伊丹《再》発見F       遺跡探訪などをつづけます。

         2010年11月、昆陽池に見慣れぬ白鳥が飛来!
             シベリアからの遠来の客、「コハクチョウ」だ。
                                                    (写真13枚)
                                      ≪2011年(平成23年)1月制作≫

         くちばしの黄色い「コハクチョウ」がやって来た。昆陽池ではめったに見られない、珍しい
         白鳥だ(昆陽池3丁目)。びわ湖の北部(滋賀)、宍道湖(しんじこ・島根)などに集団で渡って
         くるコハクチョウは、テレビのニュース番組でよく目にする。しかし、伊丹の昆陽池でその姿を
         見かけることはなかった。
           けれども、2010年(平成22年)11月20日(土)、遂にあこがれのコハクチョウを見つけた。
         その日の『朝日新聞』阪神版で報道されたので(下の写真)、急いで昆陽池へ駆けつけたの
         だった。

           報道によると、コハクチョウは親鳥がまだ羽が茶色っぽい3羽の幼鳥を引き連れて、昆陽池
         へ飛来したとのことだった。しかし、筆者が現地へ着いたときは、もう親鳥1羽だけで、幼鳥たちの
         姿は見当たらなかった。それでも、くちばしの黄色い親鳥に会え、飛翔する場面や遊泳する姿など、
         さまざまなポーズを撮影することができたのは、ラッキーだった。
           それにしても、幼鳥たちはどこへ行ってしまったのだろう――。千僧今池や瑞ケ池、緑ケ丘の池を
         探したが、いない。黒池か西池、あるいは武庫川か宝塚方面の池だろうか。
           昆陽池では、朝の9時と夕方の3時すぎに、白鳥たちに給餌(きゅうじ)がなされる。その時間帯には
         越冬中のカモ類やユリカモメなども集まってきて、にぎやかであるが、今年はコハクチョウの親鳥も、
         みんなと一緒にエサをついばんでいるに違いない。だが、姿を消した幼鳥たちは、エサをどうしている
         のだろう。なぜ、親鳥だけが残り、幼鳥は消え失せたのであろうか――。これは、大いなるミステリー
         であった。

          左上=シベリアから昆陽池へ渡来したコハクチョウ。「オオハクチョウ(大白鳥)」に対する
          「小白鳥」で、やや小ぶりだ。くちばしは先端が黒く、付け根が黄色。新潟の瓢湖(ひょうこ)が、
          コハクチョウの集団越冬地として知られる。
            右上=昆陽池に定住するコブハクチョウ(瘤白鳥)。くちばしの基部に、黒色のコブ状の
          突起がある。くちばしはオレンジ色だ。昆陽池にいるコブハクチョウは羽が少し切ってあるよう
          で、渡り鳥ではない。
            下=コハクチョウとコブハクチョウ(手前)が、昆陽池の水面に同居。カモたちもいる。
          みんな仲良く、「平和」に暮らせればよいのだが……。

         昆陽池に住むコブハクチョウが、集団をなして、遠来のコハクチョウを襲撃(?) 縄張り争い
         か、単なる威嚇(いかく)か。いずれにしても、昆陽池軍団(コブハクチョウたち)が示し合わせたかの
         ように、一斉にスクランブル(緊急発進)するのだ。水しぶきを上げ、必死に逃げるコハクチョウ……。
         緊迫した空気の流れる、すさまじいばかりのバトルだった。
           とすると、コハクチョウの幼鳥3羽も、こうして追っ払われたのではないだろうか。遠路はるばる
         昆陽池までやって来たのに、恐れをなし、親元を離れて飛び去ったのなら、不憫(ふびん)である。
         広い池なのだから、遠来の客を温かく歓迎してやればよいのに……。見てはならぬ光景を見てしま
         ったような、なぜか複雑な思いだった。


       伊丹郷町“雪景色”!
           しんしんと、伊丹の屋根に雪降りつむ。《写真26枚》

            2011年2月11日(金)、建国記念の日だったこの日は、珍しく雪が降り積もった。
          朝、起きると、一面の銀世界だ。さっそく、カメラをたずさえ、JR伊丹駅→有岡城跡→
          「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵→三軒寺前広場→旧岡田家住宅→猪名野神社を
          訪ね歩いた。
            その界隈(かいわい)は、旧「伊丹郷町(ごうちょう)」と呼ばれる。郷町とは、民家などの
          建ち並ぶ町場のことだ。そこは、戦国時代は“総構え”(町ぐるみの城塞)だった有岡城
          の城下町、その後の江戸時代は日本一の銘醸地として栄えた酒造産業都市であった。
          現代は、“19万都市”伊丹の中心市街地である。この日、伊丹市内には、3aほど雪が
          降り積もったのであろうか。

         有岡城本丸跡(JR伊丹駅前=伊丹2・3丁目)。戦国武将・荒木村重(1535〜1586)の居城
         だったこの城は、史上初の“総構え”であったことから、昭和54年(1979)、国の史跡に指定され
         た。落城から満400年目の快挙だった。
           ちなみに、城主の荒木村重は織田信長配下、37万5千石の国主大名で、摂津守(せっつのかみ)
         あった。摂津一国を支配する摂津守の居城が伊丹にあったのだから、当時、伊丹は摂津国(北は兵庫
         ・三田市〜南は大阪・堺市/東は大阪・島本町〜西は兵庫・神戸市)の“首都”だったわけだ。
           画面中段の写真は、本丸跡に残る、“野面(のづら)積み”の古い石垣である。石組みの中に、墓石
         (宝篋印塔〈ほうきょういんとう〉の基礎や一石五輪塔など)が、無造作に突っ込まれているのが特徴的だ。
         この石垣は天正2年(1574)ごろ、村重によって築かれたものだという。
           下段のJR伊丹駅も、プラットホームともども、有岡城の本丸跡にある。下段右の写真の奥、黒いガラ         ス張りの建物はアイホール(演劇場)だ。いずれも、雪の降りしきる様子がうかがえる。

         JR伊丹駅前通り(伊丹2・3丁目)。上段の左は雪化粧した本泉寺。下段の左は、新しく登場した
         “郷町長屋”と呼ばれる飲食店など。その背後は、駅前再開発ビル(アリオ)である。
           このJR伊丹駅前通りが近年「酒蔵通り」と名づけられたのは、なんとも皮肉な限りだ。近辺にあった
         清酒「白雪」の富士山蔵(ふじやまぐら)、万歳1号蔵、それに「大手柄」の南蔵など、古い酒蔵はすでに
         姿を消し、沿道にはもう「白雪」長寿蔵が残っているだけだからだ。

                【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                              「C伊丹の酒蔵」

         「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵(中央3丁目)。黒い板張りの酒蔵に、白い雪がよく似合う。
         絶妙のコラボレーションといえよう。長寿蔵は清酒「白雪」の醸造元である小西酒造の酒蔵で、築
         200年超。同社は天文19年(1550)の創業だから、460年以上の歴史を誇るわけだ。
           この長寿蔵の1階は現在、地ビールの味わえるレトロな雰囲気のレストラン、2階は江戸時代の
         古典的な酒造工程を、往時の酒造用具を展示して再現した、ミュージアムとなっている。

          三軒寺前広場から、長寿蔵、大クスノキなどを望む(中央2・3丁目)。広場は昭和時代の
          末期、中心市街地にあった古い酒蔵や商店、民家などを立ち退かせて、設けられた。
            写真の下段左側は、手前から大蓮寺、正善寺、法巖寺(ほうがんじ)と並ぶ“三軒寺”(さんげん
            でら)。下段右の写真の奥は、法巖寺の境内にそびえる大クスノキで、高さ28b、幹の周り6b。
          樹齢は500年を超えており、昭和40年(1965)、県の天然記念物に指定された。

         旧岡田家住宅(左上)と旧石橋家住宅(右上)。その背後には、都会の真ん中とは思えぬ
         ほどの、瀟洒(しょうしゃ)な日本庭園がある(宮ノ前2丁目)。
           写真左上=旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)。伊丹の酒造史を象徴するような、江戸時代の
         遺構だ。延宝2年(1674)の築造とわかる棟札(むなふだ)が見つかったことから、平成4年(19
         92)、国の重要文化財に指定された。その340年前の棟札の現物が、店舗1階の土間に展示
         されている。
           写真右上=旧石橋家住宅。長らく「宮ノ前通り」にあったのだが、近年、旧岡田家の隣(東)
         に移築された。築200年を超す町屋(商家=雑貨商)で、平成13年(2001)、県の有形文化財
         に指定された。
           下段の2枚=雪化粧をした日本庭園も風情がある。庭園の場所は、岡田家の旧邸の一部
         だった。左の写真の奥は左側が旧石橋家、右側が旧岡田家だ。右の写真の白壁の巨大な建物は
         旧岡田家の酒蔵で、その内部(奥)には発掘調査で見つかった“搾(しぼ)り場”の地下遺構が残さ
         れている。

         伊丹郷町の最北端にある猪名野神社。江戸時代から、郷町の氏神だった(宮ノ前3丁目)。
         その南に広がる門前町は、老舗(しにせ)が軒を連ねる有数の商業ゾーンとして栄えた。しかし、その
         由緒ある「宮ノ前通り」も、市街地再開発のため、昭和の末期から平成にかけて大きく変貌。かつて
         のにぎわいは、すっかり影をひそめた。
           下段の2枚=高層ビルの上から見下ろす雪の降り積もった「宮ノ前通り」の町並みが、活気
         に満ちた古き佳(よ)き時代をしのばせる。俳人・中村草田男(1901〜1983)の句を拝借すれは、
         「降る雪や“昭和”は遠くなりにけり」といったイメージであろうか。

       ≪番外≫   

            筆者自宅の庭も、銀世界だった(春日丘4丁目)。灯籠の左側には白梅の古木がある
            のだが、花はまだ咲いていない。この冬は年末からずっと低温がつづいたせいだろうか。

                                             《平成23年(2011年)4月制作》


      伊丹市教育委員会が2011年3月、春日丘4丁目(伊丹緑道)に、
                白洲次郎が住んだ「白洲屋敷跡」のモニュメントを設置。
                                                         (写真7枚)

         ヤブツバキの咲く伊丹緑道ぞいに登場した、「白洲屋敷跡」の記念碑(春日丘4丁目)。この
         背後の丘の上に、大正11年(1922)から昭和14年(1939)ごろまで、白洲次郎(1902〜1985)
         の実家があったという。春日丘地区の真ん中を南北に貫く通り、現在、阪急バスの「春日丘」停留所
         や小川医院などのある付近だ。
           さて、“白洲屋敷”の敷地は3万uにも及び、母屋はL字型をした木造平屋建ての豪邸だったといわ
         れる。しかし、この場所に邸宅があった期間は、20年たらず。次郎自身はすでに成人していて、そこ
         には1年間も住んでいなかったらしい。

           *白洲次郎(しらす・じろう/1902〜1985)――芦屋の貿易商の家に生まれ、1921年に旧制
         神戸一中(現在の県立神戸高校)を卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。日本の官僚・実業家。
         敗戦直後の首相・吉田茂(1878〜1967)の側近の一人で、憲法制定やサンフランシスコ講和会議
         などに参画。GHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサー(1880〜1964)と渡り合ったこと
         でも知られる。随筆家・白洲正子(1910〜1998)の夫。近年、戦後史の中の異色の人物として、
         クローズアップされた。

         産業道路の伊丹東消防署前交差点(北本町2丁目)から、“白洲屋敷”のあった春日丘4丁目
         方面を望む。右奥に見える丘の上に、70年ほど前(1939年ごろ)、“白洲屋敷”があったという。
         丘の東端にあたる崖の中腹には、自然の段丘崖に沿(そ)って、緑豊かな伊丹緑道(猪名野神社→
         伊丹坂→国道171号線)が、南北に連なっている。
           画面左端の坂(春日丘橋)の上に、現在、北中学校(清水4丁目)がある。在りし日の“白洲屋敷”
         は、この坂と伊丹坂の間に位置していたわけだ。

                【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                                  「伊丹緑道」

          「春日丘」バス停付近から、北方を望む(春日丘4丁目)。前記した北中学校の東側の通りが
          春日丘地区のメーンストリートであるが、そこを北進すると、この写真の場面にさしかかる。画面の
          左端、阪急バスが通る辺りに、往時、“白洲屋敷”の正面入口があったらしい。その近くには、平成
          5年(1993)ごろまで、背高ノッポの給水塔が突っ立っていた。それはレンガ造りの円筒状で、高さ
          は10bぐらい。直径は2bほどあっただろうか。至近距離に民家があり、老朽化して危険ということ
          で、撤去された。
            実は、昭和61年(1986)3月、筆者は伊丹の中央2丁目から、この春日丘4丁目、給水塔のある
          場所のすぐ南側へ引っ越してきたのだった。付近は昔、別荘地帯だったようで、ツタ(蔦)のからまる
          給水塔は当時の名残であるらしいというようなことを、そのころ、聞いたように思う。
            それからしばらく、レンガ造りの風情ある給水塔は、筆者の自宅の目と鼻の先にそびえていたの
          である。
            なお、筆者は若かりし日、緑ケ丘にある県立伊丹高校へ通学していた。中央2丁目の自宅(当時)
          から、徒歩あるいはバスで、時にはこの春日丘の道を通ることもあった。60年ほど前(昭和26年〈19
          51年〉〜)のことであるが、むろん春日丘にレンガ造りの風変わりなタワーが存在したことは知ってい
          た。当初、煙突かなとも思ったが、そうでもないらしく、その正体はわからずじまいだった。

         2011年3月の『朝日新聞』阪神版。80年ほど前に撮影された旧伊丹町の航空写真(右側=
         伊丹市立博物館所蔵)には、“白洲屋敷”が写っている。右の森は伊丹郷町の氏神・猪名野神社
         (宮ノ前3丁目)、左の森の一画にある邸宅が“白洲屋敷”(春日丘4丁目)だ。その周りには人家も
         なく、丘の上の豪邸はさぞや見晴らしが良かったことだろう。
           当時は伊丹に「市制」がしかれる直前で、この地域の地名は、「川辺郡伊丹町北村」であった。
         “白洲屋敷”(北村256番地)があったのは、「北村」の中の旧「野村(ののむら)」(猪名野神社の少し
         北側)から旧「伊丹坂村」(西国街道ぞい)にまたがる区域だったと考えられる。
           その「野村」には、江戸時代の“有岡八景”の一つ、「野村の晩鐘」で知られた発音寺(ほつおんじ)
         ある。崖の上のお寺の鐘楼から、酒づくりで栄えた伊丹郷町に、入相(いりあい)の鐘が響き渡ったので
         あろう。
           ちなみに、筆者が以前、発音寺のご住職に取材したところによると、お寺の鐘の音色(ねいろ)は、
         やや高い澄んだ音だったというが、戦時中、釣鐘は金属回収で供出され、それっきり行方が知れない
         のだそうだ。北中学校の東側の崖の上に現存する古刹(こさつ)が、その発音寺である。
           その段丘崖の上に位置する高台が現在の「春日丘」で、往時は東方の低地を走る国鉄福知山線
         の蒸気機関車や、その向こうにきらめく猪名川(1級河川)の流れを見渡せたのに違いない。そのころ
         川向こうの「神津村」では、伊丹飛行場(昭和14年〈1939年〉開港)の建設工事が始まろうとしていた
         のだろう。
           なお、写真の真ん中に見える大きな四角いスペースは、明治35年(1902)創立の旧制県立伊丹
         中学校(当時の地名=伊丹町堀越)だ。県立伊丹高校の前身である。その校地のあった「堀越」は、
         有岡城の“外堀を越えたところ”という意味と思われるが、そこは現在、北中学校(清水4丁目)となっ
         ている。その手前には、猪名野神社の大鳥居の前から西方(「大鹿」方面)へのびる有馬街道が連な
         っている。この旧街道は古来、伊丹坂を上ってくる西国街道と交差していたわけで、その辺りは交通の
         要衝でもあった。
                                                 ≪平成23年〈2011年〉5月制作≫


       伊丹の四季――そのB    【花のある風景】(写真80枚)
                                         ≪平成23年(2011年)10月から制作開始≫

         ▼「観梅と野点(のだて)の会」(緑ケ丘公園の梅林=緑ケ丘1丁目)

         「観梅と野点の会」は、毎年2月下旬の土曜日・日曜日に、伊丹市茶道協会および伊丹市の
        主催で行われる。
 いつもなら、この時期、約50種・400本のウメ(梅)がちょうど見ごろを迎える
         のだが、2010年(平成22年)は直前に20度Cを超す温かい日がつづいたため、すっかりピークを
         過ぎた感じだった。
           それでも、池のほとりの梅林で、緋毛氈(ひもうせん)の敷かれた床几(しょうぎ)に腰を掛け、抹茶を
         いただくのは風流そのもの。ウメの香りに誘われて、メジロたちも姿を見せた。

      ▼カンザクラは3月初めに開花(伊丹緑道=清水2丁目)

         2010年(平成22年)はおおむね暖冬だったため、伊丹緑道のカンザクラ(寒桜)も例年より
         早く咲きはじめた。上の写真を撮影した場所は、猪名野神社(宮ノ前3丁目)の北側。境内の奥から
         北へつづく緑道を進むと、すぐだ。
           そこに、ポツンと、カンザクラが1本。両手を大きく広げたかのような、枝ぶりのよい古木である。
         今年もさっそくメジロたちがやって来て、カンザクラの蜜を味わっていたが、他の花(サザンカ)に止ま
         ったメジロを偶然、至近距離でうまく撮れたのは、幸運だった。

      ▼風情ある散歩道に、ヤブツバキも咲く(伊丹緑道=春日丘4丁目)

         3月に入ると、伊丹緑道にヤブツバキ(藪椿)も咲きはじめる。花は色鮮やかで、清楚な感じが
         好ましい。場所は、先のカンザクラの少し北。クスノキの大木や、風情ある竹林のつづく辺りだ。
           付近は野鳥たちの楽しげなさえずりが聞こえ、散策コースには木もれ日が不思議な絵模様を描く。
         伊丹緑道いちばんの風流スポットといえようか。

      ▼サクラの咲くころ、伊丹の3大公園も大にぎわい<昆陽池公園/瑞ケ池公園/緑ケ丘公園>

          咲きはじめたサクラの枝に、あこがれのカワセミが飛来(緑ケ丘公園=緑ケ丘1丁目)。
          瑠璃色(るりいろ)の優美な姿をしたカワセミは、バード・ウオッチャーにとっては、あこがれのスーパー
          スターだ。漢字では、カワセミを「翡翠」と書くのだという。なんと、あの宝石のヒスイと同じ字では
          ないか。
            そのカワセミが池のほとりのサクラ(桜)の枝に止まるという、千載一遇のシャッター・チャンスに
          恵まれたのは、まことに幸運であった。

       【昆陽池(こやいけ)公園<昆陽池3丁目>

         サクラの古木・大木の下……、春うららを謳歌。この写真に写っている古木は、昆陽池がその昔、
         もっと巨大な池であったことを物語る、“生き証人”といってもよい。場所は、「昆陽池まつり」(緑化&
         物産フェア)などが催される多目的広場の南端、フェンスぎわである。
           そこは昔、池の南堤だった所で、堤防の上にはサクラ並木があったのだ。その並木が古木となって
         残っているわけで、いま人々が楽しげに宴(うたげ)を開いている場所は、半世紀前の昭和40年(19
         65)ごろは昆陽池の水面だったのである。
           下段のワイドな写真は、昆陽池公園の南東へ連なる「たんたん小径(こみち)」付近。その場          所も昔の堤防で、そこに残るサクラの古木も、貴重な“生き証人”である。しかし、さすがに近年は樹齢
         を重ね、姿を消す木も目立つようだ。
           なお、「たんたん小径」の北側に位置する広大な住友総合グラウンド、それに同社の社宅・寮など
         も、昭和40年代はまだ昆陽池そのものだったのである。

           ちなみに、昆陽池は奈良時代、僧・行基(ぎょうき/668〜749)によって築造されたもので、
         以来、この地域の水田を潤す灌漑(かんがい)用の溜池(ためいけ)であった。その大きさは、阪神間随一         ともいわれた。だが、昭和の中期ごろ(1960年)から水田は急激に減少、巨大な溜池はその役割を
         終え、昆陽池はその3分の2が埋め立てられたのであった。

               【参照】――この『伊丹の歴史グラビア』の中の
                       「伊丹《再》発見C」……「昆陽池公園にある文学碑を
                       訪ねて」⇒⇒⇒昔の昆陽池は、どれほど大きかったのであろうか。

       【瑞ケ池(ずがいけ)公園<瑞ケ丘5丁目>

         お花見日和(びより)、春らんまん……。100年ほど前の明治末期、ワシントンにサクラの苗木を
         贈ったと伝わる「東野村」に近いせいか、瑞ケ池の周りにはサクラの木が多い。この池も昔は灌漑用水
         池であったが、池の北部が埋め立てられて、三菱電機北伊丹製作所となった。その工場の北側が、
         南京桃(なんきんもも)などで知られた“園芸の里”、東野地区である。
           なお、瑞ケ池公園の南部(池の南側)、やや東寄りのサクラの木の下に、平安時代の女流歌人・
         和泉式部(生没年不詳)の歌碑が建てられている。下段の左の写真が、それである。

      【緑ケ丘公園<緑ケ丘1丁目>

         緑ケ丘は咲く花の、にほふがごとく今、盛りなり。緑ケ丘公園にある二つの池も、古来、灌漑用の
         溜池であった。しかし、現在は「上池」の大半が埋め立てられて、梅林の丘に変貌。「下池」も一部が
         埋め立てられ、中国・佛山市(伊丹市の友好都市)から贈られた、エキゾチックな賞月亭が浮かんで
         いる。
           下段の右の写真が、その賞月亭だ。日本のサクラに中国の建物を配した構図は、異国情緒に彩ら         れた風景といえようか。下段の左=ソメイヨシノが満開のころ、しだれ桜も咲きはじめた。

         サクラの梢(こずえ)に、カワセミもメジロも……。メジロは花の蜜を楽しげについばみ、カワセミは
         水中の魚を捕食せんものと虎視たんたん。その捕食する場面を、アマチュア・カメラマンたちが狙う。
         チャンス到来の一瞬には、パシャパシャと一斉にシャッター音が聞こえた。おそらく連写しているので
         あろう。
           筆者のカメラは200_の望遠ズームだから、静止画像が精一杯。それにひきかえ、彼らは500_
         以上の超望遠レンズを駆使して、動きのあるカワセミの姿をアップでとらえているらしい。

                  世の中に絶えて桜のなかりせば
                             春の心はのどけからまし
           平安時代の歌人・在原業平(ありわらのなりひら・825〜880)が詠んだこの歌(『古今和歌集』)は、
         まさしく“言い得て妙”というべきだ。桜があるからこそ、人はみんなイソイソ、ウキウキ、ワクワク、ハラ
         ハラ、ドキドキ、ソワソワするのだろう。
           筆者も2010年(平成22年)の春は、落ち着かぬ気分で伊丹の3大公園を駆けめぐった。サクラの
         咲く池のほとり、カワセミの優美な姿に出会うことができたのも、うれしかった。2年前(2008年)の春
         は大腸がんの手術をひかえてユーウツな日々を過ごしただけに、まるでユメのようであった。健康で、
         デジカメとパソコンがあるのは、実にすばらしい。有難いことと感謝するばかりである。

      ▼昔なつかし、レンゲ畑が出現(口酒井2丁目)

         あの独特の雰囲気をただよわせて、1300uの田んぼにレンゲの花が咲き誇る。前世紀に
         タイムスリップしたような、懐かしい光景だ。
           写真を撮影した場所は、猪名川に架かる神津大橋の東、伊丹空港に近い口酒井2丁目である。
         レンゲ(蓮華)畑の中で子供たちがたわむれる姿が印象的であった。

      ▼ポピー咲く2010年5月、「花摘み園」が閉園(宮ノ前3丁目)

         場内には色とりどりのポピーが約5000株……。阪急伊丹駅から10分たらずの町中にある、
         ユメのようなお花畑だ。猪名野神社の門前に広がる「花摘み園」(宮ノ前3丁目/約2500u)は、
         春の「宮前まつり」の日、老若男女でにぎわった。しかし、2010年(平成22年)5月5日をもって閉園、
         13年間の歴史に終止符が打たれた。
           歴史といえば、「花摘み園」は由緒ある歴史遺産のあった場所である。そこには、江戸時代から
         昭和の初めごろまで、伊丹を代表する銘酒「剣菱(けんびし)」の巨大な酒蔵があったのだ。酒蔵⇒花園
         と変遷したあと、その“遺跡”はこの先どうなるのであろうか。どうやら、巷間ウワサにのぼる図書館が
         建つらしい。

      ▼春……。小さな川の土手に、菜の花が群生(天神川=荻野1丁目)

         この川は、北摂山系(宝塚市域)から南へ流れる天神川。伊丹市域では、荒牧バラ公園の西側
         ⇒鴻池地区⇒昆陽池の北側を流れて、武庫川へ注ぐ。天神川は川底が周りの地面より高いという、
         珍しい「天井川(てんじょうがわ)」だ。そのため、堤防はかなり高い位置にあり、その上を歩くと、見晴らし
         がよい。
           菜の花が咲く堤防の上の道は、絶好のウオーキング・コースだ。右下の写真の奥は、北側から
         見た東野橋。その右手(西)の鴻池1丁目に、伊丹スポーツセンターがある。

      ▼緑深い散歩道に、アジサイの咲くころ(伊丹緑道=春日丘6丁目・伊丹坂付近)

         伊丹緑道は、猪名野神社(宮ノ前3丁目)から北へおよそ1.2`。市内では唯一、自然をその
         まま取り入れた、緑豊かな遊歩道だ。そのほぼ中間地点を、西国街道が横切る。そこは昔、街道
         の難所だった「伊丹坂」である。
           6月になると、その「伊丹坂」の近くの伊丹緑道(春日丘6丁目)に、アジサイが咲く。アジサイを漢字
         で書くと、「紫陽花」だ。そのイメージどおりに、とりわけブルー系統の花が美しい。しかし、ピンク系統
         だって負けてはいない。辺りは絶好のウオーキング・コースだから、道行く人々はアジサイの花を愛
         (め)でるようだ。

      ▼エキゾチックな賞月亭の浮かぶ緑ケ丘「下池」。夏にはスイレンが咲く(緑ケ丘1丁目)

         異国情緒あふれる賞月亭は、平成2年(1990)、伊丹の友好都市である中国・佛山市から
         贈られたものだ。それから20年が経過して、今ではもう、すっかり周りの風景にとけ込んでいる。

         スイレン(睡蓮)の咲く水面の近くに、カワセミが飛来。撮影位置が遠いので、カワセミの姿は
         小さい。けれども、枝の上に、その姿が写っている。

      ▼ヒガンバナの咲くとこ、見ーーつけた! それは、西国街道の南側だ(千僧2・3丁目)

         色鮮やかに咲き誇るヒガンバナ(彼岸花=別名・蔓珠沙華〈まんじゅしゃげ〉)。上と左下の写真は、
         西国街道ぞい、天神社の南(千僧2丁目)、右下は千僧公民館の近くだ(千僧3丁目)。
           昔は田んぼの畦道(あぜみち)などによく咲いていたが、近年、ヒガンバナの咲く風景はあまり見られ
         なくなった。だからこそ、咲いている場所を見つけると、うれしくなる。
           2010年(平成22年)の夏は、異常なほどの「猛暑」だった。そのせいか、ヒガンバナの開花が大幅
         に遅れたようだ。上の写真は10月2日(土)に撮影したものだが、まだツボミが多かったように思う。

      ▼「花摘み園」のコスモスは、もう見られない(宮ノ前3丁目)

         阪急伊丹駅から徒歩10分たらず、再開発の進んだ中心市街地に、ユメのようなお花畑が
         あった。猪名野神社(宮ノ前3丁目)の門前に広がる、「花摘み園」という名の花園だった。面積は
         およそ2500u、春にはポピー、秋にはコスモスが咲き誇った。しかし、2010年(平成22年)5月に
         閉鎖され、今はもうない。
           上の写真は、コスモスに彩られた、在りし日の「花摘み園」。2009年以前に撮影したものである。
         その跡地は発掘調査も終わり、やがて市立図書館の建設が始まるらしい。≪2012年7月、伊丹市立
         図書館「ことば蔵」がオープン≫

      ▼秋……。コスモスが咲き誇る武庫川河川敷。想像以上に大規模だ(尼崎・西昆陽地区
                                              の西側=武庫川左岸の河川敷)

         コスモスの咲く“夢”のような河川敷は、武庫川に架かる甲武橋(国道171号線)の500b
         ほど北。東岸(左岸=伊丹側)である。「花摘み園」のコスモスはもう見られないが、それに代わる
         大規模な「コスモス園」を見つけた。その範囲は堤防ぞいで、幅は東西30〜50b、長さは南北300
         bほどもあるだろうか。
           筆者がこの場面を撮影したのは、2010年11月4日(木)。花の盛りは例年に比べてずいぶん遅い
         のだそうだ。夏が酷暑だったせいだろう。
           550万本ものコスモスが群生するこの巨大な“花壇”の正式名称は、「武庫川 髭(ひげ)の渡し
         コスモス園」。2003年から、地元の「髭の渡し花咲き会」というグループが、ボランティア活動で運営
         しているのだという。
           コスモスの咲くお花畑の向こう(西)を武庫川が流れ、その背後に六甲の山々が連なっている。
         上段の写真と、中段左側のタテ長の写真の背景は、形のよい甲山(かぶとやま=西宮市域)である。
         筆者が若かりし日に通学した関西学院大学(西宮市上ケ原一番町)は、正門を入ると時計台(図書館)
         のすぐ後ろに甲山が見え、山は絶好の“借景”をなしていたのだった。

         ウイーク・デーにもかかわらず、「コスモス園」は大勢の人たちでにぎわっていた。その広さは
         1万3千uに及ぶという。想像していた以上に大規模で、他に類例を見ないのではないかと思われ
         るほどだ。

         コスモスの咲き誇る場所(武庫川河川敷=尼崎市西昆陽地区)には、昔、西国街道の「髭
          (ひげ)
の渡し」があった。
 「渡し」とは、川岸に設けられた「渡し場」のことで、小舟で人や物を
         向こう岸へ渡すための船着き場のこと。橋のない時代のことである。その現地(「コスモス園」の堤防
         付近)には、今も行者堂の祠(ほこら)や常夜灯が残っており、いにしえの面影をしのぶことができる
         (左上の写真)。
           常夜灯には、「文政元戊寅七月」(1818年)、「奉 天下泰平 西昆陽村」と彫り刻まれている
         (左下の写真)。その近くには「髭の渡し」の説明プレート、国道171号線ぞいの西昆陽地区には
         「髭茶屋」のバス停がある。「髭……」というのは、その昔、付近にヒゲ老人の営む茶店があったこと
         にちなむネーミングらしい。
           それにしても、参勤交代の行列や旅人たちでにぎわったであろう旧街道(京都と西方の国々を
         結ぶ西国街道)の船着き場の跡が、今、「コスモス園」として甦(よみがえ)り、活気に満ちたにぎわいを
         みせているのも、不思議な縁(えにし)を感じさせる。

      ▼春と秋……、荒牧バラ公園にエレガントな香り(荒牧6丁目)

         広さ1.7fの園内、色とりどりに咲き誇るバラ(薔薇)は、約250種・1万本。それらが一斉に
         開花する光景は、見事というほかない。そのバラ・ブリーダー(育種家)は、「イタミ・ローズ・ガーデン」を
         経営する寺西菊雄さん(76)だ。

         世界を代表する名花「天津乙女(あまつ・おとめ)」は、50年前、伊丹の寺西菊雄さんが開発。
         荒牧バラ公園で咲く上の写真が、「天津乙女」だ。2010年(平成22年)は、その生誕50周年で
         あった。
           寺西さんは、ほかにも「マダム・ヴィオレ」「ローズ・オオサカ」など、100種ものバラ(新種)を生み
         出したという。

             “「天津乙女」50歳”を報じる、2010年5月21日付の『朝日新聞』(阪神版)。
                           記録にとどめるため、ここに転載させていただいた。

           なお、この寺西さんと筆者は、伊丹の東中学校で同期生だった。今から60年前の当時(昭和
         20年代)、木造校舎の東中学校が「いたみホール」(文化会館=宮ノ前1丁目)の場所にあったことが
         思い出され、懐かしい。
                                      《中断ののち、平成24年(2012年)11月に完了》

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