シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

 

美術と岩内(3)

 
 
 
 

 漢詩、書、画に秀でた「漢書画三絶」の文人墨客であった富岡鉄斉は、 1837 (天保7)年に京都三条の法衣商十一屋に生まれました。鉄斉は生まれつきの斜視で、幼い頃に患った病で難聴になったといわれています。
  鉄斉の生家の家学は石田梅岩の唱える石門心学でした。石門心学は、儒教、仏教、神学を融合した人生観で、制度における士農工商は身分の差ではなく職種の違いと説き、商業活動の重要性、商人の必要を呈し「町人もまた人間である」という識見を示したことにより、商人はじめ庶民の間へと広まって行きました。これは、鉄斉の子供の時分に世間を見る尺度だったのです。
  少年時代に国学と漢文を学び、19歳で窪田 雪 ( せつ ) 鷹 ( よう ) に絵の手ほどきを受けました。また、大和絵は宇喜田 一 ( いっけい ) の影響を受けたと言われていますが、南画、明清画、大和絵、大津絵は独学で習得していたのでした。鉄斉という号は 25 歳の頃からのものです。初婚は 32 歳になってで妻の達は 19 歳でしたが、2年後に死別してしまいます。二度目は離別でした。三度目の妻は春子で、性格はきつかったが晩年まで生活を伴にしました。この結婚を仕組んだのは鉄斉の友人で、春子に偉い学問の師匠を紹介してやるということが出会いとなったのでした。
  明治7年、鉄斉は北海道の旅に出ます。6月 20 日に京都を出発し、 21 日に大阪から船に乗り東京へ。そこで北海道の旅をすすめてくれた松浦武四郎をはじめ親交のある友人に会いました。尽きぬ話をあとに、北海道への思いをはせ船で函館へ向かい7月 23 日に着。 27 日に函館を出発し室蘭、幌別、白老、苫細をまわり、8月1日に札幌へ。石狩などを探り歩き、7日に小樽を発ち、余市、古平、美国、そして積丹へ行きますが道が途絶えていたので余市へひき返します。 10 日、ツクヤ(チユクニか?現仁木町大江)を発ちます。人家がなく道の悪い稲穂峠を越えて岩内へ入りました。「岩内海湾人家稠密、頗好港」とあります。当時岩内には 487 戸、 2112 人(明治5年岩内郡開拓使出張所調)が住んでいました。次の磯谷へは「此処より海陸二つあり五里磯谷に至る」と海路と陸路のとり方がありましたが、鉄斉は陸路をとり雷電を越え磯谷へ出て、 歌棄 ( うたすつ ) を通り 16 日函館へもどりました。 26 日に青森へ渡り、東北、関東をまわり横浜から汽船に乗り、 10 月6日に帰洛しました。北海道の旅は、道が悪く、馬と徒歩の旅でしたが、アイヌの熊祭りや、アツシ織り、チセの建て方などを見て歩いて、アイヌの生活や習慣を「旧蝦夷風俗画」として描きました。
  明治9年に石上神社の少宮司に、のち大鳥神社の宮司を任ぜられましたが、明治 14 年に依願免官しました。同年 12 月に京都に移り大正 13 年、 89 歳でこの世を去るまで薬屋町で過ごしました。画室を「無量寿仏堂」と名付け 80 歳になっても旺盛な制作活動をつづけました。「権門に屈せず。富貴に媚びず」という姿勢で生涯を過ごしたのです。画題は、不老長寿、蓬莱山などのように神仙思想を求め東洋画をつきつめ独自の手法を完成していったのでした。それは、後期印象派の画風にも通じるものがあったのです。
  木田金次郎は晩年日本画の研究にも熱心でした。特に鉄斉には強い関心を持っていたといわれます。
                                                     (R.M)

参考文献   吉川弘文館 人物叢書    
小高根太郎著 『富岡鉄斉』
 
 
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