ぶ車からして派手に華やか、目を見張るほどに飾り付けをしたらいいんじゃなかろうか? さすがは僕、着眼点が鷹のように鋭い! 針も裸足で逃げだすだろう! これは参った!」
「うんうん、なんか、盛り上がってきたよね!」
 興奮を抑えきれないように、両拳を振ってリーンが賛同したそのとき。

 すぐ脇を勢いよく駆け抜けていく影があった。
 そしてその影は急停止――しようとししたが、勢い余ってふたつばかりの椅子をがらがらどんと倒して、さらにそれをきちんと元に戻して整頓したあと、つかつかつかとワスリーとリーンのところに戻ってきた。
「やあ、学院祭実行委員長殿じゃないか」
 しゅびり、とワスリーが右手を挙げて、その影に向かいあいさつする。
 なんというか、数秒前に発生した被害は綺麗に無視されている。
「そういう君は、ウィーズ教室クラスリーダ殿じゃないか」
 影、もとい実行委員長殿はそうい言って、かけている眼鏡をくいとあげた。まるで何事もなかったかのような自然さが、逆にとても不自然だった。だがそれは、それとして――
(なんで、いちいち肩書きで呼び合うんだろう)
 はたで見ていたリーンは、素直にそんな感想を持った。


「ほほーぅ、ビッグニュースとは、耳寄り寄りきり、興味津々そうだね」
「おうともさ、なんといってもビッグニュースだからね」
 実行委員長殿が、実はビッグニュースがあると切り出してから、ワスリーと彼はこんなやりとりをもう5回以上交わしてもったいぶっている。その様子を眺めながら、リーンはふゎとひとつあくび。だいたいにして、ワスリーの知り合いはたいてい変人だ、と彼女は今までの経験から知っている。類は類を、変人は変人は呼ぶのだろう。この変人同士のつながりを、変人ネットと、勝手にリーンたちは呼んでいる。もちろん、そのネットの中に自分が含まれていないことは前提だ。
「ビッグというからには、聞いたらもう驚いちゃうんだろうね、余程。飛び上がってしまったりするのかな?」
「まあ……、卒倒することは間違いないな」
 もったいぶっている癖に、ふたりともそわそわと子供のように落ち着かない。話を聞かせたいのだろうし、聞きたいのだろう。
「卒倒! ……い、いやだなぁ実行委員長殿は、表現が大げさで。張り子お針子の獅子王じゃあ困るよ」
 お前がいうな、とリーンは心の中でワスリーにつっこむ。
「いやいや、けっして天地神明に誓って大げさなんかじゃあないよ。ほら、そんな風に中腰でいると、倒れたときに良くない。きちんと椅子に、深く座り直して」
「言われなくともさ。そもそも、僕は、落ち着いているからね。湖面のように滑らかな精神状態だよ。まるで鏡や滑落痕だよ、つるつるさ」
 言いながら、ワスリーはすでに飲み終わって空になっている茶碗を、無駄に優雅な仕草で口元に運ぶ。
「い、いやでも、ちょっとぐらいはしゃいでもいいかな、と思わなくもないよ、うん」
 わさわさと、腕組みをしながら上体を細かく揺する、実行委員長殿。
 そこで。リーンはすっと腰を浮かし。立ち去ろうとした。それじゃあまた。
「ちょ、ちょっと待つんだリーン君! こんなときに何処へ行く?」
 ワスリーが何故か慌てて叫ぶ。
「そ、そうだぞポニーテイルのきみ、ビッグニュースだぞビッグニュース! 聞きたくないのか?!」
 実行委員長も、続けて立ち上がる。
「だって、飽きたし」
 そのやりとり。
 一度くるりと振り向いてそれだけ言うと、髪の尾を揺らして、リーンはすたすたと歩き始める。
「まてまてまて、ほら、もう始まるから!」
「実行委員長殿もこう言っているし、もうほんのちょっぴり少しだけ小指ほど我慢してみないかリーン君! 忍耐は美徳だよ? そ、そうか、甘いものか? 購買で買ってくるから、もう少し待っていてくれないか?」
 そんな引き止めを振り切りながら、リーンが歩を進めようとしたとき。ひとりの女の子にばったりと出会った。お互いに目が合う。目の前のその子は、分厚い紙の束、ビラを抱えていた。
「はい、ビッグニュースよ! 来ないと損よ!」
 その女の子――学院祭実行委員の腕章をつけていた――から、リーンはビラを受け取る。その背後で、何を思っているのだろう、手を伸ばし硬直して目を見開いている二人の青年。
 身を翻して別の生徒にビラを配り続ける女の子の背中を見送りながら、リーンはいましがた受け取ったビラに視線を落とす。そして。
「えっ、えええぇぇ?!」
 ポニーテイルを旋回させるように振り回し、彼女は校舎に響くような声をあげた。



                         □■□



 音。短く、けれど、連続に。
 小気味よい音。楽器の音。響いている。どこからか。
 上の教室から? まるで心臓の鼓動のような。
 開け放たれた窓、流れ出る音楽、流れつく音楽。
 今にも弾け出しそうになる気持ち。

 知らず知らずのうちにリズムを取っていた筆先。気がつけば、帳面の隅に、砂粒をばらまいたように跡がついている。さらに気づけば、先ほどから書物を一行も読み進めていないことに気がついて、つい彼女は苦笑する。
 角眼鏡の奥の目を一度閉じて、そして彼女――レクシア=ペルーナデは立ち上がり、窓の外へと向かった。窓から首を出し、上を見遣る。もちろん何も、紫になり始めた空とレンガ造りの校舎以外のものが見えるわけもなく、すぐに首をひっこめる。
 放課後、いつものウィーズ教室。気になることがあって調べ物をしていたレクシアだった。関連書籍を読み漁り、気になるところをピックアップしメモしていく。いつもの作業なのだが、
 しかし、どこからか、きっと上の階からだと思うのだが、聞こえてくる音楽が気になって集中できない。どこかで誰かが楽器の練習をしているのだろう。決して上手な演奏ではないが、音楽がうるさいと感じたわけではない。
 きっと、学院の浮ついた雰囲気に、勉強する気が起こらないだけだ。彼女は自分自身に言い訳している自分を感じて、軽く肩をすくめる。

 窓を背にして、自分の席に戻り始めたそのとき、からりと教室の扉があいた。
 なんだろう、と思ってレクシアが視線をそちらへ向けると、見知った顔があった。げ、という声は出なかったが、表情には出たかもしれない。
 その『彼女』と目があった。
「ごきげんよう、レクシア=ペルーナデ。お邪魔かしら?」
 つん、と顎をあげて、挨拶する金髪の美女。女史と同い年だからまだ十代のはずだが、随分と大人びて見える。意志の強そうな眉、腰にあてられた手、肩の長さで几帳面に切りそろえられているブロンドが揺れている。
 リーザ=マカート。彼女の名前を、レクシア女史は胸中で再確認する。なにかというとつっかかってくる、面倒くさい女。わざわざ教室まで訪ねてくるなんて、厄介事を持ってきたのでなければいいが、と女史は嫌な予感がしていた。
「何か用かしら? これでも、それなりに忙しいのだけれど」
「ご挨拶ね。でも、まあ、いいわ。決着がつけば、そんな口のきき方もできなくなる」
「決着?」
 聞き返すレクシア。
「ええ。どちらが上かはっきりさせてあげるわ」そこで、金髪のリーザ=マカートはぴしりとレクシアを指差した。「レクシア=ペルーナデ。貴方に、模擬試合を申し込むわ」
「模擬試合? 決闘でも気取っているのかしら」
 模擬試合とは、魔術師同士が魔術を正面から打ち合い、技の優劣を競う一種の実戦訓練である。魔術器具の使用や体術も使用可能なので、実戦さながらだ。模擬とは名前がついていても、充分な技量がなければ命の危険がある、危ないものだ。
「決闘、そうね、まさに決闘よ。理解が早くて助かるわ。日取りは学院祭の日、そのときに行われる大模擬試合のひとつよ。私たちが決着をつける舞台として、ふさわしいものだと思わない?」
「わたしたちが、お祭りの見世物になることが?」
「違うわ。貴女が、大勢の観衆の前で私に打ち倒されて、地面に這いつくばることがよ」
 ぱん、とリーザは自分の前で掌を合わせて、レクシア女史を見据えた。理解した? と言わんばかりの瞳で。
「この挑戦。もちろん、受けるわよね?」
「いやよ」
 レクシアは即答した。
 対するリーザの反応までは、間があった。掌を合わせた姿勢のままで目を閉じて、すーはーと鼻だけで呼吸をした。どうやら女史の回答が彼女の誇りを傷つけたらしく、気持ちを落ち着かせているのだろう。今のやりとりで、彼女が持っている女史への憎しみがさらに3割増されたと推察される。
「まあ、貴女が逃げることも予想していなかったわけじゃないわ。臆病風にでも吹かれたんでしょう」
「怖いっていうか、迷惑なの。当日は別の用事もあるし」
「用事? 私の挑戦に優先する用事ってなにかしら」
「……ウチの教室でやる仮装喫茶の、カントク」
 それをいうときだけ、レクシア女史は少し視線を横にそらせた。内容が卑近でちょっと恥ずかしかった。
「監督。仮装喫茶の」
 女史の言葉をなぞってつぶやいて、リーザ=マカートは、ほーっほっほほとまるで作り物のような典型的な笑い声をあげた。
「それが貴女の逃げ口上? ずいぶんと安っぽいのね」
「逃げ口上じゃないけれど、そのずいぶんと安っぽいもののために、貴女との試合の申し出はお断りするわ」
 どうも、このふたりは相性が悪いらしい。レクシア女史の挑発に、リーザが顔色を変えて口を開きかけた。そのとき。突然、激しい足音と共に、教室の扉が勢いよく開いた。すぱーんと。
 ほとんど口論になりかけていたふたりだったが、驚いて音のした方を見遣る。
 大きく開いた間口には、金髪碧眼の若者がおり、膝に手をつき、大きく肩で息をしていた。よほど急いで走ってきたのだろう。こんどこそボクが伝えるんだ、とわけのわからないことを口走っており、正直気味が悪い。
 だが残念ながら、その若者はレクシア女史の見知った顔だった。クラスリーダのワスリー=ラドクリフだ。
 女史は仕方なく、どうしたのワスリー、と声をかけた。
「び、ビッグニュースだよ、しょくん……」
「ビッグニュース? なによ」とレクシア女史。
「ふふん、知りたいかね? いやいや、むべなるかな自然も自然雄大な大自然の前に我々はいつも自分の卑小さ矮小さを知る事もある気がすると、良く思うのが今日この頃、それも致し方ないこと……」
 そこで、ワスリーは呼吸を整え、きらきら光る汗を飛ばしながら前髪を払い、いつもの芝居がかった調子で腕を組み、得意満面で体を起こした。だが。

「うざい。すぐに用件を言いなさい」
「3秒以内に発言。要点を押さえて報告。発言後は可及的速やかに消えて」

 ごぉっ、と音が聞こえてきそうな威圧が、レクシア女史とリーザ、ふたりの女性から放たれる。
 間が悪いといえば、これ以上のことは無いのかもしれない。険悪な雰囲気の真っ只中に飛び込んでしまったのだから。空気を読まないことにかけては人後に落ちないワスリーではあったが、さすがに来てはいけないところに来てしまったことを感じたらしい。額に吹き出ていた彼の汗は、いつの間にかその質を変えている。
 しかも、可哀想なワスリーは、死の恐怖に、一歩後ずさった。
(こ、これは……。対処を間違えば、死ぬ……ような気がする、びんびんどんどんばんばんと。これはなんというか、虎の穴、後門の狼、像の前足、鰐の上顎……)
 鈍感も時には長所となる。敏感すぎては自分の思った事を実行することは難しい。他人を慮ってばかりいては、何も果たすことができないからだ。そういう意味では、ワスリーの鈍感も長所のひとつに数え上げられる。しかし、生命の危機が読み取れないほど鈍感であれば、それは長所となりえない。彼の感性は幸いにも命の危機を感じることはできるほどには鋭敏だった。まだ彼の鈍感は、長所たる資格があるということ。
 彼は、一瞬逡巡したのち、発言を避け、懐から一枚の紙を取り出し、それをうやうやしくふたりの女王に献上することにした。発言の揚げ足を取られて死ぬわけにはいかなかった。多少屈辱的なやり方ではあるが、大事な場面では、面子を捨てて腰を低くもできる、要領のよさが彼にはある。

「なになに……」
 レクシア女史は受け取った紙片――木版刷りのビラを読む。それを横から覗き込むリーザ。
「えっ……」
 ビラには、黒々としたインクで、それが大書してあった。


 激突! 現役賢者対賢者候補
 雲の賢者 セドゥルス翁 対 炎戮 エレ=ノア
 セド学 学院祭にて 頂上決戦!


 どういうこと? かついでいるつもりだったら承知しないわよ――。
 という声があったわけではなかったが、ビラを覗きこんでいたふたりの女性は、それを献上したばかりの青年に、揃って視線を注いだ。ふたりがその視線にどういう意図をこめたのかは定かではないが、ワスリーは濡れ衣を着せられた使用人のように、弁解――というよりも説明を加えざるを得なかった。可哀想なワスリー。だが彼は、胸を張って答える。その行為が何故か健気さを連想させるが、彼の名誉のために言えば、きっと健気さは彼の責任ではない。この状況下では無理なからぬことなのだ。
「ビ、ビッグニュースだと初めに言っただろう? 素直に信じられないのも無理はない。いや本当に無理も無い。千里眼の女史であればなおさらだろうけれど、けれど人は時に常識に縛られてしまう。かの七賢者、セドゥルス翁と賢者候補のエレ=ノアが模擬試合なんてするわけない。名をあげる必要にせまられた若き騎士ならばともかく、名声実績ともにほぼ頂点を究めた実力者同士が模擬試合をするなんて。国家の威信もかかってくる試合がそれほど簡単に実現するのか? 普通に常識的に普遍的に考えればしないだろう。しかし、だが、ところでもしも、もし実現するならば、それはきっと歴史的な一戦になる。それがこの学院で行われるというのだから、驚き倍々、青天井のうなぎ踊りだ」
 やや誤用的な表現があったが、レクシア女史はそれを指摘する事はせず、
「そうね。すごいことね。もし、本当に行われるのならば、だけど」
「本当もなにも。明々白々、胸を張って借金返済したての債務者ほどにさわやかに潔白な事実だよ。この模擬試合については、学院祭実行委員長自らがエレ=ノアと手紙をやり取りして、承諾を得ている。証拠になる手紙もある。そしてさらに、セドゥルス学院長にも企画の承認し、署名が入った承認書もある。つまり、この企画は、当人たちのお墨つきというわけだよ。その証拠だって、その気になれば提示できるんだよ、うむ」
「もしこの試合が実現するのであれば、事実上の魔術師世界一決定戦よ。それがこんなに簡単に、しかも学院祭なんかで実現するもの?」
「でも現実には、この企画は着々と順調、晴れやかな快晴順風のもとに進行しているよ。なにせ、企画を取り仕切っている本人から、具体的につまびらか、表も裏も側面捻転すってんてんに話を聞いたのだから」
 別に彼の企画というわけではないが、得意そうに胸を張るワスリー。彼なりに勢いを取り戻してきたらしい。
(あなたはいつも企画倒ればかりでしょうに。そうはいっても、こんな大きな話、そうそう鵜呑みにはできないのよ)
 声に出さずつぶやいて、レクシア女史は、親指を唇に当てて、数瞬考える。
 エレ=ノアは、近年の実績から賢者候補に推さsれているほど優れた魔術師だ。国家間の政治的な意図もあって、賢者の称号はまだ得ていないが、飛びぬけた実力を持っていると聞いている。その魔術のちからは軍の一個師団に相当するというにわかに信じられない話もある。もし、このエレ=ノアが現賢者であるセドゥルスと戦い、勝ちはしないまでも善戦でもしたらどうだろう。別に戦闘能力が高ければ賢者になるわけではないが、少なくともエレ=ノアにとってプラスになる。賢者と戦ったことがあるという名声が手にはいる。まして学院祭という場での模擬試合であれば、お互いに手を抜いた流すだけの試合になるだろう。そうなれば、エレ=ノアにとって、この模擬試合はリスクなくプラスだけが取れることになる。対するセドゥルス翁のメリットがわからないが、大売り出し中の新人魔術師の実力を見てみたいということだろうか。しかし人の良い翁のことなので、ただ単純にお祭りを盛り上げようとしているだけなのかもしれないが……。
 ひと思考して、レクシア女史は、ワスリーがもってきたビラの話は、まるきり無い話でもなさそうだと考えた。
 話半分だとしても、世界で指折りの実力を持った魔術師同士の試合には、なかなかに興味がある。
 そして、顔をあげたレクシア女史は、隣を見遣る。ビラを覗きこむリーザはまだ思案顔だった。事の真偽を図っているのだろう。
 そこで突然、女史はひとつのアイディアを得た。そしてその考えをすぐさま実行に移すことにした。
 女史は、リーザに向かって、事もあろうににっこりと微笑みかけた。
 できるだけ感じよく見えるような、商業的スマイル。
 そして、
「それじゃ、わたしは試合に出れないけれど。リーザさんは頑張ってね。試合。前座の」
「ぜ?、ぜんざ……」
 はっとしたようにリーザ。
 しかし、たちどころに、彼女は状況を理解したうようだった。
 今もたらされた情報によれば、魔術師の世界一決定戦が、学院内魔術模擬試合と同じ日に行われようというのだ。ということは、もし同じ日に、たとえ学院最強を決める試合があったとしても、それはローカルな前座試合としか、観衆は受け止めないはずだ。
 世界の頂上決戦と学院内の頂上決戦など、比較になるはずもない。
 並の魔術師同士の模擬戦など、ただの添え物にしかならない。まして、生徒同士のそれなど、論外だろう。
 自分が一番出なければ気がすまない気位の高いリーザが、前座、しかも自分がかすむとはっきりわかっているものに自分が出る事をすんなりと受け入れられるか――。
 それはもちろん、否だろう。
「くぅ……」
 予想外の出来事だったからか、リーザには一言もなかった。
 そしてリーザは気の強そうな眉をゆがませ、ひとしきり歯軋りしたあとに、
「日は、改めてあげるわ。おぼえてなさいよ!」
 そして、彼女はくるりと身を翻すと、憤懣を押さえきれないといった大またで、そのまま教室を出て行った。
 ぴしゃりと閉まる扉の音、そして一瞬の静寂。
 そのあとすぐ、教室には、レクシア女史の勝ち誇った高笑いが響いたという。