2009年度に入学した生徒たちの英語の授業についてまとめてみました。基本的には12006年度〜2008年度のまとめと同じことをやってきましたので、特に必要と思われる点だけを書いてみました。なお、この記事は2012年1月3日から1月17日までの「授業日誌」のエントリーを基にしています。

英語I・英語II〜一歩前へ

相変わらずの「タスク消化型」の授業なのですが、タスクの構成は大きく変わりました。ひとつは、入学時の基礎力が以前にも増して低下しているため。もうひとつは、それにもかかわらず、目指す到達点を一段階上げたため。

ここでは後者について。ある学校の授業をいくつか見せて頂く機会があったのですが、そのうちのひとつの授業が僕にとってはかなり衝撃的でした。「衝撃的」という言葉があまりにありきたりで、どれほど「衝撃的」だったかを伝えるにはいささか不十分な表現だと思うのですが、残念ながらその「衝撃」の大きさを描写する表現力は僕にはないようです。ともかく、同じ公立高校の生徒でありながら、英語の運用能力にこれだけの差があるという現実を見せつけられて、それまでの自分の目標設定があまりにも貧乏くさく、バカバカしく見えてしまって、「自分はいったい何をやってきたんだ?」と思わずにはいられませんでした。うちの生徒だって、その学校の生徒の運用能力には及ばないまでも、もっと先まで行けないはずがないだろうと考えました。根拠はありません。ただそう思ったということです。

その後、その学校で頂いてきた膨大な資料を読み漁ったりした挙句に何を始めたかというと、本文の口頭要約。あれだけ衝撃を受けておきながら、あまりにありふれた答えしか出すことができず、我ながら発想の貧弱さに嫌気がさしましたが、その時点では現実的に考え得る唯一の活動でした。問題はどういう手順で要約まで持っていくかということです。要約というのは、ありふれた活動ではありますが、簡単な活動ではありません。

口頭での要約へ至る過程〜第1段階

最初は、要約に必要なキーワードを与えて、それを見ながら口頭で要約するという形からスタートしました。自分で情報の取捨選択をする必要がないので、実質的には要約とは言えないかも知れません。また、この前の段階で、英文再生をしているので、本文の英語を羅列するだけの生徒もいました。とりあえずは形だけでも導入といったところです。

さらに、その準備段階として、口頭での英問英答を行いました。これも要約を誘導する意図で、その質問の答えが要約のそれぞれの要素になっているという仕掛けになっています。つまり、口頭での要約に必要な要素を、英問英答という形で口頭で言わせておいて、それからキーワードを見て口頭での要約に取り掛かるという流れです。

当初は、英文再生をやめて要約を入れるつもりだったのですが、英文再生をやってから要約をした方がスムーズに行くことがわかったので、英文再生も生き残ることになりました(結果として、さらに時間を圧迫することになったということでもあります)。英文再生をスキップしてしまうと、おそらく英問英答の段階でスムーズに活動できなかったのではないかと思います。

この段階での要約までの流れは、英文再生(本文の英語の取り込み確認)→英問英答(要約に必要な情報を暗に提示)→キーワードを見ながら要約(コントロールされた要約)、ということになります。あ、そう言えば、英問英答と口頭要約の段階では、本文そのままの文を羅列するのではなく、少しだけでもパラフレーズし、文と文とをつなぐ言葉も使ってみるように促しました。最初の段階としては、こんなもんかなと思っています。

口頭での要約へ至る過程〜第2段階

次の段階では、キーワードの数を増やして、使うキーワードを選ぶ形にしました。自分でキーワードを選ぶ分だけ、要約らしくなってきたわけですが、まだまだ自分で内容をまとめるという形には程遠いですね。要約に向けて半歩前進といったところでしょうか。

次の段階に進む上で役に立ったのがdictoglossのノウハウです。「聞いて書く」というdictoglossのプロセスを「聞いて話す」という活動に置き換えてみました。本文を聞いて、要約に必要と思われる語句をメモし、そのメモを見ながら口頭で要約をするという流れになります。字面だけ見ると、すごく高度な活動のように見えるのですが、さんざん読んできて内容のわかっている英文なので、聞き取りに負荷がかからない分だけ、字面ほど高度ではありません。別に本文を聞くのではなく、読んでもいいのですが、読むとどうしても時間をかける生徒が出てきます。下手をすると、文章を書き始める生徒まで現れます。というわけで、どんどん先に進んでくれる音声を用いる形に落ち着きました。これは通訳養成の分野ではDLS(Dynamic Listening & Speaking)と呼ばれている活動のようです。たっぷりと時間をかけて考えた活動なのに、実は知らなかっただけで、実際に行われている活動だったという徒労感と、まんざら的外れな活動ではないらしいという安堵感。

形の上では、何だかそれっぽくなってきたように見えるのですが、実際には、音声を聞いてどの語句をメモするか、すなわち、要約に必要なキーワードを選び出すという作業について、何のフォローもしませんでした。タスクを消化してきて馴染みのある英文であるとは言え、あまりにも乱暴ではないかと思いました。というわけで、口頭での要約の前に、各段落に小見出しをつけるという活動を導入してみました。実は、これはセンター試験の筆記第6問に対応するために課外の補習などでやってきたことです。各段落に小見出しをつけて、大きな流れを把握した上で、要約に必要な語句を選び出すという流れに持って行きました。

というわけで、現時点での口頭での要約の流れは、
  1. タスク消化型で英文を取り込みつつ、各種音読と英文再生で取り込みを確認する。
  2. 各段落に小見出しをつけ、大雑把な流れを確認する(それぞれの段落にどういう見出しをつけたか、数名の生徒に確認する)。
  3. 音声を聞き、要約に必要なキーワードをメモする。
  4. ペアでメモを見ながら要約を言う。
  5. 相手の要約を聞く。
  6. お互いの要約を参照し、自分の要約にあって相手の要約にはなかった情報、あるいはその逆の情報を確認し、その情報の要不要を検討する(この後、数名の生徒に発表してもらう)。
  7. 口頭での要約をもとに、要約を書く。この段階での辞書の使用は可とし、できるだけ文法的に正しい英文を書くように心がける。また、ディスコース・マーカーも使ってみる。
  8. 記述した要約を提出。

……ということになります。

口頭での要約へ至る過程〜今後の課題

この一連の流れの中での問題点は、フィードバックが不十分であることでしょう。口頭での要約中に机間巡視をしていても、僕が接近すると声が小さくなったり、止まったりしてしまう生徒が多いです。生徒の口頭での要約のパフォーマンスを把握するのが難しいため、適切なフィードバックがなかなかできません。何人かに発表してもらっていますが、クラスの10%ほどで到底十分とは言えません。ペアワークでのピアフィードバックも十分に機能しているとは言えません。提出された記述バージョンの要約から推し量ることはできるのですが、口頭でのパフォーマンスとの差がかなり大きいことは容易に推測できます。iPodにマイクをつけて録音するという手もありますが、それだと1ペアしか録音できないしなぁ……。

もうひとつ、この活動を意味のあるものにするためには、要約に耐え得る素材を選ぶことが必須であると改めて感じました。要約のしようのないような掴みどころのない文章では、この活動はつらいです。ついでに言うなら、反復に耐え得る素材であることも大事でしょう。反復する前に飽きてしまうような文章では、どこにも辿り着くことはできません。やはり、教材は素材の良し悪しが選択の決め手ということです。

オーラル・コミュニケーションI

1年次に履修のオーラル・コミュニケーションI(以下OCI)について。これも前回担当時と同じようにハンドアウトを中心に行いました。ライティングへの橋渡しという位置付けで、ダイアログの英文を取り込む、モデル・パラグラフを真似て書く、それを口頭で発表する、というサイクルで行いました。英語I・IIと同様に音読をし、それにFlip & Writeとdictoglossを絡ませて、「英文を取り込む→取り込んだ英文を吐き出す」という作業をしつこく繰り返しました。ALTもこの流れに乗ってくれて協力してくれたので、とてもやりやすかったです。

授業の方針は間違っていないと思っているのですが、週に45分2コマでは効率の悪いことこの上ありません。何かの都合で授業がつぶれてしまうと、1週間以上も授業がないなんてことにもなりかねません。そうなると、継続性が断たれてしまい、前回の授業の内容はすっかり忘れられてしまっているという状態になってしまいます。仕方のないことなのですが、これがOCIの授業の最大のネックでした。

新機軸としては、正確な英語を目指して、1コマに10個程度の短い英文を音読し、次のコマにその英文を書くという作業を入れてみました。コマ数が少ないこともあり、なかなか定着しなかったのですが、もうちょっとマネジメントに工夫が必要だったかと思います。

新課程になるとOCIも消滅します。僕の場合は、OCIに明確な役割を担ってもらっていたので、OCIの消滅をひそかに残念に思っています(同じように思っている人は少ないと思いますが)。新課程の「英語会話」が、学習指導要領上はOCIとほぼ同じ内容なので、OCIの後継科目と考えていいのなら、1年生で履修する科目としては、やたらと文法色の濃い「英語表現I」よりも現実的かも知れませんね。

ライティング

ライティングは教科書選びから難航しました。というのは、ライティングらしい教科書があまりなかったからです。教科書の通りに進めていって、ある程度のまとまった英文に行き着くという印象のある教科書は『Planet Blue Writing Navigator』だけでした。他の多くの教科書は、僕にはライティングの教科書というよりも文法の教科書のように見えました。もっとも、僕好みのライティングの教科書というのは、世間では受け入れられていないようで、僕の選んだライティングの教科書は、ことごとく市場から消えるという運命にあるのですが……。

授業の方は、いつものようにセンテンス・レベルのStage 1と、パラグラフ・レベルのStage 2とを並行して行いました。それを軸に和文英訳のプリントを挟んで、さらに、文法・語法の問題集の小テストもライティングの授業の中で行ったので、あっちに行ったりこっちに来たりと、慌ただしい授業でした。

僕の問題としては、生徒の書いたものに対して十分なフィードバックができなかったということがあげらます。前の学年ではそれなりに機能していたのですが、今回はなかなか上手くいきませんでした。気合いが足りなかったですね。前回担当の時よりも、さらに到達点の設定を上にするつもりだったのですが、届かなかったように思います。残念。

3年次には、ライティングの授業の中でリスニングの教材も扱いました。

文法・語法の問題集について。なかなか良いものが見つけられません。世間で定評のある問題集を見ても、うちの生徒にとっては使い勝手の良い教材には思えないのです。この手の問題集は単純作業の積み重ねだけに、「勉強した」という気にはなるのですが、そればかりやっていても英語の運用能力が伸びるわけではありません。僕としては、問題数が絞り込まれ、問題文が暗唱例文としての使用に耐え得るような汎用性があり、それなりの解説があるようなものが好みなのですが……。

リーディング

リーディングについては、すでにまとめたので詳細は「授業実践」の「リーディングの授業(2011年度)」をご参照ください。

こちらも相変わらずのタスク消化型なのですが、今年度の目玉は課末のComprehensionにあるSummaryの扱い方。Summaryを素材にdictogloss。dictoglossが終わったら、その素材を音読。summaryのチャンク・シートをこのタイミングで配布。ここからの音読は従来のメニュー通りで、Chorus Reading、Read & Look up、Overlapping、Shadowing、日英Sight Translationという流れ。で、そのまま英文再生になだれ込みます。

この後で、口頭での要約もやったのですが、dictoglossや英文再生の素材がすでに要約なので、このあたりの重複を避けるための工夫があってもよかったかも知れません。

いつものように、授業の冒頭で音声を流して、それに合わせて音読するということは毎時間行いました。苦手な生徒はテクストを見ながら、得意な生徒はテクストを見ないで。どちらを選ぶかは生徒に任せました。

dictoglossと英文再生をやったことで、前の学年で感じていたほどの「食い足りなさ」はあまり感じなかったのですが、逆に生徒の「食い付きの悪さ」を感じることが多かったです(これについて後述)。

「タスク消化型」再考

さて、ここ数年「タスク消化型」という形態の授業を継続してきました。おそらく、基本線が変わることは、少なくとももうしばらくの間はないと思います。一方で、タスクそのものやタスクの流れについて、再検討すべき時期になったという認識もあります。実は、これまでも何度かタスクや流れについて大きく変えたことはありました。でも、今回はそれとはちょっと質的に異なる変化になるのではないかと思っています。

「タスク消化型」の出発点は、いかに基礎を定着させるかということでした。つまり、中学校で習ってきた英語の定着と、高校で習うべき英語の定着とを両立させるために、易しめの教科書の英語をまるごと取り込んでしまおうというのがそもそもの発想でした。かなり乱暴な話です(笑)。教科書の英語をまるごと取り込むためには、同じテクストを何度も反復することが必要だろうということで、様々な角度から英文を読んだり聞いたりするためのタスクを用意して反復させる「タスク消化型」の形態ができあがりました。

つまり、「教科書の英文をまるごと取り込む」というのが「タスク消化型」の基本的な哲学だったわけです。

では、どういう状態になれば取り込まれたことになるのか。とりあえず、教科書の英文をスラスラと書ける状態になれば「取り込まれた」と考えて良いのではないか、というのがその時の結論でした。注意しておきたいのは「とりあえず」という部分です。「取り込む」という言葉の定義は、「とりあえず」のものであって、決定的なものではありませんでした。「教科書の英文をスラスラと書けるようになったら、英文が取り込まれたとする」というのは「タスク消化型」を始めた当初から、「とりあえず」という条件付きの定義だったのです。

で、僕がこれからやろうと考えているのは、この「取り込む」という言葉を再定義してみようということです。つまり、「教科書の英文をスラスラと書けること」では「取り込む」という言葉の定義としては不十分になってきたということでもあります。

「取り込む」=「教科書の英文をスラスラと書ける」という定義は、英文再生ができれば、その英文を独力で産出できるだろうという前提に立っています。それはつまり、頭の中でその英文を再構築するという過程が存在するということを前提としているということでもあります。

回りくどい言い方をしましたが、その前提が必ずしも成り立たないのではないかということです。単純に英文を暗記して書けるようになったとしても、頭の中で英文を再構築するという作業が行わていなければ、おそらく同じ型の別の英文を産出することはできないでしょう。その状態で「取り込まれた」と言うことはできないわけです。

もちろん、単なる暗記では「取り込まれた」ことにはならないということは、最初からわかっていたことです。だから、単なる暗記にならないようにタスクを配列するように、僕なりに気を配ってきたつもりでした。でも、そろそろ「とりあえず」から脱却すべき時期だろうと思っています。

これまでは「英文再生」に至るために必要なタスクを配列してきたわけですが、「取り込む」という言葉の定義が変われば、それはゴールが変わるということと同じなので、必然的にタスクそのものもタスクの流れも変わってくるでしょう。それがどういう形になるのか、現時点では僕にもわかりません。というわけで、僕の次年度の目標は「取り込む」という言葉の再定義と、それに伴うタスクの再構築ということにしておこうと思います。

「教科書の英文を取り込む」ためには、英文再生だけでは不十分だとすれば、どこに目標を設定したらいいのか。現時点ではアウトプットかなと思っています。アウトプットというのも定義があいまいで、とても危なっかしい言葉だと思います。だから、本当は「アウトプット」という言葉はあまり使いたくないのですが、他に適当な言葉も見つからないので、ここでの定義を明らかにしたうえで、「アウトプット」という言葉を使わせてもらおうと思います。

現時点で僕の考える「アウトプット」とは「頭の中で何らかの処理を行った上で、英語を産出すること」ということです。

だから、わけもわからず丸暗記したものを吐き出すというのは、脳味噌の中での処理が行われていないので「アウトプット」とは言いません。日本語訳を見ながらの英文再生は、脳味噌の中で英文の再構築が行われている状態では「アウトプット」と呼び得るけれど、丸暗記に近い活動になっていれば「アウトプット」とは呼べません。グレーゾーンですね。dictoglossは「アウトプット」と言っていいかと思いますが、意味も考えずに音声だけを頼りに文字に変換している状態では「アウトプット」と呼ぶのは憚られます。要約は、基本的には本文をそのままということはないでしょうから、脳味噌の中で意味的な処理が行われ、まとまりのある英文を産出するという点では「アウトプット」と呼べそうです。

実は、授業に要約を持ち込んだのは、僕としてはアウトプットのつもりだったのです(笑われるかもしれないけれど)。

どうしてアウトプットなのか。僕は理論にも疎いし、難しい理屈をこねようにもこねられないので、いたって単純な発想からアウトプットに行きつきました(フルトヴェングラーの「すべて偉大なものは単純である」という言葉を頼りに僕は生きています)。まず、アウトプットさせてみることで、英文が「取り込まれた」かどうかの確認になるだろうということ、そしてアウトプットそのものが「取り込む」という作業として機能するだろうということ、このふたつ。単純でしょ?(笑)

現時点では、設定するゴールとして「要約」がひとつの選択肢になり得るかなとは思っています。もっとも、そのつもりで授業に要約を持ち込んだのですが、上述の通り、授業の中で要約を扱うことの難しさもあります。要約でないとすれば、他にどのようなアウトプットを求め得るのか。要約であれ、他の活動であれ、アウトプットの質を高めるにはどうしたら良いのか。そのあたりが課題かなと思っています。

ということを書いてきて、最後にこんなことを書くの何ですが、大事なのは、(内田樹風に言うなら)生徒たちの学びを起動することであって、結局は、どういうスタイルで授業をやるかなんてあまり関係がないのかも知れません。日本語訳を延々としゃべり続ける授業だろうが、すべて英語で行われる授業だろうが、それで生徒の学習する意欲が高まり、「試験で点数を取る」という貧乏くさい動機付けから解放され、正面から学習に取り組むのなら、それは授業としては成功なのだろと思います。当たり前と言えば当たり前のことかもしれません(僕には日本語訳を延々としゃべり続けて生徒を引っ張っていくほどの技術がないというだけの話で)。いや、僕も大人になったものだ(笑)。

(2012/03/18)