城跡 |
北陸の城といえば戦国時代。登場人物は織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家、などのビッグネーム。 そして、富山と言えば佐々成政。更に上杉謙信。能登と同様にこれら登場人物がいくつかの城を取ったり、取られたり。そこに加賀一向一揆!本願寺!だれが天下を取るか。 結果は御承知の通りだが、近年あまりパットしない越前から能登、越中もツワモノタチ、モノノフタチが夢をめぐらす主戦場として輝いていたのだろう。 聞いたことはあるが歴史にどんな役割をした城なのか。ちょっと調べれば今の時代、目からウロコ。 聞いたことがある程度の城とあの有名武将との関係が続々と発覚。 でもここまで。私は城おたくではない。 |
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延喜式内越中 富山の神社他
御朱印 遺跡古墳 城・国宝 越中の滝 印
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阿尾城址 | 安田城址 | 井波城址 | 魚津城跡 | 高岡城址公園 | 白鳥城址 |
築城時期不明 八代(屋代)氏 菊池氏天正・文禄年間 (1573~1592) 前田利家と佐々成政との阿尾城攻防戦(天正12年)利家勝利後、前田慶次郎入城 |
富山の役の際の、白鳥城の支城。成政が降伏後、前田家の武将岡嶋喜三郎一吉が城主。慶長年間に廃城。 |
1390瑞泉寺創建。 石黒氏が衰退、それに代わって瑞泉寺率いる一向一揆勢の台頭。 1579佐々成政に攻められて落城。 成政が降伏後前田管理下に廃城。 ようするに井波城は瑞泉寺が武装要塞化した城だったということか。 |
1335年椎名孫八入道によって築城。戦国時代に上杉軍の手に落ちた。以後上杉氏の重要拠点、河田長親が長く城代を務めた。1582年織田軍と上杉軍攻防戦-魚津城の戦い。その後、1583年佐々成政により城将須田満親は降伏開城、上杉氏による支配終焉。元和の一国一城令により廃城。今は小学校庭に石碑のみ。 |
築城主 前田利長 築城年 1609年(慶長14年) ↓ 廃城年 1615年(元和元年) 主な城主 前田利長 |
寿永2年(1183)、ここで木曽義仲の武将今井四郎兼平が陣を. 越中守護代神保長職築城、神保氏の降伏により上杉へ。 元亀3年(1572年)一向一揆方へ。その後佐々成政の支城。 天正18年(1585年)に羽柴秀吉(富山の役) その後は前田利家。 |
富山城 模擬天守 | 木舟城跡 | 宮崎城跡 | |||
築城 神保長職、水越勝重? 築城年 天文12年(1543年) ↓ 廃城年 明治4年(1871年) 主な改修者 佐々成政、 前田利次 主な城主:前田氏、神保氏、佐々氏 |
1184倶利伽羅峠の戦いにも参加した地元豪族石黒光弘が居城。1574上杉謙信に攻められ降伏。1580石黒氏は滅亡し、その後佐々成政の支配下となる。1585、豊臣秀吉の北国征伐により成政が降伏前田利家の末弟である秀継が城主となる。天正大地震発生し1586廃城となる。 |
城山地塊(標高249メートル)の山頂から山腹を利用して築かれた、天嶮と交通要地を押さえた防塞。 平安時代の終わりに近い寿永2年(1183)に、平家討伐の令旨を受けた木曽義仲が宮崎城の豪族宮崎太郎の一党とともに、後白河法皇の第二皇子「以仁王」の第一皇子「北陸の宮」をこの陣営に迎え入れて奉戴し、越中進攻と入京の足掛かりを固めた城である。 別名 荒山城、泊城、境城、堺城 築城主 宮崎太郎長康? 築城年 1183年? 主な改修者 長尾氏・上杉氏 主な城主 宮崎氏、椎名氏、柿崎景家(長尾氏)、丹羽氏(佐々氏)、土肥政繁(上杉氏)、青山氏(前田氏) 廃城年 1614年以降 下新川郡朝日町城山 |
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国宝
国宝 山門 | 国宝 仏殿 | 国宝 法堂 | 国宝 本堂 | 国宝 大広間,式台 |
瑞龍寺 正保2年(1645年) |
瑞龍寺 万治2年(1659年) |
瑞龍寺 明暦元年(1655年) |
雲龍山 勝興寺 | 雲龍山 勝興寺 国宝 大広間 承応2年(1653年) 国宝 式台 18世紀末建立 |