8. 姉妹再会





 エマ=フロックハートは喉の硬さを感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。所在なさげに鎖骨のあたりをローブの上から押さえる。どくんどくんと心臓が脈打っているのが感じられた。その鼓動は、自分があまり平静でないことを伝えている。その律動は、不規則に体の中に反響し、部屋から廊下へと渡り、世界を歪めているかのようだった。いったい今、自分はどんな表情をしているのだろうか。うまく微笑えているのだろうか。

 そんなふうに訝りながら、どうぞ、とその人を部屋の中へといざなった。
「へえ。可愛い部屋じゃない。狭っくるしいけど」いざなわれた人物は、そう声をあげた。明るい声だ。
「ひとりで暮らしているから、このくらいで充分なのよ」
 そこはエマ教師の自室。小奇麗な部屋にあるのは、綺麗に整えられたベッド、天板が収納できる形式のライティングデスク、ゴブラン織りのカーテン、飾り箪笥。そしてティーテーブルに椅子が3脚。ベッドテーブルには花瓶がひとつ、置かれていた。ふんわりと優しい香りが漂っているのは、この花の香りか。

 物見高いセドゥルス学院の生徒達の大歓迎のあと、エレ=ノアはセドゥルス翁と会談した。学院の応接室で行われた儀礼的な会談は、極めて友好的に、つつがなく終了した。そしてその会談の折、彼女は何人かの教師とも顔を合わせた。その教師陣の中に、かつての妹的な存在であるエマ=フロックハート教師も居た。数年越しの再会がどのようになるのかと思われたが、エレ=ノアは、エマとの再会を少女のような無邪気さで喜び、久しぶりの妹との再会を、二人だけで喜びたいと申し出た。特に断る理由のないその申し出は、セドゥルス老にも快く受け入れられた。

 そして、今はこうして、エレ=ノアはエマの居室を訪れている。

 再会は、一般には喜ぶべきこととして理解されることが多い。別れた者と再び出会うものであるから、そこには自然な嬉しさがあり、また懐かしさがある。古人も、友人が遠方から来ることの喜びを、詩の題材に取り上げている。今、エレ=ノアを数年ぶりに再び迎えているエマの胸に、嬉しさと懐かしさがないとは言えない。しかしそれとは別に、予測のつかない不安が、暗くエマの心に影を落としていた。その不安がただの杞憂に過ぎないことを思いつつも、心の奥底で否定しきれていなかった。否定しきれないことが迷いを生み、迷いが再び不安を生んでいた。
 だがそんなエマの不安とはかかわりなく、エレ=ノアはまるで懐に飛び込むようにして、あけすけな姉妹の再会を望んだのだった。

 招き入れられたエレ=ノアは、部屋の隅にしつらえてあるよく整えられたベッドに向かうと、無造作に腰をぼすんと下ろした。
 跳ねるような動きに、ベッドのスプリングが抗議でもするようにぎしぎしと鳴る。けれどそれに構わず、エレ=ノアは腕組みの姿勢で、首をめぐらせて部屋をきょろきょろと見回す。
 昼過ぎの光が窓から多く入って明るいため、魔術灯はつけていない。山岳地帯ならではの強い秋風も、今は凪いでいるためにどこか静けさが漂っていた。
 部屋に舞ったわずかな埃も、静かな外光に照らされてその軌跡が見える。
 学院祭の喧騒も、教師の居住棟には遠く響いてくる。
 少し待っていてね、という言葉と共に、エマはお茶をてづから入れていた。
 お湯を魔術で手早くわかし、鉄製の茶缶を開け、茶葉をさっさと茶匙でポットに入れる。湯がまだ少し熱いと判断したのか、蓋でお湯を受けてポットにお湯を移し、蓋をする。余った湯はカップへ注ぎ、食器を温める。そして、茶葉が開くまで少しばかり、待つ時間。ふわりとした湯気が、部屋にじわり広がっているかのような、ほんの少しの時間ができる。

「そうしていると、昔に戻ったような気がするわ。貴女の淹れてくれたお茶をよく飲んだわね」
 自分のホワイトブロンドの髪に手を入れながら、エレ=ノアが足を組む。
「そうね。小さな頃から、ほとんど毎日。おやつの時間、放課後、軍中の憩いのひととき……よくお茶を淹れたわ」
 ポットを見守るようにして茶葉が広がるのを待っていたエマは、どこか遠く思い出すように、瞳を細める。
 湯気が優しくめぐり、立ち上る。同時に、あまやかな香りが忍ぶように混じってくる。エマはティーテーブルにお茶を用意しながら、
「エリー姉さん、こちらへどうぞ。準備ができたわ」
 エリーと呼ばれたエレ=ノアは優雅な仕草で立ち上がる。ティーテーブルまでの距離は、ほんの数歩だ。ふたりは向かい合って腰掛けた。

「どう? ここでの生活は? 楽しい?」聞いて、エレ=ノアはカップを口につける。「おいしい。変わらないのね。あの頃と同じ」
「ええ、楽しいわよ。忙しいけれど、毎日が充実しているって思える」
「あの学院長なら、退屈はしないかも知れないわね。毎食ご飯3杯ですって?」
 どこか皮肉な声で、エレ=ノアは言う。エマは苦笑する。
「学院長は、お年を召していらっしゃるから、公に出てくることは稀なの。でも、健啖家だってよく聞くわ」

 つい先ほどエレ=ノアがセドゥルス学院長と会談した際、互いを気遣ういかにも儀礼的なやり取りを交わした。
 そのやり取りの中で、ご健勝でなによりというエレ=ノアの言葉に、セドゥルス翁は、そうでもない、と答え、
『食はすべての基本というが、最近はめっきり食欲が衰えてしまっての』
 まあ、それはよろしくありませんわね、と答えたエレ=ノアに、セドゥルス翁は、
『毎食ご飯を3杯食べると腹が膨れてしまう。胃が小さくなってしまった。いやいや、年は取りたくないものじゃ』
 昔は必ず7杯は食べていたのにのう、と本当に残念そうに付け加えて、セドゥルス翁は白い顎鬚を撫でた。
 このやり取りが、エレ=ノアには新鮮だったらしい。

 エマと話をする今も、エレ=ノアは楽しそうに笑いながら言う。
「セドゥルス翁は世に賢者と呼ばれているけれど、偉ぶったところのない、少しとぼけた味のある御仁ね。隠居生活をしているとあのようになってしまうものかしら。それとも、あれは演技なのかしら?」
 どう思う、エマ? と彼女は水を向ける。
「演技? いいえ、あの方はいつもあんな風よ。少し捉えどころがないような感じもね」
「底意がわからない人格だということかしら?」エレ=ノアは少し突っ込んで聞いてきた。
「つかめない、ということはそうだけれども」エマはカップを口に近づけ、そこで止めた。考えているようにも、香りを楽しんでいるようにも見える。「でも、悪意は感じないわ。無邪気な子供みたいに思えることもある。飄々としていて、風か雲を相手にしているような、不思議なひとよ」
「ふうん」エレ=ノアは息をはいた。「年寄りってのは年をとればとるほどやっかいな古狸になると思っていたけれど、そうじゃないのもいるのかもね。さしずめ珍種の狸というところかしら?」
「珍種のたぬき?」
「ええ。年寄りというものは、それだけで狸なのよ」
「おもしろい見解ね?」
「わたしの周りには、狸しかいないわ。油断も隙もない」
 歯が抜けてちからもないけれど、悪知恵だけが残っている、と付け加えると、エレ=ノアは湯気が薄くなったお茶をすすった。口早に続ける。
「でも、セドゥルス老は教育熱心なひとよね? まあこんな山奥に自費で学院を立ててしまうくらいのひとだから当たり前か。当然、生徒たちにも慕われているんでしょうね? さらにいえば教師たちにも人望がある。そうでしょ?」
 そこで、エレ=ノアはカップを傾ける手を止め、樺色の髪の妹を見つめた。
「心酔者すら出てきているのではなくて? セドゥルス翁のためなら水火を厭わないような熱狂的な……」
 問われた妹は少し考えるそぶりをみせ、そして、
「学院長は、皆から好かれていると思うわ。とてもね。尊敬もされていると思う。けれど、心酔しているかどうかまでは、わからないわ」
「そう。賢者というよりも、隠者みたいねぇ」
 つぶやいたエレ=ノアは、彼女の中で何かの結論が早くも出たらしい。急にその話題に興味を失ったようで、一息にお茶を飲みこみ、お茶請けの焼き菓子を口の中へ放り込んだ。
「賢者といえば、今の時代にはもうひとり、いるわよね」エマは水を向ける。
「ああ、ピエトリーニャね。いるみたいね。あっちも、陰気に姿を隠してこそこそこそこそして、いったい何をやっているんだか」
 ぱきり、とエレ=ノアはもうひとつつまみあげた焼き菓子を半分に割って、再び口に放り込む。
「おいしいわね、これ。手作り?」
 ええ、友達のね、とエマは答えた。そして、聞きたかった質問をした。
「エリー姉さんの研究所では、ピエトリーニャの形成魔術についても研究しているのかしら?」
「んー、きっとそういうのもいるでしょうねぇ。研究所のテーマでもそういうのがあったような気がするわ……部外秘テーマだったかも知れない。アシュレイにでも聞いてみるといいわ。今、研究員やってるから。あの真面目男なら、知っているでしょうよ。貴女、まだ親交がある? というか、まだあの男は ”わたしの貴女”につきまとっているのかしら?」
「つきまとっているだなんて」エマは少し緊張したように体をこわばらせた。「今は、ニューイヤーカードで近況をやり取りするぐらいよ」
 そう、それならいいけど、というと、エレ=ノアは半分に割った焼き菓子の残りを口に放り込んだ。
「ところで、姉さんがここに来たのは、国の指令を受けてもいるの?」とエマ。
「いろいろとうるさいから、一応許可をはとってきたけれど、わたしは自分の意志でここに来ているわ。国の指令如きに、わたしを振り回せるわけがないでしょう……こんな面白い企画を考えて、わたしに招待状をくれた勇気ある男の子に、一目会っておきたかったのよ」
 招待状? とエマは視線だけで聞いた。
「わたしがこの学院に来るきっかけになったものよ。この学院際実行委員長? そんな肩書きの子が、誘ってくれたのよ。このお祭りに参加しないかって」
 言って、エレ=ノアはその招待状なるものををポケットから取り出すと、エマに見えるようにだろう、口元の高さまで掲げてみせた。艶やかな唇が白い封筒に半分隠れた。
 そう、と言ってエマはお茶を口に運ぶ。もしエリー姉さんが国の密命を受けていても、そんなことまで話してくれるとまでは、彼女には到底思えなかった。

 お茶のおかわりを用意するわね、とエマは椅子から立ち上がる。そしてエレ=ノアに背を向け、新たな茶缶を持ち出した。茶葉を入れ替えるつもりだった。お茶のおかわりを準備する間、待たされる格好になったエレ=ノアは、無聊が嫌いなのか、椅子から離れ、エマの部屋を物色しはじめた。棚をしげしげと眺めると、ひとつの装飾箱に目を付けた。直方体のその白地の箱には緑色のつる装飾が施されていて、小さな留め金がかけられていた。
 部屋の主に断りなく、エレ=ノアは留め金を外して蓋を開く。赤のビロード貼りの箱の内側には紙束が詰まっていた。それは文箱だった。さらにエレ=ノアがひょいと手紙をつまみあげ、まったく躊躇せずに封筒から中身を取り出し、開く。

「えーっと、『しっかり食べて。体を大事にするように……』 なぁんだ、おじさまからの手紙ね」
 読み上げられたその声に、エマはびっくりして振り返った。
「ちょ、ちょっと、エリー姉さん!」
 エマの制止の声に、エレ=ノアは微笑みながら振り返り、
「なぁに?」


 そして次の瞬間。
 一瞬だけ魔術文様がきらめいて。
 エレ=ノアの手の中で、その手紙は炎あげて燃え。
 わずかな煙だけ残して消えた。


「エリー姉さん! やめて!」
 エマは部屋の中を駆け、胸に抱えるようにして文箱をかばった。自然、文箱とエレ=ノアの間に割って入るかたちになった。突然のことで驚いたからか、エマの息は自然荒くなった。しかし。
「どうしたっていうの、いきなり」
 これが、エレ=ノアの反応だった。演技ではない。素で、妹が何を怒っているのか、わからないという様子。
「エリー姉さん。この箱のなかには、大事な手紙が入っているの」エマの感情を抑えた声音。
「あら、でも」エレ=ノアが微笑む。慈愛の母のように。「手紙なんて、とっておいても仕方がないでしょ」
「わたしのお父さまは」ことさら自制した声で、肩を震わせながら、エマ。「もう亡くなっているの。知っているでしょ?」
「もちろん、知っているわ。肺病だったわね」エレ=ノアは、悪気もなく、むしろ得意そうに頷いた。「お父さまのお葬式には、わたしも参列したもの。優しくて、紳士的な方だったわ」
「だから」エマは震える息で静かに言葉を紡ぎだす。「お父さまからの手紙は、無くしたらそれっきりになってしまうの」
「そうね」同意して、エレ=ノアは微笑む。「でも手紙をとっておいても、失った人が蘇るわけじゃないのよ?」
「そういう話じゃないのよ、エリー姉さん。この箱に入っている手紙は、どれも大切なものばかり。わたしの大事な思い出なのよ」
 少し間があった。
 そしてエレ=ノアは頷き、すまなそうな表情をみせた。
「そうね。わたしが女神としてもっと完璧だったら、死人を生き返らせることができるのにね。けれど、いずれ、わたしはそうなるから」

 女神? エリー姉さんが? 生き返らせる?
 話が噛み合わない。
 誰かの思い出が、想いが大切ということが、それほど伝わらないことだろうか?

 エマは続ける言葉がなく、呆然と、だが文箱はかばうようにして胸に抱き続けていた。
 だが、エレ=ノアはこの話題に興味を失ったらしかった。
 時間を確かめたかったのか、エレ=ノアは窓の外をみる。まだ陽は西の空の高いところにあった。


 それよりも、とエレ=ノアは言葉をつなぐ。わたしの手紙は、読んでもらえたかしら?

「アーンバル王国に戻ってこない?」
「え?」
 エマは、ただ聞き返しただけだった。エレ=ノアからの事前の手紙で、その勧誘自体は知っていた。けれど、この流れでこの話になると思っていなかったエマは、さしたる反応もできなかった。言葉をつむぐことよりも、感情的な反発だけが先に立った。
「こんな片田舎の教師なんて辞めて、わたしの傍にいらっしゃい。きっとあなたを満足させることができると思うわ」
「わたしは……うみゅっ!」
「おーっと。慌てないのよ、お利口さん。うふふふ」
 エマが何かを言いかけたとき、エレ=ノアが右手で妹分の口をふさいだ。ほんの一瞬の、目にも止まらぬ早業だった。
 貴女の最初の答えは、聞かなくてもわかっているわ。エレ=ノアは言う。
「少し頭を冷やして考えなさい。そうすれば、賢いあなたなら何が正しい選択か、わかるはずよ。安心なさい。今は無理強いはしないから」
 それは、いずれ無理強いするということなのか−−とも思えたが、エマはそれを言葉に出さない。
 ただ、戻り支度をするエレ=ノアを見ていた。いや、支度をするホワイトブロンドの髪の女の姿が瞳に映っていたというだけのこと。
 帰り際、ドアノブに手をかけながら、エレ=ノアは半身だけ振り向いて人差し指を振る。
「女神の言うことは絶対に正しいでしょ? つまり、私のいうことは常に正しいのよ。わかるでしょう? あなたならね……」
 そして神を名乗ったブロンドの女性が身を翻して部屋を出ていくのを、樺色の髪のエマはただ見送った。


 何も言えずに。
 時計の短針が動いても、なんの音もしないのと同じように。

 そして、エレ=ノアが部屋を出たあと、まるで熱にあてられたかように、地面が、壁がぐにゃぐにゃと曲がり。自分の価値観のものさしすら歪み。
 思わず、エマはその場に膝をついた。
 それなりの答えをもって再会に臨んだつもりだったけれど、結局、自分をうまく主張することはできなかった。
 太陽の眩さと熱に、眩んでしまったかのよう。
 奔放というのとも違う。闊達というのとも違う。けれど絶対的で不変的な法則で動く存在。それが、エマにとっての、エレ=ノアという存在だった。
 ある規則をもって遠くなっていく姉のヒールの残響が、エマの耳に残る。
 そうして彼女は、しばらくの時間、部屋の隅、文箱を抱えたまま、膝をついていた。 




                       ■□■




 詰襟の白い士官服の男は、宿泊場所として宛がわれた部屋の隅で、椅子に腰を下ろしていた。前かがみになって大きく股をひらき、手を合わせている姿は、何かを考えているように見えるし、実際その通りだった。先ほど、何かを決心するかのように大きく息を吐いたあと、ずっとその姿勢のままでいた。
「では、”赤”のカードでよろしいのですね?」
「さきほど、そう命じた」
「そうですが、念のため確認をしたく」
「こんなところで作戦の討議をしたいのか?」
「そうではありませんが……」声の主はわずかに言葉を探し、「閣下は、”白”のカードを望まれているのではないかと聞きました」
「勝手にあの方の心中を推し量るなど、不遜だな。それに、今回の作戦は、あの方は無関係だ。知っているはずだが」
「……はい」
 答えたのは、女性だった。平均的身長、平均的体格、ただし身なりはそこそこ。コルセットのついたモスグリーンのよそ行きドレス。帽子にヴェールがついていて、表情をうかがうことはできない。その女性は戸口の近くに立ったまま、ひそめた声で会話をしていた。白士官服の男は、よそ行きドレスの女性とは目を合わすことなく、部屋の隅に視線を定めたまま、動かすことがない。まるで何かを思いつめているようにも見える。
「我々の第一の任務は、あの方をお守りすること。そして、将来のあの方に及ぶ危険を排除すること。このふたつだ。そしてそのための実質指揮権は、私に委ねられている」
「存じております」
「『ここ』は将来、我々の強力な敵となる可能性がある……それだけに手を打っておくのは早いに越したことはない。それとも、今になって臆したのか?」
「臆したわけでは……ただ、この学院に来て、あまりにも警戒が緩くて、驚いています。まるで、平凡な日常を暮らす村のような雰囲気です」
「虚をみれば突く。弱点があれば攻める。それだけだろう」
「はい。よくわかりました。全員に”赤のカード”の実施を伝えます。」
 モスグリーンのドレス女は、目深に帽子をかぶり直すと、くるりとドアの方へと向き直った。つまり、男へと背を向けた。そこへ、
「正しいことをするのに、躊躇うことは害悪だ」
 モスグリーンのドレス背にぶつかってきたのは、白士官服の低く抑えられた、しかし鋭いつぶやきだった。
「だから、閣下のためになることであれば、なんでもするし、なんでもやる。たとえ一時的に閣下の意志に背くことになっても、結果的に閣下のためになることであれば、それをやる。私は、閣下のために命を捧げたのだ身なのだから」
 女は、いまだ戸口の前にいた。首だけで振り返ってみると、白士官服の男は、先ほどまでの姿勢のまま、変わってない。だが、部屋の温度が少しだけあがったかのような、そんな錯覚を抱いていた。
「比喩ではない。あの方のためになら、何だってやれる。何にだってなれる。心の奥底から湧き出る、張りつめた糸をこすり合わせるような切ない想い……。愛しているのだ。自信を持って言える。これが愛だ。いま体感している、これこそが」
 男は、そこで言葉を切った。モスグリーンのドレスの女は続きを待ったが、白士官服の男は、それ以上なにも言わなかった。
 そして、モスグリーンのドレスの女は、
「ずっと外に気配を探していましたが、この部屋を探ろうとしている人間や魔術の動きはありませんでした。学院は現在一般人にも開放されていますが、外部からの人間を特別チェックしたりはしていません。この警戒であれば、作戦は目をつぶっていても成功するでしょう」
「頼む」
 そして女はドアを開くと、音もなく廊下へと滑るように出ていった。