メモ帖ー’04・下

 

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2004/07/05 緑濃く

 十勝平野を走ると緑のトンネルと言いたくなるような所がある。道路の
両側に巨木が連なり、木々は広げた枝一杯に葉を繁らせている。

 そんな場所を走っていると別世界に入り込んだような気分がしてくる。
倒錯した感覚なのだが、どこから来て、どこへ行くのかなどいうことは消
えさって、ただ心地よくその場所を走っている。

 

2004/07/08 エゾニュウとオオウバユリ

 林の中や農地の端にエゾニュウとオオウバユリが開いてきた。どちらも
大型の花で、特にエゾニュウは高さも幅も通常の花を遙かに超えるサイズ
だ。
 小暗い林の中でこの花と対峙すると不気味な感に捕らわれさえする。だ
が緑白色の各部分はきれいだし、その造作は何ともいえない巧みな直線・
曲線を描いている。極上の細工物を見るような造形の妙にただ感嘆するし
かない。

 この2つは共にアイヌ民族の重要な食料であったという。植物学にも民
俗学にも疎い私だが、地元の郷土史家土屋茂さんの著書にこれらにまつわ
る興味深い話が記されていた。
(アイヌ語の地名から見た「広尾町の歴史と風景」−平成6年初版)

 土屋さんの著述は、松浦武四郎から知里真志保、山田秀三まで丹念に各
種の資料を並べてくれるのだが、それは自説を展開するための引用ではな
い。過去の記録を種々比較して、その上で自説を提起するという姿勢だか
ら、研究対象に対して実に公平だと思える。

 その中でエゾニュウの話は、私が歩き回る海岸沿いの地名を巡って展開
されている。神がエゾニュウを食べることを教えるという説話なのだが、
あの巨大な植物を食用にしていたこと自体驚きだった。加えて、煮て食べ
るらしいのだが、食土という土を使った謎の調理法のあることが複数の文
献に現れている。
 結局、エゾニュウとその調理に用いる土(食土)を産することがこの辺
りの地名から示唆されるのだが、その調理がどのようなものなのかは、土
屋さんも見聞したことがなくて分からないという。

 単なる風景の一つとして眺めていた花に、人々の記憶からこぼれ落ちよ
うとしている物語があった。お勉強としてはとんと身に付くこともなかっ
た歴史というやつだが、眼前の風景がある意味リセットされたものと理解
した時、微かにそれが見えるような気がする。

 

2004/07/15 コンブ

 コンブ採りが始まった。解禁が10日だから今日で6日目、実際に漁が
出来たのはその内の2日だけだ。コンブ採取というのは天候などに左右さ
れ、波、霧(ガス)、雨、曇りなどが妨げとなる。

 コンブ漁はいまだに原始的な採取の形態で行われている。船こそ船外機
をつけて走らせるが、コンブ一本ずつを引き抜く所から干して切り揃え
まで、すべて手作業といっていい。

 こうした漁業は、非効率の一方で極めて高度な選択的採取になっている
はずで、理想に近い資源利用の形態である。人間の5感が直接コンブと向
かい合い、必要なもののみを採取すべきと判断する。

 現代は非効率を悪とする傾向が強いのだが、効率化の行き着く先も見え
始めているような気もする。人間の5感を駆使した判断力はとても優れた
ものだと思うのだが、その使い方に研究の余地はないだろうか。

 

2004/07/20 クルマユリ

 この花も心配だった。エンレイソウの林からハクサンチドリのある林に
かけて本当にポツンポツンという感じであっただけだし、季節になるとこ
の花を持ちだしていくじいさん、ばあさんが居るという話しも聞いていた。

 この季節になると、林に入り込むのもなかなか骨が折れる。虫の天下で
ある林の中は様々な脅威に満ちていて、気軽に立ち入る気にはなれない。
 まず虫さされ、耳元で羽音が聞こえてくる。カメラを構える手に蚊の類
が止まる、大事な時は刺されながら撮ることもある。だがこのくらいは序
の口で、これがハチになると身の危険を感じることになる。
 そしていたるところに張られた蜘蛛の巣が、あちこちで身体にまつわり
ついてくる。
 防虫スプレーを身体に吹きつけながら長袖に長靴履きのいでたちは、1
時間もそこに居れば汗まみれになる。

 クルマユリはそんな季節に咲くから撮るのに難儀する花の一つで、これ
を撮ればタカノハの林探索は終了となる。これ以後の林は丈高い草が生茂
り、ハチが飛び交い、探検家とはほど遠いタカノハを受け付けない。

 そういった意味でも特別な愛着を感じる花の一つである。細い茎の下部
に輪生する葉(車葉)が一カ所、後はスッと伸びた茎に小さい葉がつくだ
けで茎頂部に花をつける。例えば太い茎にバナナの房のように多数の花を
つけて直立するオオウバユリと比べると驚くほど繊細な作りであると言っ
ていい。

 結局、今年も奥深くにはそれなりの数を見ることができて安心した。ま
た、心ある何人かの人達が教育委員会に働きかけて、林の数カ所に植物採
取を禁止する旨の看板が設置された。
「おう、今度からは俺も見かけたら注意してやる。」と、友人である居酒
屋の大将も力強く言ってくれた。

 

2004/07/26 猛暑

 情けないことに夏風邪のタカノハ、治らないうちに更なる猛暑に襲われ
て、泣きっ面に蜂状態となった。首都圏ではこんなものではないと分かっ
てはいるが、当地でも10年ぶりくらいの猛暑に眠れない。

 

2004/07/31 爽やかな風

 この週末は暑いなりにオフィスでは快適だった。窓辺のタカノハの席は
木陰になっていて、朝開け放った窓から涼しい風が流れ込んだ。人間とい
うのは生き物だとしみじみ思うのだが、朝から爽やかな風を受けて仕事が
はかどるような気分になっていた。

 

2004/08/05 夏野

 時間のある時はいろいろな道路を走るようにする。道路脇で思いがけな
い花を見かけることがあるのだが、比較的良く走るおよそ100kmの範
囲内でも植物相の違いは感じる。 大げさな言い方をしたが、例えばエゾ
ニュウなどを辿ると同じ道路筋でも有る場所と無い場所がはっきり分かる
し、並行する別の道路でも違ったりする。

 植物相という言い方は適切では無いかも知れないが、ある一つの花を辿
ろうとすると車窓からでもそうした違いを直感する。これを土屋さんなど
の著書に重ねると、その土地のイメージが湧いて来たりもして楽しい。

 案の定、昨日のドライブでは初めて走る道路脇に撮ったことの無い花を
見つけた。農地の脇の草むらにナデシコの群生とクガイソウの青い穂が目
について車を停める。こうした農道の脇には、農地との間にベルト状の草
地があって種々の草花が繁茂するのだ。

 平家物語ではないが、自然に見えるこうした雑草地にも草花の栄枯盛衰
の歴史がちりばめられていて、在来種も帰化種も渾然となって一つの秩序
をつくっている。
 私が見るものは21世紀初頭の夏風景、人間と自然と、経済と交通との
様々な変化の連鎖によって紡ぎ出された小宇宙の姿だ。

 

2004/08/11 秋の気配

 当地では、盆(旧盆)を過ぎると秋風が吹く、というのだが山野にはも
う秋の花が咲いている。今朝の空は上手く言えないが澄んだ感じで秋の気
配。

 例年にない猛暑の夏も昨日あたりで一段落というところだろうか。

 

2004/08/13 草原で

 これは撮れない、と素直に思うのだった。夏から秋への海岸の草原、ツ
リガネニンジンが青い花を草の間に吊り上げ、ハマフウロやノラニンジン、
名残のハマナス、そして白や黄色の雑多な花に混じってアザミなども咲い
ている。

 個々の花が、というより雑多に咲きこぼれる風景がこの季節なのだ。総
て の草花が惜しみなく開花し結実する季節、夏の名残を残しながら秋へと
移る不思議な時期。どの花に照準を当ててもこの風景を撮る事にはならな
い。

 諦めて、殆ど花を撮ることなく草原を辿り草花を眺めてきた。自分の腕
を恨むのはこんな時で、どのように撮るかというイメージも湧いてこない。
ただ、この風景に出会った事をこの日の収穫にするしかない。

 

2004/08/23 痛恨!

 夏の整理に思いがけずも時間を取られてしまった。画像を取捨選択し処
理するのだが、まだ自分の手法が定まっていないために迷ってばかり。

 この夏の痛恨事はコンブ採りの写真を消してしまったこと。勘違いで、
まだパソコンに取り込んで無かった数十枚の画像を残したままメディアを
フォーマット、せっかく早朝に起き出して撮った画像をふいにしてしまっ
た。

 一人で複雑な岩礁に漕ぎ入って、巧みに船を操りながらコンブを採る漁
師が居た。緊張感のある作業風景で、相当数を撮ったのだが釣り逃がした
魚のように自分の頭に残像が浮かぶだけだ。

 

2004/08/25 贈り物

 家族ぐるみの飲み仲間で夏の撮影で良く顔を合わせる居酒屋の大将が、
木で作った人形をくれた。タカノハのパソコンの弟子でもある彼は器用な
人で、大抵の物は自分で作ってしまう。

 作り置きをくれたのかと思ったのだが、良く見ると花に向かってカメラ
を構える人形とその傍らにもう一体を配して居るから、明らかにタカノハ
とマアをイメージして作ってくれた物と判った。
 無愛想な大将らしい贈り物で、もちろん家に飾ったのだが、ふと思いつ
いてホームページに登場して貰うことにした。

 

2004/09/01 ある嘆き

「私は何時も風景を見て風景を調査していた。地名による歴史は風景だっ
たのかとよくそう思った。・・・」、
 アイヌ語の地名から歴史を視ようとした郷土史家土屋茂さんの言葉だ。
変わるもの変わらぬものの入り交じる風景を見続けた人だったのだろう。

 この一節に辿り着いた時、記憶の深みから甦った場面がある。
土屋さんとは、儀礼的な会話を交わす程度のお付き合いだったが、一度だ
け海について語ったことがあった。

 土屋さんは、海は誰の物なのだ、と若い私に投げかけてこられた。漁業
権に囲われた海は、一般のそこに住む人間さえ排除しているとの嘆き。若
い私に対しても丁寧な口調で語ってくれる紳士的な方なのだが、その嘆き
には憤りに似た感情のうねりがあった。

 海辺の古い漁業集落に住む土屋さんの問いかけは、当時よりもその著書
を読んでの現在、更に深く私に響いてくる。
 そもそも海は誰の物なのか?歴史と風景の中から巧まずして発せられた
言葉は、生半可な理屈なぞ受け付けないだろう。

 2年前、或る場所で久しぶりにお会いした土屋さんは、高齢のために私
を記憶にとどめてくれては居ないようだった。しかし、その数年前に刊行
された著書が多くのことを私に語ってくれている。

 

2004/09/03 トリカブトのこと

 薬草を産する、と当地の古い記録にあるらしい。それがトリカブトでは
ないかと土屋さんは指摘しているのだが、まさに、毒にも薬にもなるのが
この花だ。

 確かに、現在でも夥しく群生する場所に出くわしたりすることもあって
さもありなんと思う。
 昨年呆れるほどの群生を見た場所があったのだが、ある時薬剤師の友人
がトリカブトの根を掘りに行ってきたと言いだした。
 タカノハが姿を撮り、彼が根を採ったその場所が同じだった事がおかし
かった。

 漢方の勉強をする彼はトリカブトと言わずにブシ(附子)と呼ぶ。なる
ほど広辞苑を見ると根の部分から採る毒或いは生薬をそういう、となって
いる。

 きれいな色と姿なのだが、この花の難点は花心部分にある。雄蘂が黒い
ひげ状になっていてすっきり見えないのだ。・・・もちろんタカノハの勝
手な思いだが。

 

2004/09/05 エゾリンドウ

 我が家の庭にあるのだが、以前から野生のものを見たいと思い、今年は
自生する場所を教えて貰っていた。ちょうど盛りを迎えたリンドウは、1
週間前とは比較にならない数が咲き出していて、嬉しくなる。
 
 草むらに踏み込んで撮り始めた時、後ろの方でガサっと草を踏む重い音
が聞こえてきた。
 「・・・っ!」悲鳴は飲み込んだものの、まさに飛び上がらんばかりに
驚いて振り返る。

 教えてくれた人から「気持ち悪い所だよ、熊が出そうな。」と言われて
いたから、真っ先にそう思ったのだった。車を降りて200mほど入り込
んだ場所だろうか、振り返った目に二人連れの人影を認めた時は、本当に
ほっとした。

 リンドウはきれいだった。良く晴れた午前の陽射しに、花びらの先が透
けて淡いブルーに見える。沈んだ濃い青紫のイメージを変えなくてはなら
ないと思う。

 

2004/09/08 強風

 猛烈な風だった、あちこちで木が根こそぎ倒れ、ちぎれた木の葉が空中
を飛んでいく。流石に半日どころか丸一日続くと恐ろしくなってきた。

 札幌では数千本の木が倒れたということだが、当地でもあちこちで倒れ
た木を見た。山や林では相当の数があることだろう。人間に限らず、木々
にも様々な脅威があるのだと改めて知らされた。

 

2004/09/11 青空

 何時もこの時期になると絵心をくすぐられる。青空と山が輝くように見
えて、何時の頃からか、しきりに絵を猫きたいと思うようになっていた。
真剣に始めようかという頃合いにデジカメに出会ったことは、有り難いこ
とだった。

 今日の空は薄い雲を抱えながら秋らしい透明感を見せていた。西に山脈
を抱く此の地では、朝日を受けた山はその襞までを見せている。そして夏
の黒々とした緑とどこか違ってきている草木の色合い。

 

2004/09/14 竜胆

 リンドウの漢字表記だが、その字面を眺めるたびに不思議な感じを受け
る。生薬としての根の粉末が熊の胆よりも苦いから、竜の胆、つまり竜胆
(りゅうたん)となった。そんな話をどこかで読んだ記憶はあるのだが、
それだけのことだろうか。

 

2004/09/15 葬儀

 死を草に包むのか。葬るという文字に感心しながら、寂しく死んだ後輩
の葬式に並んできた。

 

2004/09/21 夏休み

 ここ数年は決まったように9月末が夏休み。今年は思い切り夏休みが取
れて9連休を確保したのだが、残念な事に天気がよろしくない。

 

2004/09/24 色づいて

 やはり秋の景色が広がっていた、昨日からようやく好天に。日高山脈
霞むように薄い雲に隠れていたが、畑は作物を緑から黄や茶に変え、防風
林の緑も色あせたような気配を見せている。

 所々の小高い丘の斜面では、紅葉めいたまだらな変色がはっきりしてき
ていた。

 

2004/09/26 日曜大工

 先日の台風、というより猛烈な風で浮いてしまった車庫のトタンを張り
直した。わずかなものだからドライバーでネジ釘を留めていったのだが、
終わった時には指先にまめができていて愕然とする。

 つい数年前まで現場に出ていたのだが、デスクワークになったわずかの
間にすっかり柔な手のひらになっている。
 うーむ、何か情けないぞ、水で膨れたまめに触れながら、木の枝を掴め
なくなった猿を思い浮かべる。

 

2004/09/28 日暮れ

 みるみる日が短くなって、夕食前の犬の散歩もすっかり日暮れた頃合い
になっている。
 札幌では、サマータイムを取り入れて退社を早める試みをした会社が幾
つかあったというが、面白いかも知れない。

 

2004/09/30 秋の花

 漠然と春・夏・秋と花を撮っていたのだが、9月半ばを過ぎると野の花
は無くなる。トリカブトやヤマハハコなどが時折目に触れてくるぐらいで
ススキや枯れ草が目立ってくる。

 秋の花といえば、8月中頃からを概ねの目途としていたから実質一月し
かない。以前にも此処にメモしたのだが、晩夏から初秋というのは実に微
妙な時期でもう少し撮り様があったと思う。

 既に秋も深まってしまった、来年は不足なくこの時期を撮りたいものだ。
咲き遅れたハマナスが、既に真っ赤に色づいた実と共にあるように、咲き
残る夏と忍び寄る秋が交錯するまたとない空間を捉えてみたい。

 さて、花がもう無いということで困ったのはホームページの運営で、多
少心の準備はしていたものの丸々6ヶ月間は長いなぁ、と改めて考え込む
タカノハ。
 基本的に野花の紹介といいながら、花以外の物を公開していかざるを得
ないこと、それに加えて、雪に埋まった厳冬期にどれだけの表現ができる
のか。熊じゃあるまいし冬眠する訳にいかんだろうな、などと不安な先行
きに思いを巡らせる。

 

2004/10/02 アキアジ釣り

 この季節になると、アキアジと呼ばれる秋鮭を狙っておじさんおばさん
達がありったけの竿を海岸に並べる。

 ある場所で聞いた話だが、中には遠方から来てテントを張って滞在する
剛の者が居るのだという。長期間のことになるから魚を塩漬けし、ある程
度溜まると宅急便が集荷に来るという呆れるような話で、毎年連れてくる
彼女が違うという落ちまでつく。

 人が多すぎるのかなあ、竿を立てる場所取りの話から始まったアキアジ
釣り談義なのだが、例によってレジャーにまで生活の匂いが漂うようで苦
笑するしかなかった。

 

2004/10/03 山漬け(やまづけ)

 あまり知られてないが、アキアジには山漬けという漬け方がある。塩を
した鮭を筵に幾層にも積み上げていくのだが、塩と重みで魚体の水分が抜
けて身が締まる。
 手返しを重ねてむら無く漬け込まれた鮭は、塩分は強くなるが旨い。き
ちんとできるのなら、いい塩梅に塩出しをして焼いて食べれば格調高い一
品だろう。

 面倒だから、我が家ではそのまま焼いてお茶漬けの具にする。少々塩辛
いのだがその塩分でご飯全体を食えばいい。この漬け方をした鮭はきれい
に身がほぐれるから箸先の捌きが容易で、ささやかな満足感を味わえるし、
食べやすくていい。

 いろいろな食べ方があっていいと思うが、昔から貴重な恵みだったアキ
アジ、魚離れの昨今は漁獲に見合った消費を提案していかないと、文字通
りのドッグサーモンになりかねない。

 

2004/10/05 アキアジの地域性

 ある時、市場に山積みされたアキアジを眺めていると、顔見知りの爺さ
んが話しかけてきた。高齢の元漁師だが、彼が目の前の一本を指さして言
う。
「元々のこの辺のアキアジはこんな風だった、これが此処の魚なんだ。」
 さらに続けて
「今は孵化事業であちこちの魚が混じってしまってるんだ。」

 彼が示していたアキアジは鱗がくすんだ鈍い光を持ったもので、言われ
てみるとそれに対してピカピカの銀色に光るものがある。
 長老の言うことは理解できた、自然孵化で河川ごとの生殖を行ってきた
アキアジは、人工放流の徹底で確かに昔とは条件を変えている。

 それにしても、魚が混じっていると見抜く目は、その土地に馴染んでき
たものの強みだろうが、何でも数値化してしまおうという今風の在り方と
は好対照だった。

 

2004/10/07 秋の味覚

 皮肉なもので北海道の観光は、季節的にいい時期と味覚的にいい時期と
が一致しない。まもなくシシャモ漁が始まるのだが、あれもこれもとご馳
走を思い浮かべてみた。

 トウキビ、ジャガイはもちろん、魚類も秋から冬が種類も豊富で、もて
なしに困ることはない。ただ、この時期に訪れる客はそう居なくて、時々
寂しいような思いをする。

 

2004/10/08 宿題

 また一つ宿題を抱えることになった。コウライテンナンショウの赤い実、
現地では「蛇のたいまつ」というのだが、これを撮っておきたいと思って
いた。直行さんが言う「バーミリオンレッド」のたいまつを。

 タカノハが夏に撮ったところは8月に刈り取られてしまうので、自宅の
庭に咲いたという知人を思い出して行ってみた。確かにそれはあったのだ
が時期が遅く、赤い実の半分以上が既にこぼれ落ちてしまっている。

 ため息をつきながらしみじみと季節のものは難しいと思うのだった。一
年に一回の営みを追いかけるのはそう楽なことじゃない、来年は、と思う
ことがまた増えていく。

 

2004/10/16 クマ騒ぎ

 このところ毎日のように人里に現れるクマのことが取り上げられている。
いろいろな見解が述べられているが、要するにクマの食料不足が引き起こ
した現象だろう。

 人間様も全国各地に残る一揆の歴史が、自然から食料を確保するのに苦
闘して来たことを物語る。それは多く自然現象として起きた(当時の)不作
で、山で木の実が充分にならないことは当然起こりうることだと言える。

 境界、人と自然との境界は何処にあるのかと考える。もちろん、それは
きっちりと引かれた物理的な線ではないし、不変の概念を与えられるよう
なものでもないのだろう。

 今回の騒動では、クマの立場を理解して解決の方策を探ろうとする動き
もあるようで、どこかホッとする思いをしている。

 ところで、吾が北海道のヒグマさん達は餌が足りているのか、いまのと
ころ騒ぎにはなっていない。

 

200410/18 シシャモ漁

 秋の風物詩であり、タカノハの食欲を刺激するシシャモ漁が始まった。
と言うのは、シシャモ漁は極めて小型ではあるが一種の底引き網漁だから、
他の魚も水揚げされる。

 ソウハチやナメタなどのカレイ類、ハタハタといった魚がシシャモとと
もに干され、或いは煮付けられて食卓に上る。

 グルメばやりの最近は、有名料理店や有名料理人のものを食べるのが食
の楽しみのようにいわれるが、タカノハはこうした一品に限りない贅沢を
感じる。

 ハタハタの煮付け、ナメタガレイの干物。匂いや手触りまでもお馴染み
の確かな素材を、自分の舌にあった味付けで食うのだから。

 

2004/10/23 パノラマ

 防風林が色とりどりに連なっていく十勝平野の秋、とりわけ柏や落葉松
が色を変えてゆく晩秋の風景は独特の魅力がある。色鮮やかな紅葉と違い、
防風林が見せるのは、落ち着いた深く豊かな中間色の色づきだ。

 十勝野の広がりとともにあるその風景を撮ることは殆ど不可能だと思い
こんでいたのだが、ある方からパノラマについてアドバイスをいただき思
うところがあった。

 人間の視野からいって、4:3の撮影画像はあまりにも狭い。ここは怖
いもの知らずで4:3にこだわらないで行こうと思い、そのようにした風
景画を自分自身が見たかった。

 今日は早朝から十勝平野を走ることになって、道々車を停めて防風林の
紅葉を撮ってきた。落葉松はまだ黄葉していなかったが、柏は深い色づき
を見せていた。

 

2004/10/25 大地震

 報道される映像の凄まじさは、自分たちの経験がむしろ幸いであったと
教えるようだった。

 家がつぶれ、山が崩れ、道路が割れて人が傷ついてゆく。ほぼ似たよう
な揺れだと思うのだが、直下型そして地形の違いだろうか、当地は殆ど人
家に被害は無かったのだが。

 

2004/10/26 身近な秋

 秋には仕事場の机の背後が自慢だったタカノハ、この時期は見事なカエ
デが窓辺を飾ってくれるのだ。

 ところが自慢の種の様子ががどうもおかしい、時期なのにあの鮮やかな
色合いが一向に出てこない。色は変わってきているのだが、艶も無く黒み
を帯びた冴えない色で葉先がもうかさかさになっている。どうやらこのま
ま落ちてしまいそうだ。
 
 北大のポプラも次々倒れた9月の台風、当地でも最大瞬間風速42メー
トルを記録し、あちこちで木が倒れていた。
 あのときにこのカエデも強風に煽られて根本が土ごと浮き上がるような
状態だった。致命的では無いまでも、細い根の何本かが切れてダメージを
負ったのだろうか。

 

2004/10/30 踏み迷う

 パノラマ用に防風林の撮影に向かう。久々に晴れた朝、気が急いて朝食
も摂らずに出かけた。どうしてもこの辺りで山を撮ろうとすれば朝の間し
か時間がない。

 ほぼ狙ったところを撮り終えての帰り道、山沿いの道路に入り込んだ。
この辺はいたるところ農道が張り巡らされていて、まだ知らないところが
幾らでもある。

「迷っちまったなー」この辺りだろうと見当をつけた左折が大間違いで、
右に左に曲がる道路は何時までも目指した幹線に合流しない。それでも見
慣れた山が大体の方向は教えてくれるので慌てることもない。
 それよりも財布を持たないで来たことが応える、飲み物も買えなくてド
ライブの楽しみが何割か低下する。

 結局10分ほどで目指す道路に入ったのだが、思いがけない収穫もあっ
た。初めて目にした角度の日高山脈は、改めて撮りたいと思うポイントに
なった。

 

2004/11/05 薄暮の防風林

 薄暮の中を走る。晩秋に色づいた落葉松の防風林が巨大なシルエットに
なって次々と視界に入ってくる。残照の中に色を深め、闇に溶け込もうと
する黄葉は、黄金色に輝く日中とは全く別のものだった。

 光のいたずら、落葉松は春の若葉から始まって実に様々な姿を見せる。
いや、落葉松に限らない、あらゆるものがそうなのだ。魑魅魍魎(ちみも
うりょう)として現実世界に位置づけられてきたものの多くは、光と闇に
眩まされる視覚と想像力の揺らぎなのではないか。

 

2004/11/13 逸機

 早朝から車を走らせたのだが、何ということか、落葉松の葉は既にその
半ば以上を落としているではないか。並木のように林が続く場所では、風
に吹き寄せられた細い葉が道路脇に黄色の帯のように積もっている。

 

2004/11/14 久しぶりに海

 海に対しては、曰く言いがたしというような思いがあって、被写体とし
て充分なイメージを持てないでいる。

 今朝は夜明け前に起き出して朝焼けを撮りに行ってきた。日の出前の暗
い海に幾つかの漁り火が見える。

 何枚か撮りながらこの季節の寒さを思い知ることになった。しばらく撮
影している内に身体が震え、指先が冷たくなる。実際海の次に山を撮りに
行って見ると、かなり前山まで白くなっているのだった。

 

2004/11/16 シシャモ干し

 「さっと朝日で干すのさ・・・」
 世界を股にかけて活躍されている某先生が自慢の髭を捻りながら宣う。
・・・そうおっしゃっても、東京のマンションのベランダでは・・・、タ
カノハは神妙に拝聴しながら、「何、あいつは何でもかんでも難しそうに
喋るからいけない。」と言って苦笑した大先生を思い浮かべる。

 マアがいつものシシャモを干し始めた秋晴れの朝、きれいに窓際に吊さ
れたシシャモを見ながら魚を干すということを考えた。
 冒頭の髭先生が言うことは(カレイの話しだったが)もっともだ。買っ
てきた干し魚(生干し系)も、できるならさっと一干しして食べるといい。

 魚を干すだけでも、気温、風、陽の光といった条件が随分出来上がりを
変える。商売で大量に扱う場合の機械乾燥をダメだと言うつもりはない。
 そういうレベルの比較ではなく、無数にある自然物と多様な季節から人
間が選り分け紡ぎ出したものの希少さと貴重さを思うのだ。

 

2004/11/20 ある休日

 久しぶりに帰省した息子を連れて直行さん縁(ゆかり)の菓子店に出向
いた。マアと二人この夏から気に入っている菓子を食べに誘ったのだ。こ
んな休日も悪くない、と思いながら木立に囲まれた店に入る。

 木の実のタルト、ホイップしたクリームに粒のままの木の実が包まれて
いて、ほのかな甘味と微かな酸味だけが口に広がって雑味がない。

 息子も気に入ったようで、調子に乗ったタカノハは早速講釈を述べる。
ローカル=田舎臭い、というだけではないのだぞ。こんな洒落た菓子も生
み出している・・・云々。

 脳裏には、「自然の美しさを、都会人に指摘されて気づくようなうかつ
者であってはいけない」という直行さんの記した一節がある。
 ただ、決して恵まれたとはいえないその生活を思えば、軽々しく語るこ
とははばかられるのだが。

 

2004/11/23 夕景

「夕焼けきれいになりそうだよー」
 階下からマアが声をかけてくる。ドタドタと階段を下りて窓を眺めると、
なるほど金色に輝き始めている雲が山の上に見える。

 急いでカメラを抱えて車を出す。まだ4時前なのに夕景色となったいつ
もの道路、残念ながらピリカヌプリあたりから北の山はすっかり厚い雲に
覆われている。

 作戦変更、5分ほど走った牧場脇に車を停めて夕日に向かう。すっかり
葉を落とした木々の枝が蜘蛛の巣のように暮色と夕焼けの空を切っている。
枝に光を隠せば何とかなるだろうと、そこはデジカメの気安さで適当に
シャッターを押しまくった。

「どうだった?」わずかな時間で帰宅したタカノハにマアが不思議そうに
尋ねる。
「うん、いい場面があった。傑作が撮れたかもしれない。」
 ちゃんと撮れていれば・・・という言葉は飲み込んだ、いつものことだ
から。

 

2004/11/26 初雪の候

 実感としてはそんな時期になる。何時雪が降ってもおかしくない、かと
いって冬到来というほどでもない。

 待ちわびてる訳ではないが、静かにその時を待っている。予告するよう
に雪は山に降り平地に舞って私たちに覚悟を促すようでもある。

 

2004/12/05 豪雪

 昨夜から降り続いた雪は、猛烈に吹雪いて一日霧笛を鳴らしていた。今
年は雪が遅いと口々に言っていたのだが、この一日で60センチという降
雪がたちまち帳尻を合わせる。

 11月に初雪はあったが、もちろん根雪にはなっていなかった。それが
一日にして道路も家も雪が埋め尽くす真冬の状態になってしまう。

 

2004/12/08 忙中の観

 閑ではなくて観。久しぶりに晴れて、青空に雪を纏った山が眩しい。地
を這うような生活の中で、それは自分に立ち返らせてくれるような存在感
を持っているのだった。
「山を思えば人恋し 人を思えば山恋し」と語った北アルプスの山男も居
たが、確かに人の心はそのように動くのだと実感する。

 

2004/12/09 重い買い物

 デジカメおじさんタカノハは、手元に届いたデジタル一眼レフカメラを
ひねくり回しながらしみじみ思うのだった。財布にも重かったが(負担が)
腕にも重いなーと。

 下手なダジャレのようなことを呟きながら、それは本音に近いものなの
だ。大体が良いカメラだからといって今以上の写真を撮れるという自信が
ない。

「高いカメラさえ使えば良い写真が撮れるっつう訳じゃねえべよ。」とい
う自らが吐いたセリフがプレッシャーになる。

 

2004/12/15 冬の雨

 雪混じりの雨が降って沈鬱な暗い朝。冬の雨は実に厄介なもので、この
後にしばれが入ると道路はスケートリンクになってしまう。道路脇にスリ
ップして落ちた車を見かけるのも冬の光景ではある。

 

2004/12/17 雪の重さ

 「積雪80センチが設計上の目安ですから、屋根の雪下ろしが必要です」
 こんなことを言われた年もあった。積雪地の住人でないとピンと来ない
だろうが、雪は何よりも物理的な質量を伴うものなのだ。

 

2004/12/20 カニ

 アホらしいと思うのだが、これも人間のすることに違いない。北海道観
光といえば、食材としてカニが欠かせないらしい。と言っても内実は、密
漁物、輸入物がおそらく半分以上を占めるだろう。

 古くから毛ガニ漁が営まれてきた当地では、保存と流通の未発達な時期
には持て余していたこともあったようで、先輩諸氏から幾つか凄い話を聞
かされた。
 漁船の装備も充分ではない頃、漁協市場の職員が突堤の先から帰港して
くる毛ガニ漁船に「こっから後の船は、水揚げするなー、投げてこい」と
叫んでいたらしい。投げるとは捨てるという意味で市場に揚げると値段が
付かないからだ。

 ここ数年は品不足ということで値段も高いから、食べようなどとは思わ
ない。高いというのは自分が決めている毛ガニの値段に対してであって、
もちろん独断である。

 

2004/12/26 夢の光景

 数年前、仕事で釧路まで出向いた帰りに、初めて海岸沿いに開通した道
路を走った。2時間半ほどのドライブ、最後にその道路に入った時から妙
な感覚に捕らわれていた。

 街灯に照らされた雪が青白く輝き、暗い林の間に白い道を浮き上がらせ
ている。長いドライブの疲れだろうか、10数キロあるその道路を走りな
がら夢の中に在るようだった。周囲には人影も車も見えず青白い透明な闇
を意識だけが滑るように進んでいく。

 自分が住む町でありながら、雪と林に囲まれた見慣れぬ光景と闇が、一
つのある風景を呼び覚ますようだった。デジャビュというものだろうか、
ただしそれは実在のものではなく意識に刻まれた幻想の風景。

 やがて見慣れた街灯りに幻想は解け、生身の肉体と社会性を纏った人間
に戻ったのだが、奇妙な体験をしたものだ。今撮り歩いている風景はその
道筋のものが多い。

 

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