修道院長の選出について

2009年5月2日(土)〜5日(火)の日程で、日本の聖ベネディクト女子修道院の院長選挙が行われます。
院長の任期は4年で2005五年にSr.テレジア齋藤弘子が再選されましたので今年で任期満了となりました。
この選挙のために、アメリカから連合会会長Sr.マケラ・ヘディカンを議長として迎えます。
ぜひ、皆様にこの選挙のため、私たち共同体が霊的識別をし、選挙に臨むことが出来るようにお祈りで支えていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
そこで今回は、ベネディクト修道院の院長についての文献をお届けしたいと思います。
「聖ベネディクト修道院」 澤田昭夫1986から、院長についての項から抜粋し掲載します。

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大院長(アバス)
 神を聴き、神に従い、謙遜に共同体に定住し、節度をもって、 そしてなによりもキリストへの愛にひかれて祈りと霊的読書と労働の生活に励むというのが戒律に表われたベネディクト的霊性の要素ですが、 この戒律に則した共同生活の具体的な推進役、ベネディクト的修道生活のかなめとなって戒則の肉づけを行なうのは大修道院長(アバス)です。
したがってベネディクト修道院とは、戒律と院長のもとに営まれる共同生活といわれます。

 「大院長」という訳語では十分に意味が伝えられないラテン原語のアバスは、 天なる神の呼び名としてイエズスがすすめて下さったアラメア語のアッバから出て、 それと同じく、「父」を意味します。
アバスは、神中心の、聖なる、したがって最も人間らしい豊かな生き方を修道士たちに、ことばと生活をもって、 特に生活模範をもって教えさとす父親です。ベネディクト修道院の大院長(アバス)は単なる上下関係の長、指揮官(レクトール)、上長(スペリオール) ではなく、修道院という大きい家族の中心としての おやじ≠ナす。
共同体の秩序を維持し、戒律への従順を守らせ、悪徳の回避と善徳の実行を勧める彼は、 自らの生活が立派で、賢明で、教師、管理人に必要な知識、公正、平等など、さまざまな素質を備えていなければなりません。
しかしアバスは理想的には牧者、医者の比喩で、さらに父親の比喩でよりよく代表される思いやりと慈悲、そして深慮分別の人です。

 アバスは修道士たちに、共同体への従順を要求する立場にはありますが「神の家」たる修道院のなかに心を痛め悲しんでいるものがないように、 処罰に際しても「傷ついた葦が折れることのないように」十分に気配りする慈父です。
ベネディクトの戒律の大きな特徴は、弱い者、肉体的あるいは精神的に弱い修道士への思いやり、 そして幼児、老人、病人、貧しいものへの思いやりを父親たるアバスに期待していることです。
迷った兄弟のためにみなが祈るようしむけるのも父親のしごとです。
巡礼や来客を親切にもてなす、いわゆる「ベネディクト的歓待(ホスピタリタス)」もアバスの責任のひとつとされています。

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 深慮分別の原語ディスクレティオも現代語に訳し難いことばですが、 それは、ひっこみ思案になり勝ちな単なる慎ましさのことではありません。
それは節度と慎ましさを意味することもありますが、中国語では明弁(ミンビエン)ともいわれるディスクレティオは、 本質的なものとそうでないもの、どうしても守るべきもの、どうしても排除すべきもの、どちらでもよいもの、 それらを弁別、識別する働きを指します。一般原則を適用する場合に個々の人間、個々の状況の特殊性に気をつけ、 杓子定規(しゃくしじょうぎ)にならないよう配慮するのも深慮分別です。 それは、軽率、軽々しさとは対立する落ちつき(グラウイ)重厚(タス)さにつながります。
そして落ちつき、重厚さもよくベネディクト的霊性の一側面と見なされているものです。
節度の母でもあり、戒律によれば、万徳の母でもある深慮分別は、みんなに、しかし特にアバスに期待されている資質です。

 深慮分別は、生きた、現実の人間、つまり弱さや欠点だらけの人間をそのまま受け入れるおおらかさともつながります。
戒律はその意味できわめて現実的です。

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 沈黙を守らず、悪口や不平たらたらの修道士、酒好きの修道士、そして戒律を十分に守らない大院長さえいることを率直に認め、 「われわれ怠け者で、いいかげんな修道士は」と自ら告白したり、 また修道士に配る修道服が短かすぎないように気をつけよ、とアバスに要求したりする戒律は、 ユーモラスといえるほどの人間愛(ファニタス)、おおらかさ、そして深慮分別で満たされています。

 アバスにこの深慮があればこそベネディクト修道院はピューリタン的厳しさ、熱狂的セクトの狭さや陰湿さとは無縁な、 喜びで満たされた明るい家族的共同体になるのです。特にアバスに期待される深慮分別こそが、この戒律を広く普及させた原因です。

 ところで、父親たるアバスは、自治修道院の最高権威ですが、その権威はそれ自体のためのものではなく、 キリストへの尊敬と愛のための権威です。アバスが教え、命じることは、すべてキリストの掟に則したものであるはずですから、 彼に聴くことはキリストに聴くことになります。アバスは結局、父なる神に対してアバス職の報告を義務づけられている、 「神の家」の家令なのです。