聖ベネディクト修道院のオブレートの皆様への講話

※今回は聖ベネディクト連合会会長シスタースーザンハッチンスが昨年、台湾のオブレートへ向けて話された講話の一部を抜粋してご紹介させて頂きます。

 ベネディクト会の1500年の歴史を通してずっと、神と自分達との関係を深めることを望んだ、キリスト教の女性達と男性達が常に存在してきました。
私は、あなた方が、自分自身の心の内部で、神に対するあの憧れを感じてこられたと確信しています。
私達は、私達の旅が神へと向かう旅であること、また、私達がそのことを、私達の祈り、私達の教会、私達の生活体験、私達の教育、私達の感覚、及び、時間の経過を通して、もっと自覚するようになることを知っています。

 ベネディクト会のオブレートとは、聖ベネディクトの古代の知恵で、自分達の生活を富ませることを探っている、キリスト教の男女の信徒達です。
彼らは、イエス・キリストの福音書と、修道院的な知恵の上に築かれた、聖ベネディクトの戒律に従って生き抜かれたものとしての、ベネディクトの霊性が吹き込まれることを望んでいます。

 信徒の人々は、自分達の業務、家族、及び、住まいを維持する一方で、より深い方法で自分自身を神に捧げること──これこそ、「オブレート・与えること」の意味──に彼らを導く養成の過程を通して、ある特定の修道院と自ら関わり合っています。
これらの男性・女性達は、彼らの特定の生活環境の中で、彼らができる限りにおいて、祈り、lectio divina(聖書を読むこと)、労働、来客の接待、管理、生活の簡素さ、聖なる余暇、平和、従順、沈黙、及び、謙遜という、修道院的な価値を生きることを約束します。
また、彼らは孤独ではなく、また、これは新しい思想でもありません。
すなわち、数百年間、人々は自分達の神への旅で、福音書を生きるために、ベネディクトの戒律のさまざまな原則を適応してきているものだからです。

 聖ベネディクトの戒律は、福音書に従うための実践的な指針となることを目的としています、すなわち、それは一つの掟のような戒律ではなく──むしろ、イエスが生きられたように生きるため、人々の心を導くための一つの指針です。

 献身は、神からの呼びかけに答えた生活様式に従うことを意味します。
丁度、誓願を宣立したベネディクト会の修道女が、自分自身を、ある特定の修道院に委ねるのと同じように、オブレート達は、あなた方が行ったように、自分自身を、ある特定の修道院に、また、他のオブレート達に委ねます。
これらの共同体の背景の内部でこそ、オブレート達は、霊的な糧と励ましを受け取り、また、彼ら自身の時間、才能、及び、知恵を、他のオブレート達と、修道院のさまざまな共同体の善に捧げます。
彼らは、自分達の知恵と神への愛を、他の人々と分かち合うことによって、自分達が受け取る糧に答えます。
それこそ、一人のベネディクト会のオブレートの委託であり、また、義務なのです。

 彼らは、修道院的なさまざまな価値を、彼らの日々の生活の中で、ベネディクトの戒律の知恵を適応することによって、この世の中に運び入れます。
彼らは、彼らの家庭の中と、彼らの教会共同体の中で働いておられる神に耳を傾け、また、その神に従います。

 ある日の夕方に、私は、喜ばしいさまざまな神秘を用いながらロザリオを唱えていました。
また、私はそれらの神秘と、オブレートになることへの呼びかけの間の関係について考えました。
結局のところ──誓願を宣立した一人のシスターとしてであっても、あるいは、一人のオブレートとしてであっても──あらゆる呼びかけが、丁度、この世の内部での神の働きが一つの神秘であるのと同じように、私達にとって一つの神秘なのです。

 確かに、イエスの母になるようにとの、マリアへの神の呼びかけは、歴史の中に他のどんな呼びかけとも似ていない呼びかけでした。
しかしそれは、愛と感謝で、あふれるほどに彼女を満たしましたが、私達はそのことを、マグニフィカトの中の彼女の答え、すなわち、「私の魂は主を讃え、私の霊は私の救い主である神において喜ぶ」から知っています。
ひとたび、彼女があの呼びかけを受け取ると、彼女の生活は変えられました──その時からずっと、イエスを生むことから、一人の子供としてイエスを教えること、彼に水をブドウ酒に変えることを願うこと、十字架の足下に立つこと、 そして、彼が死ぬのを見つめることまで、彼女が行ったあらゆることは、あの呼びかけのゆえになされたのであり、また、彼女が「はい」と答えて、その「はい」の結果として、神への道の上で自分の生活を生きたからなのです。

 最初の喜ばしい神秘は、あなた方が知っているように、お告げです。マリアはお告げの時、自分の呼びかけを受け取ったように、私達は私達の洗礼の時に、私達の呼びかけを受け取りました。
私達はあの洗礼のゆえに、新しい方法で神の子供となりました。
あれは最初の呼びかけであり、キリスト教への私達の入信という答えなのです。

 第二の神秘はご訪問です。
おそらく、マリアがエリザベトに対して行った訪問は、一人のオブレートとなるための養成の時期に比べることができます。
マリアは、あの時に、自分と同様、一人の子供を懐胎していた、自分の年長者であるエリザベトの知恵を求めました。
一人の人が、自分達の心の中に、神に対する自らのあこがれに答えて、より深く生きることへのあの引っ張る力を感じる時、彼らは一人の探求者となります── 彼らは聖ベネディクトのあり方を研究して、それを、自分自身の生活にどのように適応できるか研究します。
マリアがエリザベトと共に行ったように、彼らは他の人々──オブレートの指導者、及び、他のオブレート達──の知恵を探します。
それは、一人のオブレートのための養成の、最初の段階です。

 ロザリオの第三の喜ばしい神秘は御降誕──キリストの誕生です。私達はこれを、一人のオブレートのための志願の時期と比べます。一人の志願者は、読書を通して、また、さまざまな会合と祈りへの参加を通して、ベネディクトの霊性についての自分達の自覚を深めるので、彼らは、彼らが以前に見たことがなかった方法で、キリストを他の人々の中に見ることを開始し、彼らは何か新しいものになります。彼らの生活はもっと深く、また、もっと喜ばしいものになります。

 第四の神秘は、一人の子供として、神殿の中でのイエスの紹介です。
オブレートになるに当たり、あなた方は、新しい方法で自分自身を神に示します。
あなた方は自分自身の奉献──自己の贈り物──、あなた方がこれまで決してしたことのなかった方法での、神への捧げ物を行います。
あなた方はキリストの忠実な証人となることに自分自身を委ね、また、ベネディクト的なさまざまな価値を、生活の中で、ベネディクト会の共同体の支えと共に生き抜くことに身を委ねます。
また、あなた方の内部におられる神であるキリストに差し出します。
それもまた、人々が神に対してなす贈り物の一部となります。

 ロザリオの第五の喜ばしい神秘において、イエスは、三日間、見失われた後、神殿の中で、マリアとヨセフによって見出されます。
そこでは、イエスは、他の人々と御自分の知恵と知識を分かち合っておられます。
そこには、一人のオブレートの生活との驚くべき結びつきが存在します。
それは一人のオブレートのための志願の約束になります、なぜなら、彼らは、彼ら自身の生活の中で、ベネディクト的なさまざまな価値を生きることを探しており、また、たとえば、オブレートの集会の中での、 また、探求心のある友人達との、彼らの言葉を通してだけでなく、彼らがそれらの価値を生きるような、彼らの活動を通しても、他の人々と自分達の知恵を分かち合うことを探しているからです。
一人のオブレートは、神に向かう、より深い霊的な旅への、この呼びかけに従おうと試みている他の人々も助けます。

 ベネディクトは修道院生活を、神の奉仕の学校の中に存在するものとして言及します。
そこでこそ、私達は、天国を求め、また、より高い徳の頂点を求めて手を伸ばすことを学びます。
最も単純なさまざまな活動、すなわち、親切な言葉、あるいは、寛大な行為、控えめな活動、あるいは、心からわき出る祈りが、地上にちょっとした天国をもたらします。

 今、あらゆるオブレートが自己を委ねるベネディクト的なさまざまなカリスマ、あるいは、価値のいくつかを眺めることにいたしましょう。

・従順
 従順という言葉は、ベネディクトの戒律の最初の言葉である、「耳を傾けなさい」という言葉と同じ語源から派生しています。
最初に、私達は私達の生活の中、聖書の中、戒律の中の神の声に耳を傾けなければなりません、そしてそれから、私達は、従順への私達の呼びかけを理解し始めることができます。
耳を傾けることは、統合された、謙遜と従順の態度を、教える人に合わせることです。
あなた方の心の耳で耳を傾けることは、まさしく聞く行為以上のことです、つまりそれは、あなた方の知性と、あなた方の感情的な存在全体で耳を傾けることを意味しています。
私達は、私達の生活の中で、また、この時に、私達がどこで、また、どのような方法で、神の意志に従うように呼ばれているか確認するため、私達の内部での神の声に応答します。
それこそ、私達の従順の意味です。

 従順は最初に、神とキリストに対するもの、つまり、マリアがしたように、また、キリストがなさったように「はい」と言うことであることを心に留めるのは良いことです。
しかし、それはまた、お互いに対する従順、すなわち、私達の家族と配偶者達に対する、私達の友人達に対する従順も含んでいます。
私達は一緒に生活するので、そのことは、お互いの謙遜な受容を要求します。
それは、譲り合うこと、相互の赦し、私達自身の関心の前に、誰か他の人の関心を置くこと、忍耐を実践することを含んでいます。
それはキリスト──各々の人の中に存在されるあのキリスト──への愛のために、日々、生きて、死ぬという過越の神秘です

・平和
 平和の価値を生き抜くために、私達は最初、私達自身の内部で、平和の人にならなければなりません。
その後に、その平和は、その人の住まいの中に、その人の家庭、その人の隣人、あるいは、仕事の場所の中にあふれ出てくるでしょう。
おそらく、あなた方は:Let there be peace on earth:「地上に平和が存在しますように」という歌になじみがあるでしょう。
その歌の中で、私達にとって最高の一行は、「平和が私と共に始まりますように」です。
なぜなら、私達は、もし各々の人が世界に平和をもたらさないなら、世界は決して平和で満たされることができないだろうと知っているからです。

訳・ヨハネ・バプチスタ坂本師(西宮聖母修道院付き司祭)