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ヤイユーカラパーク VOL48 2004.11.09
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おもな内容

カナダ・ツアー事件録

第4回となった今回のカナダ・ツアーは、「事件が多かった!」の印象が強い。

ま、10人・20人が一緒に旅をするんだから、10日間何もないほうがおかしい――これまでも、BSE騒動のとばっちりでシカ肉ソーセージ没収事件や入国カード紛失による入国遅延、「ベッドはどこだ?」「食事は……?」などなどがあった――のだが、(我が身が関わったこともあって)今回の「事件」は印象に残ったのである。

『かりんちゃん強制送還?』

珍しく"何の問題もなく"日本を出国し、カナダに到着。飛行機の遅れで迎えの人びとは長い待ち時間を耐えているのだろうと気になりながら、入国審査場に並んだ。やっと我々の番になり、「13名一緒です」と声をかけて2〜3箇所のカウンターに順次進んだ。私のカウンターにはインド人がいて、「おー、日本か。自分は一度だけ行ったことがある」「どこへ行ったか?」「大阪だ」「そうか。今度は北海道にもこいよ」「分かった」……この人は北海道がどこにあるか知っているのかな〜などと思いながら、無事通過。外のホールで全員が揃うのを待つ。山下さんもクリアーしたか、よかったよかったと、荷物の受け取り場へ歩き出した(彼が通れば、他の人は絶対大丈夫なのだ)。と、「かりんちゃんが来ない!」。ただ一人現われないかりんちゃんを探しに行ったメンバーが「ツアーリーダーを呼んでいる」と言うので、三千代さんと私がイミグレーションへと戻ったのである。

すでに別コーナーで、カウンター越しに若い女性係官と対面しているかりんちゃんを発見、駆け寄った。どうもここは、不審者(と判断された人)の審査場らしい。

「どうした?」「どこへ行くのかを訊かれてると思うんだけど……」……そうなのだ。彼女はこれから"リルワット・ネーション"へ行くことは知っていても、それがどこにあるのかを知らないのだ。係官に「我々は、マウント・カーリーへ行く」と言いかけると、彼女は「本人に言わせろ」と言う。かりんちゃんに教えて答えさせると、次に係官はかりんちゃんと我々の関係を訊いているようだ。「親の友人」だと答えると、それを証明するものはあるか? と言う。ちょうど千歳空港で、彼女の母親から「よろしくお願いします」という内容の手紙を受取っていたので、それを渡す。もちろん日本語である。一瞥しただけで――読めるわけがないのだ――「何をしにカナダへきたのか?」と訊く。「ファーストネイションでカナダのネイティブと交流に。我々は日本の先住民アイヌのグループだ」……というようなことを繰り返している――三千代さんの通訳で――うちに、「しばらく待て」と言って、係官はいなくなった。

やがて一人の男性を伴ってきて、「彼は日本語が分かるから、彼女に直接答えさせろ」と言う。三千代さんと私は、離れたベンチに座らされ、近くに寄ることを阻まれてしまった。カナダの入国カードには"16歳以上のものはサインしろ"とあり、かりんちゃんは15歳なのでサインしていないそのカードを手に、あれこれ訊いているのだが、まるで警察の訊問だ。しかも、三千代さんや私が口を挟むと「!!」と阻止される。参ったなぁ!

どうも子ども――それも女の子が、保護者と一緒ではなくて入国しようとしているのが気に入らないらしい。9歳の麻里亜ちゃんは、母親と一緒だったので問題がなかったのか、単純に意地の悪い係官に捉まってしまったのか……これまで何人もの子どもが親と離れて参加してきたのに、こんなことはなかったのに。それならば、吉田三千代さんの娘だと、初めから言っておけばよかったのか……。「畜生め!」……。

その上、あくまでも納得しないのか、彼らはかりんちゃんを別室に連れて行くではないか! さしもの私も切れそうになったが、喧嘩しても、かりんちゃんと私が「国外退去」と宣告されて終わりそうだ。

"かりんちゃん強制送還"の文字が頭の中を巡り、長旅疲れの頭がくらくらする。他のメンバーが心配してのぞきに来るけれど、何も答えることができずに10分か15分……かりんちゃんが連れて行かれた部屋の戸口から覗き込んでも、姿が見えない。「どうなってんだぁ〜?」。もしかりんちゃんが自分の意思に反して拉致・誘拐されたと考えるなら、私をこそ訊問すべきなのだ。コノ国ハドウナッテイルンダ!?

と……現われた! 「どうなった?」「行っていいって……」「?……」「電話で日本語の出来る人と話して、自分やツアーのことを言ったら、係のひとが電話変わってそれを聞いて、OKになった」……そうかぁ!(それにしても、この間のことについて何の説明もなかったことに怒ったのは、かなり後になってからのことだった)

このトラブル(か?)に約1時間。積み上げた荷物をかこんで待つ人びとと合流し、がらんとした税関を抜ける。係官は、荷物を見もしなかった。到着予定時間を2時間近くも遅れて姿をあらわした我々を、怒りもせずに迎えてくれた人びとに、感謝! ハァー……。

『メガネを探せ!』

8月17日午後、ジャニスの息子ロビンが、アダムズ川流域を案内してくれた。若い大学生ロビンには、すでに4歳になる息子タレンがいて、同行していた。よくしゃべる、可愛い子である。

アダムズ川が川幅80mほどに広がったところに、木製の橋が架かっている。我々は、ここで泳ぐことになった。深さもあり、流れも結構早いが、それぞれが思い思いの浅瀬や淵で水遊びを楽しむ。高さ4〜5mはあろうかというこの橋から、ダイビングする者もいた。

表面が真っ黒に焦げた橋は、対岸への唯一の道で、アダムズ・レイク・バンドの伝統的な領土だという。10数年前、対岸一帯に住宅地造成計画が持ち上がり、開発に反対したバンドの人びとが道路封鎖――橋の封鎖を行ない、同時に木橋に火を放ったのだという。直前に現われて合流したアーサーが、「とても政治的な橋だ」と言った。それ以来、対岸に住む人びとのために州政府は上流にフェリーの運航を始め、年間100万ドルが費やされているそうだ。今も封鎖されている橋は大小の穴だらけで、車などは到底乗ることが出来そうもない。

その橋の欄干を乗越えてダイビングを繰り返している人びとが、突然あわただしく動きはじめた。水中眼鏡をかけて、交代で潜り始めたのだ。訊くと、ロビンが飛び込む前に息子に預けたメガネを、タレンは「ダディー!」と叫んで川に投げ込んだのだという。彼は、自分もダイブに参加したかったのだろう……。

「帰りに、メガネがないと運転できない」と言っているロビン自身は、水中で見えるわけがないので、我らがメンバー中でも流れに逆らって潜り川底を探すことが出来る人――松井さん、吾郎君、それに荒川君などが交代で捜索にあたった。あとは、橋の上から「もっと手前だろう」「いや、かなり流されているよ」「右だ」「左だ」……野次馬である。

20分ほど、小石を投げ込んで流れ具合を計ったりもしたが、やはり同じくらいの重さのメガネを投げ込んで流れ具合を見るしかなかろうということになる。問題は、誰のメガネを放るか? 「荒のサングラスがちょうどいいと思うんだが?」「え!? これ、高いんだよな〜」「吾郎くーん、これを投げ込んだら、回収できるだろうか?」「……多分、大丈夫だと思いますが……」「ほら、大丈夫だよ」「……………」。オリャア気楽なもんだ。

決心がつかないまま時間が経ち、松井さんと吾郎君の体力も限界になった頃、水面に顔を出した吾郎くんが差し上げた手に「メガネだ!」。川から這い上がってへたり込む吾郎君を大歓声が包んだ。

やっと声が出るくらいまで回復した吾郎君の言。「もう限界だし、これで最後と思って潜ったら、目の前にあった……」……シーズンオフにもトレーニングを続けている、プロスノーボーダーの底力を見せてもらいました。そして松井さんも、お疲れさまでした!

『水鳥の蚤か虱が発端で……』

同じ17日夜、私のお腹が異常に痒くなった。午後遅くから自覚症状があったのが、深夜には耐え難い痒みになっていた。その中心は、下腹――パンツの中である。「何なんだ!?」……さすがに不気味になって、ホームスティ先の長老ウォルヴリンに話すと、「水に入らなかったか?」と訊かれた。「今日は何回か水浴びをした」と答えると、「浅くて水があまり流れていない所はなかったか?」とさらに訊かれる。「朝、アダムズレイクで、そういう感じの浅瀬に入った」……「そうかぁ。そこに水鳥の蚤(虱だったかも知れない)が浮いていて、それがパンツの中に入ったんだ」と言うではないか……! 「子どもに付くことは稀だが、大人は気をつけなければ危ないんだ」と。

その朝のシーンが、鮮やかによみがえる。早朝からの暑さに、湖に着いてすぐ、船着場から離れた浅瀬(膝上くらいの)に飛び込んだのだ。他のメンバーは船着場で、鮭捕りボートに乗る順番待ちで賑やかだったが、一刻も早く涼みたい私は、その浅瀬に座り込んで生き返ったのである。空気が入って膨らんだ水泳パンツの中に湖水を入れて「あ〜極楽だ〜!」と叫んだことも思い出す。麻里亜ちゃんだけが私と一緒にそこで水に入り、目の前に浮いている水鳥に喚声をあげていた……。

その日はその水泳パンツのままで、夕方まで過ごした。その間たっぷりと、蚤だか虱だかに喰われ続けたのだろう。午後のアダムズ川や夜のシャワーで洗い流す前に、取り返しのつかない体になっていたのだ……。

ウォルヴリン夫妻が、ポプラ(のような樹)の種子とムースの油で作ったという自家製の薬をくれた。「これ塗ったら、少しは楽になるよ」と言われ、患部(ひとには見せられない所)に塗って寝たが、真っ赤な発疹は徐々に広がり、痒みはますますひどくなって行くのだった。

翌日バンクーバーへ移動したが、症状はまったく改善されない。20日午後にやっと時間が出来、診療所へ行った。中年の男性医師は腹部の発疹を見るなり「アレルギーだ」と言う。そうではなく水鳥の蚤か虱に喰われたんだと言っても、まったく聞こうとしてくれないのだ。私はこれまでいかなる種類のアレルギーも体験していないとがんばっても、「いやいや、こんなに全身に発疹が現われるのは、アレルギーしかない」と聞き入れてくれない。さらに「肉や魚、小麦粉や乳製品、野菜に至るまで、アレルギーを起こす食べ物は数限りなくあるんだ。何を食べてこうなったのかは分からないが、アレルギーにまちがいはない」。そして「それよりも、その目を診せろ」と、私の左目を診だした。ペンライトを当てて診たあと、「アレルギーはほっといても治るが、この目は心配だ。紹介状を書くから、これからすぐ専門医の診察を受けろ」と言うのだ。

確かに数週間前から、左目が少しかすんで見えていたのは事実である。帰国したら眼科に行こう、とは思っていた。しかし、急に何かが起こることはあるまいと考えていたので、「一体、何が起きているんだ?」と訊くと、「分からないが、目の奥で何かが起きている。すぐに専門医の診察を受けたほうがいい」と言う。数週間後に帰国するので、それからちゃんと受診する」と言っても、「それでは間に合わないかもしれない」。とりあえず、痒み止めと点眼薬の処方箋をもらって、診療所を逃げ出した。眼科を受診する気分的な余裕も時間もないのだ。

私の予定は、翌21日にバンクーバーを発って22日成田到着。成田に一泊して、23日ロンドンへ発ち、ドーバーでピースボートに乗船してノルウェー〜北アイルランド〜ニューヨークで下船、9月13日に帰国するというものだった。P・Bで使う資料類は成田のホテルに送ってあり、不要な荷物を家に送って、身軽に出発するはずだったのである。けれども、その20日間の旅を、松井さんは心配してくれた。痒みはともかく、目の状態が進行したら、取り返しがつかないことになるかもしれない、と。

「そうだよなぁ〜。船に眼科医が乗ってるわけじゃあないしなぁ〜」……我ながら、自信が持てなくなってくる。「よし、止めよう!」と決め、その夜P・Bへ電話し、すべてをキャンセルしてもらう。依然として治まらない身体の痒みにもイライラし、長旅を続ける気分ではなくなったせいもあった。

というわけで、みんなと一緒に帰国。成田空港に娘が待っていたのには驚いた。「どうした?」「お母さんから電話があって、お父さんの目が酷いことになっているらしいって……」………何てことだ!……「いや、別にそんなに悪いわけでは……」「本当?」「ああ……」。どうにも歯切れが悪いが、自分のことながら実態が分からないんだから仕方がない。家に帰国を告げたときの説明が足りなかったようだ。折角成田まで来たんだからと、免税シーバスリーガル1Lを与えてしまい、国内線ロビーまで移動して別れた。「明日病院に行くから心配するな」と言いながら、ウィスキー惜しいことしたなぁとも思っているのだった。


さて、前日までとはうって変わって涼しい札幌。翌日、市立病院の眼科を受診した。長い待ち時間と幾つかの検査のあと、若い男性医師の診察。「白内障の初期です」「右も若干その気がありますが、左ほどではありません」「半年ほど様子を見ましょう」……?……「それまでの間、何か治療は?」「何も出来ません」「は?」「進行を見て、最終的には手術します」「手術ですか?」「他の方法はありませんから」「そうですか……」。原因を尋ねると、「老化現象ですね」と明快な回答。「時々"飛蚊"が現われるんですが?」「それも老化現象です」……そうですか……。「目薬なんかは?」「意味ないです。半年後に来てください」「分かりました」………お金を払い、2月1日の再診を予約して帰宅した。


開いた瞳孔が元に戻りきらぬうちに、帰る。さすがに注意しながらの運転であるが、無性に腹立たしい。"大山鳴動"ほどではないが、それなりに大騒ぎして、結果判明したのは「老化」した肉体の存在であった。しかも、気がついてみると、身体の痒みはきれいに消えていた。「ったく、何だったんだぁ……!」。

居るはずのない人間が家に居るという、妙な後ろめたさの内にしばらくを過ごした。「寅さん」シリーズの初期に、宝クジだか競馬だかで大金を手にした寅さんが家族をハワイ旅行に招待したのだが、出発直前に旅行社の社員が代金を持ち逃げをしていたことが判明し、家族が家の中に隠れてひっそりと暮らすというエピソードがあった。ふとそんなことを思い出しながら、ボーナスのような日々を暮したことであった。カナダの医者が「アレルギー」と断言した発疹と痒みを、ツアーのメンバーが「毎日食べてるのは鮭だから、そのアレルギーじゃない?」などと言った。なるほどカナダ滞在中は、毎食鮭を食べ続けてはいた。なにせ、ほとんどそれしかないのだから……。しかし、その前もその後も、鮭を食べておかしくなったことなどはない。帰国後は毎日サンマを食べた(食べさせられた)が、それでおかしくなることも勿論なかった。やっぱりあれは、長老ウォルヴリンが言ったように「水鳥の蚤(あるいは虱)」のせいだったのだ。今後水浴びに際しては、要注意である。

『付録のアクシデント』

帰国後判明した、小林母子の「事件」。

彼女たちは、カナダで合流するまでアメリカに滞在していた。娘(と妹になる)がポートランドで生活しており、孫たちに会いに行っていたのだ。バンクーバーで合流して一緒にツアーを終えた後、私たちより早い便でアメリカに発ち、乗り継いで同じ日に帰国する予定になっていた。ところが……。

アメリカには予定通り到着。乗り継ぎ便がオーバーブッキングで乗れず、ホテルに一泊ということになる。

翌日、ハワイで乗り継ぐ便で出発。着いたハワイには、日本行きの便がなかった! そこでハワイ一泊。翌日はなんとか日本行きに乗れて、帰国。3日遅れの帰宅となったのである。

アメリカ(ロスだかシアトルだか)はともかく、初めてのハワイ航路を、経費はすべて飛行機会社持ちで、おまけに何万円かの航空クーポンまでもらったというのだから、「儲かったんでしょ」と言うと、「クタクタに疲れて、腹が立つばっかりだった!!」という返事だった。

いや、こんなこともあるんですねぇ〜。今回の旅の締めくくりには、ピッタリかもしれません……。