朝日町
トップさくらとおしろ山形県西村山郡朝日町秋葉山楯
秋葉山楯
秋葉山楯跡遠望。
秋葉山楯跡遠望。
【所在地】 朝日町玉ノ井
【別称】  
【築城年】 戦国時代
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 秋葉山公園
 大谷氏の居城真木山城の東方に所在した支城であり、北西の猿田楯とともに防備を固めていた。
 天正十二年(1584)血縁であった寒河江城主大江高基が山形城主最上義光に滅ぼされると、真木山城主大谷彦次郎元秀は平塩池之坊(?)に逃亡、家臣は帰農したとされる。秋葉山楯もこの時廃城となったものであろう。


 朝日町大谷集落東方、287号国道に接して秋葉山、愛宕山が連なっており、東側の秋葉山山頂が館跡である。標高224.6mの頂部にある円形の平場が主郭部であり、現在は東屋、「大谷往来」の解説板が設置されている。主郭部より西、愛宕山方面への鞍部に扇状に平場が5、6段設けられ、さらにその北西尾根上に帯曲輪が10数箇所置かれている。また主郭部東側尾根上にも数段の平場が置かれおり、最下段の曲輪下には深さ10m、幅5mにも及ぶ堀切が構築されているという。なお愛宕山頂には狭い平場があり、小さな祠が祀られているという。


 現在は秋葉山公園となっており、山頂まで遊歩道も整備されています。野球場脇の駐車場に車を置いてほてほてと進むと、何やら小さな祠を発見。ここが秋葉山楯か…主郭小せぇなあ、と騙されそうになりましたが、そこから東、鞍部を越えると山頂へと続きます。
 しかし明確な由来も伝わっていないものか、特に城館跡を公園に整備したという感じでもありませんでしたねぇ。
トップさくらとおしろ山形県西村山郡朝日町鳥屋ヶ森城
鳥屋ヶ森城
鳥屋ヶ森城主郭部より朝日町市街地を望む。
鳥屋ヶ森城主郭部より朝日町市街地を望む。
【所在地】 朝日町下芦沢
【別称】 五百川城
【築城年】 戦国時代
【築城者】 岸義忠
【城主変遷】 岸氏…最上氏[関口氏]…
【廃城年】  
【現状】 館山公園
 戦国時代、岸美作守義満(義忠?)によって築城されたという。岸氏は朝日将軍源義仲の後裔を称し、出羽国の土豪柴田兼頼を頼って関東より移住したとされるが確証はない。

 永禄八年(1565)、岸義満の女弥生姫と、八ッ沼城主原甲斐守忠重の子半兵衛兼道との婚約が成立すると、姫に横恋慕した和合但馬守秋広なる人物が原氏、岸氏が協力して山形城攻撃を企図していると最上義光に讒言した。義光はこの讒言を聞き入れたものか、また国境を接する置賜郡米沢城主伊達氏に備える要地を確保する好機と見たか5000の兵を動かして鳥屋ヶ森城、八ッ沼城を囲んだ。対する岸氏は懸命に防戦するも多勢に無勢、遂に落城した。なお落城直前、兼道、弥生姫は来世での夫婦を誓い合って八ッ沼城下の春日沼へ身を投じたという。またこの五百川合戦は天正九年(1581)、同十二年(1584)ともいわれている(なお最上義光の家督相続は元亀元年(1570)もしくは翌年とされる)。

 最上氏により攻略された鳥屋ヶ森城は、八ッ沼城とともに置賜郡方面に備える最上領の防御線として機能した。そして慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に伴う出羽合戦では、西軍に与した陸奥国会津郡若松城主上杉景勝が東軍の最上領へ侵攻、吉岡右近、土橋維貞らの攻撃を受け、守将関口三郎右衛門は頑強な抵抗をすることもなく城を退去、落城している。

 関ヶ原合戦で東軍が勝利した後は山形藩領として安堵され、最上義光四男の山野辺城主、山野辺義忠の領知するところとなり城番が置かれたものとみられるが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われる。


 朝日町市街地東方、標高400.2mの館山がその城跡であり、現在テレビ各局の放送施設が立ち並ぶ山頂部が主郭である。主郭部は東西約60m、南北約20mの不整形の平場で、西側に前述の放送施設が並び、東側の舌状にのびた先端に小さな碑が2つ並んでいる。その主郭部を中心に、北西、北東、南西、南東の四方、山頂からの比高差約100mの範囲に曲輪群が確認出来る。


 現在は館山公園として整備…されてるのかぁ? 山頂の主郭部下まで車で上がれますし、遊歩道もあります。でも山頂に何があるって訳でもなく、NHKほか民放2社のテレビ放送施設があるのみです。訪問時は地デジ移行(最早なつかしい)に伴い工事が行われていた様で、ユンボとトラックが1台ずつ停まってました。なお車で上まで行かれるとは言っても、軽自動車とかコンパクトカー、オートバイが吉かも…。当時の愛車ギャランのフロントバンパ下を擦りまくっていました(T^T)
トップさくらとおしろ山形県西村山郡朝日町八ッ沼城
八ッ沼城
八ッ沼城跡遠望及び春日沼。
八ッ沼城跡遠望及び春日沼。
【所在地】 朝日町三中
【別称】 五百川城、八ッ沼楯(館)
【築城年】 文明年間(1469-87)
【築城者】 原頼貞
【城主変遷】 五百川氏…原氏…最上氏(1565-1600)-上杉氏(1600)-最上氏[山野辺氏](1600-1615)
【廃城年】 元和元年(1615)
【現状】 山林、畑地
 寛治四年(1090)若狭守蔵人なる人物が、源義家に従い清原氏残党の平田次郎、五郎を討ち取った功で当地を賜り五百川氏を称した。そして建久年間(1190-98)、子孫の五百川若狭守重経が奥州藤原氏家臣谷川右京を討伐し、この地に塞を築いたのが起源とされる。以後代々五百川氏が当地を治めたが、正平年間(1346-69)若狭守重政が長崎城主大江綱房との合戦に破れ滅亡した。

 その後文明元年(1469)、越前国敦賀城主原越後守頼貞が合戦に破れ出羽国へと逃れ、八ッ沼城を構築して居住した。なお移住時期は明確でない様で、明応元年(1492)頼貞の子(孫とも?)隠岐守忠政の頃ともいわれる。
 永禄八年(1565)、原甲斐守忠重の子半兵衛兼道と、鳥屋ヶ森城主岸美作守義満の女弥生姫との婚約が成立すると、姫に横恋慕した和合但馬守秋広なる人物が原氏、岸氏が協力して山形城攻撃を企図していると最上義光に讒言した。義光はこの讒言を聞き入れたものか、また国境を接する置賜郡米沢城主伊達氏に備える要地を確保する好機と見たか5000の兵を動かして八ッ沼城を囲んだ。対する原氏は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛らを中心に500の兵でよく戦うも、多勢に無勢、遂に落城した。なお落城直前、兼道、弥生姫は来世での夫婦を誓い合って春日沼へ身を投じたという。またこの五百川合戦は天正九年(1581)、同十二年(1584)ともいわれている(なお最上義光の家督相続は元亀元年(1570)もしくは翌年とされる)。

 最上氏により攻略された八ッ沼城は、鳥屋ヶ森城とともに置賜郡方面に備える最上領の防御線として機能した。そして慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に伴う出羽合戦では、西軍に与した陸奥国会津郡若松城主上杉景勝が東軍の最上領へ侵攻、中条三盛、水原親憲、色部光長らの攻撃を受け落城し、守将望月隼人正は討死した。
 関ヶ原合戦で東軍が勝利した後は山形藩領として安堵され、最上義光四男の山野辺城主、山野辺義忠の領知するところとなり城番が置かれたものとみられるが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われる。


 標高280m、比高110mの丘陵となっており、東は最上川に接し、西の春日沼側は急峻な崖となっている。南側の郭が居館で、空堀を挟んだ丘陵が詰の城と考えられている。


 春日沼の駐車場から八ッ沼城入口(空堀)の案内板に従い丘陵に登りました。道があるのかないのか分からない所を通り最高所まで行きましたが、頂部はかなりせまく南西部に土塁状の高まりが見られる程度でした。頂部を中心に南北に数段の郭(腰郭)が続いている様ですが、りんを車内に残していたので残念ながら南側しか確認出来ず、「日本城郭大系」にある本丸北側の七ッ井戸も見られませんでした。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「山形県山辺町埋蔵文化財調査報告書第9集 高楯城跡発掘調査報告書」(山辺町教育委員会2000)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

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