魚菜王国いわて

技術競争物語

物語
アメリカで空中移動バイクが開発された。
自由に空中を移動でき、庭先に着地できる優れた乗り物である。
一方、日本は、まだちょんまげを結っていて、刀を振り回している時代である。
アメリカからゲイツという提督が日本にやってきて、開国をせまり、圧倒的な軍事力を前に、日本はアメリカに服従する。
のび太という人がアメリカにわたり、空中バイクを勉強する。
アメリカ人は、日本人がまだまだバカだということで、その技術をタダで、のび太に教えてくれた。
のび太は帰国し、1年で空中バイクを製品化した。
しかし、日本にはほとんど市場がなく、年に10台ぐらいしか売れない。
一方、アメリカは空中バイク天国。
アメリカ人は「日本なんてバカの国だから、無視してよい」なんて当時思っていた。
10年経ち、日本メーカーのあらゆる技術がどんどん進歩し、世界中から注目を浴びるようになるが、クレームもかなりあった。

「日本人をいじめてやれ」。

日本は世界中からいじめられ、しかしそれにもめげず、真面目にクレームに対応し、壊れない性能の良い製品をどんどん開発していった。
のび太は、空中バイクにGPS装置と3次元レーダーをつけ、自動操縦装置を開発し、売り出した。
目的地をインプットするだけで、障害物を避けて勝手に飛んでいってくれるのである。
これをアメリカへ輸出したら爆発的に売れ、日米貿易摩擦を生んでしまった。
「油断していたら、日本のサルたちは意外に頭がいいようだ。これは何とかしないといけない」と考えたアメリカは、著作権や特許などの知的所有権を主張するようになり、多額な特許使用料を請求するようになる。

以上は、テキトーに私が作った架空の物語です。

日本の生産技術が世界一になった理由
想像ですが、日本の製品は、このようにして、世界のトップになったのだ、と私は思います。
技術というのは開発だけではダメで、売れる製品を作ってこそ、評価されるものです。
ゆえに、技術競争は、消費者のクレームやニーズに真面目に対処することが肝心である、と言えるでしょう。
このクレームに政府の規制も含めるとすれば、例えば、自動車の排ガス規制などで、メーカーはそれに対処しようとします。
私たちにとっては、これが当たり前だと思うんですが、「自動車排気ガスが大好き!」(←ファイル消失)でも書きましたように、アメリカでは、この規制をどうやって回避するか、というほうに重点を置き、その分、日本との技術競争に遅れを取るわけです。
抜け道だらけの規制は、結局、技術競争に敗れる原因を作ります。

そして、問題の特許などを含む知的所有権ですが、欧米の人たちが、技術競争で、日本や他のアジアの国々にかなわなくなったらなったから、主張するようになったんじゃないかなあ、と思うんですよ。
で、この知的所有権にあぐらをかいてばかりいるメーカーは、製品としての開発能力が落ちてくるんじゃないでしょうか。
製品は売れなければ、話になりません。
日本はコピーばかりして自分で発明とか発見をしない、とか良く言われますが、そんなことはないと思います。
製品化の過程で、いろんな特許を取得してしまうほど、研究するんだそうですから。
「製品が売れる」ということは、「非情な“市場原理”が働いている」ということで、そこに知的所有権が入る余地は、厳密にはないんじゃないでしょうか(と思います)。
アメリカのメーカーは、この自然な市場原理よりも、人為的な規制の抜け道や対外的な規則での保護に頼ったために、日本のメーカーに技術力で敗れたのだ、と私は思います。

コピーは製品を進化させる
ここで、知的所有権が主張される以前のコピーの話が、前に紹介した「Linux狂騒曲第3番」という本の中にありました。
中世の陶磁器の文化は、東洋から西洋へとコピーされた歴史があります。
陶磁器以外にもあるようですが、とにかく、コピーは、各地の市場の要求に対して堂々と行われ、互いに良いところをコピーし合って、製品の性能、デザインなどが進化したのでしょう。
このことで、もっともな指摘を引用します。

政治力や軍事力を背景に強引に進めたかどうかは知りませんが、社会的に権利を確立した欧米のブランド品は、自分こそ本物と名乗り、コピー品は悪質なコピーだといって官憲に摘発させることができます。一方、そういう権利が確立してなかった時代にコピーされた東洋の陶磁器は、ヨーロッパの陶磁器をコピーとして摘発できないんです。変といえば変でしょ。
ヨーロッパの陶磁器は、景徳鎮、柿右衛門、古伊万里など、東洋の陶磁器をコピーしまくったものであることは、先の展示にあるように歴史的に明らかなのに、あっちは許されて、ヴィトンなどのプランド品のコピーは許されない。なぜ?って思ったのです。東洋にやってきたイエズス会の宣教師なんて、陶磁器の秘密を盗む産業スパイとしても活躍したという説もあるんですから。
近代の諸権利は欧米が確立してきたから、権利や制度の運用は彼らに都合よくできているわけで、自分らに都合の悪いところはお目こぼしをして、ヨーロッパの陶磁器はセーフ扱いにしたんじゃないか。本物か偽物か、オリジナルかコピーか、あるいはそれを強引にでも社会的に認知させられるかどうかだけの話なんだろうなあと、感じ入ったのです。
(「Linux狂騒曲第3番」p36)

どうしてLinuxの本にこんな陶磁器の話なんかが出てくるか不思議だと思われるかもしれませんが、それは、Linuxがコピーして再配布してもいいよ、っていうOSだからです(前にも書いた)。
結局、良い部分だけをコピーし合い、製品をどんどん高めていけば、その利益はユーザー側にも分配されることなり、ひいては社会全体へと行き渡ることになります。

コピー淘汰
「セルフィッシュ・ジーン」(←ファイル消失)でミームについて触れましたが、良い文化はどんどんコピーされて生き残り、悪い文化は捨てられる、という世の自然の掟に従えば、そもそも「コピー=悪」ではない、と思ったりします。
コピー制限に対しては、先ほどの引用文のほうが事実なんじゃないかなあ、と私は思うんですが、次のように“良く”解釈してみることにします。

技術開発には、おカネもかかるし時間もかかりますから、ある程度、その還元がないと話になりません。
そこに特許などの知的所有権が必要になった。
ここで、極端な知的所有権の主張は、「絶対にコピーするな」ということになります。
そうなると、先ほど書いたコピーによる進化の妨げが出てきて、社会的に損害を被ることになります。
そこで、“ある程度”はコピーも認めて、お互いに製品開発していこう、ということで、そこに特許使用料(ライセンス料?)というおカネで解決を図ったのが、現在の知的所有権の考えなのでしょう。

日本の企業がアメリカの技術からコピーばかりして儲けている、という話もよく聞きますが、仮にそうだとしても、それなりにライセンス料を払っているのでしょう。
それにもかかわらず、日本の製品は安く、性能がよく、壊れにくい。
これじゃ逆に、アメリカの工場は何をやっているのか、ってことになります。
アメリカ人は頭がいいんだ、と言っている傍ら、まるで消費者を馬鹿にしている、とも言えます。
ここでも、消費者のクレームに真面目に取り組んだ日本との差が、歴然と見えてきます。
いくら優れた“ような”技術でも、製品化され、売れて、利益に結びつかないとダメ。
話にならない。
この辺は、ホントに厳しい市場原理がありますから、「優れたような技術」よりも、「売れる製品」のほうが“清く正しく美しい”わけです(笑)。
すなわち、売れる製品とは、ものすごくコピー淘汰されているのです。
これが完全にコピーフリーとなったら、コピー淘汰はもっとすごいでしょうね、きっと。

それにしても、日本の製品は良く売れます。
だから、巨額のアメリカの対日貿易赤字は巨額なのです。
アメリカは、それがおもしろくなくて、いろいろ無理難題を日本に押し付けてきますから、結局、そのような分野で敗れたことを暗に認めているわけです。
副島隆彦さんの「属国日本論」流に言えば、技術競争に勝っても、政治で一気に全部いいように取り返されるから、日本はアメリカの属国なんです。
ということで、文化低国ニッポン(確か佐高信さんが言っていた)というより、政治低国ニッポン、と私は言っておきます。
(2004年7月7日)



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