登米市
旧登米郡石越町(〜H17) |
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>蘆名館
蘆名館 |
蘆名館跡標柱。 |
【所在地】 |
登米市石越町北郷字小谷地
|
【別称】 |
石越在所、蘆名在所 |
【築城年】 |
宝暦七年(1757) |
【築城者】 |
蘆名盛寿 |
【城主変遷】 |
伊達氏[蘆名氏](1757-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
明治神宮、耕作地、宅地 |
|
宝暦七年(1757)、仙台藩主伊達氏家臣蘆名豊前守盛寿が、加美郡中新田所より所替となり居住した、と標柱にある。しかし「日本城郭大系」には登米郡新田在所より石越在郷へ所替との記載があり、蘆名氏の居住地としての“在所”であるか、“在所拝領”から後に“在郷拝領”へと形態が変わったものかは不明である。
石越邑主蘆名氏は元の姓を針生氏といい、会津郡黒川城主蘆名氏の一族であった。蘆名氏14代遠江守盛滋の子盛幸を祖とし、耶麻郡針生館を本拠とする蘆名氏の重臣であったが、天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏20代義広が会津を逐われた後伊達政宗の家臣となった。一方義広(後盛重、義勝)は佐竹氏からの入嗣であったため、実家である常陸国へと逃れて稲敷郡江戸崎城主、次いで佐竹氏の出羽国転封に伴い仙北郡角館城主となるが、孫の千鶴丸が承応二年(1653)に死去したことにより蘆名氏は断絶となってしまう。仙台藩4代藩主伊達綱村は、三浦氏の流れを汲む名族である蘆名氏が絶えることを惜しみ、延宝4年(1676年)針生盛定に蘆名姓へ復することを命じたものという。
現在は明治神宮社地、耕作地、宅地となっていて、その一角に標柱が建てられていますが…あの位置にあっては狙って訪問しなければ判らないでしょう(^-^;
「仙台領内古城・館」には記載がなく、「日本城郭大系」にも個別の記載はありませんので詳細は不明。在郷拝領ということで要害性も高くはなかったと思われるので、それほど目立った遺構も見られない様です。
…でも会津の居住する者としては行きたかったんですよ〜。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>東館
東館 |
東館跡標柱。 |
【所在地】 |
登米市石越町南郷字愛宕
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
元亀年間(1570-73)か |
【築城者】 |
百々隆家か |
【城主変遷】 |
大崎氏[百々氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
山林 |
|
とど台館の直ぐ東側に所在し、その出城であったものと推定されている。
当時大崎、葛西氏両勢力の接点は当地方にあり、とど台館は大崎氏にとって葛西氏の侵攻に備える戦略的に重要な拠点であった。その出城として築かれたものであろうが、現在その面影は残っていない。
とど台館の東に位置するため東館と称されたと標柱にありますが、「宮城県遺跡地名表」には“アズマダテ”と記載されています。“ヒガシ”と“アズマ”は意味としては一緒でしょうが…一応当サイトでも地名表の読みに従いました。
なお西側の道路を挟んで100mほどの位置にとど台館が所在しています。また百々氏がとど台館に移る前に居住したとされる登戸館が2.5kmほど東に所在しています。“百々”氏の関連城館がともに“(魚偏に馬)”“登戸”と同音なのが面白いですねー。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>霜降館
霜降館 |
霜降館跡標柱。 |
【所在地】 |
登米市石越町東郷字今道
|
【別称】 |
金堂館 |
【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
金堂駿河守か |
【城主変遷】 |
藤原氏[金堂氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
宅地、耕作地 |
|
奥州藤原氏家臣金堂駿河守の居館と伝わっている。標柱の記載によると、藤原氏の金採掘の守り本尊である蔵王権現が祀られているとされ、砂金採集の場所と推定されている。
現在は個人宅及び畑地となっており遺構は見られない。往時は高さ2m、東西100m、南北80mほどの規模であったと推定され、迫川、夏川の合流点に浮かぶ、四周を水堀に囲まれた水城であったと考えられている。
現在は画像の標柱が建てられていますが、以前は“金堂館”の名称で標柱が建てられてました。画像残ってないかな〜? |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>高森古館
高森古館 |
高森古館跡解説板。 |
【所在地】 |
登米市石越町南郷字高森
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
天喜四年(1056)か |
【築城者】 |
安倍貞任、宗任か |
【城主変遷】 |
安倍氏… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
五重瀬神社、山林 |
|
天喜四年(1056)の前九年合戦の際、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義率いる国府軍に備え、安倍貞任、宗任兄弟によって築かれた城柵であると伝わる。
安倍氏は翌年に当主頼時を失うも、跡を継いだ貞任、そして頼時の女婿藤原経清らを中心に優勢に戦を進めた。しかし康平五年(1062)出羽国の俘囚長清原氏が国府軍に荷担すると形勢が変わり、この柵に籠もって頑強に抵抗するも遂に敗北し、金鶏山方面へ退いたという。
南西から北東に延びる高さ約20mの丘陵上に築かれており、現在の五十瀬神社が鎮座する一帯が本丸跡、その北東に二の丸と推定される平場、そして馬場跡と称される平場が連なっている。南西から北東に約300m、北西から南東に約150mの規模を持つ。この丘陵は湖頭山、あるいは前述の馬場跡の伝承から馬場山と呼ばれているという。
この館を訪問するときは何故か冬なんですよね…この画像でもそうですが、それ以前に撮影した画像も積雪がありました。初めて訪問した時にはまだ立派だった解説板も、数年後にこの画像を撮影した時にはもうべこべこ。さて、次回訪問時はどんな状況になっているものでしょうね。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>とど台館
とど台館 |
とど台館跡標柱。 |
【所在地】 |
登米市南郷字とど台
|
【別称】 |
百々館 |
【築城年】 |
元亀年間(1570-73) |
【築城者】 |
百々隆家 |
【城主変遷】 |
大崎氏[百々氏]…伊達氏[富塚氏]… |
【廃城年】 |
天正十九年(1591)か |
【現状】 |
宅地、山林、耕作地 |
|
室町時代、当地は大崎、葛西両勢力の接点であり、大崎氏重臣の登戸館主百々大膳隆家は次第に勢力を拡大する葛西氏に圧迫されつつあった。そこで元亀年間(1570-73)頃、どど台に新城を造営して移住、葛西氏の侵攻に備えたという。
百々氏は遠田郡百々城を本拠とした大崎氏一族の重臣であるが、隆家がどの様に連なっていたものかは詳らかでない。また葛西氏側の記録にも、その家臣として百々左京之進の名が表れるがそれもまた同様である。百々氏一族は、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易となった後の天正十九年(1591)、大崎葛西旧臣一揆に加わり古川城で討死し滅亡しているため、この城の廃城もその頃であろう。
江戸時代には仙台藩主伊達氏の所領となり、当地に知行地を与えられた家臣、富塚満之助なる人物が一時期館跡に居住したという。
現在畑地となっている標高約20mの丘陵突端部の平場が主郭であり、その東側に馬場と称される平場が所在する。その北東には空堀が設けられて台地と奥山と区切られるが、あるいは尾根続きの北側の丘陵も範囲内に含まれるとも考えられており、その場合の規模は東西約500m、南北約800mとなる。また館跡東側の道路を隔てて直ぐに出城の東館が所在しており、全体の規模は更に広大なものであった。なお江戸時代の屋敷跡は北側丘陵の南側、現在畑地となっている付近であったとされ、堀、石垣が遺るという。
東館の標柱を見つけた際にこのとど台館の存在を知りましたが、その10数年後に念願叶って訪問を果たすことが出来た城館跡です。とは言いながら、実際は標柱を探して周囲を走り回っただけなんですけどね…(^-^;
その際にかなり主郭部に近付いているんですが、仕事の合間での訪問だったので詳細に見て回ることも出来ずに終わっています。その時耕作地を革靴で歩き回ったんですが、営業中にもかかわらず靴が泥だらけとなり、その後の仕事に若干の支障を来たしたとか何とか…(^-^;
スニーカーに履き替える時間すら惜しかったのですよー。
※とど=魚偏に馬(魚馬) |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>登米市>西門館
西門館 |
西門館跡、熊野神社南側の空堀跡。 |
【所在地】 |
登米市北郷字西門
|
【別称】 |
石越城 |
【築城年】 |
天正七年(1579)か |
【築城者】 |
千葉道胤 |
【城主変遷】 |
葛西氏[千葉氏]… |
【廃城年】 |
天正十九年(1591)か |
【現状】 |
宅地、耕作地、JR東北本線石越駅 |
|
戦国時代末期、葛西氏家臣千葉越前守道胤が築城し居住したと伝わる。
葛西氏一族である千葉氏は、一族を各地に配して当地方に大きく勢力を拡大したが、道胤は磐井郡流郷の寺崎千葉氏一族であるという。天正七年(1579)頃、道胤と弟肥前守良胤(父とも)が石越へ移封となり東郷古館へ居住、その後弟良胤に城を譲った兄道胤が西門館を築いて移り住んだとされる。しかしむしろ父である良胤が子息道胤に支城を築かせ居住させたと考える方が自然であると思われる。
しかしその後主家葛西氏は豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡、道胤は他の旧臣らとともに大崎葛西一揆に身を投じ佐沼城に籠もるが、仕置軍との合戦中に陣中で病没したという。
JR東北本線石越駅の直ぐ東側の丘陵上に所在し、往時は同駅を越えた西側一帯をも含んだ広大な城館であったという。しかし城地は土取場となって主郭部一帯が失われ、現在は宅地、耕作地となり石越地方随一といわれた面影はない。『仙台領古城書上』『領内風土記』などには、高さ七丈三尺、本丸の規模東西十七間、南北三十四間とあり、二重、三重の空堀が周囲を取り巻いていた様子が記されている。
駅東側の丘陵は前述の通り宅地、耕作地となっていますが、熊野神社の周囲には明瞭な空堀跡が確認出来ます。往時はこの神社の西側が更に高い台地となっており、その頂部に主郭があった様です。しかし…正直なところ城跡より難解なのは千葉氏一族です(>_<)
不勉強なわたしは千葉氏について調べると訳が分からなくなります…。
なお館名ですが、「仙台領内古城・館」「日本城郭大系」などでは“セイモン”と記されていますが、「宮城県遺跡地名表」に従って“ニシモン”としております。ちなみに現在の地名の読みは後者です。 |
|
|
【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981) |
ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com |