魚菜王国いわて

フリーダムとリバティ

自由にも2種類ある。貧しい人民大衆の、よりまともな暮らしを求める叫びのことを、だから「フリーダム」という。フリーダムはだから、貧乏人=国民大衆が求める「肌を寄せ合うように、みんなで分かち合う、貧乏くさい自由」です。リベラルズと同根のリバティとはちがう自由です。リバティの方は金持ち、貴族の、勝手放題の自由のことです。フリーダムは貧乏大衆の自由で、リバティは、貴族や大金持ちたちの自由です。
(副島隆彦著「属国日本論を超えて」p214)

今日は、最初に引用しました。
「リベラル」という言葉の変遷というか、一般に使われているこの言葉の本当の意味とその矛盾について、紹介します。
どうして、そんなこと?と思われるかもしれませんが、このサイトは、「自由」がないと成り立ちませんし、中途半端にしたくないからです。
いや、本当は、最近読んだこの本の中に、このサイトに書いたことと同じことが載っていたので、うれしくて。
ただそれだけで〜す(笑)。

ここを読む前に、私が一番最初に書いた「自由とは?」に戻って読んでみてもいいと思います。
最初の引用のあとに、次のように続きます。

だから、リベラルとデモクラシーは、本当は、水と油で、混ざるはずがない。そのように、今でも知識人層のイギリス人は考えている。リベラルはそもそもはトーリー貴族のもので、デモクラシーは貧乏大衆のものだからだ。
(中略)
イギリス知識人たちは、リベラリズム(貴族の自由)とデモクラシー(民衆権力制)は、互いに相い容れないものなのだ、と知っている。それで嘲笑している。日本の「自由民主党」など論外だ。
(前掲書p215)

私もこのサイトのどこかで「自由民主党」なんて政党はおかしい(「自由民主党と民主党」←ファイル消失)、と書いていますから、私はイギリス知識人並?(爆)。
これらの引用文の前段で、「リベラル」の使われ方を書いています。
日本でリベラルといえば、比較的温和な反保守、というような感じの人たちですが、現在のアメリカでも、リベラルといえば、反保守主義者のことで、「革新系」のことだそうです。
本当はリベラルとは、字の通り、イギリスホイッグ(自由主義者、すなわち金持ちのリバティから来るもの)を発祥とする自由主義、すなわち、本物の保守主義のことなんですが、アメリカでねじれてしまい、それが日本にも輸入されたというのが真相のようです。
これが、先ほどの引用文の中で、イギリス知識人たちが嘲笑する理由です。
このことは、アメリカでもすでに訂正がきかない、と副島さんは言っています。
本当は、この「革新系」の平等主義者を、「モダン・リベラル」と呼ぶべきであり、自由主義者こそ「リベラル」なんだそうです。
確か日本でも、ニュー・リベラリズム(どちらかといえばリバータリアニズムに近いもの。「小さな政府」論者たち)とかいう言葉がはやっていましたが、あれは、実は、クラシカル・リベラリズムだったんですねえ。

で、このイギリス知識人の嘲笑の対象となっている「平等主義のリベラル」という言葉の問題を、実は、私は4年前に書いているんですね。
付録「フランス人権宣言にケチ!」にあります。

今回、副島さんの「属国日本論を超えて」から私は引用しましたが、この本は、「学問道場」の「今日のぼやき」を再編集したものだそうです。
「フリーダムとリバティ」という題名の「ぼやき」を書いた日付は、2001年8月7日となっていますから、私は、これを見て投稿したことにはなりません。
念のため。
しかし、投稿文からも分かるとおり、この方の別の著書を、おおかた理解して書いたことには違いありません。
今日は「リベラル」について、でした。
(2004年5月6日)



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