喜多方市
旧耶麻郡熱塩加納村(〜H18) ‐ 旧加納村(〜S29) |
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岩尾館 |
岩尾館跡東側。 |
【所在地】 |
喜多方市熱塩加納町宮川
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【別称】 |
佐原城 |
【築城年】 |
13世紀中〜後半 |
【築城者】 |
加納(佐原)氏 |
【城主変遷】 |
加納(佐原、三浦)氏… |
【廃城年】 |
応永九年(1402)頃か |
【現状】 |
宅地、耕作地、稲荷神社 |
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築城者、年代ともに不詳であるが、中世黒川城を本拠に会津地方に勢力を拡大した蘆名氏の祖、佐原十郎左衛門尉義連が、文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げて会津に所領を与えられた際に築城、居住したのがこの館であるという伝承がある。南東上三宮には青山城が所在し、南西の半在家には義連の墓と伝えられる宝筺印塔があることから青山城の支城であったと推定されており、佐原氏が加納荘の地頭もしくは地頭代に任ぜられた宝治元年(1247)の宝治合戦以降、13世紀半ばから後半に築城されたと考えられている。
義連の孫であるとされる五郎左衛門尉盛時は、宝治合戦で滅亡した三浦泰村に代わって三浦氏の惣領を継いで三浦介を称し、青山城を本拠とした。しかし応永九年(1402)、新左衛門実詮が同族である新宮城主新宮次郎盛俊に攻められ滅亡、その頃にこの岩尾館も使用されなくなったものであろう。
濁川西側の標高約260m、比高約10mの段丘上に築かれ、現在は宅地や太子堂、稲荷神社の社地となっている。東西約200m、南北約800mほどの細長い館で、南北に北及び東側が段丘崖、南は沢の自然地形を利用、西側は二重以上の土塁によって防備されていたと考えられている。以前は中央の稲荷神社から南端の南沢まで延びる土塁、および稲荷神社西約100mほどの場所にも南北に延びる土塁があったとされているが、現在は神社南側にのみ土塁が残っている。北端は若宮八幡宮の社地となっており、そこから太子堂周辺までの段丘崖には帯郭とされる遺構が残る。
何度かだらだらと訪問したことがありますが、東側は雰囲気を残していますが西側は全く雰囲気を感じません。もうちょっと全体を詳しく見て見たいな〜と考えています。 |
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五目柵 |
五目集落内の神社。 |
【所在地】 |
喜多方市熱塩加納町加納字五目
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地、神社社地 |
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「福島県の中世城館跡」、「日本城郭大系」ともに記載なく詳細不明です。
まほろん“文化財データベース”に記載があり訪問するも、季節が悪く雪に阻まれ詳細に見て廻ることができませんでした。五目集落南西端辺りの神社を目印に行ったのですが、神社の西、南側の様子を見ることが出来ず何とも残念です。神社社地の南側の縁には若干の高まりがあり、また集落西側とその下に広がる耕作地の様子は、ここから西へ進んだ岩尾館を逆にした様な地形になっており、非常に気になるところです。
しかし再訪しようと思いつつ…いつでも行けると思って逆に行ってません(^-^;
良くあるパターン。 |
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根岸柵 |
根岸柵跡付近。 |
【所在地】 |
喜多方市熱塩加納町加納
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【別称】 |
根岸館、十間館 |
【築城年】 |
弘安年間(1278-88)か |
【築城者】 |
畠山(畠中?)頼国か |
【城主変遷】 |
畠山(畠中?)氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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弘安年間(1278-88)畠山(畠中か)刑部頼国が拠ったと「日本城郭大系」に記載がある。しかし「福島県の中世城館跡」には、根岸柵と別掲の十間館の項に類似する記述があり、また「目で見る熱塩加納村の文化財」根岸館の記載には十間館とも称す、とある。整理すると、「城郭大系」は根岸柵、「福島県の〜」は根岸柵と十間館は別城館、「目で見る〜」は両館は同一との記載をしておりややこしいが、何れにしても畠中頼国なる人物が居住したという伝承が残る。
加納小学校北側、根岸の集落辺りが柵跡の様ですが、特に遺構などは確認出来ませんでした。集落中央のナントカセンター?前の道路が不自然に屈曲し、また土塁、堀跡の様なものも見られましたが、何とも決定力に欠けます。それよりも小学校南、郵便局東側に土塁に囲まれた民家があり、そちらの方が気になりました。 |
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針生館 |
針生館跡付近。 |
【所在地】 |
喜多方市熱塩加納町米岡
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【別称】 |
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【築城年】 |
建長六年(1254)、天文年間(1532-55)か |
【築城者】 |
山川重隆、針生(蘆名)盛幸 |
【城主変遷】 |
山川(針生)氏…蘆名氏[針生氏]… |
【廃城年】 |
天正十八年(1589)頃か |
【現状】 |
耕作地 |
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建長六年(1254)山川七良重隆が築き、その子孫針生氏が居住したと「福島県の中世城館跡」にある。しかし針生氏は黒川城主蘆名氏14代遠江守盛滋の子、盛幸が針生姓を称したのが始まりとされ、またこの盛幸が天文年間(1532-55)に針生館を築城したともいわれており、「福島県の〜」の記述とはいささか異なっている。
針生氏初代盛幸は蘆名氏当主盛滋の子であるが、初め盛滋に男子が無く、弟の盛舜に家督を譲って隠居した後に出生したため別家を興したという。その後は蘆名氏宗家に従い、盛舜を継いで16代当主となった従兄弟の修理大夫盛氏麾下で重臣となるが、同じく一族で津川城主であった金上盛備と席次を争い、家臣団分裂の要因の一つとなった。
天正十七年(1589)蘆名義広が摺上原合戦に敗れ滅亡すると、針生氏は伊達氏に従って仙台へと移住した。延宝四年(1676)子孫針生盛定は仙台藩4代藩主綱村の命により復称、以後蘆名氏を称して代々登米郡蘆名館を知行している。これは佐竹氏家臣として出羽国角館城主となった、義広の流れを汲む宗家当主の千鶴丸が、承応二年(1653)3歳で夭折したため、平姓三浦氏の名族である蘆名氏の断絶を綱村が惜しんだためである。
なお慶応四年(1868)の戊辰戦争では、仙台藩の洋式部隊である額兵隊の総督として蘆名盛景が従軍している。
現在は圃場整備によって遺構は残っていない様ですが、南側水田面と若干の高低差がある、画像の水田地が館跡の様です。北西隅を道路で寸断されていますが方形の地割が…と言いたいところですが、圃場整備された後は大体方形になってるしねぇ…?
実はずっと、ここから東側にある民家が館跡と思ってました(^-^;
だいぶ立派なお屋敷だったもので。 |
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半在家館 |
半在家館跡土塁。 |
【所在地】 |
喜多方市熱塩加納町宮川
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【別称】 |
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【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
藤原友則か |
【城主変遷】 |
藤原氏…佐原氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
民家 |
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「日本城郭大系」には詳細不明とあり、「福島県の中世城館跡」には宦司藤原友則、後に佐原義連が住んだという、と記載があります。宦司って何…?文治五年(1189)奥州合戦の功で会津を賜った佐原十郎左衛門尉義連が、平安時代官府があったとされる半在家に近い岩尾城を本拠とし、2代盛連の代に6人の息子に会津を分割して与え、この地は青山城主となった五男盛時の所領となった云々の伝承もある様ですが…じゃあ義連さん住んでないじゃん。
現在は民家となっており、周囲に明瞭な土塁が遺っています。訪問時お住いの方がいらっしゃらなかったので、お隣の方とお話させて頂いたところ、やっぱり詳しいことは判らないご様子でした。北には岩尾城、南には伝佐原義連の墓があり、佐原氏、加納氏関連の城館であるのは間違いないと思います。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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