オブレートだより

2021年6月 第38号 6月号 発行 聖ベネディクト女子修道院

オブレートだより

-- 2020年クリスマス号の続き --

「ヨハネ・パウロⅡ世教皇書簡」の抜粋

(聖ベネディクトゥス生誕1500年に際して発布された使徒的手紙)

Ⅲ《何ものもキリストの愛に優先させてはならない》

 聖ベネディクトゥスの時代の教会共同体と人間社会は、色々な点で現代の状況と似ています。
聖ベネディクトゥスの時代には、政治的混乱、未来への不確実さ、切迫したあるいは既に勃発している戦争などによって、色々な悪が誘発され人々の精神 は大打撃を受け、人々は恐怖のどん底に突き落とされていました。
そして人生の意義そのものが不確実であやふやなものになりかけていました。

 教会の内部でも、果てしなく続いたアリウス派との論争がやっと収まったところでした。
その論争によって、人々は一層深い洞察力をもって、神の諸神秘、特に御子の神性の測り知れない真理と、その人性の現実について考えをめぐらしていました。
これらすべてのことに関しては、聖ペトロの後継者であるローマ司教聖大レオのことばの中に、そのこだまを聞き取ることができます。

 このような状態を考えて、聖ベネディクトゥスは神と教会の生きた伝統のうちに、光とたどるべき道を求めていました。
彼の与える勧告は、この地上の遍歴においてどんな状況に置かれている人でも、キリスト信者なら、だれでも踏み行なうべき義務の手引きだと言えるでしょう。

イエズス・キリストは絶対不可欠な根元的な中心です。
一切のものが意味を持ち、堅固に存在し得るようになるためには、キリストへ集約されなければなりません。
聖ベネディクトゥスは、カルタゴの司教聖シプリアヌスのことばを思い出させながら、力強く荘重に《何ものもキリストの愛に優先させてはならない》(戒律4・21。72・11)と断言しています。
人間も事物もキリストへの一致の度合に応じて、力と価値も持つようになります。
この真理の光に照らして、それらの事物を考え評価しなければなりません。 修道院にいるすべての人、すなわちその 指導者(つまり父である修道院長)から見知らぬ貧しい客まで、また病人から小さい兄弟にいたるまで、すべてがキリストの生きた現存を指し示しています。
物品そのものも被造物に対する神の愛のしるしであり、また人を神に昇らせて行く愛のしるしであります。
そればかりか、《聖器や仕事の道具でさえもあたかも祭壇の聖具であるかのように扱わなければなりません》(戒律31・10参照)。

 聖ベネディクトゥスが示すものは、机上の神学的考察ではありません。
それはむしろ、生きた体験から汲んだ真理から出発して、神学を生活の中に移すための思考と行動の仕方を、人々の精神の中に刻み付けるものです。
彼が心がけていたことは、キリストについての色々な真理を話すよりも、むしろキリストの神秘を真実に生きること、そしてキリストの神秘から生じてくる「キリスト中心主義」を生きることでした。

 私たちは日常生活の現実を、まず第一に超自然的に考える、すなわち受肉の真理をいつも踏まえた上で、その光の中で考えなければなりません。
神を信じる者には人間的なことを忘れることは許されませんし、また人間に対しても忠実を尽くさなければなりません。
 ですから「縦の線」(今ようの表現を使うなら)が私たちの義務であり、この縦の線が祈りに対する献身という形で表現されるとするならば、同様に「横の線」から生じる要求にも調和よく答えなけなればなりません。
その横の線の主要なものは「奉仕の業」であります。

 従って、修道院的な兄弟生活においては、《信仰によってキリストの代理者と見なされている》(戒律63・13。同2・2参照)修道院長の指導のもとに、聖ベネディクトゥスは生活の指針となるべき道を示しています。 その道の特徴とは完全な均衡ということであります。

 孤独と共同体、祈りと労働とを一つに結びつけるこの道を、この世に生きている人間は、私たちの時代においてもまたたどらなければならないのです。
(もちろん、この道のさまざまな要素の一つ一つに与えられるべき価値は、各々の場合に正確に量られる必要があるでしょう。)
そうすることによってこそ、修道士は自らの召命を十分に果たすことができるのです。
(次号につづく)