郡山市
旧安積郡片平村(〜S40)
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片平城
片平城主郭部(愛宕神社)。
片平城主郭部(愛宕神社)。
【所在地】 郡山市片平町新町
【別称】 上館
【築城年】 鎌倉時代
【築城者】 伊東(伊豆、安積)祐長
【城主変遷】 伊東(安積、片平)氏…蘆名、田村、大内、伊達氏[片平氏]−蒲生氏[蒲生氏]…
【廃城年】  
【現状】 愛宕神社、宅地、耕作地
 築城年代は不明だが、文治五年(1189)の奥州合戦の後、工藤左衛門祐経二男伊東(伊豆)六郎左衛門祐長が築いたものか。
 奥州合戦で功を挙げた工藤祐経は、戦後源頼朝より安積郡一円及び安達郡一部を所領として与えられた。祐経は伊豆国にあった二男佑長を安積郡片平城へ遣わし、以降祐長は安積六郎左衛門を称したとされる。その後祐長の子孫は安積郡内外に一族が割拠し、安積伊東氏として繁栄する。

 一円に勢力を拡大した安積伊東氏だったが、一族の結集が成されないまま小領主として戦国時代を迎え、それぞれが周辺諸勢力の支配下に組み込まれていった。片平城も永禄二年(1559)黒川城主蘆名盛興の侵攻によってその麾下に属し、天正四年(1576)頃には
三春城主田村清顕の麾下にあった宮森城主大内備前守定綱によって攻略されている。この戦いで伊東大和守は蘆名を頼って会津へ落ち、定綱によって弟助右衛門親綱が片平城に置かれた。また嫡子のなかった大和守が親綱に女を娶せ養子に迎えたともいわれ、何れにしても親綱はその後片平氏を称し、兄定綱と行動を共にした。
 定綱は天正十一年(1583)頃には蘆名氏の勢力を背景に田村氏より離反、南進を図り仙道(福島県中通地方)へ勢力を伸ばす伊達政宗、これと誼を通じて勢力維持を図る田村氏に抵抗した。しかし天正十三年(1585)には本拠地であった安達郡塩松を逐われて会津へ落ち、その後日増しに勢力を拡大していく政宗に対し、ついに天正十七年(1589)抵抗する愚を悟って帰順した。その際片平城主であった親綱もともに伊達氏に臣従、同年行われた蘆名氏との決戦、摺上原合戦では兄弟揃って伊達勢に与して参戦している。
 しかし翌天正十八年(1590)、伊達政宗は豊臣秀吉の奥州仕置で会津、伊達、信夫、安達、安積郡などの所領を召し上げられ、片平氏も伊達氏に従ってこの地を離れた。代わって蒲生氏郷が黒川城主となると、仙道諸郡も併せて氏郷に与えられ、片平城には天正十九年(1591)蒲生式部が配されている。

 片平城の廃城年代は不明だが、寛永四年(1627)に会津藩主となった加藤氏時代には、片平村に役所が立てられ仙道郡代が置かれたという。

 安積盆地西端の丘陵上に築かれた城で、本丸跡と推定される頂部に土塁に囲まれた愛宕神社が祀られている。周囲には中館、南上館、外堀などの字名が残り、北東の字下館には、支城であり片平下館と呼ばれる平地館が所在している。

 休日のお昼も過ぎた頃、フラッと家族で郡山まで出掛け訪問してきました。その日はほかの城館跡にも立ち寄る予定でしたが、娘の態度に機嫌を損ねたわたしはここだけ見てすぐ会津へ帰りました。大人げない?ええ、大人げないですとも!
 そんなだから愛宕神社周辺をちらっと見てきた程度です。周囲は宅地となっており、天気も悪いのでじっくりとも見られない…。付近住民と思われる女性お二人にちょっとお話を伺おうと声を掛けると、「片平城?そんなもん知らない」とあからさまに不審がられ、取り合ってもくれませんでした。
 なお今回は訪問しませんでしたが、城跡北方のお寺さんには伊東氏何代かのお墓がある様です。下館その他も確認していないので、次回行ってみたいと思います。
郡山市
旧安積郡富田村(〜S29)
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水神館
水神館跡土塁。
水神館跡土塁。
【所在地】 郡山市富田町上赤沼
【別称】  
【築城年】 戦国時代末期
【築城者】 富田能登守
【城主変遷】 富田氏
【廃城年】  
【現状】 水神舘公園、郡山養護学校
 戦国時代末期、富田八館の一、赤沼館(上安家館)主の富田能登守が築城したとされる。背後に赤沼池を控え、堅固な土塁を築いた館であったが、実際には使用されずに終わったという。

 「日本城郭大系」にも記載のない館ですが、現在は水神舘公園や宅地となっています。城域は道路によって分断されていますが、主郭部と見られる箇所は割と良く保存されており、連郭式の縄張り、土塁が見て取れます。
 なお富田八舘については、名称は判っており近隣に所在した様子。富田町付近なら会津からでも訪問し易い場所なので、機会があったら探索したいと思います。
郡山市
旧安積郡富久山町(〜S40)
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山王館
山王館跡(日吉神社)。
山王館跡(日吉神社)。
【所在地】 郡山市富久山町久保田字山王舘
【別称】  
【築城年】 天正十六年(1588)
【築城者】 伊達政宗
【城主変遷】 (伊達氏陣城)
【廃城年】 天正十六年(1588)
【現状】 日吉神社
 天正十六年(1588)伊達氏と黒川城主蘆名氏、須賀川城主二階堂氏、常陸国太田城主佐竹氏ら連合軍が戦った夜討川(郡山)合戦において、伊達政宗が本陣として使用した陣城であり、当地と郡山城を中心として合戦が行われた。なお、それ以前に安積伊東氏一族が居住していたともいわれるが詳らかではなく、「日本城郭大系」にも詳細不明とある。

 日吉神社境内地がその場所とされており、夜討川合戦で政宗の身代わりとなって討死した伊東肥前重信の墓が移されてます。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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