郡山市
旧田村郡田村町(〜S40)
トップさくらとおしろ福島県郡山市守山城
守山城
守山城跡石垣。
守山城跡石垣。
【所在地】 郡山市田村町守山字三の丸
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 田村庄司氏
【城主変遷】 田村庄司氏…田村氏−蒲生氏[田丸氏ほか](1589-98)−上杉氏[本城氏](1598-1601)−蒲生氏[田丸氏、蒲生氏](1601-1615)
【廃城年】 元和元年(1615)
【現状】 城山八幡神社、守山小学校、宅地、耕作地
 年代は不明だが、鎌倉時代から南北朝時代まで田村庄を支配した藤姓田村庄司氏が築城したのが始まりととされる。田村庄司氏は応永三年(1396)関東公方の攻撃により没落、その後は別系である平姓三春田村氏の居城となり、永正元年(1504)もしくは同十三年(1516)に3代義顕が三春城へと居城を移すまでその拠点となった。
 三春田村氏は、清顕の代に仙道(福島県中通地方)へ勢力を拡大、天正七年(1579)米沢城主伊達氏と姻戚となった後は更にその勢いを増した。しかし同十四年(1586)清顕が嫡男を得ないまま死去した後は独立性を失い、徐々に女婿である伊達17代政宗の勢力下へと組み込まれていった。
 天正十六年(1588)政宗は白石若狭守宗実、片倉小十郎景綱らを守山城へ配し、翌十七年には黒川城主蘆名氏を摺上原合戦で破り南奥羽をほぼ制圧した。しかし翌十八年、豊臣秀吉による奥州仕置で会津、伊達、信夫、安達郡などの所領をことごとく没収され、
岩出山城へと居を移した。
 伊達氏に代わってその旧領を与えられた蒲生氏郷は、黒川城に入城して城下を整備、若松城と改称したほか、伊達氏や山形城主最上氏ら奥羽の諸大名に備えるべく領内の支城を整備した。この守山城へも田丸中務少輔具直が配され、整備、改修が行われた。慶長三年(1598)氏郷の子秀行が
宇都宮城へ移封となった後は、代わって若松城主となった上杉景勝領となり、本城越前守が城代となっている。更に同六年には、会津へ再封となった蒲生秀行の城代として再度田丸中務が入城、そして同十二年には蒲生源左衛門郷成が城代となるが、元和元年(1615)一国一城令によって廃城となった。

 平成十二年七月、蒲生氏郷による改修が行われた当時の野面積の石垣、土橋などが発見され話題となった。この石垣は、氏郷が加賀国より引き連れてきた穴太衆という技術集団が構築した物で、長さ約55m、高さ約6mの規模を持つ。また堀跡の深さは約2.5m〜3m、底面幅は約14mとなっている。この野面積の技法は関西、中部地方で多く見られるが、土塁が主であった東北地方では極めて珍しい技法であった。

 現在は本丸跡に城山八幡神社が建てられており、守山小学校グラウンド脇には前述の野面積石垣が残っています。土造りの城ばかり見ているわたしにとって、初めて見たときは結構感動モノだったりしました(笑)。
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守山陣屋
守山陣屋跡付近。
守山陣屋跡付近。
【所在地】 郡山市田村町守山
【別称】  
【築城年】 元禄十三年(1700)
【築城者】 松平頼貞
【城主変遷】 松平氏(7代・1700-1870)
【廃城年】 明治三年(1870)か
【現状】 宅地
 元禄十三年(1700)松平(水戸)頼貞により築かれた水戸支藩守山藩松平氏の陣屋。
 守山藩は、寛文元年(1661)水戸2代藩主光圀が、父頼房(徳川家康11男)の遺言として弟頼元(頼房4男)に封内から2万石を分知し、大名となったのが始まりである。元禄十三年(1700)に2代頼貞が陸奥、常陸国にて2万石を新封地として与えられ、守山に陣屋を構えて以後7代にわたって居所とした。

 現在は道路によって左右に分断され、松の木が陣屋があったころの名残として残っている…と守山城跡でお祭りの用意をしていたおじさんがおっしゃってました。なおほかに遺構らしき物は発見出来ませんでした。
郡山市
旧田村郡西田村(〜S40)
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木村館
木村館跡遠望(もうちょっとまともな画像は…)。
木村館跡遠望(もうちょっとまともな画像は…)。
【所在地】 郡山市西田町木村字池ノ上
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 木村氏、伊達氏
【城主変遷】 木村氏−田村氏−伊達氏[橋本氏]
【廃城年】  
【現状】 古舘山公園
 天正年間(1573-92)当地を領した木村越中守の居城だったが、木村氏は天正十一年(1583)三春城主田村清顕の侵攻により落城、滅亡した。以降は田村氏の勢力下となったが、同十四年(1586)清顕が死去すると田村家中は徐々に女婿の伊達政宗による差配を受ける様になり、その独立性は失われていった。政宗は田村月斎、橋本刑部らを木村に封じ、木村館には橋本刑部が入城、その際に現在の姿に修築されたという。

 付近の国道、県道を走行していると、“古舘山見晴台”(だったかな?)という案内板が結構建てられています。偶然その案内板を見掛け、矢印に従って進んでいたら…木村館搦手から主郭部まで車で登れちゃいました。その主郭部には木村神社が鎮座ましまし、解説板が建てられています。そこから徒歩で数分遊歩道、そして足許の怪しい階段を下っていくと磐越自動車道の脇に出て、更に高速道路高架下をくぐると字古舘下の大手(桝形門跡)に至ります。
 なお「日本城郭大系」には木村越中守の居館としか記載がなく、木村氏が何者なのかすら分からない不勉強なわたし…。高速道路建築に伴う調査報告書をどこぞで見た記憶があったんですが、先日その調査を行った方の講演を聴き、改めて再訪したい気持ちが強まりました。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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