6. 風が無ければ飛べない落ち葉





「ピエトリーニャの手がかりと言っても、もともとが謎の人物ですからね。情報はあっても、それが本当かガセネタか判断がつかないんですよね」
 アッシアが独り言とも判じられないようすでぼやいた。いまいち目の焦点が定まっていない。実は考え事をしているためにこのようになっているのだが、それが公園で日中ずっとぼんやりしている人のような風情をかもしている。
 華やかな学院祭の雰囲気のなか、ひと気のないところを探し、彼は空いているベンチに腰掛けていた。ベンチには隣に黒猫がちょこんと並んでお座りの姿勢をとっている。隣に腰掛けるぼんやりとした男とは対照的に、黒猫は行儀よさそうに背筋を伸ばし、きょろきょろとあたりを見回している。
「ピエトリーニャの研究内容ならばともかく、かの老賢者の行方はようとして知れない、というのが世間での常識ですからね。教師仲間に聞いても色よい返事はこないし、ひどければ変人扱いされたりしたりして」
 アッシアのぼやきは続く。実際、教師仲間のカルノに話を持ちかけてみたが、けんもほろろの対応が返ってきた。しかも、話の最後には、奴はアッシアをしげしげと眺め、「お前は本当に変わったことにばかり首をつっこむやつだな」とのたまった。
「心外です」
 やり取りを思い出しながら、アッシアはつぶやく。
 そんなアッシアはのぼやきを秋風とともに聞き流していると思われた黒猫レイレンだったが、
「どこかに良い伝手があればな。昔は、わからないことがあれば、ギルドの情報通に聞いたり、情報屋から情報を買っていたものだが」
 と反応した。赤い首輪に複雑な彫刻が施された指輪をつけた猫は、わずかに首をかしげてみせた。
「良い伝手ですか……。情報屋なんてものにも、僕は縁がないんですよ。ああいう手合いは、どういったところに行けば会えるのですか?」
 そのアッシアの質問に、黒猫は何かを思い出すように少しの間、遠くを眺めた。そして、情報屋の種類にもいろいろあるのだろうが、と前置きし、
「自分の場合は、ギルドの仲介人を介して、情報屋に会っていた。仲介の仲介が入るような場合もあったな。それか、依頼人から、接触すべき情報通を紹介されたり指定されりしていた」
「ギルド……」
 アッシアがつぶやく。この淡々と話をしている黒猫レイレンの前職は暗殺屋だった。ということは、ギルドというのは暗殺ギルドだろう。依頼人は暗殺の依頼人。ピエトリーニャの情報を得るために、そこまで社会の暗部とでも言うべきところまで踏み込むのはさすがに気が引けた。ために、さらに聞いてみた。
「ギルドを使う前は、どんな風に情報を得ていたんですか?」
 黒猫レイレンは、淡々と応える。
「ギルドを使う前と言えば、傭兵だったからな。そのときはまだ幼かったし、傭兵頭がすべて情報を仕入れてきて、自分はそれを聞くだけだった。仕事のことだけではなくて、世間での出来事や、どこぞで綿が値上がりしているだの、花街の噂話などとりとめもなく教えてくれたな」
「世話好きの人だったんですね、その傭兵頭さんは」
 アッシアが言うと、黒猫はわずかに考えるそぶりをみせ、
「どうかな。部下に情報を与えるのは仕事でもあるし処世術でもあるし、単に話好きだっただけかもしれんな」
 と目を細めた。
 一方で、アッシアは別の事を考えている。
 その傭兵頭というのは、レイレンにとって師匠か保護者にあたるのだろう。自分にとって見ると、誰だろう、と考えてみる。保護者は家族になるだろう。
 そして、師匠と言えば。
 ふっとひとりの人物が、アッシアの脳裏に浮かぶ。
 アッシアにとって師匠と言えば、その人しかいない。
 しかし、だ――とアッシアは思う。そのとき。
「エマだ」
 それはアッシアの声ではなく、黒猫レイレンのつぶやきだった。はっとするようにアッシアは顔をあげ、黒縁眼鏡の奥の目を細め、視界の焦点をあわせる。そしてこちらへ向かってくる樺色の髪の女性の姿を認めたとき、アッシアは現在の思考を打ち切ることにして、意識のほとんどを彼女へ振り向ける。
 エマ教師のほうもアッシアたちに気がついたようで、ごく自然にわずかに進む方向を変え、向かってくる。

「顔色が悪いですね」
 ふたりと一匹の世間話の合間。黒縁眼鏡のアッシアが、そう指摘した。指摘された樺色の髪の教師は、苦笑する。
「先ほど生徒にも言われました。でも、大丈夫ですから」
「そうですか? それにしても、顔が青白いですよ、学院祭の疲れですかね。あまり無理はしないほうが良いです」
 そうですね、と言うエマは穏やかだったが、わずかに表情に翳がさした。一緒に世間話をしていた黒猫は、またたきほどのその表情の翳を見逃さなかった。
「エレ=ノアに会うのは、何年ぶりになる? エマ」
 何気ない会話にしか聞こえない質問だったが、樺色の髪の女性は、びくりと身を震わせた。
 それに構わずに、黒猫は続ける。
「今回、学院祭の企画で、エレ=ノアがこの学院に来るのだろう? 最後にエレ=ノアに会ってから、何年ぶりの再会になる?」
「そうね、もう、7年にはなるわ」
 そう応えるエマ教師の口は、重いものだった。
「7年間、一度も会わなかったか?」
「ええ。手紙のやり取りはあったけれど。お互い忙しかったのね」
「そうなのか?」
「――……」
 黒猫は金色の瞳でエマをじっと見る。
 そうか、とはエマたちが忙しかったことを否定したいわけではないだろう。7年も時間があれば、どれほど忙しくても会う時間を作ることはできるだろう。それをしなかったは、そうしたくない理由があるから――。その理由を、黒猫はエマに尋ねているのだ。
 その女性と黒猫の様子を、アッシアは黙って見ている、羨望と少しの嫉妬と共に。
 エマ教師とエレ=ノアの間柄は姉妹のように近しいものだと世間では言われているが、実際のエマ教師をみると、むしろ何かの隔意があるように感じられていた。いったい何があったのか、理由を確認したいとアッシアも思ったが、それはエマ教師の深いところに立ち入るような気がして、聞けなかったのだ。
 だが、黒猫はアッシアが超えられなかった線を軽々と越えて、エマ教師に質問している。アッシアよりも、黒猫の方がよりエマに近い位置にいるのだと思うと、黒縁眼鏡の男は、胃のところにもやもやとした熱い塊を感じている。そんな感情を持ってはいけない、と思い、抑えこもうとするほどに、胃のところにあるもやもやとした塊は、手に負えず熱を帯びるかのようだった。
「姉さんに会うのが、怖いの。きっとわたしは」
 ぽつりと、エマが言った。
 アッシアの感情などはいったんよそにおかれ。
 黒猫と黒縁眼鏡の教師は、語り始めた彼女を見る。
「姉さんがわたしにひどいことをするということじゃないの。むしろ逆。エリー姉さんは、わたしに、ひどく優しい。だから、わたしにはとても良い姉なの。けれど……」
 黒猫は何も言わず、彼女に視線を注いでいる。まるで何もかもを見透かすかのような金色の瞳で。
「わたしのために、周りの人が、傷ついてしまうの。エリー姉さんは、わたしを守ろうとしてやってくれていることなのだろうけれど、でも、わたしのために、誰かが傷つくのはとてもつらい。わたしは、それが怖いの。わたしのために、エリー姉さんが、周りの人を傷つけるのが」
「傷つける、とは?」黒猫が聞く。
「幼年学校のとき、わたしをからかったひとりの男の子を、魔術で、火だるまにしたり。その子は命は助かったけれど、体の大半にひどい火傷を負ってしまった。他には、わたしの陰口をいった女の子の顔を焼いてしまったり、士官学校の時代には、わたしに手紙を出した男の人に、やっぱりひどい火傷を負わせてしまったり、他にも、そういうことがいくつかあって……」
「で、でも、死んだという人はいないんでしょう?」とアッシアが聞く。
 その問いに、エマは悲しそうな瞳のまま、
「死んだひとはいません」呟く。か細い声で。「少なくとも、わたしの前では」
「その言い方だと、目の前でなければ死んでしまったみたいに聞こえます」とアッシア。
「行方不明になってしまった人は何人かいます」エマは、既にうるみがちになっている目を伏せる。「エリー姉さんが、何かをしたとは信じたくないのですが、そういう恐ろしい考えが、頭から離れないのです」
「えっと、でも、証拠はないんですよね?」
「もちろん、証拠はありません。けれど、偶然とするにはいろいろな状況が符号しすぎているのです……アッシア教師」
「はい?」呼びかけられて、思わず声が少し裏返る。
「エリー姉さん……エレ=ノアがこの学院に来ている間、なるべくわたしに近寄らないようにしていただけますか」
 そして樺色の髪の色の教師は、黒猫のほうにも視線を投げる。「レイレンも」
「いや、えっ、それは、エレ=ノア氏が僕らに危害を加えるからということですか」
「それはわかりません」いつもらしくない、自信の無さそうな弱い彼女の声。「ただ、可能性は排除しておきたいのです」
 ここで、黒猫が口を開く。
「このことについては、エマはエレ=ノアと話をしたのか? エレ=ノア自身は妹を守っているつもりなのだろうが、守られている妹は迷惑している。そのことを伝えたのか?」
 エマは、愁眉を寄せる。
「ええ、それはもちろん。周囲のひとを傷つけるのはやめて欲しいと何度もお願いしたわ。でも、そらとぼけられるばかり……。この件については、わたしの言うことはまったく取り合ってもらえなかったわ。むしろ、何が問題なのかすら、エリー姉さんは理解してくれない。姉さんは……」
 そこで彼女は言葉を区切り、唇を噛み、言葉を選び、そして搾り出すようにして言った。
「興味を持たない他人が傷つくことに、あまり関心がないようだから」


 行くところがあるから、と立ち去ったエマの後ろ姿を、黒縁眼鏡の教師と黒猫は見送った。
 木影が濃くなり始めた木立の陰に、彼女の後ろ姿はやがて吸い込まれるように消えてしまった。
 けれど彼女の姿は見えなくなっても、彼らはしばらく木立の方を見ていた。
「どうも、エマ教師はお姉さんとうまくやっていけていないみたいですね」
 呟いたアッシアに、そうだな、と黒猫が同意する。
「会ってもいないうちから顔色が変わるほど恐れている。なのに、自分が何をおそれているのか、明確に理解していない……いや、それは正確ではないか」
 黒猫はいつになく言葉が多い。
「エレ=ノアを恐れながら、エレ=ノアを否定できない。まるでなにかの呪縛のようだ」
「呪縛? エマ教師は、エレ=ノアさんが好きだから否定できないとうことですか?」
「そうなのだろうな。好きだから、愛しているから否定できない。悪い面を指摘できない。それは呪縛と呼べるだろう」
「愛することが呪縛とは、言い過ぎじゃないですか?」
「いまあるありのままを認めることを縛るものならば、呪縛だろう」
 今在るありのままを認めることを縛るものならば、愛すらも呪縛。
 黒猫の言葉に、黒縁眼鏡の教師は小さくため息をつく。なんという平明な視点なのかと。
 言葉のもつうわべの美しさなどには惑わされない。黒猫が見て語るのは、いつも物事の本質だ。
「なにごとも、無ければいいが」
 アッシアの思考の途中に、再び滑り込んできた黒猫の呟き。
「今の話を聞いて思った。エレ=ノアは、学生の祭りの企画に素直に賛同して、わざわざ足を運ぶような人間ではない。少なくともそれだけの理由では動かない」
「何か底意がある……と?」
「それが何かはわからんが」黒猫は振り返る。その瞳に映るのは、学院の建物。「エレ=ノアの雇い元であるアーンバルという国も、元々賢しらな策略が多い国だ」
 アッシアも黒猫にあわせて思わず振り向く。その方向にあるのは、重みの在る石造りの建物と、秋の透き通るような綺麗な空。
 けれどそのいつもの綺麗な風景が、どこからともなく黒い靄に侵されているような、嫌な予感がして。
 その予感を打ち消すために、黒縁眼鏡の彼は、ぶるぶると首を振る。
 冷たい秋の風が、頬にあたる。
「アッシア」
 そこで、黒猫が、聞いた。
「追わなくて大丈夫か」
「え?」アッシアはただ聞き返す。
「エマをだ。かなり弱っているようだ。ひとりにしておくべきではない。そんな気がする」
 それはアッシアも感じていた。しかし、けれど、とこの黒縁眼鏡の男は思う。
 追いかけて、なんと声をかけるべきなのか? どうすればいいのか?
 逡巡。
 アッシアが答えかねていると、黒猫は言った。
「追いかける。いいか」
 何故そんなことを自分に聞くのか。そんなことをも、アッシアは問い返せなかった。
 彼が答えられないでいると、黒猫は、たっという足音もなく、道を走って行ってしまった。
 エマが立ち去った方へ。
 黒猫の走りにあわせて、黒い尾が跳ねるように揺れる。
 アッシアの足はそれでも動かない。
 そのとき、トンと彼の背中に軽くあたるものがあった。
 振り返ると、落ち葉だった。
 黄色く色づき落ちた葉。
 風が無ければ飛べない落ち葉。
 そんなことを思っている間に、黒猫の後ろ姿は見えなくなってしまっていた。