郡山市
旧郡山市 |
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大槻城 |
大槻城跡碑。 |
【所在地】 |
郡山市大槻町字城ノ内
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【別称】 |
大槻村館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
平保盛、大槻高久、大槻高行、大槻中務少輔内膳など |
【城主変遷】 |
(平氏)…片平(大槻・大豆生)氏 |
【廃城年】 |
永禄五年(1562) |
【現状】 |
大槻小学校 |
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初め平保盛(平忠盛5男頼盛の子)が築城して当地を治め、その後4代当高の代に嗣子がなく、片平城にあった伊東祐高が継いで大槻(大豆生)三郎祐高を称したという。以降大槻氏は15代に亘って安積伊東氏の一族として当地に勢力を保った。また伊東将監高久、三郎兵衛高行父子が築いたとも、二本松城主畠山義継家臣大槻中務少輔内膳が築いたともいわれており、年代、築城者とも明確でないが、平氏の築城云々はともかく工藤祐経子孫、安積伊東氏の一族が築いたと考えられている。
安積伊東氏一族は安積郡内各所に勢力を拡大したが、一族での結集が図れないまま各氏が小領主として戦国時代を迎え、周辺諸族の支配下に組み込まれていった。大槻氏も永禄二年(1559)会津黒川城主蘆名盛興の侵攻を受け、翌年城主大槻左衛門は三貫文を与えられて蘆名氏に従属している。しかし同五年、田村月斎顕頼の攻撃により大槻城は落城、城主三郎左衛門尉高行は討死し、大槻氏は遂に滅亡した。
本丸跡は現在も“城の内”と呼ばれており、大槻小学校校地になっています。頂いた学校の記念誌?のコピーには以前の敷地内の絵図が載っており、今はもう削平されてなくなった土塁が描かれています。城域は東西に長く、西側は東北自動車道を越えた熊ノ木まで含まれているようです。
なお城跡碑が敷地内に建てられていますが、校舎に囲まれた中庭部分にあるので職員室で許可を頂かないと撮影不可です。わたしが訪問した頃も学校などへの部外者の立入は厳しくなっていましたが、現在はどうなんでしょうね?ちなみにこの城跡碑を探して周囲をウロウロしてた時、「日本城郭大系」に掲載されている写真を見せて校内にいた父兄の方に場所を尋ねたら、「6年間通ったけど見たことないな〜」との事でした。確かに目立たないので興味がなければ気づかないかも(^-^; |
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郡山城 |
郡山城跡解説板。 |
【所在地】 |
郡山市桜木1
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【別称】 |
茶臼舘 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
郡山氏 |
【城主変遷】 |
郡山氏 |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
市街地 |
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築城時期は不明だが、天正年間(1573-92)に安積伊東氏一族郡山太郎左衛門尉頼祐(朝祐?)が居城とした。
安積伊東氏は文治五年(1189)の奥州合戦の功により安積郡を与えられた工藤祐経の子孫で、南北朝時代以後、郡内各所に一族を配して勢力を拡大した。しかし小領主として独立していた一族は結集を図れないまま戦国時代を迎え、安積郡内は周辺諸族の草刈場となってしまった。
一族の中では比較的勢力を維持していた郡山氏だったが、永禄年間(1558-1569)頃には三春城主田村氏の勢力下となり、天正十四年(1586)以降には田村氏と姻戚関係を結んだ米沢城主伊達氏の支配下にあった。その伊達氏が天正十八年(1590)の奥州仕置により安積郡を失うと、郡山氏も伊達氏家臣としてこの地を去っている。
なお郡山城を巡る合戦といえば、夜討川(郡山)合戦が最大のものであろう。天正十六年(1588)、さきに小浜城、二本松城を攻め落として南進を図る伊達氏と、黒川城主蘆名氏、須賀川城主二階堂氏、常陸国太田城主佐竹氏らが対立し、諸氏が連合を組んで当時伊達氏勢力下にあった郡山城を取り囲んだのである。伊達勢は山王館に本陣を置き、両軍は夜討川を挟んで対峙した。伊達勢は郡山城に籠もる伊東(郡山)太郎左衛門頼祐に兵糧、弾薬を送り、無理な戦闘を避けて戦線を維持したが、数倍する兵力を有する連合軍によって徐々に圧迫され、郡山城、山王館の連絡は分断された。
そこで伊達勢の勇将伊東肥前重信は政宗に出陣を促し、討死を覚悟で政宗の身代わりを願い、政宗の馬印を掲げて乱戦の指揮を執った。そしてその乱戦の中、本陣に敵将が押し寄せ政宗の身に迫ると、重信は前線より取って返してその危機を救って重傷を負い、馬上より落下してそのまま息絶えた。その後この合戦に辛くも勝利した政宗は、自分の身代わりとなった重信の誠忠を全軍に賞揚し、子の重綱に桃生郡小野城を与えてその功に酬いたという。
元禄年間、仙台藩4代藩主綱村の要請により、伊東重信の子孫重栄が古戦場跡に碑を建立した。伊達家では参勤交代でここを往復する際、毎度必ず碑前に立ち寄り香華をたむけたという。そこからこの碑を仙台仏と称される様になったが、河川改修などにより現在は政宗が本陣を置いた山王館跡(日吉神社)に移されている。
訪問した当時はほとんど整備されておらず、都市部の城跡らしくゴミだらけになっていましたが、現在はどうなってるんでしょう…?
主郭と思われるところには土塁に囲まれた区画があり、時間があればもうちょっと詳しく見てみたいと思いながら十数年経っております。 |
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備前館 |
備前館公園。 |
【所在地】 |
郡山市富田町備前館
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
備前館公園 |
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詳細不明。「日本城郭大系」にも記載がありません。
当初“備前舘”という地名、逢瀬川沿いに立地するという条件から城館跡と判断し記載していましたが、“まほろん”文化財データベースに登録してありました。その位置情報に拠れば備前舘公園は舘跡北東部に位置している様ですが、特に遺構などは確認出来ませんでした。。
逢瀬川のすぐ北側に立地しており、おそらく郡山合戦において使用された陣城、もしくは郡山城主郡山(伊東)氏に属する城館跡でしょうか?詳細ご存じの方教えて下さい。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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