役小角大行者                


 昨今、私たちが電気機械製品の発明発見によって享受している便利さは、電気電波という科学的エネルギーの有効利用開発の成果によるのでしょうか。 とても便利な今の時代に至ってみれば、かって不便さを不便とも思わず、誰もがそれを普通であると受け入れて一生懸命生きた、そんな時代がいかに長かったかを、知ることができます。
そして長い歴史に偉大な足跡を残した先人たちの活躍の記憶を、随意にピックアップして知ることが出来る今の時代は恵まれています。
過去の暮らしに生きた人々の、貴重な体験の宝庫を検索し、心の様子までも覗き見れ、学びの材料は豊富です。
そんな過去の歴史人物の中に、役の小角という希有な存在もあります。 多くの伝説を秘めている人物でもあり、その使命と共に謎に満ちています

役小角は今日も、修験道の世界で開祖として 特別の尊敬をもって崇拝されていますが、山岳修験道の広がりは、小角の没後、かなりの時を経てからのことのようです。
その後に続く人たちが、厳しい苦行の世界に身を投じ、危険を冒してまでも追い求めたのは、悟りの境地だったのでしょうか、それとも特別な霊的能力の会得だったのでしょうか。 でもそれらの魅力がいかに大きくても、未知なる領域の先にあるというハードルは、どこまでも高かったに違いありません。
その超特殊能力は下記のように六種に分かれていて、全体では六神通といわれているそうです。

天眼通
(てんげんつう) - 本来の目では見えないもの、見えない世界を見通す事が出来る
天耳通
(てんにつう)  -  耳の機能だけでは聞こえない、(異次元世界を含む)音や声などを聞く事が出来る
他心通
(たしんつう)  -  本来伝わらないはずの他人の心の動きや想いがわかる
宿命通
(しゅくみょうつう) - 自分や他の人間の前世や今生での運命を知る事が出来る
神足通
(じんそくつう)   - 会得した神通力を駆使し、自在に山や海をもわたる事が出来る
漏尽通
(ろじんつう)    - 神仏そのものの心境、広大無辺、光明遍満世界と能力
        相対的狭い次元の中で展開する想念と欲望の巡りという自縛を解脱し
        光明(慈愛)一元の自由自在心になる

上記のような能力の会得は、ほとんどが遠く叶わない事であり、反対に、途中の段階で異次元の干渉に惑わされ、自己の本心を見失う危険も大きかった事が考えられます。それは、例え厳しい修業を続けても、心境の奥底までも見透かされる、そんな未知なる階層を通過しなければならず、その過程で、自分では気づかず知らず、幽界的方向性に惑わされ、巧みに魔境に誘い込まれる危険があるといわれているからです。
それは人間の本質がどうあるのか という事に関係することでもあります。 

私たちは人間観を、肉体生命という単一的事実の中だけで理解し、現実問題の考察をその中に限定し結論を観てきました。
でも肉体は、肉体の個性(個人)そのままの記憶体である幽体という波動体と一体であるといわれています。その幽体は、更に微妙な波動の奥につながり、そこに霊体、神体があるという解説があります。
そして人間を語る根本である 「いのち」 は、ずっと奥に(上に)たどれば大生命に至るのであり、大きな一つの宇宙世界に組み込まれている事を解いています。

幽界では自分の想いの波動が瞬時に自分に反映されるといわれています。 つまり怒れば、怒りが渦巻く場に移り、人を叩けば、人に叩かれ、悲哀に籠れば、暗く深い淵に落ちるなど、すべてが瞬時に自分に反ってくる世界のようです。 そんな幽界も、波動の違いによる上下階層は数多あるそうです。

かって禅の世界の指導者は、瞑想中、たとえ眼前に、仏、菩薩の姿が顕れる現象が起こっても、すべて魔境と断じ心を動かしてはいけない!と厳しく指導したといいます。 求道は精神が進む見えない道です。その道程の途中には、危険且つ見えない落し穴があることを見抜いての厳しい指導だったとすれば、生半可な修業は、何もしないよりも危険といわれる由縁もそこにはありそうです。

それよりずっと古い時代に、超がいくつ付いたかもしれない超人伝説を残すのが、役小角という事になります。 伝説はどこまでも伝説であり、真偽を問われません。 その分、軽く信じるだけでも良い訳です。
でも役行者ほどの人物の伝説には、高い信憑性があると考えることが出来ます。 そして、その時代の人々の生活レベルや心理状態、あるいは天象や動物界までも含める自然環境、衣食住など、生活環境条件すべてが今日とは全く違っていたことを考えると、超人の出現の時代背景がどうあったかは興味深いものがあります。

役小角に関して、『日本霊異記』では、「役優婆塞(えんのうばそく)」と表現し、仏教の在家信者という扱いになっています。役優婆塞とは在家にあって仏教の基本的教えを守る人の事だそうです。そして役の小角は奈良の葛城山のふもとに生まれ、年少のころより、修行者としての歩みを始めたといわれています。
それでいて有髪であったという姿や生き方は、形式にとらわれない、独自性の現われのようでもあります。

役小角にとって自身に厳しい修業を課し、どこまでも高みを目指すことは、自分との戦いでもあった事でしょう。でも誰も知り得ないその働きの中身こそ、筆舌に尽くし難い事の連続であり前人未到の領域です。
 伝説によれば、ある時、祈り続けていると、その法力に応えるように、柔和で輝かしい地蔵菩薩が出現したとあります。 その姿は、あたかも小角の守護を約束するかのようだったのではないでしょうか。 
でも一見した小角は自分が求めるものではないと拒否をし、更なる祈念を続けると、遂には青黒色をした、憤怒の形相の蔵王権現が出現したというのです。
その蔵王権現の姿形は、左足は大地を踏み、右足を高く上げ、右手に三鈷を握って頭上にかざし、左手は刀印を結んで腰を押さえているとあります。 片足を高く上げているとは、どういう約束事かわかりませんが、今にも飛び上がりそうな躍動感があります。 ちなみに三鈷とは、かの弘法大師のみ手にも握られている密教の法具です。 

つまり、蔵王権現の姿こそ小角が求める、強烈な不動心が形となった姿だったかも知れません。邪鬼、悪鬼、魔物、その他、まさに幽界、魔界の生物と共に戦いを降伏させる力をそこに見出したのかもしれません。
蔵王権現の出現の伝説は、役行者の働きの厳しさを物語っています。その姿は前人未到の道を切り拓く先駆者が求める内面の強靭さの投影でもあったのでしょうか。
小角行者の人物像も伝説も、様々に謎に包まれていますが、多くの衆生を救うという目的遂行のためには.超常的能力は絶対に必要であり、強烈な不動心があったからの偉業達成成就であったと考えることができます。

それにしても、富士山を中心にして、日本中の山野を駆け巡った、自在に空中を移動することが出来た等の逸話は伝説とはいえ、常識ではとんでもないと一蹴されそうな事ばかりです。 しかし、なぜか役小角には不可思議能力を否定できないという超人印象が強くあります。 ところで伝記からは五つまでの能力は自由に行使出来たと想像出来ますが、漏尽通の能力についてはどうだったのかという疑問があります。 

霊的宇宙の奥はどこまでも無限であるとすれば、たとえ自力行法によって能力を極めた超人であっても、極めたと観た先にさらに奥があったかも知れません。
役小角は その肉体の消滅によって、、高い世界で神仏との一体化を果たしたといわれています。、そしてその衆生救済の愛念は、守護神として今の世まで続いているそうです。

今、遠く過ぎ去った時代は数知れずと知る 現代を生きる私たちは、実現可能なほとんどすべての利便性を 生活の中で享受できています。 そんな時代を生きながら、超能力にあこがれる気持は誰の中にも在ります。
でも視点を変えれば、私たちが 「オギャア」 と この世に生まれてきたこと自体が 不思議といえば不思議です。 そして、日々自然法爾に、天地と共に月日がめぐり、生かされている事も、不思議といえば不思議です。

特別な能力に憧れなくても本当は誰の中にも特別な能力が内在しているからこそ今、私たちは生命が続く限り生かされているのであり、その先にはその先の世界があるのかもしれないという未知なる不思議もあります。
私たちが今の時代を生きて、自分たち人間の本質を見出すためにも、過去に大きな足跡を遺した先人たちがこの世に刻んだ進化開拓の記憶に触れ、心の目を向けることができるのは有り難いことです。

後の世に生まれた私たちが何かを受け継ぎ、今日まで続いてきた生命の伝承の奥に、まだ眠っている記憶があるとすれば、更なる記憶の開花を目指して、人類がともに歩む道がある事を信じたいものです。

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