会津美里町
旧大沼郡会津高田町
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高田城
高田城本丸跡南東部土塁(雷神社)。
高田城本丸跡南東部土塁(雷神社)。
【所在地】会津美里町布才地
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 渋川氏
【城主変遷】 渋川氏…蘆名氏[松本氏、渋川氏]
【廃城年】 天正年間(1573-92)末
【現状】 雷神社、高田中学校、市街地、耕作地
 15世紀に築かれたとされる、在地領主渋川氏の居城。『会津古塁記』『会津鑑』などに、渋川刑部太輔義清が住したと記載が見られる。

 渋川氏は高田城を中心に勢力を拡大したが、これを快く思わなかった黒川城主蘆名盛高が討伐の機会を窺っていた。そして文明十一年(1479)、城主渋川上総介義基が一族を連れて宮川で魚獲を楽しんでいた際、家臣荒川数馬が蘆名氏へ内通、これを好機と見た盛高が高田城へと攻め寄せた。不意を衝かれた渋川氏一族は、城主義基、長子下野義純、次子
西勝城主西勝安芸芳春、従兄弟の尾岐領主小俣永嶺、左馬介義則、甥の永井野館主白井宗四郎憲基が悉く討死し、滅亡したとされる。
 なお『松本系図』には、宝徳二年(1450)に松本氏一族の松本丹後輔吉が住したあるが、詳細は不明である。

 渋川氏滅亡後、高田城は蘆名氏家臣松本氏の持城となったが、その後再び渋川氏一族が居住し、天正年間(1573-92)末期に廃城となったとされる。

 東西六十三間(113m)、南北四十九間(88m)の規模で、現在は土塁の一部に雷神社が祀られ現存している。その土塁は本丸南東部と考えられ、そこから北西部にかけてが主郭部とされている。主郭部は微高地となっており、周囲に水堀跡が確認出来る。
 現在城地は主郭部北東部を道路が横切り、スーパーマーケットや高田中学校敷地、宅地となっている。
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永井野館
永井野館堀跡。
永井野館堀跡。
【所在地】 会津美里町永井野永井野
【別称】 白井館、長尾館
【築城年】 享徳年間(1452-55)
【築城者】 白井憲基
【城主変遷】 渋川氏[白井氏]…蘆名氏[松本氏]…
【廃城年】  
【現状】 永井野保育園、耕作地
 享徳年間(1452-55)岡部宗四郎憲基が築き、その後白井氏を称して居住したという。

 白井氏は高田城主渋川氏の一族であったため、文明十一年(1479)おじの渋川上総介義基が黒川城主蘆名盛高によって攻め滅ぼされた際、館主憲基も同時に討死したという。
 その後の記録はないが、蘆名氏家臣松本氏一族が居住したと考えられている。

 東西三十八間(68m)、南北五十二間(94m)の単郭式方形館であった。なお、この地は昔は長尾村という村名だったという。

 現在は永井野保育園の敷地となっており、訪問時にはもちろん子どもの姿がちらほら。当時の車は宮城ナンバーを付けていたのでさすがに怪しさ大爆発、保育園など撮影してたら○○と思われてしまうので、向かい側の堀跡と見られる畑地を撮影して退散しました(^-^;
 そういえば以前の職場に永井野出身、在住の白井さんがいたな…元気かなー。
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中川館
中川館跡(稲荷神社)。
中川館跡(稲荷神社)。
【所在地】 会津美里町下堀中川
【別称】 赤井館
【築城年】  
【築城者】 中川光政
【城主変遷】 渋川氏[中川氏]…蘆名氏[中川氏、長谷川氏]…
【廃城年】  
【現状】 稲荷神社、宅地、耕作地
 年代は不明だが、中川(三浦)源蔵光政が構築し、後に赤井因幡守を称したことから赤井館ともいわれた。その後三浦(中川)刑部盛親が居住、さらに天正年間(1573-92)には長谷川金兵衛が居住したという。

 高田城
西勝館の間に所在することから、中川氏は高田城主渋川氏に臣従していたと考えられているが、文明十一年(1479)渋川氏が滅ぼされた後は黒川城主蘆名氏に従った。その後は常に黒川城下の屋敷に居住したが、現在の会津若松市本町の旧町名に赤井町があり、中川(赤井)氏の屋敷があったことに因んでいる。また同市湊町に赤井集落があり、天正年間に赤井氏が居住していたという。このことから、中川氏の所領は中川より湊町赤井へと移り、それに伴い中川館は長谷川金兵衛に与えられたものと考えられる。

 東西四十間、南北三十八間の単郭式方形館であった。

 現在は稲荷神社境内地となっています。ここも周囲は宅地になっており、あまり周囲をうろうろ出来ない…(>_<; 画像右側には堀跡が水路となって残り、社殿裏にも堀跡の面影が見て取れます。
トップさくらとおしろ福島県大沼郡会津美里町船岡館
船岡館
船岡館跡土塁(神明神社)。
船岡館跡土塁(神明神社)。
【所在地】 会津美里町杉屋上屋敷乙
【別称】 杉屋城、松本城、鐙摺館、鐙摺柵
【築城年】 享徳二年(1453)以前
【築城者】 松本氏
【城主変遷】 蘆名氏[松本氏、山ノ内氏(小島氏)]…
【廃城年】 天正十七年(1589)か
【現状】 神明神社、耕作地
 黒川城主蘆名氏家臣松本氏の居城であり、会津地方各地に勢力を拡大した松本氏一族の本拠であった。蘆名氏と松本氏の主従関係は享徳二年(1453)には確認出来るため、築城はこれ以前と考えられている。享禄年間(1528-32)には松本源兵衛、天正年間(1573-92)には松本図書、太郎父子が居住したとされる。

 松本氏は蘆名氏四天宿老家の一といわれる重臣であり、その出自は信濃国諏訪と伝えられている。蘆名氏臣従後は、主家の勢力が伸張するに伴い松本氏の所領も拡大、会津地方各地に一族が城館を構えた。

 船岡館にあった松本源兵衛とは松本図書介と同一人物と考えられ、図書介を称した勘解由宗輔、勘解由備前守舜輔、勘解由右京亮氏輔(致輔)いずれかの人物であるとされる。その中で天正年間の館主である図書介は、伝承や子に太郎の名があることから氏輔と見られる。氏輔は天正三年(1575)安積郡福原での田村清顕との合戦で討死し、子の太郎左衛門行輔(実輔とも)が幼少ながら跡目相続を許され、天正八年(1580)蘆名盛氏が死去する際には、遺言としていずれ15歳になったら四天宿老の列に加えよとの旨があった。しかし代わって当主となった盛隆は太郎の所領を召し上げ、また黒川城三の丸にあった屋敷も交代も命ぜられる。さらに翌年15歳になっても盛隆からは何の沙汰もなく、ついに天正十二年(1584)、太郎は笈川館主栗村下総の加勢を得て謀叛を決意、盛隆不在の黒川城を急襲した。首尾良く黒川城を占拠した松本、栗村勢だったが、その数はわずか800ばかりであり、次第に城を囲まれ劣勢となり、敢えなく太郎、下総は討死し落城した。

 松本氏滅亡後、船岡館には横田中丸城主山ノ内氏家臣小島備中が天正十七年(1589)まで居住していたとされる。

 赤沢川の左岸段丘に築かれた要害であり、東西約800m、南北約550mの規模であった。現在は圃場整備でそのほとんどが失われ、僅かに南東隅の土塁が神明神社の社地として残っている。

 訪問したのはもう20年近く前じゃなかろうか…それ以来多分行ってません(^-^; 訪問した当時は全くと言って良いほど資料も持っておらず、縄張りすらも判っていませんでした。偶然に解説板を見つけることが出来、やっと場所が判ったくらいでしたからねぇ…。ある程度周辺の資料も揃ったことだし、改めて訪問しなきゃですなー。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「会津高田町史 第二巻 考古・古代・中世 資料編I」(会津高田町1997)、「武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 下巻」(福島民報社2007)

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