天と地

     『天と地をつなぐ者』 より   著者・五井昌久

天と地ついに合体す
(P166)

私は例のごとく就寝前の瞑想に入った。
想念停止の練習により、私は直ちに統一することができる。その夜、統一したと思うと、吸う息がなくなり吐く息のみがつづいた。 すると目の前に天までもつづいているかと思える水晶のように澄みきった太く円い柱が現れ、私は吐く息にのり、その太柱を伝わって上昇しはじめた。
上昇してゆくと、上に少し黄ばんだ灰色の雲の層が、ちょうどある雲界の境界線のように、下の界と一線を画している。 私はなんの障りもなく、その境界線をとおりぬけると、今度は真っ白な雲の層に出た。
これもなんでもなくすぎ、青雲、緑、青緑、赤緑、と各光線の層をとおりすぎて、7つ目の金色に輝く雲界をぬけ出た時、全くの光明燦然、あらゆる色を総合して純化した、光明とでもいうような光の中に、金色に輝く椅子に腰かけ、昔の公卿のかぶっていたと思われる紫色の冠をかぶった私がいる。
“あっ”と思う間もなく、私の意識はその中に合体してしまった。
合体した私は静かに立ち上がる。 確かにそこは神界である。
様々な神々が去来するのがみえる。富士山のような山もあり、満々と水をたたえている河もある。それこそ竜宮城のような建物もある。 上から下へ、右から左へ、左から右へ、しきりにあらゆる光の波が流れている。
不思議なことに一か所にとどまっていながら、そうした情景が次々にみえてくるのである。
天の私(真我)に地の私が合体してとどまっているこの現実。
霊的神我一体観が、ついに実写的神我一体観として、私の自意識が今確認しているのである。
想念停止の練習時には、もうすこし上に、もう一段上に自分の本体がある、と実感しながら、いままで合体できなかったその本体に、そのとき正しく合体したのである。
わが内なる光が、すべての障害を消滅せしめて、大なる発光をしたのである。 その時以来、私は光そのものとして自己を観じ、私の内部の光を放射することによって、悩める者、悲しむ者を治しているのである。
天とは人間の奥深い内部であり、神我とは内奥の無我の光そのものであることも、そのときはっきり認識した。
一言実行がついに百知を越えて、自己の本体を直接把握し得たのである。天に昇ったということは、自己の内奥深く入っていった、という事と同一なのである。
空間的にみれば、天の本体に合体したのであり、直覚的には、内なる神と合一したのである。
その間、現象的時間にして約30分であった。
想念停止(空観)とは、空そのものが終局ではなかったのである。 空になるときは、現象的、この世的すべての想念を、一旦消滅し去って、その「空」となった瞬間、真実の世界、真実の我(われ)がこの現象面の世界、現象面の我と合体して、天地一体、神我一体の我が出現してくるのである。 真我の我とは一体何か。 神我であり、慈愛であり、調和であり、自由自在な心である
それを完全に表現し得たのが釈迦牟尼仏であったのだ。
釈尊は完全なる理論を持ち、完全なる慈愛を持ち、そして完成された霊力、神秘力をもっていた。理論がいかに完全でもあっても、理論だけでは大聖ではない。霊力、神秘力がいかに優れていても、それだけでは大聖ではない。完全なる慈愛を根底にして、完成された理論と、完全なる霊力、神秘力を持っていなければ、自由自在にこの世界の業を消滅させ、地上世界を救う中心者とはいい得ない。
私は今更にして釈尊の偉大さをしのぶのである。私がこのように唯一の尊者として畏敬する釈迦牟世尊が、そのあくる朝の瞑想時に、忽然としてわが前に現れ給うたのである。
瞑想してややしばらくした時、目の前がたたならぬ光景に輝いてきた。私は瞑想を動かさず、ひたすらその光明をみつめている。すると、前方はるか上方より、仏像そのままの釈尊が、純白の蓮華台に結跏趺坐されて降りてこられ、私のほうに両手を出された。
私も思わず両手を差し出すと、如意宝珠かと思われる金色の珠を、私の掌に乗せて下さった。私は何も想わず押し頂き、霊体の懐におさめた。すると釈尊はまた一つ、それよりも少し小さい、やはり金色に輝く珠を私に下さる。私はこれをまた押しいただいて、同じように懐に入れた。その後、現象界でいうおさかきのような葉を5枚下さって、そのまま、光輝燦然と消えてゆかれた。
わたしはしばらく釈尊を御見送りする気持ちで瞑想を続けていると、今度はやはり光り輝く中から、金色の十字架を背負ったイエスキリストが現れるとみるまに、私の体中に真向うから突入してきて消えた。
その時、“汝はキリストと同体なり”という声が激しく耳に残った。 私のその朝の瞑想は、その声を耳底に残したまま終わってしまった。私は深い感動というより、痛いほどの使命感を胸底深く感じていた。 そのことが単なる幻想でないことを、の魂がはっきり知っていた。
“汝は今日より自由自在なり、天命を完うすべし”という内奥の声をはっきり聞いていたからである。
私は直覚的にすべてを知り得る者、霊覚者となっていたのである。
私はその日から表面は全く昔の私、つまり霊魂問題に夢中にならなかった以前の私に還元していた。私はすべてを私自身で考え、私自身の言葉で語り、私自身の手足で動き、私自身の微笑で人に向き合った。
私の眼はもはや宙をみつめることはなく、私の表情は柔和に自由に心の動きを表現した。
(後略)
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著書 『天と地をつなぐ者』 には、常人の理解を超えた現象を種々と体験された様子が著されています。
想念停止修行の最終段階を突破し、霊的神我一体観を自覚した著者は、そののち、究極の不可思議体験をします。それが写実的神我一体観の実現であったわけです。
就寝前の瞑想をしたまま、霊体がどんどん次元上昇し、遂には神界の自己である直霊との写実的一体が実現したことがわかります。
肉体生命の粗い波動体では絶対に実現しないことです。 ということはやり、一度昇天して、あの世の存在を実体験したと考えられます。 でもそこで終わらないのが著者の体験の凄いところです。
地上界での使命を果たすために、宇宙大神様の神意を得て、直霊の生命が地上の肉体の中に再臨したと考えられます。

私は今還相(げんそう)として、地上界にいるのである。
往相から還相に、私は相手の悩みを私の悩みとし、相手の哀しみを己の哀しみとし、相手の立場を自分の立場として、霊覚による指導をしているのである。

という文章がそれを証しています。
往相とは、この世を基点に、天に救われて昇りゆくすがたとすれば、還相とは苦しみを救い上げるために、天から地上に降りてくる光り、働きであることになります。
更に著者は自分が何故、危険で困難な霊的修行を無事に完了できたのか、その理由についても書いています。それと同時に、不可思議能力を得たいという欲望や興味本位の探求行為を、危険と断じています。 とても大事な部分なので、本文の文章の一部を以下に掲載します
 

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天と地ついに合体す (P172)

私は現在まで様々な宗教をとおってきて、最後に守護神の指導による霊的直接体験の後、自由自在な心、光り輝く本体として、地上界の使命達成の本格的第一歩を踏み出したわけであるが、あの苦しい霊的修行をよくも耐え得たと、いまさらながら思うのである。
耐え得た力の原動力は、親友と弟が背後にいるという安心感と、私の心の中には、人を愛し、人類の大調和を願う想いよりなかった、という強い信念の二つであったようだ。
狂人の一歩手前、悶死の一歩手前に追いつめられたことが幾度びもあったが、結局その境界から私を救ったのは、私の自己を信ずる力であり、神の愛を信ずる確信であった。 しかしもし私の中に、自己欲望で霊力、神秘力を望む想いがあったとしたら、私は現在の私にはなり得なかったに違いない。
死を一歩前にみつめたときに必ず、自己の過去における想念や行為が走馬灯のように脳裏をかけめぐるものなのである。 もし自己欲望によって、霊能を望んだとしたら、その人はけっして真の霊覚者にはなりえない。
なぜなら、自己欲望という低い想念の波をつけたままでは、到底高い霊界、神界には昇り得ないからである。
この世界には厳然たる法則があるのであり、確然とした段階があるのである。 自己欲望の放棄如何が、その順位に非常に関係があるのである。
したがって、ある種の霊力をもって、人に優越してみたいとか、地位を得たい、お金を儲けたい、とかいう自己欲望で、霊能を得る修行をしたとするならば、それと同種類の欲望を持った幽界の生物たちが、神をよそおって憑依してくるのである。
(中略)
私は私の体験を通して、この危険を熟知しているので、いたずらに霊能を欲することを戒めているのです。
そして「あなた方の背後には祖先の悟った人たちが守護霊として、守護神として守っているのだから、常に守護神、守護霊の加護を念じながら、すべてのことを運んでいきなさい」と教えているのです。
つねに守護霊、守護神を念じていれば、霊能の必要な人には正しい霊能が授かり、危険な事があれば、なんらかの方法で必然的に救われるようにしてくださる、と教えるのです。
これは私の背後に、誕生以前より、私を守護し、指導していた守護神、守護霊が厳然と控えていたことを、すべての修行のすんだ直後に、はっきり知ったからである。(中略)
守護霊、守護神なくしては、この地上世界に宇宙神の理念は絶対に実現しないことを、私は実にはっきりと知っているのである。(後略)

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