メモ帖ー’03

 

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2003/01/01 日高山脈の年始

 マア(妻)が雑煮を作る間にと思い、いつもの道路に行ってみた。快晴
の青空に朝の日を受けた日高山脈が陰影を顕らかにしている。
 沢が思い思いに襞を刻みながら不思議な調和を見せている山容に、えり
も岬に連なっていく巨大な岩塊とそれを削り続けるエネルギーの凄まじさ
を感じる。

 今日は正月らしく賑やかなショットもと思いながら、柏の林越しに真っ
白な峰を見せているピリカヌプリに目がいった。ややいびつなピラミッド
の形状に見えるこの山は、殆ど曲線を見せない。
 陽光を浴びて柔らかに見える柏の木立と雪に覆われた牧場の空間、そし
て直線的なピリカヌプリの姿がどんなバランスを見せるだろうか・・・。

 

2003/01/26 日高山脈0126

 ピリカヌプリと並ぶようにソエマツ岳が穏やかな姿を見せている。だが、
この姿はこの辺りから眺める場合だけで、少し離れるとその山頂部は更に
西に向かって稜線を這わせ、もう一つのピークを持っていることが分かる。
 北方から眺めるこの山は異様なと形容したくなる無骨な山容を見せ、山
脈の南部に巨大な岩塊として屹立する。

 さて、2・3日前、職場の後輩に「タカさんは武闘派だと思ってました」
と言われた小人タカノハ、ここぞとばかりソエマツ岳を例に引いて、「一
面的に人間を判断しちゃいかんのだ」と力説してみたものの、マアには言
われてしまう。
「○○さんの言うとおりだと思うよ〜、ま、少しは丸くなったかなあ」
 しかし、物事は多面的に捉えなければならない。群盲象を撫でる、の例
えもあるじゃないかとの抗弁を、丸くなったらしい自分は飲み込んだ。

 

2003/01/31 町村合併

 「巧言令色鮮矣仁」と論語を思い出したわけではないが、タカノハは貧
しい経験なりに言葉の多い場面では警戒警報を感知するようになっている。
 人間というのは簡単に仮想と現実を行き来するようで、町村合併もいつ
しか言葉だけは一人歩きを始めたようだ。

 人間の行動の多くはもちろん想像力に負うところだが、こうした現象を
見るとその功罪が浮かび上がるようで面白い。現実にはどこの山にも川に
も何も描かれては居ないし不連続な部分もない。
 人間の想像力だけが名付け、境界を描く。合理的であると同時に不合理
であり、謙虚であると同時に傲慢、融通無碍かつ自縄自縛とでも言いたい
ほどの暴走を見せるのが想像力。

 さて、町村合併もどのような決着を見ることになるのか・・・、地方と
いうのは人間と自然の緩衝地帯としてだけでなく、都市社会にはじかれた
人々を癒すという重要な役割を果たしていると思うのだが。

 明日あたりタカノハも貧しい想像力を駆使して日高の山を眺めに行こう、
でも冷え込みそうだな・・・。

 

2003/02/03 けあらしの朝

 寒い朝には川水が蒸気を上げる。けあらしと呼ぶこの現象で河口は湯煙
を上げているように見えた。川の流れにもうっすらと白い蒸気が上がり、
湯の流れと錯覚しそうだ。

 夏でも素肌を浸けていられるのは何分かという川水、それすら暖かいも
のに属してしまっている冬の寒さが視覚に入っている。
 さすがにこの朝はカメラを握る指も凍えて辛かった・・・、暖衣飽食の
徒であるタカノハは早々に撤退を決め込んだ。

 

2003/02/07 柏林

 柏の枝が青空に向かっている、剥き出しの先端を無数に突き出して。

 柏と言えば面白い話・・・借金したときにその期限を「柏の葉が全部落
ちるまで」とするのだという。そんな話を聞いてこの時期柏の葉に注目し
ているのだが、確かにその葉が総て落ちた時期を探すのは困難のようだ。
 

 

2003/02/10 「開墾の記」を読む

 久々に坂本直行さんの名著「開墾の記」を読んでみた。

 足元の自然に向き合って、怖れるのでも奢るのでもなく、この土地が自
分の生きる場所と決めた潔さがある。
 彼の描く空間には他を圧するという飛び抜けた存在は現れない。一夜に
してその家が雪に埋もれるという自然の猛威を体験しても、だ。

 そのことに思い至ったのは、やはりこの著作に記された、あるがままを
受け入れる彼の生き方に触れた時だ。

 

2003/02/23 日高山脈ー異形の山巓

 ソエマツという山は、やはり異形と言える姿で屹立していた。北上して
西の稜線ともう一つのピークを望める場所がある。
 「群盲、象を撫でる」ような、と以前に記したが、いつも見る場所から
は想像のつかない無骨なその姿を改めて撮って見た。多少自戒の思いを込
めつつ。

 

2003/02/28 息子との旅

 たまに日常を離れてみるのも悪くない。古い港町を歩き回り、知らない
ところで飯を食う。そんなことにもエネルギーを費やすのだが、それが本
来の人間の姿だと思う。

 ポツリポツリ息子と会話を交わし、親元を離れて生きてきた一人の若者
の気配を感じ取る。墨絵を思わせるような沈んだ彩りの街では若者も飾り
ようがなく、言葉の端々、所作の端々に個性を滲ませる。

 

2003/04/08 フクジュソウ

 3月はことのほか忙しくて気がつくとフクジュソウが咲いていた。まだ、
厚く重なった雪が残る時期にしっかりした花をつける。
 これから山野に満ちてくる草花の先触れとして、春の到来を告げる。丈
短く太い茎に開く黄色い花弁が、野生の力強さを感じさせる。

 

2003/04/20 雪解けの林

 雪解けが終わろうかという早春の林、先駆けのフクジュソウが葉を十分
広げた頃には、いろいろなものが姿を現してくる。
 雪に押しつけられた枯れ葉の下で、想像もつかない営みが行われていた
ことを実感する時だ。

 

2003/04/24 エゾエンゴサク

 フクジュソウの次はこの花だ。黄から青、太いから細い、極端といえる
個性の違いが面白いと思う。時間、空間の僅かな違いによって様々な個性
を産み出す、土地という自然物。

 今年は寒さと雪に敏感になって過ごした。厳冬期と片づけていた期間が
いかに変化に富んだ時期であったか、自分の感覚がいかにラフなものであ
ったか、認識を新たにする思いだ。自分の感覚の鈍さを嘆くということで
はなく、潜在的に自分が持ち合わせていたものに気づかされたという意味
で。

 人間というのは思いの外に柔軟なセンサーを持っているのかもしれない。
ただし、それを研ぎ澄ますことが出来るかどうか、或いは何に向かって働
かせるかという選択は、何に負うのか・・・。
 個性という括り方は曖昧に過ぎるのだが、その人間を形成する様々な要
素の集積こそが、僅かに他と違うといえる個性を産み出す。

 

2003/04/28 エゾエンゴサクその2

 小さなこの花は、まだ枯れ枝や枯れ葉が無惨な姿を晒している中に姿を
現すのだが、淡い水色から濃い紫色まで実に様々な色合いを見せてくれる。

 群生し、また個々にはきれいな姿形をした花だが、荒涼とした枯れ野を
覆いつくすには至らず、どこか咲き急いだ印象で盛りを終える。時を得ず
して、という不遇の才能を思わせるような花だ。
 もちろんそんなことは小賢しい人間の感慨に過ぎなくて、当の花はその
必然を持って咲く。

 雨の日に撮りに行った。十分に撮れず、翌日再び挑戦することになった。
雪解けの草地は雪の重みで地面に貼り付けられた枯れ草で被われ、まだ僅
かな緑しかなかった。

 

2003/05/06 エンレイソウ

 「都ぞ弥生」に歌われるエンレイソウは、真白の花影、とされているか
らオオバナノエンレイソウを指しているのだろう。年配の人々に聞けば、
昔はどこにでも咲いていたというのだから、珍しくもない花だった筈で人
が追い立てた結果として生息地を狭めている。

 連休を過ぎて早朝の林を訪れて見ると、早い花が開きかけている。この
1週間ほどで咲きそろう筈だが、明日あたりから天気が崩れそうな気配。

 

2003/05/14 エンレイソウ・・・2

 昨日あたりでようやく咲きそろってきた感じで、昨年の記録からすると
4、5日遅れで盛りが来ているようだ。3年目になると、ここはこんな感
じ、あそこはあんな感じに咲くと頭に入ってきている。
 同じエンレイソウでも花弁の形に違いがあるということも分かった。丸
から角、大から小、様々な形が見えてきて林を彷徨うように歩くことにな
る。

 カタクリ、サクラソウもこの林に群落を作っていてエンレイソウよりや
や早く盛りを迎えていた。驚いたのはカタクリで、昨年と一昨年の状態か
ら見ると信じられない規模の大群落を作っていた。私の観察が間違ってい
なければ、大きな2カ所の群落は昨年までなかった筈だ。

 

2003/05/15 エンレイソウ・・・3

 白い簡素な花が柏の林に咲きそろう様は、蝶が舞っているようでもある。
下生えの草花も枯れ葉の下から次々と芽吹き、若葉とその白い花びらの取
り合わせが実に穏やかで清澄な世界を見せてくれる。  

 直行さんは「早春の白花の王」と呼んだが、森の妖精という人もいる。
仄暗い林のそこここに立ち上がり、やがて一面に広がっていく数日は林が
最も劇的な変貌を見せる時期でもある。

「雲ゆく雲雀に延齢草の・・・」という歌の一節どおり、耳にはいろいろ
な鳥の鳴き声に混じり確かに雲雀の声も聞こえていた。

 

2003/05/21 エンレイソウ・・・4

 この花には特別な思い入れがある。ある時期私が仕事していた施設は、
この花が咲く林のすぐ近くだった。
 最初は群をなして咲く姿を眺めるだけだった自分が、芽吹く若葉を観察
し林の中で延齢草の葉を見分けられるようになった。次は林の中で何処に
どんな密度で咲くのかも分かるようになった。やがて花の形の様々が頭に
入るようになった頃、この花にカメラを向けていた。

 物事を分かるということは、こういうことなのだろう。一面を覚える、
次ぎにまた別の面を覚える、その繰り返しの中で対象物に対する認識が深
まっていく。とはいってもそれは深めたというだけで、全てを分かったと
いうことではない。

 

2003/05/27 春風景

 十勝野の春が、今たけなわになっていると実感する。
 白樺の柔らかな若葉が青空に透けるように瑞々しい緑を輝かせ、落葉松
林は緑一色に覆われた枝を、触手のように宙に差しのべゆったりと風に揺
れている。
 その林や森の下ではありとあらゆる草花が芽吹き、花をつけ実を結び、
或いは蕾を膨らませている季節でもある。

 活発な生命活動が幾重にも重なると、もう個々の生命活動というよりは、
連鎖した一繋がりの雑多な生き物とそれを収める空間が、一つの巨大な生
命体のように思えてくる。

 

2003/06/01 鈴蘭を探して

 林に足を踏み入れる、完全装備で。と、言っても帽子をかぶり長靴を履
いた位だが。
 鈴蘭がまもなく咲く筈だと思い、以前マアが知っていた鈴蘭のある林に
やってきた。国道沿いの林だが、何歩か入り込むとそこは仄暗い別世界。
歩き回るうち、そこここに鈴蘭のすっとした2枚の葉が認められる。
 もう開花した地域もあると新聞が伝えていたが、当地ではまだ早いよう
だ。蕾をつけた二株ほどを認めたが、まだ数日はかかるだろう。

 

2003/06/03 名も無き花

 通りすがりにふと目につく花を撮る。撮った後の名前探しが大変で、最
近はそれが楽しみでもある。

 

2003/06/05 鈴蘭

 ようやく鈴蘭の花が咲いた。ようやく、などと自分の都合を語って傲慢
なことだと思うのだが・・・。
 その場所を歩いても、そこに鈴蘭があると意識しない人間の目にはとま
らない。それほどに小さく、ひっそりと咲く花で、多くの人間は傍らを通
り過ぎるか踏みつけていくだろう。
 だが、そのように行動する人間の多くが、鈴蘭の姿・形・香りを取り上
げたとき愛すべき花と思うのだ。

 撮影する私の傍らで「少しだけだよ」といってマアが摘んできた鈴蘭が、
我が家の室内で香り立っている。

 

2003/06/07 ササバギンラン

 この花を見つけたのは、全くの偶然だった。エゾノハナシノブを改めて
撮り直すつもりで入った林で出会った。
 タカノハもマアも初めて見る花、一面の若緑に浮き上がるような小さな
白い花が印象的だった。

 

2003/06/08 様々に咲く

 海辺の林に足を向ける。マアが珍しい花が咲いてると聞いてきたのは、
あのエンレイソウの林につながる場所だった。
 その花は幾度か撮ったエゾノハナシノブだったが、そこには思いがけな
い花がいくつも咲いていてマアを驚喜させた。

 一つずつ撮影してる傍で「ああ、これもきれい!」と、次々にマアの発
見が告げられる。実際そこは盛りを過ぎたエンレイソウに混じり、次々と
蕾を膨らませ、咲き誇る花々に満ちていた。

 分かっただけで、ハクサンチドリ・エゾノハナシノブ・マイヅルソウ・
スズラン・チゴユリなどがある。海岸に沿ってベルト状に続くこの林は、
カタクリ、エンレイソウに始まって折々の野花が楽しめる空間だった。

 

2003/07/02 旧友とエゾカンゾウ

 30年程会ってなかった高校時代の友人が突然来道、昼食を摂り直行さ
んの足跡を案内する。

 広い北海道に感嘆する友人と野塚原野を歩く中でエゾカンゾウが咲いて
いる。そしてエゾスカシユリの姿も。

 

2003/07/19 林で

 いつもの林、春の花から夏へと姿を変えていく。エンレイソウは花びら
を落とし、その実を静かに成長させているようだ。

 車百合が咲いている。蕾を認めてから2週間、ようやく見ることができ
た花は車百合だった。マアと二人で図鑑を眺め、そうだろうと結論してい
た通りで嬉しくなる。細い茎がすっと立ち、葉が少ない実に簡素な姿で、
大きく反った花弁がきれいな弧を描いている。

 林は棕櫚草が盛りで、至る所に黒い穂先を見せていた。そして帰りがけ、
足元に小さな白い花を認めた。
 「二人静!」とマアが叫ぶように屈み込む。図鑑を眺めて、実物を見て
みたいと思っていた花の一つだという。

 

2003/08/02 海岸の草原

 ツリガネニンジンが咲き始める頃と思いたって、海岸の草原に向かった。
昨年見つけた場所で、畑の脇にハマナスなどの花がある。特にこの時期に
咲くツリガネニンジンが他に見あたらない数であることを昨年知った。

 ツリガネソウの一つに数えられている姿のいい花だが、この日はまだ早
いと見えて、2、3本が見えただけだった。その代わり今まで知らなかっ
た花が目について、思わぬ収穫にズボンを汚すハメになった。

 図鑑で調べてエゾチドリと呼ばれる花と見当をつけのだが、確かにハク
サンチドリの白い奴というのが第一印象だった。

 

2003/08/04 海岸の草原−2

 雨の翌日でどの草花もたっぷり露を含んでいる。咲き始めだけにそれほ
ど多くは目につかないが、数本が草の間から覗いていた。咲く場所による
のか、この花も色の濃淡にかなりの差がある。

 

2003/08/11 天馬街道

 札幌へ向かう。天馬街道では、マアと二人で青いツリガネニンジンの姿
を探しながらのドライブになった。
 ツリガネとは言い得て妙といいたい名前で、小さな花ではあるがまさし
く釣鐘型の姿をした青い花が丈高い夏の草むらに混じる。

 

2003/08/13 夏木立

 今日はゆっくりといつもの道路脇を撮り歩いた。若緑は既に色濃い夏の
緑に変わり、鬱蒼とした林と丈高い草が地面を埋め尽くしている。

 道路脇にツリガネニンジンが目立ってきた。笹藪から或いは草むらから
その茎を突き出して小さな釣鐘型の花をいくつもつける。スズランの花と
同じくらいの大きさで色は青紫、濃淡の差が株によってかなりある。

 

2003/09/19 休暇

 遅い夏休み、しばらく忙しい目にあってようやく取れたまとまった休暇。
実質の作業量はそれほど多くないのだが、縛られている時間の総量が単純
に抽出できない不可思議な物質のように生活を被っている。

 これに囚われてしまうのが仕事人間て奴か?・・・多くの人間を惑わせ
る。何はともあれまとまった数日間の休暇は有り難い、心おきなく自由に
過ごすことにする。

 

2003/10/02 天変地異(9月26日十勝沖地震)

 大地震、寝込みを襲われるとはこのことで、早朝5時前という時間に経
験したことのない揺れで飛び起きた。かなり強い地震だと思いながら、収
まるのを待ったが益々強くなる。

 揺れる音やら家具が立てる音やら分からない中で、居間に行くと既に茶
箪笥から食器類が落ちて割れ物が散乱している。
 ボロ屋がつぶれる気がしてきて、遂に妻と外へ飛び出して収まるのを待
つことに。家が揺れ、電線が激しく揺れるのを見ながら何も考えられずに
立ちつくしていた。

 家の中は、棚から飛び出した食器類が散乱、その時は足の踏み場もない
惨状と思ったが、割れたのは皿が10枚ほどだった。2階の書斎を覗くと
机に本棚の一つが倒れかかり、PCモニター上に割れたガラスの破片が数
個張り付くように被っている。
 本が足元から机の上まで覆うように積み重なり、ここも足の踏み場がな
い。何よりも、昨年買ったばかりのモニターの惨状に観念、妻共々怪我も
なくて良かったと思うだけだった。

 だが、結局片づけてみるとガラスの破片を浴びて傷はついたものの、モ
ニターは不具合なく動作した。揺れの大きさと派手に散乱した物の所為で
一見大きな被害と思えた惨状も、皿が何枚、ガラスが何枚という程度のこ
とに過ぎなかった。

 地域としてもさほど大きな被害もなく、特に人的な被害が軽微な怪我数
人で済んだことは、揺れの大きさからも奇跡といっていいのではないか?
火を使わない時間であったこと、ストーブを使わない季節であったこと、
いろいろな幸運があったと考えた方がいいのだろう。

 

2003/10/03 教訓

 今回の地震で得た教訓は、基本的な備えとして懐中電灯、ラジオが欠か
せないと実感したことだ。1時間ほど停電になったために、この二つは本
当に有り難かった。

 意外な盲点はラジオで、仕事上ある施設に出向いたのだが、ほとんどは
電源を家庭の配線から取っているために、電池内蔵となっていても電池が
切れているか抜かれたまま・・・。

 普段使わなくても電池の備えはしておきましょう。停電でテレビが切れ
たら、ラジオしかありません。

 

2003/11/05 記憶

 レタッチする画像にごみが、と思い幾度か消しゴムツールを走らせるの
が地震の記憶。モニターについた傷があの記憶を忘れさせない。

 人の記憶も意識についた傷のことかと妙なことを考えてみた。

 

2003/11/25 シシャモ

 今年の我が家のシシャモは実に良い出来だった。毎年マアが知り合いに
送る干しシシャモを手作りしている。
 手作りといっても要は干すだけの物だが、近頃は天日干しの魚などそう
無いだろうから、貴重品として気安い友人には能書きを垂れている。

 北海道でもわずかな河川にしか産卵しないシシャモは、同じ名を冠した
輸入シシャモに出回る数量で圧倒されている。おそらく本州の人達は輸入
シシャモがシシャモだと思いこんでいるだろうと思う。
 実際出回る数量では本来のシシャモは全体の5パーセントにも満たない
筈だ。

−シシャモ2−

 同じ名前でも全く別の魚なのだが、カタログ社会では同じ物という捕ら
え方をされるのもやむを得ないのだろう。商社はやはり販売のプロなのだ、
どうすれば売れるか良く分かっている、と腹立たしくも感心したものだ。

 その昔、神が柳の葉を魚に変えて人間に与えた、という話から柳葉魚と
表記されてきたシシャモ。北海道それも太平洋岸に産地が限定される地方
色豊かな魚といえる。

 タカノハのお勧めは、生干しやら子持ちなどと気取らないで、小型の良
く干した奴。これをストーブの上かなんかで焙って食うのが一番旨いと思
っている。子供達がまだ小さい頃、夜の酒の肴にこれを焼いていると一緒
になって口にしていた。

−シシャモ3−

 生産量が少ないことに加え偽物というかシシャモまがいの魚が多いため、
一般の人が本来のシシャモを口にすることは難しいだろうな、と思う。

 ある時、我が町の視察団が東京のとある商店街を歩いていて、売り子に
シシャモを勧められたのだという。見るとその魚はシシャモではなく、キ
ュウリという形は似ているが全然別の魚だった。
 そのおじさんは由緒正しいシシャモの加工屋さんだったから当然店員に
しっかり教えて来たらしいが、帰ってきて目を潤ませて笑ってた。

 なにかアドバイスをと思ったのだが、かくのごときで皆さんに由緒正し
いシシャモを入手する方法は伝授できそうもない。
 消去法的な言い方をすれば・・・
・産地表示の無いものは買わない。
・国産シシャモの産地は北海道太平洋岸のみ、と覚えて下さい。
・どうしても、という場合はここを見ている方でしたらメール下さい。

 

2003/11/26 ハマナス

 冬近くにハマナスとは思わなかった。海岸沿いの断崖の縁に赤いものが
目について、近寄ってみたらハマナスの実だった。寒々とした枯れ草ばか
りの風景に赤い実が鮮やかである。

 

2003/12/01 旨いもの

 日曜日1日がラーメンの日になった。つい先日、友人達と一杯やった話
の勢いで食べにいこうと決まったのだ。なんせ片道3時間半のドライブに
なるから、決意するには勢いが必要になる。

 ということで朝8時半に迎えの車が到着、目的地に着いたのは12時
ちょっと前。噂で聞いたのが5年前、いよいよ幻のラーメンとのご対面と
なった。

 手打ちの麺、醤油味のスープ、どちらも申し分なく旨かった。教えてく
れた仲間が40年間通ったというラーメンはさすがだった。あっさりした
醤油味が見事に絡む手打ちの縮れ麺が印象的で、支那ソバと言った昔の呼
び名を思い出していた。

 結局5人で11杯を食べて帰路についた。マアともう一人の奥さんを加
えても、一人2杯は食べてしまう優しいスープのラーメン。40年間変わ
らぬ味という田舎町の食堂に脱帽する思いの一日となった。

 

 

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