9. 前評判





 いつもと違うざわめき。仰ぎ見れば、いつもと同じ空。そして、見渡してみれば、いつもと違う学院。
 黒猫は木に登って手ごろな太さの枝の上で丸くなりながら、ざわついた学院を見下ろしている。
 学院祭中日。鮮烈なエレ=ノア到着から一夜明けた学院には、いつにも増してたくさんの人が訪れていた。ぽん、ぽんと煙花火があがる秋の空の下、あちこちでざわついた群衆の声。
 なぜだかぶすりとした様子の黒猫。眉間と鼻先の間にしわがより、金色の瞳は瞼で半分以上隠れている。にゃあとも鳴かず、黒猫は木漏れ日が強い場所を選びにじり動くと、くぁとあ くびをひとつ放った。黒猫にとっては祭りの喧騒もまったく関係ないものなのか。それとも、下界の祭囃子を子守唄に昼寝と洒落こむのか。

 学院祭期間中、このセドゥルス魔術学院はお祭り騒ぎを盛り上げるために一般開放されている。学院が置かれる政治空白地帯は4ヶ国と境を接する立地でありながら、もともと鳥しか 通わぬような山地を切り開いたもので、交通が大変に不便であるため、通常は来訪者がほとんどない。だが、学院設立から10年以上が経過し、学院までの道も徐々に整備され、山地帯 の入り口――外部者にとっては国境の果て――にも宿ができてきたなど、学院を訪れるためのインフラが整ってきており、外部からの来訪者も年々増えているという。だがしかし、今回の学院祭は、さらに少し状況が異なる。目玉の演し物として、大陸西部史上7人しかいない賢者のひとりであるセドゥルス老と、次期賢者候補として名が高いエレ=ノアの模擬試合がある。模擬試合とはいえ、事実上の頂上対決となるため、たかが学院祭の一演目とはいえ、このイベントは世間の耳目を集めている。その結果が、この芋洗いのひとだかりである。日に一本しか無いような辻馬車ではとてもさばききれないような混雑ぶりだ。裕福そうな身なりの人間が多いことから察するに、おそらく頂上対決目当てに、各国から馬車を雇い入れて駆けつ
けているのだろう。
 訪問者が増えることは予想できていたけれども、これほどの盛況ぶりは予想外だったようで、学院祭実行委員は朝から群衆整理にてんてこまいだ。あまりもの人の多さに今日の学院祭の演し物は午前で終了し、午後は生徒全員が頂上対決を見学することになったらしい。




 っちゃちゃちゃ、と軽い音。レクシアが携帯算盤をはじき、角眼鏡の奥の目を細めて計算結果を確認すると、満足そうにひとつ頷き、手の平に収まるほどの小さな算盤を二度ほど振った。じゃじゃ、という即興曲のような旋律を伴った打音。彼女の機嫌を映すかのようなかろやかな音だ。
「ふふ……なかなかの結果じゃない。イケるわね、これは」
 仮装喫茶として即興の飾りつけがされた教室の中央、機嫌とは裏腹な黒い笑みを口元に浮かべるレクシア。
 一日と半日の営業だったが、アッシア=ウィーズ教室の仮想喫茶は実に盛況だった。急遽の人数制限と値上げをしてもなお来客を捌ききれないという驚異の大繁盛ぶり。その大繁盛が混乱に代わる手前、午前中のやや早い時間に本日の営業を終了させたが、それでも充分な成果が残せたようだ。
 給仕場兼裏方控え場所として区切られているカーテンをもそりと捲る気配がしたので、レクシアはそちらを振り返った。金髪の少女が、着替えを終えて出てきたところだった。天使の仮装は取り去り、いつものローブ姿になっている。ただ、髪型に仮装の名残があり、頭の左右両方のところで、髪を、白レースのついた薄青のリボンで結い止めている。
「あら。準備できたのね。それじゃ、そろそろ、行きましょうか」
 極上の笑みを浮かべて、レクシアは座っていた椅子から立ち上がり、控え場所の一角から出てきた金髪の少女――ヴェーヌを迎えた。天使のような容貌を持つこの少女は今回の企画の要にして敢闘賞ものの大活躍をした逸材だった。この金髪の少女を目当てにひきもきらず客が訪れ、そして噂が噂を呼び、さらに客を呼び寄せ、この教室の企画に大繁盛をもたらしたのだから。
 レクシアは極上の笑みを浮かべ、視線を合わせるために腰を屈めてヴェーヌを出迎えた。
「おつかれさま」
 喉乾いてない? お茶があるわよ、それとも甘いものがいいかしら……とレクシア女史は一通りあれこれと気遣う質問をして、ヴェーヌの様子に変わったところがないことを確認する
と満足そうにかがめていた背を起こした。
 そして、教室の隅のほうへと首をひねって顔だけ向け、
「あんたたちもよ。ほら、さっさと片付けて。準備して。立って」
「へいへい。きちんと言われた通りに控えておりますよ」
 読みさしの雑誌を机の上に放り投げながら立ち上がったのは、赤毛の少年だった。もうひとり、前髪の長い整った顔立ちの少年も、無言のまま椅子から腰を浮かせた。機敏で安定した
挙措は、普段から体を鍛えていることをうかがわせる。
「ワスリーとリーンは?」と、これは赤毛の少年――パットの発言だ。
「あれ、聞いてなかったのね。ふたりともわたしたちとは別に観戦するって」
 ふたりの少年――パットとエキアに対しては、角眼鏡のレクシアのもの言いはいつも通りだった。いやむしろ、先ほど金髪の少女への問いかけと比べると、声のトーンは1オクターブぐらい低そうだ。
 赤毛のパット少年は、質問はしたもののたいして気にもしていなかったのか、ふぅんと気の抜けた返事をした。
 もうひとり、無口なエキア少年は、また無言のまま。特に特筆できるような感情の揺らぎは見られない。この少年のどこかに動作釦ないかと探してしまいそうなほどだ。このふたりは先ほどまで仮想喫茶でハトの仮装をしていたのだが、今では他のメンバと同じように制服ローブ姿になっている。
「それじゃ、いきましょうかぁ」と良い笑顔でレクシア女史が金髪の少女に呼びかける。少女に向けているのは、女史にしては珍しい水準の笑顔。つまりはハイレベルな、満面の、ねこなで声が付属されている笑顔だということだが。
「はいー」
 と答えた金髪の少女も笑顔。天使と見まごうような透明な明るさのある笑顔だが、こちらはいつもの笑顔だ。 

 そして、4人は教室を出て廊下を歩く。

「うわ、すごいひとだなぁ」
 先を行く女子ふたりのあとについていくようにして歩いている赤毛の少年が、体を横にして人の隙間をすり抜けながら呟いた。いつもの学院生徒のほかに、着飾った紳士淑女が学院の廊下にひしめいていた。この人混みの目的は知れている。学院祭の企画のひとつである奇跡ともいえる模擬試合の見物だ。『雲の』セドゥルス老、対、『炎の女神』『炎戮』エレ=ノア。現賢者対賢者候補。頂上魔術対決。
 世界的にこんなに価値のある対決を、見逃す手はない。だからこそ、辺鄙な学院にも人がこれだけ集まっているのだ。良質の価値が提供できれば、人は移動の困難さなどものともしないということの証左のひとつでもあるだろう。さらに言えば、学院に在籍しているのにこの対決を見ないわけにはいかない。そのため、生徒は全員、学院祭の運営の手を休め、この対決を見ることになっていた。魔術師の卵である生徒たちが、感受性の強い10代の時期に超一級の魔術対決を直に見て体感することが、今後の彼らの成長にどれだけ寄与するかなど、説明の要もないだろう。さらに言えば教師含め学院関係者のほぼ全員がこの世紀の頂上魔術対決を見ることになっていた。事実上学院祭が一時停止するため、それらしき理由が付与されてはいるものの、結局のところ「見なければ一生の悔い」というところなのだろう。
「あんまり離れないでよ。はぐれちゃうでしょ」
 これは、レクシア女史の声。かといって、手を引いている金髪の少女に向けた言葉ではない。えっちらおっちらと人混みをかきわけるようにして後ろを歩いているふたりの男子生徒に
向けた声だった。続く。
「これだけの人混みよ。不逞不埒の輩が出てきてもおかしくないでしょ? あんたたちに壁となり盾となって守ってもらわないと。ヴェーヌちゃんが危ない目にあったら困るでしょ? 
あたしだって、今年はもう2回も危ない目にあっているんだから……というわけで、前に出て先導してよ」
 くい、と前方の人混みを親指でさす女史。つまりは、人混みをかき分けて進路を作れ、ということだろう。だが、彼女たちが危ない目に合っているというのは嘘でもない。
 特に春先には、このふたりの女史は学院の図書庫に現れた暴漢にあわや殺されそうになっている。黒縁眼鏡のアッシア教師が珍しく活躍をして、ことなきを得たらしいが。
「人混みをかき分けるのと不逞の輩は関係ないし、ってか危ない目は僕も嫌だし、盾っていうか捨て石だろ……」じと目になって、だが聞こえないくらい小さな声でパットが呟く。けれど一瞬で立て直し、もうひとりにスルーパスを送る。
「だってさ、エキア。女史がお呼びだよ。僕はしんがりを守るから、前に出てよ」
 そんな物言いの赤毛の少年に向け、エキアと呼ばれた整った顔の少年は冷静な一瞥を注ぎ、
「……」
 了解、とも言わず、やはり無言のまますっと前に出た。女史たちに追いつくと、失礼、と言いながら人混みをわりと器用にときに力強くかき分け、ずんずんと進んでいく。
 このやり方は効果があった。さくさくと4人は進み、会場となる試技場にたどり着いた。
 2階席に登り、売り子から飲み物を購入(レクシア女史が会計した)したあと、運よく4つ並んだ空席を見つけ、腰をかける。
 歩いていた順に座ったので、奥から、人混み掻き分け機エキア君、本日仮装喫茶敢闘賞のヴェーヌ少女、プロジェクトマネジャーのレクシア女史、ほとんど何もしていないパット少年の順だ。

「へえ、すごいわねぇ。さすがに会場側も準備万端ね」
 試技場の様子を見て、レクシア女史がそう感嘆した。

 会場は楕円形の空間になっており、一階が試技場、二階が観客席となっている。試技場は、模擬試合の形式にもよるが、6つの試合を同時に行うことができる。だが今回は6つの試技
場を全て開放し、ひとつの試技場として扱う。つまり、通常の6倍の広さの空間での試技となる。地面から天井までは30ヘートほどの高さがあって開放感がある。
 その楕円の試技場は、今は魔術で作り出された光線でおおわれている。観客席の後方から遠目に見れば、この光条がいくつも交差し、まるで鳥籠が試技場を覆っているかのように見えるだろう。この鳥籠は、防御魔術であり、試技者の魔術が外部や観客に害を及ぼさないための魔術である。だから、観客席と一階の試技場の間にこの防御魔術が張られており、この魔術の光条越しに、観客は試技を見ることになる。
 試技場を取り囲むようにならぶ突起型の補助器具と数人の教師と生徒によって作り出されたこの鳥籠の防壁は、今は二重になっている。一重でも十分な固さが得られるこの魔術だが、今回の試技者の力量を考慮し、万が一のこともないように防壁を二重に構え、かつ防壁に穴ができたときにはすぐに補修できるように、人員が張り付いている。レクシアが遠目に数えたところ、この防壁人員は18人がいた。本番を控えての直前練習なのだろう、たがいに声をかけて防壁を消したり再現させたりしているのだ。ぶぅん、ぶうん、と音を立てて、鳥籠の一部が現出と消失とを繰り返している。ときおり光条が太くなるのは、防壁を一時的に強化しているのだろう。
 模擬試合と呼ばれる試技のルールは、攻守の魔術の応酬によって優劣を競い、審判が勝敗を判定する。ないし、致命的な一撃が入る状況、”必至”の状況を作り出すことでも勝負が決まる。場外は今回のルールではなし。ただし、相手に致命傷を負わせる・殺害に至った場合、これは攻撃者の負けとなる。真剣による演武の魔術版、と捉えればわかりやすいかも知れない。
「どちらがかつんでしょうかー」
 持っていた飲み物のストローから唇を離して、そう疑問を口にしたのはヴェーヌだった。誰もが思っていて、ずっととりとめもなく噂をされている問いだった。
「そうね」答えたのは、レクシア女史。ふたりは隣り合って座っている。「現賢者のセドゥルス翁のほうが魔術技術も経験も勝っているんじゃないかしら。エレ=ノアは絶大な威力の魔術で多大な戦功をあげて賢者候補になったといっても、まだ荒削り。セドゥルス翁の練達した魔術と老練な戦術には届かない、というのが、大方の前評判ね」




「……という一般的な前評判もあるらしいけれど、どうなのかしらね? エマさん?」
 試技場の観客席。世紀の一戦を前にしたざわついたその空間には一般観客とセドゥルス学院の生徒だけではなく、教師も混じっている。おっとりとした口調でそう問いかけたのはシアル教師だった。ふわりと笑いながら差し出されたお手製の焼き菓子に手を伸ばしながら答えたのは、樺色の髪のエマ。ふたり並んで観客席に座っている。二階席の最前列、観戦には絶好の場所だ。
「うーん。どうかしらね」
「そんなつまらない答えじゃ、許さないわよぅ。せっかく最高の解説者をつかまえているんですからね。それはそれは興味をそそる前評を聞かせていただかないと」
 おっとりとした口調の割に、追及が厳しいシアル教師。差し出していた焼き菓子の入った陶製の入れ物を、さっとエマから遠ざける。
「最高の解説者って……、わたしのことかしら?」とエマ。伸ばした指の先のお菓子がなくなってしまったので、右手を所在なく彷徨わせている彼女だ。
「他にいらっしゃるかしら? エレ=ノアさんの妹と呼ばれるような人間が……ああっ」
 えいっと身を乗り出して追撃し、エマは一枚の焼き菓子を収奪に成功した。そして香ばしい一枚をかじる真似をして見せる。シアルは愛らしく唇をとがらせて抗議する真似をしてみせた。
 さくっという心地よい音とともに焼き菓子を一口頬張って呑みこみ、エマが話し始める。
「それは確かに、魔術の技は、セドゥルス学院長のほうが姉さんより上だと思うわ。姉さんは魔術の制御が昔からそれほど得意じゃないの。でも、姉さんにはその技術差を補って余りあるものがあります」
 ふんふん、とシアルは興味深げに頷きながら、自らも焼き菓子を口の中に放り込み、咀嚼する。
「それは魔力。個人が持つ魔力は、後天的に伸ばすこともできるけれども、先天的な要素が大きい。エリー姉さんは、幼いころから飛びぬけた魔力の持ち主でした。子供だったのに、平均的な魔術師の3倍程度の魔力を持っていたわ。しかもそれからもエリー姉さんの魔力は伸び続け、北王戦争の頃には、通常の魔術師兵の20倍程度にまでなっていた。その強力な魔力を使って放たれる魔術は、敵の防御魔術をたやすく貫いていました」
「……防御不可能魔術。そんなふうに、呼ばれているわね。正直、眉唾ものだと思っていたけれど」
「エリー姉さんの攻撃魔術――火炎魔術が多かったけれど――、その魔術が防御魔術ごと敵を呑み込んでいくさまを何度もこの目で見ています。いえ、目の前にしてもなお、信じがたい光景です」
「ふぅ……ん」さすがにそこまでの威力だとは予想していなかったのか、シアル教師が思案げな表情を作る。
「呑み込んでいく、というよりも、圧し潰していく、という表現のほうが近いかもしれません。とにかく、相手が何をしてきても、それを超えるちからでねじふせる。それがエリー姉さんの戦闘様式でした。だからむしろ」
 そこでエマは軽く息を吸った。瞼の裏に、エレ=ノアの姿でも浮かんでいるのか。
「セドゥルス学院長が、どんな風にしてエリー姉さんの魔術攻撃を防ぐのか、興味があるんです」
「そう……。ふふ、エマさん、やっぱり身内だと評価にちからが入るのね」
「そんなつもりはないですよ」苦笑して、エマ。「今日はなんだか、シアルさん、ちょっといじわるですね」
「そうかしら? じゃあ、わたしも、学院長の評価にちからが入っているのかもしれないわね。ある意味、身内でしょう?」
「わたしも、学院長も応援していますよ」
「あら、そうなの?」
「ええ、両方の味方です」

 何かそれってずるいわねぇ、とシアル教師が呟いて。
 そして、あらあの子、と試技場のほうを指差した。
「エマさんのところの教室の子じゃないかしら。ほら」
 言われて指さされたほうへ視線を向けると、気の強そうな眉をしたストレートのブロンドの女性が立っていた。いや、まだ生徒なので年齢だけをとれば少女、と表現すべきかもしれな
いが、大人びた風貌がそれを躊躇させるような気持ちにさせる。
「ええ、確かに。リーザですね。リーザ=マカート。わたしの教室のクラスリーダですわ」
 喋りながら、エマは自分の生徒を遠目に観察する。リーザは耐魔術装飾が幾重にも施された最重装のローブを身にまとって、ふたりの男性――教師だ――からの指示を仰いでいた。実際の年齢よりも精神も肉体も早く成熟した感があるリーザは、今は緊張の面持ちで話を聞いている様子だった。その様子が、彼女を珍しく年相応に見せているようにも思えた。
「リーザは今回の試技の副審役です。通常、魔術試技は主審と副審一人で構成されますが、学院祭ということで、生徒からもひとり、副審を出して、主審一人と副審二人という構成で試技を行うことになったそうです。その副審役に、リーザは立候補したのですよ」
 そうだったんですか、とシアルは頷いた。
「それにしても、審判陣は随分と重装備ですね。リーザだけじゃなく、主審のファッジさんも、カルノさんも第一級耐魔術装備をつけてますね」
 今あがった名前は、ふたりとも審判役を務める男性教師たちだった。魔術師としてだけではなく、戦闘者としても一流と言われているふたりだ。 
「賢者と呼ばれるようなひとたちの戦いです。どれほど重装備しても足りないということはないでしょう。直撃しなくても、巻き込まれるだけで大怪我をするような魔術のやりとりにな
るかも知れませんから」
「そんな場に、生徒が参加して大丈夫なのですか?」
 心配そうなシアルの質問の先には、当然エマの教え子であるリーザが念頭に置かれている。
「心配は、心配ですね」生徒の身が案じられるのだろう、複雑そうな微笑を浮かべるエマ。「けれど、彼女のたっての希望でしたから。状況がまずくなれば場外へ出るような手筈にして
いますし、またカルノ教師にはあの子の面倒を見てもらうようお願いしておきました」




「あ、試技場の中央にいるかた、リーザさんじゃないですかー?」
 体が小さいので、深く腰掛けるとつま先が浮いてしまう。飲み物の入った紙製の器を両手に持ち、足をぷらぷらさせながら、ヴェーヌ少女が言った。
「本当だっ、アレはリーザさんだっ! 試技場にリーザさんがいるぞっ」
 素早くオペラグラスを覗きながら反応したのは、赤毛のパットだった。そんな彼を、
「恥ずかしいから、そんなことでいちいち大声あげないの!」
 と、拳の一閃とともに叱りつけたのは、隣に座るレクシア女史だった。ほんの一瞬の間に華麗に赤毛の少年を大破沈没させ、女史は淡々と説明を続けた。
「あのコ、今回の試合の副審役に立候補したのよ。本当は前座試合の選手だったんだけど、うまく逃げたのよね」
「ほほぉー」じじむさい相槌も、ヴェーヌ少女がやると何故かかわいらしい。彼女の白いレースが縁どられた薄青のリボンが、金の髪によく映えている。
「この試合の副審をやるってことだけでも、学院生徒の中でトップクラスの実力があるっていう証明にもなるし、箔もつくし、なにより世紀の一戦を間近で見られるし。考えたわね、あのコ。だいたい昔からやることが小ずるいのよ……」
 なにやら因縁があるらしい、ぶちぶちと続くレクシアのリーザへの非難は、飲み物を新たに口に含むことで聞き流し、ヴェーヌはさらりと話題を変えた。
「試技場のまわりにいるひとたちは、何をしているんですかー?」
「え?」よほど深く思い出に入っていたのか、女史の反応は一瞬遅れた。「ええ、あの試技場を囲む防御魔術のまわりにいるひとたちが何かってことね。……ヴェーヌちゃん、『共有魔術』って、授業でもう習ったかしら?」
 ふるふると、首を横にふるヴェーヌ。そう、と頷いて女史は、授業でもあるかのようにひとさし指を一本立てて説明始めた。
「個人で行使する魔術には限界があるのはなんとなくわかるわよね?
 その限界は使い手の技量にも左右されるけれども、魔術文様の量、文様で制御する項目の多さ、でも一番は、魔術を行使するための魔力の量で決められるの。複雑で大規模な魔術になればなるほど、限界要素は多くなるわ。そしてその限界をひとりの魔術師が超えるためには、個人が超人的な努力をしてその限界を突破しなければならない。でもそれでは、ほんの限られた数人だけが複雑で大規模な魔術を使えないことになるわ。誰もが才能に恵まれた魔術師というわけではないから。
 ……ここまではいい?」
 はいー、と頷く金髪の少女。それじゃ、と女史は説明を続ける。
「けれどほんの限られた数人しか大魔術を使えないというのは、とても不経済だわ。もっと普通の魔術師でも大魔術を使えるようにしたい。そうして工夫されて編みだされたのが、『共有魔術』よ。この魔術は、ひとつの魔術を複数の魔術師が分担して構成する魔術。ひらたく言えば、みんなでひとつの魔術を使おうってものよ」
 なるほど、みんなで魔術をつかっているんですねーと言って、ヴェーヌが試技場を囲む、鳥かごのような防御魔術を見遣った。
 女史は頷き、
「あれは『共有魔術』によって構成された『防壁魔術』の例ね。個人による防御魔術をつなぎ合わせるより、『共有魔術』でひとつの大魔術を使った方が魔術の性能に優れる場合が多いわ。 この場合だと、より防壁の強度が高く、強度もムラなく均一で、そして再生が早いといった利点があげられるかしら。魔術自体はさほど複雑なものじゃないから、不足する魔力を補うために共有魔術が選択されたという事例だわ」
「あの防壁のまわり、20人くらいひとがいますねー」
「そうね。約20人の魔力が注がれた魔術ということね。共有魔術文様の接続技術にも色々あって、一番有名なのが、一時魔蓄魔術技術ね。その名の通り魔力を文様に一時的に蓄える働きをするもので、魔力の出力をかさ上げするのに主に使われるわ。あの防壁魔術にも組み込まれているわ。
 これらの接続魔術技術も、奇術師といわれるピエトリーニャが発明したのよ。
「はー。ピエトリーニャさんって、セドゥルス学院長と同じ、賢者でもあるんですよねー」
「うん、賢者にもいろいろあるけれど、ピエトリーニャの場合は、卓越した魔術の使い手というよりも、時代を変える発明魔術師、という印象が強いかしら」
「じゃあ、ピエトリーニャさんの魔術発明があったから、セドゥルス学院長とエレ=ノアさんの試合がみられるわけですねー」
「うん、まあ、言われてみればそんなところか……。なかなか面白いことをいうのね。賢者たちの饗宴。そんなふうに考えても、楽しいかもね」


 そのとき。ばん、と音がして照明が落ちた。
 続けて試技場の周辺で魔術文様がきらめき、外光を取り込む窓が暗幕魔術でふさがれる。
 試技場が一気に暗くなり、鳥かごの形をした防壁魔術のみが、試技場中央で白くぼんやりと輝いている。
 どこからか胃の底に響くような重低音が鳴り出し、一定の律動を刻み始める。
 観客席のざわめきが、漣のように静まり返っていく。
 そして、魔術で拡張された、大音量の第一声が、響き渡る。



『遠路はるばるお越しの紳士淑女の皆々様! 大っっ変、長らくお待たせ致しました!』