山元町
旧亘理郡山下村(〜S30) |
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大平館 |
作田山館跡標柱。 |
【所在地】 |
山元町大平舘ノ内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
大平長十郎か |
【城主変遷】 |
亘理氏[大平氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地、明光院、館の内遺跡 |
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築城年代、築城者は不明。年代は不明だが大平長十郎なる人物の居館であったという。この地は鎌倉時代以降小堤城主亘理氏の勢力下にあり、大平氏もその麾下にあった土豪とみられる。
大平村“風土記”には東西四十間、南北二十五間とあるが、遺構は存在せず、紫桃正隆氏は「仙台領内古城・館」において周囲が水堀で囲まれた平城形式のものであったろうと著述している。
明光院東側の耕作地が館跡と伝承されているようですが、前述の通り遺構は見られません。大平長十郎についてもいかなる人物か判りませんので、町史でも読めば何かしら判るかなあ?
数年ぶりに訪問したところ、東街道(陸前浜街道、現在の通称はアップルライン)沿の民家脇に標柱が設置されていました。特に解説は記載されていませんが、標柱ハンター(笑)には嬉しいことですねー。 |
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小平館 |
小平館跡(鳳仙寺)遠望。 |
【所在地】 |
山元町小平館
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
小平兵衛か |
【城主変遷】 |
亘理氏[小平氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
鳳仙寺、墓地、宅地、耕作地 |
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築城年代、築城者は不明。年代は不明だが小平兵衛なる人物が居城したという。この地は鎌倉時代以降小堤城主亘理氏の勢力下にあり、小平氏もその麾下にあった土豪とみられる。
また亘理氏16代兵庫頭宗隆が養嗣子兵庫頭元宗に小堤城を譲り、小平大閑斎と号して隠居料5箇村を以って居住したとも伝わっている。元宗の家督相続時期から考えると天文年間(1532-55)中頃のことであろう。宗隆が弘治二年(1556)に死去した後は女婿泉田重隆が入封し、小平氏を称したという。
鳳仙寺東側、現在は墓地となっている独立した丘陵全体が館跡と考えられており、東西、南北ともに約150mほどの円郭式山城の形態を持つ。頂上に東西約30m、南北約50mほどの主郭であろう楕円形の平場があり、その平場を中心に5〜6段の段築が見られる。段築の2段目は特に広く、東側に20×50m、西側に70×30m、南側に30×50mの平場が見られ、二の丸として機能していたものであろう。また鳳仙寺西側にある貯水池は、往時の水堀を拡張したものとも推定されている。
鳳仙寺墓地や畑地となっているので登るのは簡単です。しかし確かに段は確認出来るんですが、それ以外の防御施設が見られないんですよねー。もちろん隠居地として防御に重点を置かなかった可能性も、後世の造成によって削平された可能性もありますが…。南方の相馬領から亘理氏の居城である小堤城、亘理城へ向かう東街道(陸前浜街道、現在の通称アップルライン)沿に所在している以上、のほほんと隠居してた訳ではないでしょうしねぇ。
以前訪問した際にはなかったと思いますが、現在は鳳仙寺に標柱が設置されています。 |
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作田山館 |
作田山館跡標柱。 |
【所在地】 |
山元町山寺山下
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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築城年代、築城者ともに不明、丘陵頂部に平場があり、土塁、空堀が確認出来ると「日本城郭大系」にある。
6号国道沿、山下中学校から南へ向かった自動車販売店(ジェミニオートですが看板はダイハツ?)脇に標柱が建てられています。しかしその標柱にも解説はなく、我らの頼れるアニキ「仙台領内古城・館」にも記載なし、「城郭大系」は↑の通りと、何とも困った城館です。
自動車販売店の方に断って斜面をスタコラ登り、主郭部の土塁を見て来ましたが写真は何処に行ったモノやら…。 |
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中島館 |
中島館跡主郭部及び標柱、解説板。 |
【所在地】 |
山元町高瀬館下
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【別称】 |
高瀬館 |
【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
藤原氏か |
【城主変遷】 |
(藤原氏)… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林 |
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永承六年(1051)から康平五年(1062)にかけて行われた前九年合戦の頃、陸奥国府多賀城、亘理郡衙に出仕していた在庁官人、亘理権大夫藤原経清の居館であったと伝承されている。
しかしその様な古い年代まで遡る館跡かは疑問がある。すぐ東側をかつて陸前浜街道と呼ばれた6号国道が通じるこの周辺は、中世に伊達、相馬両氏が激しく抗争を繰り広げた地域であり、その抗争の中で利用された館の一つと考えるのが自然であろう。
標高45m、国道からの比高30mの丘陵上に築かれた山城で、丘陵頂部の30m四方の平坦地が主郭とみられ、標柱、解説板が設置されている。主郭部南東隅に通路が開け、国道沿に設置されている標柱へと続いている。主郭周囲には腰曲輪が巡っており、西側には土塁が盛られているため空堀状になっているが、東側は土取りによって大きく削られている(削られた面は国道から見て取れる)。南側には腰曲輪を挟んで段が見られるのみだが、北側には一部空堀を挟んで尾根が続き、その先に神社が祀られている。全体的には東西120m、南北90mほどの小規模な館跡である。
文献上に名前の現れない城館であり、藤原経清云々は伝承に過ぎない様ですが、ここに経清さんが居住していたとすれば非常にワクワクしますね〜。そうなると前九年合戦前まではここに居住し、安倍軍に身を投じた後に豊田館に居住したってことになるのかな?むしろ可能性とすれば戦国時代の小城館に過ぎないんでしょうが、ここから奥州藤原氏の繁栄が始まったと考える方がわたし的には楽しいですけどね。 |
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山寺館 |
山寺館跡標柱。 |
【所在地】 |
山元町山寺新山
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
菱沼氏か |
【城主変遷】 |
菱沼氏…山寺氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
深山神社、深山山麓少年の森 |
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築城年代は不明、館主として菱沼内膳の名が見え、また天正年間(1573-92)には山寺盛純が居館したとされる。付近には馬場屋敷、馬乗山、物見山などの地名が残るという。
比高約20m、深山神社の鎮座する丘陵が城跡と伝わる。神社が鎮座する頂部は東西、南北とも40mほどの平場となり、南側斜面には数段の壇が見られが、尾根続きの北西面には遺構が認められないため、城館としては少々疑問が残る。伊達、相馬両氏の抗争で利用された一時的な砦であろうか。
神社の周囲に遺構は特に見られず、普通の神社だな〜と思った記憶があります。平場外縁部に土塁状の高まりがあった様ななかった様な…、まあもう一回行って来いって感じですかね? |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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