7. ウワサをすると
「ヴァル、この格好すごく似合ってる。とっってもかっこいい」
「そ、そう、ありがとうリーン」
「なんだか、こうしていると癒される……悩みが全部溶けていっちゃうみたい」
「いったいどうしたの急に。でも……その、皆も見ているし、とりあえず場所を移さない? 悩みがあるなら聞くから」
「なんかいろいろと、もういいなんでもいいわ……。あたし、ヴァルと結婚することにした」
「ちょ、ちょっとリーン。突然何を言い出すのよ。無理でしょ、いろいろ」
「ヴァル、すごくいい匂いがする……それに、サラシ越しでも伝わってくる弾力がたまらんわー」
「や、やめてってば、そんなこと言わないで! も、もう離れようよ、ね! っていうか離して助けて!」
「ぃいやだー! もう離れないぃー!」
学院の教室棟。そこは、ヴァルが所属するフロックハート教室の廊下前。
教室の入り口あたりで無理やり抱きつこうとするポニーテイルの少女と、それを押しのけようとしている褐色の肌の少女。
その褐色の肌の少女は、今日はいつものローブ姿ではなかった。きらびやかなレースの襟がついた短い上着、金糸の縫い取りがついたズボン。短めの髪は後ろに流して香油で整えられている。ヴァルは、劇のために、男装していた。しかも皇子役。そのいでたちはまさに異国のエキゾチックな貴公子。演劇本番直前の予行演習が終わったあとに、ヴァルはばったりリーンに出くわしてしまったのだった。
「あたしを捨てないで皇子さまーっ! それともあれは遊びだったのー! あたしはあの夜のことだけを心の支えにして生きてきたのにーっ!」
「ホントにお願い! その小芝居やめて! 頼むからやめて! みんな見てるから!」
「……もう、落ち着いた?」
ヴァルが差し出したのは、黒い珈琲が注がれたカップ。ほんわかと湯気が立っている。
それをポニーテイルの少女は両手で受け取り、香りを楽しむようにカップを胸元へと寄せる。
珈琲を渡したヴァルは、彼女の隣に腰を下ろした。褐色の肌の少女は、男装のままだった。
舞台袖、ごちゃごちゃと大道具置かれた舞台の縁にふたりは並んで腰を下ろしている。
さきほどの廊下での小芝居に人が集まってきたので、慌ててフロックハート教室が演劇道具の倉庫として拝借している空き教室へ避難してきたふたりだった。珈琲はヴァルが購買で購入して来たものだ。
大道具やきらびやかな衣装やその切れ端、小道具、上履きや造花、何に使うのかマラカスなどがいくつかの箱に詰め込まれて積み上げられている。
「はーっ、なんかようやく落ち着くことができた……」
受け取った珈琲カップで手先を温めながら、ポニーテイルの少女は深い息を吐く。
(そりゃあ、あれだけ騒げばそうでしょうよ……)
声に出さないが、ヴァルは心のなかで呟いた。
「理不尽なことはあるけれど、でも、そういうことにもうまく対処していかないと、だめってことだよね……」
(それってどちらかというと私の台詞じゃないのかしら)
外に出さない言葉と一緒に、半眼でヴァルも珈琲をひとくちすする。たっぷり砂糖は入って飲みやすいけれど、飲み下すとほんのわずか苦さが残る。それを吐き出すように息を吐くと、息の中に暖かな湯気が混じっているかのようだ。
そこで、ヴァルはリーンに見つめられて気がつき、顔を向ける。はたと目が合う。
小首を軽く傾げてヴァルを見つめるポニーテイルの少女は、まるで子猫のようなたたずまいだった。その大きな目に見つめられて、どきりとした気持ちをごまかすために、ヴァルは珈琲をまたひとくち、飲みかけて。
「ホントにすごくかっこいいよ、ヴァル。ね、いつもその格好でいない? ダメ?」
そうリーンに言われ、ヴァルは口に含んだ思わず珈琲を吐き出しそうになった。
しかし、なんとかこらえた。明日の演劇開幕前に衣装を汚すわけにはいかない。
「だ、駄目に決まっているじゃない。またおかしなこと言って」
ヴァルは咳をする。どうやら、珈琲が気管に少し入ってしまう。
「どうしても?」
リーンは首をかしげて食い下がる。その姿はかわいらしく、無邪気な少女のようでもあったが。
「どうしても、だ、め」
聞き分けのない子供に言い聞かせるようにしながら、ヴァルは言う。言いながら、妹がいたらこんな感じなのかな、とふと思う。
「そっかー、残念。本当に似合っているのになあ」
そういいながら、さほど残念ではなさそうにリーンはひとくち珈琲を飲む。
「で、さっき言っていた、悩みってなに?」
男装のヴァルは、カップで手先を温めながら聞く。陽の当たらない舞台裏、というか教室は冷える。いっそ魔術を使って空間を温めようかとも思う。
「ん、もういいの。なんかバカやったらすっきりしたし。解決方法も見つかったみたいだし」そこまで言ってリーンは、小道具として準備してあったのだろう、造花をいくつか手に取って、胸元に飾って見せた。似合う? と目だけで語って、「かっこいーひととお茶もできたし」
「どういたしまして。……もう、さっきまで泣きそうだったのに、もう笑って、もういいだなんて」ヴァルは苦笑する。そして、わざと怒った顔をしてみせる。「振り回されるほうは、大変なのよ」
「ごめんね」
「ほんとに」
にらむヴァルに、リーンは、にひひひ、と妙な笑い方をしてみせる。
「これから、私たちのこと、学院内のウワサになっちゃったりして」
「どうかしら。なるかもね。皆が見ている前で、あれだけ大声で騒いだんだから」
「わたしは、ヴァルとウワサになっても、困らないけどなあ……あ、いや、やっぱり困るか」
「私も困るわ。女の子が好きだなんて思われたら大変」
「ってことは、ヴァルは今、そう思われたら困るひとがいるんだ。好きなひとでしょ。誰?」
いたずらっぽく笑うリーンを、ヴァルはじと目で見返す。紫がかった瞳。
「教えない」
「えーなんで」
「悪いことばっかりしている悪い子には、教えません」
「つめたいー。ヴァル、昔はそんないじわる言わなかったよね」
「慣れたの。それと、友達の影響かな。いっつも私を困らせるいじわるな子が近くにいるの」
「えぇぇ、誰それ」
「自覚がないとは言わせないわよ」
さっとあさっての方をみて、それでもそらとぼけようとするリーン。
ヴァルは降参してふふと笑う。
「でも、助かったわ。劇の前ですごく緊張していたのにリーンと話したら落ち着いちゃった」
「そーでしょー?」
言って、リーンは甘えるようにヴァルの肩にもたれかかる。珈琲カップを両手で包むように支えているので、ヴァルはわずかな重みとぬくもりを肩で受け止める。
(変わったな)
そうヴァルは思う。変わったのは自分。かつては復讐を人生の目的において、他人を寄せ付けなかった自分。まるで手負いの獣のように、周囲からの手を払いのけ続けていた自分。けれど今では、学園祭の出し物にも参加して、そして友達と肩を並べている。普通のことだが、今までの自分には、その普通の幸せすら遠かった。でも今は違う。今なら何でもできるような気がする。飛び出すように駆けていける。空ですら飛べるような気がする。
そんな風に思えるように、自分を変えてくれたのは、恩人たち。そのひとりは、今まさに隣にいる、ポニーテイルの少女。
彼女によって、自分に新たな律動が与えらたのだ。刻まれる新たな節奏。体に響いた律動は、自分を中心に広がり、反射し、また共鳴する。時間的に空間的に、世界に響き渡っていくかのようだ。今まで自分がそんな律動を刻めるようになるとは知らなかった。過去の自分には、いや、きっと誰にも予想はできていなかった。踏み出したたった一歩が、ヴァルヴァーラを変え、世界を変えた。律動の切り替え。それがいつやってくるのか誰にもわからないが、きっと誰にでも訪れる。最初の一歩を踏み出す、ほんの少しの勇気さえあれば。
「……ありがとう」
知らず、想いは呟きになり、声として外に出た。
「まあそれほどでも」
ヴァルの肩にもたれたままのポニーテイルは軽く応える。リーンは、きっとヴァルが感じている感謝の重みなどわかっていないのだろう。でもそれが、リーンらしいとヴァルは思い、珈琲をひとくち飲み下す。ぬくもりが喉を通り、お腹まで届いていく。
「でも不思議ね。リーンは、誰かに元気を与えることができるみたい」
「そう? ふーん、そう、あんまり意識しているわけでもないけどなー」
ポニーテイルは改めてカップに口をつける。
「さっきのエマ先生もなんだか元気がない様子だったから、元気付けてあげられるといいんだけど」
「エマ先生、元気ないの? なんで? 失恋?」
「そういうのじゃないと思うけど。朝、劇の準備をしているとき、様子見に教室に顔を出されたのよ。そのとき、妙に元気がなくて、何か考え事をしているって感じで。なんだろう、風邪でもひいていらっしゃるのかなぁ。」
「最近寒いからねー。わたしたちも気をつけなくっちゃ、風邪には」
「風邪だって決まったわけじゃないわよ。風邪を召されているのかな、って思っただけよ」
「あとは、そう、気がかりなことがあるんじゃないかな。学院祭で」
「学院祭で、気がかりなこと、ねぇ……」
「自分の教室の劇が成功するかどうか、とか」
「だったら、もっと、こう、わたしたちを励ますとか、そういうことをしそうだけど」
「あ、そうか、エレ=ノアさんが学院に来るからじゃないかな」
「え? でも、エマ先生とエレ=ノアさんは姉妹のような関係じゃなかったっけ」
「ひょっとしたら、エレ=ノアさんはすごく怖いお姉さんなのかもしれないよ。悪いことしておしりぺんぺんされたとか。乗馬用鞭で」
「あのエマ先生が怒られているところなんて、想像つかないけどなぁ……」
「じゃあ、親しいひとがエレ=ノアさんに殺されちゃったとか」
「なんで? というより、さすがにそれは冗談でも失礼じゃない?」
「それはもちろん、痴情のもつれってやつで。雑誌なんかでよくあるパターンじゃない?」
「これからは読む雑誌をもっと選んだほうがいいわ、リーン」
ふいに、外からばたばたという音がした。人が移動する音だ。
ヴァルが不審に思うと同時、リーンはひょいと立ち上がった。
「なんだろう」
ポニーテイルの少女が空き教室から出てみると、いそいそと生徒達が廊下を歩いている。
彼女は、近くにいた男子生徒をつかまえて何があったのか尋ねてみた。このポニーテイル、突発的な行動のときほど、動きに淀みがない。
「もうすぐ、エレ=ノアが学院に到着するんだよ。いい場所を取らないと、見逃すぞ」
へぇ、と相槌をリーンが打つ前に、答えた男子生徒は時間が惜しいというように廊下を走っていく。
その後姿をひとしきり見送ったころ、ヴァルが廊下へと出てきた。
するりと滑り出すように、ポニーテイルの少女の唇から言葉がこぼれる。
「もうすぐ、エレ=ノアさんが来るんだって。ウワサをすると、馬が出るね」
「それ、なんのたとえ?」
教室から出てきた男装の少女は、首を傾げた。
■□■
「ほどなく学院に到着します」
詰襟の白い士官服に身を包んだ男は、自分の両手を握り合わせて呟いた。
「わかっているわ。もうそれらしき建物が見えているから」
応えた女の方は、軽い声。ベージュにも見える、色素の薄い髪の隙間から、長い睫毛とつややかな唇がのぞいている。
きっと白が好きなのだろう、女性は白い上下のパンツスーツに身を包んでいる。スーツの下のシャツは上品な濃紺で、金のネックレスが胸元にきらめいている。
ふたりは馬車に乗り、向かい合って座っていた。紅いビロードを張り合わせ、同じ色のクッションをあしらった室内から、貴人向けの馬車だということがわかる。明り窓には、レースのカーテンがひかれている。彼女はレース越しに、2頭立ての馬車が作る流れゆく風景を眺めていた。
山道の脇、紅葉した木々が光を浴びて並んでいる。その向こうには、やはり色づいた山。
からからと、馬車は軽い車輪の音を立てて進んでいる。
揺れも随分と少なくなり、道も綺麗に舗装されて、目的地が近いことを教えてくれる。
道も、土を踏み固めただけのものから、石畳へと変わっている。
外の風景から視線は逸らさぬまま、彼女の唇が、微笑するようなかたちにゆがむ。
「あなたはずいぶんと緊張しているようね」
「それは……敵地ですからね」
男は、手布をポケットから取り出し、手をぬぐった。手のひらに汗でもかいているのだろうか。
「敵地だなんて」男とは対照的な、笑いを含んだ軽い女の声。「訪れてみなければわからないって言ってるでしょう? 何度も言っているのに、聞き分けのないコね」
「すみません」男は手布をしまいながら言う。「ですが、貴女の身を護る役目ものとしては、警戒して、しすぎることはないので」
「上層部の老人たちから何か吹き込まれているのかしら? でも、変なことはしちゃだめよ?」
「貴女の安全が第一です」
「だから危険なんてないわ。私が誰だか、言って御覧なさい?」
男――若い将校は、一瞬年齢相応のあどけなさを瞳に浮かべたが、すぐにそれを消し、引き締まった表情で答える。
「エレ=ノア魔術研究所所長。准将相当官。炎の女神と呼ばれる我がアーンバル国の英雄です」
「その通り。そして私は無敵。何故なら、私は神だから」
「しかし、閣下……」
将校の言葉をさえぎるように、女――エレ=ノアはぴっと指を1本立てた。
その指をすっと将校の唇へと近づける。触れるか触れないか、そんなぎりぎりのわずかな距離。
将校の言葉を止めながら、エレ=ノアは再び馬車の光の刺す窓から外を見る。
「もうその話はおしまい。それとも、わたしのいうことが聞けなくて?」
「……いえ。決して」
「不満?」
「不満などあろうはずがありません。閣下に、私の持ちうるすべての全てを捧げています。だから、私の行動はすべて閣下のためのものです」
「そうよ。そう。そこをよぉくわかってもらわないとね」
エレ=ノアは紅いビロードの椅子に深く腰掛けなおす。やわらかい微笑みが浮かんでいる。艶やかな唇。
からからと車輪のまわる軽い音。
馬車の窓の向こうに、石造りの門が見える。
それこそが、セドゥルス魔術学院の門に違いなかった。馬車中のふたりは示し合わせるでもなく同じ建物を同じ窓から見ている。
「広い前庭……けっこう立派なのね」
彼女は呟いた。
そして、目の前の光景がはっきりと近づいてくるにつれ、好奇に目が大きく見開かれる。はじめは息を大きく吸い込み、そして次に口角が吊り上る。
彼女は親指で軽く自分の唇に触れ。
突然、命じる。
「ここで止めて。降りて歩くわ」
「え、……はっ、おい馭者、ここで止めろ!」
男の方も見えている光景にわずかながらに自失していたのか、馭者に慌てて命じる。
前庭の中央付近、石畳の道で、馬車は急停止した。
手綱を強くひかれた2頭の馬が、高いいななきをあげ、前脚をあがかせてそして止まる。
「エレっ……!」
若い将校が名を呼びきらないうちに、エレ=ノアは自身の手で馬車の扉を跳ね開けていた。
そして、馬車から飛び出すかのように、しかし翼でもあるかのように優雅に、するりと地面に降り立った。
本来先導し、エスコートするはずの若い将校が続けて学院の前庭に降り立ったころには、もう、エレ=ノアは歩き始めていた。
背筋を伸ばし、一歩一歩、石畳の感触を確かめるように。
そしてゆっくりと、一番エレガントに見える動きで彼女は腕をあげ。
手首から先だけでゆったりと手をふった。
それだけで、エレ=ノアに見えている光景に変化があった。
わっ、と沸き起こったのは、歓声。
到着したセドゥルス学院の建物の窓には、張り付くように人がいた。
おそらく生徒なのだろう。皆がそろいのローブを纏い、見える顔はいずれも若い。少年少女だ。
学院の3階建ての建物から、身を乗り出す生徒達が鈴なりになっている。
彼ら彼女たちは、エレ=ノアが手を振るたびに大きく歓声をあげた。
なんとも気分のよい歓迎じゃない。
陶然とした気持ちを内に感じながら、エレ=ノアは歩を進める。
前庭、玄関付近にも人が集まっているのも見えた。
そのあたりだけ少し雰囲気が違った。
人の体格がまちまちだし、それぞれが着ているローブも微妙に違う。なにより、年齢層がばらばらだ。
おそらく、あの一団は出迎えに出た教師たちだとエレ=ノアは思う。
その一団の中、ひときわ背の高い白髭の老人の姿が見えた。
おそらくあれが学院長。賢者セドゥルスだと見当をつけ、エレ=ノアはそちらへと歩いていく。
ただし、ゆっくりと。
大きな歓声があがれば、立ち止まり、そちらへ手を振ってやる。
違う方向から呼びかけられれば、またそちらを向いて手を振る。
魔術の花火や煙文字が秋の空にあがる。鳴り物の音がなり、吹奏管弦楽器の演奏が始まる。
「なかなか、好いところじゃない」
突然の熱烈な歓迎を受けながらも、エレ=ノアは動じることなく当然のことのようにそれらを受け止め、むしろ、歓声を煽りたてるようにまた手を振った。
遠目に見える大柄な老賢者は、温和な表情のまま彼女の行動を見守っている。
彼女の赤い唇の両端が自然と吊りあがる。
これほどまでに純朴。微笑ましいほど純粋。人を疑うことを知らぬ羊たち……。
「素晴らしい歓迎に、感謝と返礼を!」
歓呼を縫うようにしてエレ=ノアは叫び、ほんの一瞬で魔術で小さな火球群を作り出した。そしてそれを戯れに空に打ち上げる。
小さな眩い光。そして連続した破裂音が鳴り響く。魔術による花火だ。
花火が終わり、わずかな時間、静寂が落ちる。
エレ=ノアは、お出迎えありがとう、と叫び、群衆を抱き止めるような仕草をして見せた。
出迎えに出ていた一団、特に校舎の窓から身を乗り出して鈴なりになっている生徒たちから、ひときわ大きな歓声があがる。
これは羊たち。穏やかで従順な、しかも主のいない羊……。これまでの自分の直感に間違いがないことを感じながら、歓声に応えて手を大きく振り、エレ=ノアは歩を進める。
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