魚菜王国いわて

生物多様性

生物多様性がどうして必要か?
生物多様性という言葉を知っていても、その意味を知らない人が多いのではないか?
それでは、植物で例えてみよう。

ある野菜が何かの病原菌で病気になったとする。
その時、その野菜が 単一種であったなら、絶滅するだろう。
しかし、同じ野菜でもさまざまな種類が存在するから、品種改良によって解決することができる。
今は遺伝子操作が可能だから、種の数が多いほど、さまざまな問題解決に利用することができる。
だから、種の保存、そして多様性の維持は、絶対に必要なのだ。

ジャガイモの話。
1840年代のアイルランドで、単一種のジャガイモが葉枯れ病で全滅した。
そのため100万人以上が死んだ、と言われている。
今世紀になって、殺菌剤によってそれを防げるようになったが、今度は殺菌剤に対して耐性のある菌株が大発生している。
これによりタンザニア高地でジャガイモは全滅した。
世界的にみても、ジャガイモは15%減少して32億5,000万ドルの損害が出た。

ここで多様性の恵みを自然界から授かることになる。
アンデス山系のジャガイモとその同種族の遺伝子プールの中に、問題の菌に対する耐性を見つけ出した。
この応用で収量回復が見込まれている。

また、私たちが飲む薬は、さまざまな動物や植物が利用されている。
環境破壊によってこれらの種が減っていくことは、私たちにとって、よいはずがない。
さらに今後、院内感染の原因である現場の薬品から生まれた耐性菌の新たな出現によって、治療困難な病気が出てくるだろう。
その治療薬が多様な生物の遺伝子から見つけられかもしれない。
多様性の恵みを最も利用しているのは人間である。
だから生物多様性は必要なのだ。



多様性を無視する勢力
日本国内でブラックバス釣りが流行し、既存種を脅かしている。
バス釣りをする人たちは、自分の楽しみのためだけにバスを放流したのだ。
それほどまでにバス釣りを楽しみたいのなら、バスのいる海外へ行けばいいだけの話であるが、バスをサケなどの放流事業と一緒にする学者もあらわれている。
だいたい限られた湖沼と開かれた大洋を一緒に考えるのは間違いだ。
オリのかなにライオンと人間を入れたら、人間が食われるに決まっている。
その学者をライオンと同じオリに入れて反省させたい。

世界の飢餓はアグリビジネス誕生に由来する」で触れた種子の独占企業が多様性を無視する勢力の代表だ。
彼らは、その知的所有権を楯に、均一種の独占を狙っている。
世の中の種子に多様性がなくなればなくなるほど、彼らは、均一種を支配でき、金儲けができるのだ。
しかも、その種が脆くも病気で全滅しても、恐らく何の責任もとらないだろう。
非常にタチが悪く、史上最低の企業である。



人間社会の多様性
多様性は人間社会にも必要である。
そして、これが地球を救う一つの手段であると私は強く思う。
人それぞれ考えが違い、感情、感覚も違う。
幸せの感じ方も違うし、好きなものも違うだろう。
全く同じ人間のいるほうが、逆に気持ち悪い。
違う人間だらけだから、何か事故や困難に直面したとき、知恵を出し合って解決できるのだ。

社会もそうだろう。
大なり小なり、私たちの周りにはたくさんの社会がある。
それぞれ役割が違って、それでうまくいく。
良いところは他から取り入れて、または参考にして発展させていく。
もし、同じような社会組織だけだったなら、進歩もなく、ただ何度も崩壊してはまた復活しての繰り返しであっただろう。
ところが最近、小さいものはダメだ、大きいものほどいいという風潮で、合併が促進されている。
この時よく使われるのは、「体力をつける」という言葉だが、この意味を少し考えてみよう。

会社などが合併すると、その中で動かせる資金が多くなるのは確かに利点となる。
大会社ほどさまざまな事業を展開しており、一時的に採算の取れない事業に対して、不足の資金を回して補うことができる。
これが専門事業だけの会社だと、その資金は金融機関からの調達となる。
つまり、大規模経営体ほど、利息を気にしないで資金調達できるのだ。

しかし、これは会社内での解決法であって、社会全体では何の解決にもならない。
見掛けだけ良ければいいと言うものではない。
この手法は非常に排他的で、自身の生き残りしか考えていない。、
正当な市場経済を否定することになり、最終的に、一般消費者の利益になることはない。
なぜなら、市場価格を大企業に支配され、不当な価格がつけられることになるからである。
ましてや、ライバルの専門会社が倒産して、それでも採算の取れないような事業なら、「体力増強」は意味のないものとなる。

所詮、合併合併と叫んでいる人たちは、そんな浅はかなことしか考えていない。
根本的な問題を隠したいか、あるいは考えたくないか、どちらかだ。
よく考えてみよ。
これまでの経済の流れを見るなら、合併後は企業は何をする?
その企業内では、大会社ほど合理化、「肩たたき」するはずだ。
「体力増強」で問題解決しようとするのは、権力側の都合のいい言い分でしかない。
どんな産業界でも、少数化、均一化されれば、独占体質が露出する。
たとえどんなにすばらしい企業であっても、いつかは必ず腐る。
佐高信氏の有名な「鯛は頭から腐る」からもわかるように、どんな良い組織でも必ず頭から腐るのだ。


地方分権と引き換えに、自治体合併が流行している。
合併の理由は決まっていて、「財政の悪化、維持困難、合併で財政強化」しかない。
吸収合併される側はわかっているのだろうか?
たとえ合併しても、その地区の赤字は、赤字でしかない。
自治体の事業なんてものは、事業=赤字で、税金=職員の給料なのだ。
そして、赤字は御用事業請負業者の利益となる。
改善策は、職員の給料を減らすか、あるいは増税となる。
増税を否定されれば、減給か職員の切捨てしかない。
このとおり、赤字事業そのものを見直さない限り、自治体合併に意味はなく、職員の首切り目的と言われてもしかたがないだろう。

ここで、身近な宮古市と田老町について見てみよう。
田老町は、どうにもならない財政赤字らしい。
そもそも規模が小さいなら小さいなりに、事業展開すれば問題はないのだが、格差是正だの、地域振興だの、活性化だのと不合理な事業をするからこうなるのだ。

私は、田老町の小さいゆえ盛り上がるあの運動会を良いものだと思う。
また、漁協主催の組合員祭りや物産展も、小さいゆえ盛り上がっていると思う。
もし宮古市に併合されたら、あの運動会は残るだろうか?
田老には田老の良さがあるはずだ。
それが失われるのはもったいない話である。
合併すればリストラで、自治体の維持費は確かに減るだろう。
しかし、宮古市とて赤字体質なのだ。
合併したからといって財政赤字が改善されるわけではない。
成果は、今後の市長、議会の手腕しだいである。(非常に私は現熊坂市長には期待している。ゆえ、批判は厳しくするつもりだ。)

合併すれば規模は大きくなり、市民の声は通りにくくなる。
それに伴い、自治体の数が減るということは、中央政府にとっては非常に都合が良くなる。
意見の数が少ないということは、まとめやすいからである。
悪く言えば(こっちの方がほとんど)地方を操作しやすい(同時に地方の頭が腐ったら大変だ)。
地方のロボット化が進めば、これも似たり寄ったりの自治体だらけになり、腐敗が横行し始めたら目も当てられない。
他の自治体に学ぶという処方箋もなくなる。
岩手の場合、今の増田知事がしっかりしているから、そうなるとは思えないが、でも、やはり「鯛は頭から腐る」である。
いつかは必ず腐る。(あたりまえ!)

さまざまな組織の多様化は理想ではあるが、それを支えるものがなければやっていけない。
多様化を維持するには、おのおのの価値観をもつことだ。
一人一人の、そして地域には地域の価値観を持つことだ。
そうなれば、誰が金持ちになろうが、威張っていようが気にならなくなる。
その一つの方法として、やはり地域通貨の導入が不可欠だと私は思う。



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