石巻市
旧桃生郡河北町(〜H17) - 旧大谷地村(S30)
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飯野館
飯野館跡標柱。
飯野館跡標柱。
【所在地】 石巻市飯野字新田
【別称】 飯野館山城
【築城年】  
【築城者】 飯野氏か
【城主変遷】 飯野氏…葛西氏[飯野氏、逸見氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地、墓地
 築城年代、築城者ともに明確でないが、城主として飯野但馬守の名が見える。

 永正年間(1504-20)飯野氏は大森城主山内首藤貞道に与して石巻城主葛西宗清と戦い、合戦に敗れた後は葛西氏に下ったという。また別に逸見摂津守伊顕という人物が城主として見えるが、飯野氏の同族、もしくは飯野氏の後に城主となった葛西氏家臣と見られている。


 高さ約20mほどの丘陵上に築かれ、東西約200m、南北約170mの規模を持つ平山城で、現在は宅地、耕作地、墓地となっている。丘陵南側の東西約120m、南北約70mの楕円形平場が本丸、そこに続く北側の台地が二の丸と推定されている。現在周囲は水田と化しているが、往時は湿地帯の中に浮かぶ水濠を巡らせた水城であったと推定される。
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桃生城
桃生城跡解説板。
桃生城跡解説板。
【所在地】 石巻市飯野字中山、太田、沢入畑
【別称】 桃生柵、長者森城、西山城
【築城年】 天平宝字二年(758)
【築城者】 藤原朝狩
【城主変遷】 古代律令政府…葛西氏[男沢氏]か
【廃城年】  
【現状】 山林
 陸奥国の経営を強化すべく、古代律令政府によって天平宝字元年(757)から造営の準備が始められ、翌年には本格的な造営を開始、そしてその翌年の天平宝字三年(759)末、同四年正月には完成したとされる古代城柵である。造営の中心となった人物は陸奥国按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍であった藤原(恵美)朝臣朝狩であり、これを牡鹿郡の大豪族である陸奥国大国造道嶋宿禰嶋足が援けている。藤原朝狩は多賀城碑に名の見える人物で、朝猟、朝カリ(獣偏に葛)とも書かれ、太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)の四男であった。

 桃生城は『続日本紀』において、“陸奥国牡鹿郡において大河を跨(ワタ)り峻嶺を凌(コ)えて桃生柵を作り、賊の肝胆を奪う”と著されており、牡鹿郡内の大河に臨んだ丘陵地に築かれ、当時は桃生柵と呼ばれていたことが判る。設置後の神護景雲二年(768)から同三年にかけて、他国の農民に対して盛んに桃生城への移住を奨励しており、宝亀二年(771)初めて名の見える桃生郡は桃生城を中心に牡鹿郡の一部を割いて置かれたものと推定される。

 桃生城造営と同時期に出羽国には雄勝城が築かれ、さらに神護景雲元年(767)には栗原郡に伊治城が置かれるなど、この頃から政府による奥羽両国の経営は一段と強化された。しかしこれは同時に蝦夷の抵抗を活発化させ、宝亀五年(774)海道の蝦夷によって桃生城西郭が破られる事件に始まり、同十一年(780)には伊治公呰麻呂によって伊治城内で按察史紀広純、牡鹿郡大領道嶋大盾が殺害され、伊治城、多賀城が陥される事件が起きている。宝亀五年の叛乱で桃生城は官衙の主要建物、築地塀に付随する櫓などが焼失し、壊滅的な打撃を受けたという。その後呰麻呂の叛乱の際の記述を最後に記録上には現れなくなり、以降の経緯は不明である。

 なお紫桃正隆氏は桃生城跡との考察を踏まえた上で、中世にも諸豪族の拠点となったであろう城館として長者森城と紹介している。また当地にあって山城の形態を持つのがこの地のみであるとし、同一のものかは疑問としながらも男沢相模義行の居城した西山城であると著述している。


 古代東北経営の拠点多賀城より北東約40kmの地点に造営されたこの城柵は、標高65m前後の丘陵が集まる長者森上に築かれている。築地土塀で囲まれた方約72mの内郭と、土塁で囲まれた方約800mの外郭からなると推定され、外郭土塁が二股に分かれて西郭をなしていると推定されている。
 桃生城の推定地は河北町飯野字中山を中心に桃生町にかけて所在するが、発掘調査によって年代、遺構的にほぼこの地で間違いないと確認されている。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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