村田町
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菅生館 |
菅生館跡解説板。 |
【所在地】 |
村田町菅生字舘
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【別称】 |
出雲館、古内館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
菅生氏か |
【城主変遷】 |
菅生氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林、耕作地 |
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築城年代、築城者は不明。
31号県道沿に建てられている解説板には、“仙台城書上(仙台領古城書立之覚か)に、東西四十間、南北三十間、城主は菅生資八郎との記載がある”とある。また「日本城郭大系」によれば、標高約200mの丘陵上に立地し、大きな平場が3箇所あり、腰曲輪、段築が巡らされているという。また最上部の平場には土塁も確認され、西側奥山への尾根続きには堀切によって切断されているとある。館主は菅生助八(郎)とあり、解説板にある菅生資八郎と同一人物だろう。
県道沿に、うっかりすると町内掲示板と見間違えそうな解説板が建てられています。しかしその場所は画像で判る通り畑として利用されており、おそらくこの画像を撮影した時は出張中だったと思われるので、侵入を諦めたものと推定されます(^-^;
よく考えてみるとそれから訪問してないのか…。 |
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星野城 |
星野城跡遠望? |
【所在地】 |
村田町足立字星城山、ほか
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【別称】 |
星直城 |
【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
星野氏か |
【城主変遷】 |
星野氏…伊達氏[芦立氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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室町時代の築城と推定されており、星野志摩頭が城主であったと伝えられる。また永正年間(1504-21)には芦立宗右衛門が居城していたとされ、伊達稙宗より判書を与えられており、伊達氏に服属していたものであろう。
標高約230mの丘陵上に平場と段築が見られるとされ、大門の地名は大手口であるという。なお出城として南側に小館、西側に花館が所在する。
村田第五小学校の北西丘陵上に築かれた城館で、14号県道線沿に星野城、小館、花館を一緒くたにした標柱が建てられています。山形自動車道北側に星野城があり、その南側、高速と県道の間に小館、高速と県道が交差する西側に花館が所在します。また小館の東側、小学校の直ぐ北西には元館があり、“元舘”の地名が残っています。さらに小学校を挟んだ南東、現在姫神社が鎮座する箇所には明神館が所在しており、星野城を主城とした城館群が形成されています。村田、前川、支倉それぞれへ向かう分岐点となっており、交通の要衝であったことが想像されます。
でも正直なところあまり記憶がない(^-^;
出張時に偶然標柱を見つけ、その後一度再訪しているんですが…この画像も実は全く覚えてないんですよね(-_-ゞ
近隣城館をまとめて訪問し、撮影もして来た筈なんですが、また行かなきゃですね。 |
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村田城 |
村田城本丸跡。 |
【所在地】 |
村田町村田字迫、ほか
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【別称】 |
村田要害、村田所 |
【築城年】 |
嘉吉年間(1441-44) |
【築城者】 |
小山(村田)業朝 |
【城主変遷】 |
伊達氏[村田氏、石川氏、(村田)伊達氏、奥山氏、田村氏、大松沢氏、芝田氏、片平氏](1441-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
城山公園、市街地 |
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嘉吉年間(1441-44)下野国小山郷より小山九郎業朝が柴田郡村田へ移住、村田氏を称して伊達氏に従い、その居城として築いたのが始まりとされる。
村田氏は以後伊達氏麾下にあったものであろうがその行動はあまり明確でない。天文十一年(1542)伊達稙宗と嫡男晴宗の争い、いわゆる天文の乱が始まると、6代紀伊守近重は近隣の沼辺玄蕃、関場日向守らとともに晴宗に与して参戦している。村田氏はその後伊達氏一家の家格となっているが、天文の乱終息後に晴宗よって列せられたものであろう。なお近重には嫡子がなく、伊達稙宗九男を女婿を迎えており、それが永禄八年(1565)家督を相続した民部少輔宗殖入道万好斎であった。宗殖は柴田郡内3万石を領し、兄晴宗以下、輝宗、政宗の3代に仕え、天正年間(1573-92)相馬氏との合戦などに従軍している。しかし天正十九年(1591)政宗の怒りを被り所領を召し上げられ、桃生郡永井館へ僅か300石で所替となった。
村田氏移封後から藩政時代初期の城主は明らかでなく、慶長八年(1603)から翌年までは伊達氏御蔵入地となり、城代として後藤三郎右衛門が置かれた。その後同十年(1605)から同十七年(1612)までは角田城主石川大和守昭光の隠居城となっていたと見られる。次いで同十八年(1613)からは政宗七男右衛門尉宗隆がわずか7歳で城主となり、刈田、柴田両郡内3万石を領知するが、寛永三年(1626)疱瘡により20歳の若さで早世、その後は再び伊達氏の蔵入地となった。なおこの頃まで、村田城は城に準ずる要害拝領であったものと思われるが、以降は所拝領となっている。
寛永六年(1629)岩沼城より奥山大学常良が2500石を以って城主となるが、寛文元年(1661)子の常辰が黒川郡吉岡館へ所替となった。同年から延宝八年(1680)までは田村右京亮が村田地方を領するが、自身は仙台城下にあって村田城へは家臣を置いて支配した。さらに翌九年(1681)には大松沢甚右衛門実泰が1400石を以て城主となり、着座の家格から若年寄となるが、藩主綱村の怒りに触れて禄を減ぜられた上に隠居を命ぜられ、名取郡境野館へと所替となった。
貞享元年(1684)芝多文之丞常春が栗原郡一迫より村田城へ入封、以降芝多氏は8代184年にわたって村田を居所とするが、慶応二年(1866)芝多常質が加美郡谷地森館の片平大丞教敬と交替する形で所替となり、その後まもなく明治維新を迎えて村田城も解体となった。
村田城は柴田より川崎へと通じる街道を押さえる重要な位置にあり、街道西側の標高約54m、比高約25mの丘陵上に築かれた平山城であった。丘陵頂部に東西130m、南北80mほどの本丸、その南東に一段下がって二の丸が置かれていたが、藩政時代の居館は二の丸にあったものと考えられている。現在村田第一小学校の敷地となった付近に大手門があり、町内願勝寺の山門として現存している。城跡北西の丘陵続きには現在も大規模な堀切が見て取れ、南西にの水田地は往時は水堀であったと推定されている。
現在は公園として整備されておりますが、曲輪や空堀、土塁などの遺構が良く保存されています。前述の大手門を実はまだ拝見しておりませんので、今も名君と評される伊達宗高公のお墓参りと併せ、また訪問して来たいと思います。
さて村田宗殖、八名信夫さんですね(笑)
政宗によって禄を減らされて移封となりましたが、「日本城郭大系」を見てもネットで調べてもその移封先は桃生郡“長井”…。桃生郡って言ったら“永井”じゃないのかなぁ?調べてみても桃生郡に長井は地名は見当たらず。単にわたしが判らないだけかも知れませんが、永井に調べに行かなきゃです。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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