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     スイカ
 
 
(3)

  三崎は、海岸線に面していながら、2度の災厄に耐えて偶然生き残った、奇跡のような町である。以前は、美味しくて新鮮な魚が水揚げされるので有名な漁港だったが、今では海岸線から10キロほど内陸の町になってしまっている。セカンドインパクトの時に、三崎の辺りはかなり隆起したらしく、気候の変動-ありていに言って、気温が上昇して年中夏になったこと-による水位の上昇によって水没することを免れた。サードインパクトの時も、それが幸いしたらしく、無傷で残った建物も多いようだった。
 リツコの祖母が住んでいると言うマンションは、そんな中では、不幸にも半壊の状態になってしまっていた。窓ガラスは割れ、外壁に大きなひびが入っている。住人も、大部分が退去したらしく、廃屋のように静まり返っていた。所々で、半分壊れた玄関のドアが、開け放しになっている。
「ひどいわね」
アスカがつぶやいても、連れの紺の背広の諜報部員はうんともすんとも答えない。初めは、用がないかぎり話しかけても反応しない連れに苛立ったが、何を言っても無駄なようなので、ここへ来る道の半ばで諦めた。

 「312号室。ここね」
ドアの閉まっている一室の前に立ち、確認する。今回はさすがに、紺背広もうなずいて賛意を示した。
 呼び鈴は、壊れていた。ノックをしたが、答えは無かった。ノブを回すと、鍵はかかっていないようだった。錆びついているのか、それとも周囲がゆがんでいるせいか、重くきしんで開けにくいドアを開けると、大地震に等しい災厄に見まわれた後を、非力な老人の手で辛うじて、何とか生活できる程度に片付けたことがありありと伺える室内の様子が見えた。下駄箱の扉は取れかかったままになり、廊下には、壁の物入れから飛び出した物が、端によけてある。
ベランダのガラスの一部が壊れているのだろう、悲しいことに、一面に薄く砂埃がかかっていた。

 「どなたですか」
その時、奥の部屋から女性の声がした。とりあえず、まあまあ元気そうな声だ。
「あの、勝手にお邪魔してます」
一瞬ためらってから靴を脱ぎ、アスカは家の中へと入った。紺背広も、アスカの後をついてくる。
 奥のダイニングはベランダに面しており、開き戸になったガラス戸の一枚は、ひびが入って割れていた。ガムテープで塞ごうとしたらしいが、中心部が細かく砕けてしまったらしく、暑い外気が侵入して来るのは防げないようだ。
 ダイニングの隣は和室になっており、少し開いたふすまを覗くと、草色のタイトスカートに白の、ゆったりとしたポロシャツタイプのシャツを着た老女が、ベランダと反対側の壁際にしつらえられた仏壇の前から横を向く格好で、こちらを見ていた。こんな壊れかけた家にいるというのに、仏壇の前でしゃっきりと、きちんと正座をしていたらしい。
 「あのう、天埼幸子さんでいらっしゃいますか?」
アスカは声をかけた。
「そうですが・・・・あなた方は?」
一瞬躊躇して、アスカは答える。
「・・・いえ、怪しいものではありません。私、ネルフ所属の惣流・アスカ・ラングレーと申しま−」
「お引き取りください」
小さいが鋭くきっぱりとした幸子の声が、アスカの声を遮った。

  (え、どうして?)
アスカは驚いて言葉に詰まった。
”何、このおばあさん。何でこの私がそういう扱いを受けなきゃならないのよ。わざわざ迎えに来てやったのに。−でもまあ、司令の指示もあるし、ここは穏やかに行くか。”
 気を取りなおして、アスカは再び声をかける。
「無断でお宅に上がりましたことはお詫びします。私達、天崎さんをお迎えに来たんです。だって、こんな壊れかけのマンション、住んでたら危ないですよ。あ、申し遅れました。私、赤木リツコ博士にはお世話になっていて・・・」
「リツコは何処にいるのですか。生きているの」
アスカの言葉は、再び幸子に遮られた。
「いえ、生きているわけは無いでしょう。生きていたら、あの子は、自分で私を迎えに来てくれる筈です」

  また、アスカは言葉に詰まった。今度は驚いたばかりでなく、どう答えていいのか瞬時には判らなかったからでもあった。
 サードインパクトの際、ネルフ職員を含む、ジオフロントにいた人間のうち、生き残った人々は、あの未曾有の天変地異によって血のように赤く染まった地球の海の波打ち際に投げ出された。同じく不気味に赤く染まった空の下に意識を取り戻した人々の中に、葛城ミサトと赤木リツコは含まれていなかった。
 ミサトについては、サードインパクトの直前まで行動を共にしていたシンジの証言から、死亡したのだろうことは予想されていた。リツコに関しては、ジオフロントが、血のように赤い液体をしたたらせて融解するという、考えも及ばないような消滅のしかたをしたので、死体すら確認できないが、姿が見えない以上、おそらく死亡したのであろうと考えられていた。
 サードインパクトの直前に造反したとはいえ、あの混乱の中で、職務熱心で、いや、それより何より碇司令に関してただならぬ執着を見せていたリツコが、一人でジオフロントを脱出して姿をくらましたとは考えにくかった。
だが、幸子の問いには答えねばならない。

 「赤木博士は・・・申し上げにくいんですけれども、おそらく、サードインパクトに巻き込まれて亡くなられたのではと思います」
「思います、って何ですか。人一人の生き死にを、当て推量で言っていいと思っているの」
「いえ、ですから・・・」
言いよどんだアスカの後を、紺背広が続けた。
「天崎さん、ご存知ないとは思いますが、ネルフ施設のあったジオフロントは、あの変動の際に、完全に壊滅したのです。変動後に生き残ったものは、皆、日本中部、静岡近辺の海岸部に出現しました。変動の際の混乱で、詳細な事情は全く不明ですが、この付近の海岸に現れなかった以上、亡くなった可能性が非常に高いのです。まして、赤木博士は、あの変動が始まる直前に、特に必要もないにも関わらず、ジオフロントの最深部へ向かっているのが目撃されています。何らかのトラブルに巻き込まれたとしか、考えられないのです」
 紺背広の珍しい長広舌が終わると、沈黙が流れた。紺背広は、それきり、元通りの沈黙を守っている。アスカも、二の句が継げぬとと言う感じで、言葉が見つからないでいた。幸子も、紺背広の話の半ばから、先に見せた、静かな怒りと悲しみに満ちた眼差しを斜め後ろの床に向けるような格好で伏せて、何も言わず黙ったままだ。
そのまま、永遠とも思えるような数分が過ぎ、孫娘の死のショックでおかしくなったか、気を失ったのではとアスカが心配しはじめた頃、幸子の肩がかすかに震え出した。

 「あの・・・・」
アスカは思わず声をかけ、幸子の肩に手を伸ばした。その一瞬後、アスカの手は、老女のものとは思えぬ強い力でしたたかに跳ね除けられていた。
「触らないで頂戴!」
怒りに震える声で、幸子は言い放った。
「薄汚いネルフに関わりのある人間の助けなど、私は受けたくはありません。お帰りなさい。帰って頂戴」
  三度、アスカは言葉に詰まった。赤木博士がサードインパクトで亡くなったとはいえ、見ただけでしっかりしている事の判るこの老女が、何故そんなにネルフを毛嫌いするのか、その訳がアスカには判らなかった。唯一彼女の思いつく説明としては、幸子の娘も孫も、ネルフに関わり、幸子より先に逝っていることだけだった。
 いや、もう一つあるかもしれない。使徒の侵攻と防衛、そしてエヴァの操縦に関する種種のトラブルで、自分の事以外は殆ど目に入っていなかったあの時期のアスカでさえ、いや、距離を置いた立場だから却って判ったのかもしれないが、彼女の孫、赤木リツコと、サードインパクト前のネルフの中心であった碇ゲンドウの間には、上下関係以上の何か怪しいものがあるように感じられていた。赤木博士の仕事への打ち込み様と碇司令への絶対的な服従は、彼女の真面目な性格を考えてすら、異様なものがあった。

 しばらくの間、沈黙が流れた。アスカは、払いのけられた手をどこに戻していいやら判らない状態で、空中に漂わせていた。
 しかし、黙っているわけにも行かない。紺背広は、先程の長広舌で、自分の役割は果たしたとでも言いたげに、それきりうんともすんとも言わない。
アスカは幸子の傍らに膝をつき、三度、重い口を開いた。
「天崎さん、お孫さんを亡くされて、お気持ちはお察ししますけど、やっぱりこのマンションにこのままいるわけにはいかないですよ。赤木博士は、本当にネルフやエヴァンゲリオンの為に力を尽くされたんです。あたしもとてもお世話になって・・・あたしに、天崎さんのお世話をさせて貰えま・・・」
 突然、幸子は叩きつけるように両手でアスカを押した。アスカはまた言葉を遮られた。というより、釣り合いを失って後ろへ倒れかかり、物理的に、話すことが出来なくなった。孫を亡くした老人と思って気を遣っては来たが、これには、元々乏しいアスカの自制心はどこかに吹っ飛んでしまった。
 「何するんですかっ!」
斜め後ろに片手をついて辛うじて身体を支え、アスカは怒りの声を上げた。
幸子はそれには答えず、ただ、怒りと悲しみが波になって伝わって来るような目で、しばらくの間、ただアスカを睨んでいた。
やがて、その眼差しの中の怒りが引いていき、悲しみの色が濃くなり、幸子は不意にアスカから視線を逸らした。薄く頼りない幸子の肩が震え、すすり泣きの声が漏れてきた。
自制心から声を押さえていても、なお漏れてくるすすり泣きの下に、アスカはかすかに、幸子の嘆きと独白を聞いた。
「ネルフみたいな・・・あんな組織に関わったばっかりに・・・あんな男に関わったばっかりに・・・私の娘と孫は、あんなに賢くて可愛くて、私のことをいつも心配してくれたリツコまで、私より先に逝ってしまった・・・私はこの先、何を楽しみに生きていったらいいの。教えて頂戴。何故私が生き残ったのか・・・私で代われるものなら、喜んで代わったのに。私が代わっていれば、こんな悲しみを味わうこともなかったのに・・・リツコ、リツコ、あの子の一生は何にもいいことがなかった。いつも辛抱ばかりして・・・可哀想なリツコ・・・・」

  アスカは、どうしていいか判らずに、再び幸子の方に伸ばしかけた手を、幸子の肩にかけるのもためらわれて、宙に止めていた。そのまま何瞬かが過ぎ、所在無く視線を部屋の中にさまよわせた時、仏壇に飾られている、一葉の写真がアスカの目に止まった。
 アスカの視線は、そのままその写真に釘付けになった。視線を動かすことが出来なかった。
古びかけたその写真には、3人の若い男女が写っていた。幸子の孫、リツコと、彼女の友人、葛城ミサト、それに加持リョウジの大学時代の写真だった。
”加持さん・・・”

彼らは、サードインパクトと相前後して、いずれも命を落としていた。3人のいずれもが、アスカと深く関わった大人達だったが、ドイツにいた頃からアスカは加持のことを想っていた。

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