2005/01/01 静かに
今年の年明けは静かな小雪、吹雪くのではなく静かに庭先や道路を白く
していた。
先日のように一夜で人家どころか山野も埋め尽くしてしまう雪もあれば、
このように静かに降る雪もある。
久しぶりに我が家は家族全員が顔を揃えて賑やかな年末・年始となった。
2005/01/05 冬の海
穏やかな正月だったが、帰省した子供達と遊ぶのに忙しくてカメラを持
ち出したのは昨日から。
海へ行ってみた、以前にも書いたが海に対しては曰く言い難しというよ
うな思いがあって、相当数の写真は撮っているのだがピンと来る感じがな
い。
それが何故なのか分からない、いや分からないことにしているといった
方が正確なのかもしれない。
そのことはいずれ語る事として、自分が海を撮るのは冬が多い。一つに
はこの期間陸(おか)には被写体が少ないからであり、一つには人気ない
海がどこかで時代というものを無視した顔を見せるような気がするのだ。
ただ、撮ってきた画像はやはり気に入らない。挨拶代わりと、モニター
の画像に呟いて本年の初撮りは終わり。残念!ってギター侍にやって貰い
たいな・・・
2005/01/10 ピリカヌプリ
十勝中南部から眺望する日高山脈中でも、ピリカヌプリは隣のソエマツ
岳と並んで一際目を惹く山容を持ち、雪をまとったこの時期はピラミッド
型の稜線が殊に鮮やかに浮き上がる。
この山は姿が個性的というだけでなく、表記の通りその名も一風変わっ
ているがアイヌ語由来のもので、ピリカ(美しい、良い)・ヌプリ(山)
だとされている。つまり「美しい山」という美称が固有名詞になった特異
な名前なのだ。(ニセコアンヌプリのように○○ヌプリと古称を残す山名
は各地に残っている※1)
名前を知らなかった頃、心中で「あのきれいなピラミッド型の山」と呼
んでいたタカノハとしては、やや出来過ぎの感はあるがこの呼称に大賛成
したい。
ただ、日高山脈のみならず北海道に数多ある名山秀峰の中、何故この山
だけがピリカヌプリと名乗り得たのか知りたいところではある。
※1.「北海道の地名」(山田秀三著)を参考にした。○○ヌプリとな
る場合、その地固有の、例えば川の名前などと結びついた例が多い
ようだ。
それ以外、カムイヌプリ(神の山)などは、やはり各地に同名の
山が存在している。
2005/01/17 原野の道
その昔、広い十勝平野の往来に日高山脈側の山沿いを通る道があったと
記されている。土屋さんの著書で読んでいたことに、冬の写真を撮り歩い
ていて思い当たった。
幾筋もの川が太平洋に注ぐ十勝平野では、川幅を広げた海岸付近は通れ
なかった筈だ。平野南部の者たちは一度西寄りの日高山脈を目指し、源流
を幾つか渡って十勝川沿いの中央部に向かうことになったのだろう。土屋
さんが触れている道筋はまさしくそのようなルートなのだった。
山はそんな時代の道しるべであり、高く特徴的な峰は格好の目標になっ
ていたのではないか。日高山脈に向かっている一本の細い道とその奥に垣
間見える白い頂きを眺めながらそんな想像を巡らしてみた。
2005/01/20 降る雪に
久しぶりにまとまった雪が降った。前日から大雪では、という予報だっ
たから覚悟していたのだが、朝起きて出勤までには大体雪かきも済ませる
ことができた。
妙な気候で12月に大雪で、一月は雨が降るなど暖かい。最近は地球全
体で天変地異の類が報道されているが、これも異常気象の表れかと片田舎
の住人も囁き合う。
2005/01/24 原野の風景
意識して道筋に見える山を追うと、日高山脈の主要な峰を数え上げるこ
とになっていく。
それぞれの土地ごとに違った風景があって、それは小集落の一つの個性
として語られてもいただろう。
迂闊な話だが、ようやく自分も東西南北或いは高低の移動によって変わ
る山の姿に目がいくようになった。かつては日単位の行程も今では時間単
位のドライブにすぎず、自分も含め人々は山に目をやることも少ない。
余談になるが、目標としての山ということになると海上でもそれは重要
な意味を持つものだ。昭和の中頃から沖合で大型の船を操っていたある船
頭さんから、「○○山を見て」と話を聞いたことがある−もちろん海岸部
近くの山なのだが。
2005/01/25 スキー
先日数年ぶりにスキーに行ってきた(事情があって封印していた)。自
宅から30分ほど走れば規模は小さいがナイターもできるスキー場がある。
40の手習いという奴で、職場の同僚に教えを請うて子供と一緒に汗を
かいたスキーだが、時代はカービングになっていて技術も道具も様変わり
しているのだと言う。
ただでさえ下手くそな手習いおじさんが、板を変えて大丈夫なものか?
怪我でもしたら職場中の、いや狭い町だから町中の笑い者になるぞと弱気
の虫が忠告する。
有り難いもので、一家で遊んだざわめきと下手なりに根気よく身体に叩
き込んだ記憶は小さなスキー場でしっかりと甦ってくれた。
そして何より、日高山脈に正対するゲレンデからは見事にその連なりが
眺望できるではないか。デジカメおじさんに変貌したタカノハは、新たな
スキーの楽しみにほくそ笑む。
2005/02/01 ホッケの開き
冬場に揚がったものをマアが開きにして干している。内陸部の知人が好
きだと言うものだから、タカノハが「良し、旨い奴を食わせてやる」と安
請け合いしていたものだ。
「もう、いい振りこきしないでね。」
マアが呆れたように念を押してくる、港町とはいえ今時自分で裂いて干
し上げる主婦も確かにそう居ない。
子供達も余分に作ったものがあると聞けば、当然のように送って欲しい
ということになり、結局我が家の食卓には二枚が上っただけだった。息子
達には数枚ずつ、
「バカを見たかったら親を見ろって言うんだよ」と、それはそれで格好の
肴になった。
2005/02/02 冬型
日本列島全域が寒気に覆われ、各地で例年にない雪に見舞われている。
ことに大地震のあった新潟地方の映像には様々な思いが湧く。
昨シーズンは当地でも呆れるほどの降雪があって、夫婦で来る日も来る
日も雪かきに追われていた。
「車の在処も分からなかったんです。」報道のカメラに答える人を見ると、
その疲労感が実に良く分かる。数10センチという降雪は人力で片づける
には途方もない作業量になる。しかも、彼の地は湿った雪でこちらのより
もずっと重いだろう。
「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」(鈴木牧之−すずきぼくし)という本
が、あの辺のことを記したものではなかったか?江戸時代の書物で昔から
名うての豪雪地帯ということだが、それにしても彼の地の人々の現状はあ
まりにも過酷だ。
慰めにもならないだろうが、それでも鈴木牧之が「春は必ずやってくる
のである」と記していることも付け加えておこう。
2005/02/08 スキー2
「イテテテテ」「だるいー」
数年ぶりのスキー、止せばいいのに二日続けて滑ってきた翌日は、タカ
ノハもマアも筋肉痛と倦怠感に襲われていた。
「髀肉の嘆」というのは古の武将の話で故事とは随分ニュアンスも違う
のだが、我が髀肉も同様でござった、情けない。
2005/02/18 習う
スキー場通いを再開した今シーズン、めっきり客が少なくなった印象の
ゲレンデだが、親子連れで練習している姿を見て感心した、というか嬉し
くなった。
若い父親が3つか4つの足元も覚束ない子を根気よく教えてやっている。
仕事が終わってナイターに連れ出したのだろう、子供も飽きないようで何
回も上って親子の時間が続く。
スキーの世界も10年ほど前まではバブルのように派手な用具が店に溢
れ、スキー学校は多くの生徒を抱え、もちろんゲレンデは賑わっていた。
だが既にその頃から客が減ったと言われだし、やがてあっという間にスキ
ー場から人が退いていった。
原因は幾つかあるのだろうが、無駄だと思うことは多かった。毎年のよ
うにモデルチェンジされる用具・用品は最たる物で、タカノハの石頭には
理解できなかった。まだ着られるウェア、乗れる板、履ける靴を何故買い
換えなければならないのか?
促成栽培のようなスキー学校の在り方も興味深いものがある。バッジテ
ストというやつがあって、ゲレンデに待ちかまえる指導員達がそれを目指
すスキーヤーに合格できる滑りを教える。
面白いのはその先だ。教えられ、見事バッジテストに合格した上級スキ
ーヤー達が初心者を捕まえて言うのだ。
「うーん、あんたの滑りではバッジテストは合格できないな。」
左様でございますか、ところでバッジテストって何なのですか?
多くの人がスキー場に来なくなった現象は、個人的にはとても有り難い。
混まないゲレンデであずましく(北海道弁、ゆったりと)スキーが楽しめ
る。マアおばさまもすっかりスキーが気に入ったようで、せっせと準備し
てタカノハの帰りを待っている。
2005/02/21 大雪の一日
ここまでは雪の少ない年だと思っていたのだが、見事に降ってくれた、
それもこの時期らしく湿気を含んだ重たい雪。土曜日の午後から降り出し
た雪は予想のほぼ最大値である50センチの大雪となった。
日曜日の朝、玄関を開けた時点でその日一日が雪かきに追われると覚悟
した。
2005/02/24 陽射し
週に2回の大雪は辛い、つい2・3日前の50センチに続いて、昨日も
30センチの降雪に見舞われた。降る雪と風に吹き上げられた雪が乱れ舞
い、町中はどこもかしこも白く濁った世界になる。
だが、流石に2月後半という時期だけに日中の陽射しは強く、昼頃には
雪かきの終えた場所は路面を剥き出しにして水が流れている。身体に受け
る熱も衣服を通して感じるようになっていて、春というには早いが厳冬期
は過ぎたのだと実感できる。
2005/02/26 木立
思い込みなのかもしれないが、この時期は木々の様子が変わってきてい
るように見える。まだ山野に雪は深く、気温も滅多にプラスになることは
無いのだが、どこか生気のようなものが感じられる。
強くなった陽射しに明るさを増して見える木肌が、春に芽吹くための準
備を始めているのではないかと空想してみる。
寒気に耐えた皮膚が徐々にその活動を始め、強ばった細胞を柔らかにす
る。雪の下では、少しずつ溶け出した水が根を潤してゆっくり地上へと汲
み上げられる。
生木が裂ける凍裂という現象が知られているように、樹木も厳冬期を乗
り切らなけねばならない。人間には「凍れる」という一括りの感覚に過ぎ
ないが、逃げようのない樹木にとってはまさしく身を切るような極寒、深
く氷点を下る日々。
だからこの時期になると、厳冬期を乗り切った木々が約束された春を既
に感じ取ったかのように、一向に嵩の減らない雪原に在っても光り輝く。
2005/02/27 新雪を踏む
滑り始めたのは例によって人が引ける4時頃だった。最初は舞う程度だ
った雪がナイターの照明がつき始めると一段と勢いを増し、遂に本格的な
降りになった。
やがて、新雪が足元に柔らかな感じを与えるまでになり、ふわふわの絨
毯の上で遊んでいるような感覚がしてくる。風もなく静かに降り続ける雪、
通い慣れたスキー場の思いがけないプレゼントだった。
2005/03/06 雪割り
3寒4温というこの時期の気温の変化は、もちろん体感できるし目にも
入ってくる。暖かい日になると、それぞれ家の前に高く積み上げられた雪
山を崩し広げる。
強くなった陽射しと上昇した気温で広げた雪はたちまち融ける。そうす
るとまた雪山を崩して雪を広げる。難儀なのは下の方で押し固められて氷
状になっている部分
だ。
「放っておけば融ける」と言いながら、近所のジジ様達は素晴らしい情
熱を持ってこの氷の退治、いわゆる雪割りに励む。天気のいい日は、朝早
くからあちこちで申し合わせたように外に出てツルハシで割り、さらに細
かく砕き、熊手を持ち出してきれいにかけらを広げていく。
猛烈な勢いで雪が融け始め、行き場を失った雪融け水が道路のあちこち
で水たまりを作るのもこの時期だ。家の前に水が溜まり始めているので、
ツルハシを取り出して排水口辺りの雪割りをする。
昼飯前に外を見てみると、排水口に向かって一筋の小川のように水が流
れ始めている。水を残すと夜にそれが凍るので厄介なのだが、これでその
心配もない。
2005/03/10 諍い
仕事上いろいろな諍いに巻き込まれることがある。腹を立てるのは誰で
も同じで言い分はそれぞれ尤もなのだが、言い立てて何になるのだと思っ
てしまう。
多くの場面に共通するのは、自分の思いが通らないという鬱憤が他人の
同意を求めて噴き出すものだ。
「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される・・・」漱石が喝破した
通りで、理を唱えながら怒り、情に訴えながら理を説く、実に厄介なもの
が人間という奴だ。
2005/03/20 十勝平野の雪融け
見渡す限りの雪原に所々黒い帯が現れる。雪原とは平野に広がる農地が
殆どで、少しでも早い雪融けを願って農家が融雪剤を撒くのだ。何日、何
時間という効果は知らないが、撒いた場所は早く土が現れることが傍で見
ていても分かる。
2005/03/27 林へ
多忙な3月もおおかたケリがついて、久しぶりの休日に車を走らせる。
雪の絶対量ははっきりと減り、隠れていたものが目につき始める。畑地の
凹凸、笹藪、草の根など、そしてゴミ。
ようやくフキノトウを目にする。ネコヤナギの銀毛を撮ろうとして降り
た小川の脇に開いていた。雪の間に蕾を出しているものもある。まだ、雪
は林間に数十センチはあるのだが、水場は氷が溶け出していち早く林の中
にその姿を現してくる。
2005/03/29 春の雪
時ならぬ雪が降り積もる。彼岸も過ぎて町中の雪はおおかた消えている
この時期結局20センチほどの積雪になった。
春先の雪は案外多く、5月の連休に降ったことも記憶にある。もちろん、
根雪になるわけではなく数日で消える雪なのだが、微妙な季節感をもたら
す。
タカノハの頭に浮かんだのは、先日見たフクジュソウのか細い茎と頭を
覗かせたばかりのフキノトウ。これだけの雪だとすっぽりと埋もれてしま
う筈で、開花の時期が遅れることになるのだろう。
遅れるだけならいい、障害が残る或いはその年を棒に振るものもあるだ
ろう。栽培される作物が自然の中で様々な脅威にさらされる以上に、野生
に対するその脅威は大きい。
早く現れるもの、ちょうど良く現れるもの、何がそうさせるのか。今、
ライブドアの社長に賛否両論だが、いわゆる「グローバルスタンダード」
を受け入れた日本経済では当然のありようではないか?
2005/04/03 見る目
HPの運営上、写真を撮ることが日常的になり、風景が変わった。もち
ろん物理的にそれが変わるわけではなくて、自分の見る目が変わったとい
うことだろう。
写真を撮っていてまず思ったことは、いかに肉眼が優れたレンズかとい
うことだ。様々な条件をカメラに与えながら、見たいものを瞬時に写し取
る肉眼の素晴らしさに思い至る。
そしてもう一つが選択性だった。林の中などで或る花を探すという時に、
肉眼は実に臨機応変な働きをすると気づいた。A花を探そうとすればA花、
B花を探そうとすればB花と、目標を捕らえる探査機のような働きをする。
先に風景が変わったと言ったのは主にこの働きによるのだろうと思う。
車を走らせていても道路脇、或いは林の中に花の姿を追っている。そうな
ると無味乾燥であった例えば国道脇の草むらもちょっとした花畑になる。
このHPを見て頂いているIchiroさんが、ご自身のサイトで禅宗無門関
の世界を考察されている。その世界はまさしく難解・難関なのだが、朧気
にこのことかと思うことがある。
成仏できない僧が狐になって転生を繰り返している「百丈野狐」という
話しに、自分の見る目が変わったことの意味合いを重ねてみたりもする。
2005/04/09 フクジュソウ
我が家の庭でようやくフクジュソウが花をつけた。去年の記録では3月
の内に花をつけているから半月ほど遅いことになる。
原因の一つは分かっている、開花直前までに蕾が膨らんだ時、降雪があ
って雪に埋まったのだ。これでほぼ1週間遅れた。
この花が葉よりも先に花をつけることの意味は、こうした危機を回避す
るためではないか?葉は茎に巻き付くようにしてサヤのようなものに収め
られ、花は日中に開き夜は閉じる、というよりも光(あるいは温度)に反
応して開閉するようだ。
開花するのは、気温の変化も激しく時には降雪もある時期になる。そん
な気候に柔軟に対応できるメカニズムを備えてこその春の先駆け、と合点
する(独りよがりか?)。
リスク管理といえば現代的なシステムを思い浮かべるところだが、それ
は野生の生物にこそ生命維持の必然として組み込まれている。むしろ、人
間の作り上げたものの方が融通の利かない危うさを抱えているだろう。
2005/04/16 フクジュソウと雪
午前中にフクジュソウを撮りに行ってきたのだが、先週ここに書いた記
事に符合するような姿を見ることになった。
花を撮りながら林を歩いていると中央あたりに大きく融け残った雪の部
分がありその縁−現れた地面との境界−にいかにも元気なく萎れている二
株を見つけた。
備えがあったとはいえ、その対応の幅を超えた事態に見舞われたのか、
黄色い花びらと茎に巻き付いた葉の一部を覗かせて生気無く濡れそぼって
いる。わずか1メートル遠ざかった場所では元気に開花している数株があ
る中で、はっとさせられる姿だった。
2005年の春、遅い降雪にダメージを負った花を見たことを記録して、
少しはフクジュソウの在りようが分かったといえるだろうか?
2005/04/17 インターネット
中国の反日デモの報道を見ていて、改めてインターネットというメディ
アの広がりを実感した。もっとも、私が期待していた双方向性という旧メ
ディアと異なる部分の働きではなく、単に情報を流すという役割のようで
あったが。
2005/04/19 連休
この時期は重装備といっていい衣服を脱ぎ捨てて、どこか気分も軽くな
る。朝車に乗りこむ動作一つをとっても、コートを脱ぎ捨てた軽さが快い。
その車も冬タイヤを変えてあって、静かに走り出す。
そういえば、今年の連休は超大型で10連休も取れる、年長の故「お好
きにどうぞ」と職場で水を向けられた。ふむ、全くいい季節の連休で、早
春の林を探索する時間がたっぷり取れそうだ。
カタクリ、サクラソウ、ニリンソウ、エゾエンゴサク、ミズバショウ、
そしてオオバナノエンレイソウも間に合うか、早春の野花を追いかける数
日に思いを馳せる。
2005/04/24 アズマイチゲと
0416の後日談から・・・。
ちょうど一週間後その場所を訪れた私は、あの二株のフクジュソウの姿
を探した。残雪は殆どが消えていたが、目印の木とその根本にある10数
本の群れはすぐに分かる。そしてそこから少し離れたところにポツンと花
をつけた二株、どうやら無事だったらしい。
林には、アズマイチゲがひっそりと咲き始めていた。目立たない花で、
よほど気をつけないと特に蕾などは踏んづけてしまう。小さいし、葉も少
ないために枯れ枝や枯葉に射し込む光に紛れてしまうのだ。
坂本直行さんの著書(私の草木漫筆)を読んで知ったのだが、花びらと
見えるものが実は「がく片」で、花びらのない花なのだという。この可憐
な花を直行さんは早春の3花の一つとして紹介していた。(他の2つは、
エゾエンゴサクとキバナノアマナ)
−ホウ、もう咲いているのか、寒いのに大丈夫か−早春に咲くこの花に、
直行さんがそう語りかけている。フキノトウやフクジュソウにやや遅れて、
雪消を待ちかねたように姿を現す花に特別な感慨を持ったのだろう。
2005/04/30 白いエンゴサク'05
早春の林は、モノクロの無機質な光景から始まる。枯葉、枯れ枝、剥き
出しの木肌、荒涼とみえる中に、それでも萌え出す準備は整っている。開
演寸前の舞台。
さて、その舞台が回り始めたこの連休早々、花から花へミツバチのよう
に東奔西走するタカノハの足が止まった。はて、一昨日見た例の白いエゾ
エンゴサクが見当たらない。
その場所を眺めても、茎も葉も残っていない。根こそぎ採られたとする
と、あの花にお目にかかることはもうないだろう。
我が家に持ち帰ろうとしたのであれば、何と心根の貧しいことか。その
白花を失ったことよりも人間のありように寂しい気分がしてくる。
* 2004/04/27の記事を参照して下さい。
2005/05/04 ミズバショウ
思いがけないところでミズバショウを見つけた。この花が咲くのは湿地
で、長靴も用意してないからしばらく迷ったのだが、結局入り込んでみる
ことにする。
そこは海岸の林地で流れは確認できないが、窪地に水たまりが転々とあ
る。この下の海岸に沢水が流れ出しているのは古書にも記載されているか
ら、古くからある支流の一つだろう、わずかな水量の筈だ。
全体が湿地のようで頼りない足元を確認しながら木の間を縫う。小さい
水場だから花自体は多くないし、小ぶりなものが多かった。
わずかな水場に生じてくる水芭蕉をみると、この辺りの湿地は元々その
生息に適した土地なのだろうと思う。生息域が狭められていると、多くの
人が指摘する現在ではあるが。
2005/05/05 落葉松
次々と開く花を追いかけて走り回るこの時期、日の当たる落葉松林を通
り過ぎながらふと感じる違和感。
それは微かに萌している新芽の緑色だった。どことなく緑っぽいなとい
う程度の感じなのだが、落葉松の長い連なりの中から確かに色を帯びてき
ていることが分かる。
伏せれば草、仰げば木の葉、まもなく若緑に取り囲まれる季節になる。
2005/05/08 春の雪
はっきりと思い出せないが、10年単位の出来事ではないだろうか、5
月の雪は。昨日は雨混じりだが一日降っていた。
野山に咲き出している花も、この雪には驚いているだろう。エゾエンゴ
サク、キバナノアマナ、カタクリなどがちょうど盛りを迎えている。
そういえば、桜も5月中頃という当初の開花予想に驚いたのだが、この
分では正解になりそうな雲行きだ。後2、3日で早い花が開きそうなとこ
ろまで来ていたのだが、これでまた遅れる。
2005/05/13 エゾエンゴサクの形
小さな花で、いつも不思議に思っていたのだが、マクロで開口部を繰り
返し撮っているうちにある事に思い当たった。外からはこの花のオシベ・
メシベが分からないのだ。
植物はほとんど無知だから、いろいろな構造の花があるということしか
頭にない。うーむどうやって受精するのだ?・・・具体的にはオシベとメ
シベが・・・という小学生程度の知識しかないタカノハ。
そんな訳でこの花の初めから終わりの時期まで、しっかり撮ろうと考え
ていたのだが、連休終わりの雪で来年に持ち越し。
2005/05/18 受難の桜
えらく荒れた春先で連休の後も寒い日が続き、雨になったかと思うと昨
日は猛烈な風が吹いた。昨年の台風に匹敵する最大瞬間風速42メートル
を記録したというだけに、明日明後日には満開と見えた桜も無惨な姿、雪
・雨・風にすっかり打ちのめされた春となった。
今年は春の野花を撮りながら天候不順をしみじみと思うのだった。それ
でも、人間の生死に直接的な影響を与えた自然の存り様も、大いに発達し
た生産力と蓄積された富でさして関心事ではなくなっている。
「サムサノナツハオロオロアルキ」という狼狽は人間の歴史の一コマに過
ぎないと多くの人は思うだろう。いつでもどこでも手に入る豊富な食物は
空腹を満たす物ではなく別の欲望を満たすために陳列されていると言いた
いほどだ。
経済力という不可視のバリアーの中にあるような現代は、何を犠牲にし
てどこまでを守ることができるのか?最近相次ぐ大きな災害を見ていると
人界の辺とはどのように捕らえるべきなのかと改めて考えさせられる。
2005/05/24 オオバナノエンレイソウ
先週末から開いてきたオオバナノエンレイソウ、いつもの林でその姿を
追いながら昨年から気になっていることを考えていた。交配種のことであ
る。
「エンレイソウ」「ミヤマエンレイソウ」「オオバナノエンレイソウ」
の3種が基本としてあり、それらの交配による変種が図鑑に載っていた。
それが頭にあって少し資料を求めてみたのだが、「おそらく日本最大の
群生地だろう」と言われる当地には、北大の研究者が毎年訪れている。す
ぐに関連の資料を目にすることができた。
※ 「花の自然史−美しさの進化学」(大原雅 編著、北海道大学図
書刊行会)
そこにはエンレイソウ属の遺伝学的な研究が盛んであることと、想像の
通りに3種が交配して数種類の雑種を産み出すとある。ミヤマエンレイソ
ウ(深山延齢草)もが平地部で見られる北海道ならではの交配ということ
だ。
雑種形成のメカニズムについては、ミヤマエンレイソウとオオバナノエ
ンレイソウの微妙な違いによる花粉受容の問題など、私の見た目にも頷け
そうな謎解きもあって面白く読んだ。
2005/05/27 オオバナノエンレイソウ−2
オオバナノエンレイソウを撮りながら、その花弁に様々な形があること
を感じていた。太いの、細いの、丸味のあるやつ、角張ったやつ、実に様
々な曲線がそこに現れている。どうやらそうした形態にも意味があるよう
なのだ。
前述の大原教授によると、オオバナノエンレイソウは染色体の分析によ
って3つの地域群に分かれることが明らかにされていたという。
そこから自殖・他殖という交配様式の違いを明らかにし、さらに花の形
態に着目して同じように3群の違いが花びらの大きさにも反映しているこ
とを分析する。
当地は他殖の行われている地域であり、他地域の群に比べると遺伝的変
異が大きい群らしい。つまり多様な遺伝情報を持つ集団ということなのだ
が、他殖とは虫媒介の受粉であり虫を寄せるのに大きな群が必要という事
になる。
あのエンレイソウの群生は、まさしく多様な遺伝情報を持つ代表的な存
在なのだ。丸いのや角張ったのや様々な形を見せる花びらはそうした現れ
なのだろう、と納得する。
その一方で、人間の活動による林地の減少は、他殖を可能にする大規模
な群生地をなくしてきた。この地では昔の人に言わせればどこにでもあっ
た花なのだ。
2005/05/31 オオバナノエンレイソウ−3
早春となれば北海道の原生林には、樹間を埋め尽くすようにエンレイソ
ウの白い花が揺れていたことだろう。明治の時代には「都ぞ弥生」に歌わ
れ、昭和の初期にこの地に入植した坂本直行さんが「早春の白花の王」と
呼んだ花である。
花も虫も乱舞した時代だけを良しと決めつけるつもりもないが、その時
代を偲ばせる光景が眼前にあることを、素直にこの地に在る喜びとしたい。
早春の林に入る。冬枯れた樹木と枯葉に覆われた地面は、長く雪に晒さ
れた後の清澄な気配を漂わす。その中から幾つかの緑が萌え出して、淡い
若緑に混じってエンレイソウが生じてくる。花をつける頃にはバイケイソ
ウなども若葉を伸ばし見上げればいつしか白樺などの新緑も見えている。
エンレイソウは林或いは森の一部なのだと思う。林を構成する木の一本
ずつと同じような意味で。
2005/06/05 エゾイチゲ
思いがけない花を見つける時はこんなもので、何気なく入り込んだ雑木
林にそれはあった。昨年オオアマドコロを見つけた林で、夏になるととて
も入り込めないから今の内に林内の様子を見ておこうと思ったのだ。
小さな白い花が幾つかの群れになって見えた。この時期だとニリンソウ
かと思ったが近くで見ると葉が全く違う。アズマイチゲに似た感じもある
がやはり葉が違うし花びら(ガク)裏にピンク色がない。
図鑑で見たイチゲの幾つかが頭に浮かぶ、エゾイチゲ?期待込みで数枚
撮ってきたが、その通りだった。
2005/06/09 マス日和
トキシラズと青マスを追いかけて春の鮭鱒(けいそん、と読む)漁が行
われている。この辺りの漁家が主力としてきた漁業で、戦後の経営を支え
てきたと言っていい。
5月から6月のこの漁期には霧が出やすく、どんよりと霧(ガス)のか
かった日をマス日和という。こんな日は鮭鱒が捕れるというのだ。
5月はずっとこんな調子だったのだが、鮭鱒漁も不漁とのことでいいこ
とは何もない。今週もストーブをたくくらいの寒さで、テレビに映る内閣
官房長官の軽装が忌々しい。
2005/06/16 直行さんの木柱
今年もそこへ行ってきたのだが、朽ちる木柱のことが何故か意識に上っ
た。直行さんの言葉通り当初のものは8年前には倒れていたという。建て
たのは'82年と思われるから、持っても15年ということだ。
後5、6年後には現在の木柱もその使命を終えることになる。静かに自
然に戻してやるのも決して直行さんの意志に背くことにはならないだろう
が、それでいいのかという思いもまた湧いてくる。
2005/06/19 スズラン香る
一斉に夏花が咲き出してタカノハも気が気でない。待ちかねた週末はも
ちろん西へ東へと大活躍したタカノハ、今日の昼はマアを誘って直行記念
館へ食事に出かけた。
十勝原野の風貌を残す大規模な柏林に立てられた記念館にはレストラン
も併設され、地元の産品を使った素朴な料理が楽しめる。自宅から車で1
時間ほどかかるが、何よりも柏林を眺めながら食事できるのが気に入って
年に1〜2回立ち寄っている。
「香ってる・・・」
車を降りて林内に入るとマアが驚いたような声を出す。今が盛りのスズ
ランの香りがたちこめているのだった。そういえばこの時期に来たことは
ないと思いつつ、密生した葉陰から覗く白い花を眺めながら遊歩道を行く。
「此処のは栄養がいいんだな、花数も多いし花も大きい」
見栄えするスズランを眺めながら、海岸の荒地に咲くいつもの花たちを
思い浮かべていた。同じ花でも此処まで違うものかと、心中で溜息をつく。
2005/06/22 エゾカンゾウ
ちらほらと、林の中や草原にエゾカンゾウの花が見え始め、そうと気づ
く内にすっかり賑わっている。さして珍しいといえる花ではないのだが、
当たり前の光景が当たり前にあることの有り難さをふと思う。
やはり知里幸恵のことなのだが、「衰退に向かう民族」と一般化してみ
た時に、彼女が体験したことの意味は、日本民族が噛みしめなければなら
ないものを含んでいるのではないか?特殊な1民族だけの歴史と片づける
のでは傲慢に過ぎる。
「おゝ亡びゆくもの・・・それは、今の私たちの名、何という悲しい名
前を私たちは持っているのでしょう。」という彼女の絶望的な嘆きを、次
世代の日本人が追体験することはないと言い切れるだろうか?
2005/07/03 エゾノハナシノブ
6月に入って夏らしい日が続き、次々と夏花が咲き始めた。撮りながら、
ふとエゾノハナシノブの姿がおかしいと思い始めた。たっぷり花をつけた
株がなく、ところどころに数個の花をつけたものしか見られない。
春先からの天候不順で、花をつける時期に何らかのダメージを負ったの
だろうか?或いは当たり外れの外れに当たるのか?茎はちゃんと伸びてい
るようだが、どこかしゃきっとした感じがない。農家でも作物の生育を心
配しているように、草花も影響を受けることは当然といえば当然なのだが。
漫然と咲いてくる花を撮ろうと思っていただけなのだが、次々と想像の
枝が伸び始める。ほどほどにしないと何もできなくなる。
休日にエゾノハナシノブを求めて山道を辿っていた目に、思いがけない
花の姿が飛び込んできた。深い緑色の葉から突き出している白い棒の様な
花序、それが幾本も緑を背景に秩序あるもののように立並んでいる。そう
見えた。
フタリシズカのきれいな群生だった。林道の脇、つまり深い山につなが
る林と道路の境の土手のような場所に、丸く仕立てた花籠のような風情で
密生しているのだ。
たまたま、オオバナノエンレイソウで関心を持った自殖と他殖という交
配様式だったが、この花はまた変わった交配をする花で、一般に見られる
開放花の他に閉鎖花も持って種子生産をするのだという。
開放花が他殖、閉鎖花が自殖を行うらしいが、1個体で二通りの交配を
行う種類は他にも結構あるらしい。動けないという制約の中で植物も様々
なシステムを作り上げるものだ。
久しぶりに早朝の海に行ってみた。7月の10日に解禁になったコンブ
漁、今日は波が悪く拾いコンブと呼ばれるもので船は出ていない。
拾いコンブとは、根が切れて漂っていたり海岸に寄せられたりしている
コンブを拾って採取すること。寄せる波を見極めながら、マッカと呼ばれ
るカギを投げて漂うコンブをたぐる者、胴付きを履いて浅みに入って拾う
者と様々である。
船を出して密生するコンブを引き抜く漁と比べると地味なのだが、どこ
か自然と一体になった光景が出現する。
2005/07/25 '05クルマユリの顛末
7月に入って今か今かと待っていた花がある。ここ数年、雪消の春に始
まる林探索の最後を飾るのがクルマユリだった。
緑一つない無機質な枯葉だけの林にフクジュソウが生じ、エゾエンゴサ
クなど「早春の3花」が続く。その間に様々な草花が次々と茂ってくるの
だが、オオバナノエンレイソウが盛りを迎える頃には頭上の木々も葉を繁
らせる。
そして初夏、春に咲いた花々を包み込むように丈高い草花が立ち上がり、
林内は鬱蒼とした様相となって、人を容易には寄せ付けない場所になる。
何か理由があって決めたわけではないのだが、クルマユリを撮り終える
と林に入り込むのは終わりとなる。正直なところ、この時期の林は少々怖
い、時折スズメバチに遭遇したりするのだ。
今年は路傍にこの花を見つけたのだが、わずか5株のその花も数日後に
は見事に掘り採られていた。この辺りでは平地にも咲く花なのだが、かく
のごときで安息の地は人の入り込まない場所しかないようだ。
2005/07/31 エゾアジサイ
昨年撮り損ねたエゾアジサイ、出来栄えは別として今年は上手く開花時
期に撮ることができた。登山道の狭い道を行くと夏の濃い緑の中にはっき
りと色づいた青が目に染みるようだ。
ちょうど私が花を撮ろうと車を停めた場所の数10メートル先に、一頭
の鹿が立ち止まってこちらを見ている。山の住人との遭遇は珍しくはない
のだが、束の間に不思議な時が流れる。
お互い理解することのない相手、7月の1日にヤマベ漁が解禁になって
第1週当たりは釣り人も入り込んでいたが、第2週当たりからは殆ど人に
は会わない。静けさが戻って道路に出てきたのだろうか、文句を言われた
わけではないがこちらが闖入者であることは間違いない。
2005/08/08 積丹半島
積丹の海岸は水がきれいで透明度が高い。久しぶりにその海岸をドライ
ブとしゃれ込んだのだが、夏とあって海に遊ぶ人間が多く道路はかなりの
混み具合だった。
こうして走ると改めて十勝平野の個性を感じる。平坦でカーブの少ない
道路が延々と続く土地はそうないだろう。
2005/08/10 エゾチドリ
ある夏に見つけたエゾチドリという花も毎年気になる花の一つだ。例年
姿の見える時期になっても現れず、今年はお目にかかれないものと思って
いた。
8月に入って、ハマナスが実をつけ始めた頃に諦めていたエゾチドリの
姿が見え始めた。有り難い、絶えた訳ではなかったのだ。草むらに直立す
る姿はなかなかに個性的なのだが、やや緑を帯びた白い花は丈もそう高く
なく目立たない。
別名をフタバツレサギソウというらしいのだが、小さな一つずつの花は
独特の形をしていて面白い。ハクサンチドリと同じように直立した茎から
花穂を出しているのだが、花自体は込んでいないために白木づくりといい
たいような簡素な姿である。ただし、多数の花を出す花茎と非常に長い距
を持つために細部の造作は複雑である。
嬉しいことに、良く探すと10株ほどがまとまってあるところも確認で
きた、此処についていえば荒らされていることはないようだ。
2005/08/15 路傍で
夏の草むらは思わぬ花々を見つける宝庫の様な場所だが、その殆どはタ
カノハの場合、道路脇のもの。十勝平野を刻む道路は、国道から農道まで
良く整備されていることで有名なのだが、その多くは農地か林に接するこ
とになる。
5メートルほどの幅だろうか、道路とそれらの間に草むらができ、ちょ
うどクルマユリを最後に林を撤退したタカノハは、夏はひたすら車を走ら
せる。
旅の人々でも、時に車を停めてそうした草むらに目を向けてみるのも悪
くないと思う。特に夏から秋にかけては多くの花がそこに姿を見せる。
2005/08/22 '05秋に
夢中で花を追いかけて春から夏を過ごしてきた。徐々に進む季節が夏か
ら秋に変わる気配を確かに感じる。一つには春から始まる草花の生長が止
まることだ。春先の枯れ野から生じた緑が少しずつその丈と種類と数を増
やして来る。夏の盛りには鬱蒼とした林を出現させる草花総体は、一つの
膨らみを持ったもののようにピークを
迎える。
その頃に姿を見せる花、姿を消す花があって、それを見ても夏の終わり
が感じられる。もちろん暑さ寒さなどに現れる気象でも分かる。そうした
一般的な指標となる諸々の現象の他に、自分なりに得た感覚は草花と向き
合う中で相手をまた一つ理解できたような気になれて嬉しい。今更子供の
ように、と苦笑するところではあるが。
そして、これまた子供じみたことがらだが、新たに素朴な疑問を持つこ
とにもなった。自分の撮った写真を振り返っても夏の日高山脈がない。今
までは疑いも無しに花を撮ることばかりに目がいっていたからだと思いこ
んでいた。
今年は夏風景もと思っていたので気づいたのだが、明らかに日高山脈は
夏の期間その姿を見せないことが多い。青空があっても山脈の上には雲が
かかるのだ。
うーむ、寒流のなせる技かと思いつつ、また一つ宿題を抱えたことを自
覚する。「人間死ぬまで勉強だっ」いつも力強くそう言う一人の友人を思
い浮かべながら、なるほど知らぬことばかりだと納得する。
2005/08/31 夏休みのキツネ
夏休みはそれなりに面白いこともあった。晴天に恵まれた一日、いつも
のように写真を撮り歩いていると一頭のキタキツネが草原をうねる道路の
上に居る。時々こうして見かけることはあるのだが大概近づくと逃げるの
で、最初は遠目に車を停めて買ったばかりの200oのレンズで狙う。
近づいては撮り、撮っては近づきを繰り返している内に、とうとう車は
やっこさんの5メートル手前まで進んだ。最初からこっちを認めているの
は明らかで、顔を真っ直ぐこちらに向けている。
充分に撮ったから逃げられても構わない、レンズを標準に換えて車を降
りる。一旦立ち上がったキツネは草むらに逃げるかと思ったのだが再び元
のようにそこに座り込んだ。
これは・・・、こちらがとまどってしまう。呆れたことにキツネはこち
らを見ながら前足を伸ばしてすっかりリラックスして居る。そこでしばら
くツリガネニンジンやらヤマハハコを撮ったのだが、動こうとしない。
撮り終えて再び車に乗って移動する。今度は真横を通るから流石に草む
らに消えた。
ところが車を20メートルほど進めて停まり、ふとバックミラーを見る
とあのキツネがまた道路に出てきて居るではないか。どうやら子ギツネの
関心を惹いてしまったらしい。狙った花を撮りながらちらちら見ていると
10メートルのところでちょこんと座りこちらを見ている。
再び車に乗ってゆっくり走る、キツネはとことこついて来るのだった。
付き合いきれないからスピードを上げて200メートルほどを走り、突き
当たり近い奥のポイントに行く。そこでゆっくり撮影している内にもしや
と思って振り返ると、こちらに向かって近づいてきているではないか。
おじさんが見物される側になってしまったようだ。案の定キツネは10
メートルほどのところで立ち止まりこちらを見学している。まあ、襲われ
ることもないからいいか、と思いながらしばらくそこで撮影する姿を見物
されたのだった。
2005/09/07 夏休みの野イチゴ摘み
写真を撮りながら、野イチゴの実が夥しく生っているのを見ていた。子
供の頃遊びながら摘んでいた野イチゴも、最近は食べようなどと考えるこ
ともなしに居たのだが、先日の旅行でマアが野イチゴのソフトクリームを
喜んで食べていたことを思い出した。
「野イチゴいっぱいあるけど、摘んでみるか?」「んー・・・」気のない
返事だったが、夏休みの一日、花を撮りながら摘んでみた。始めると採取
民族(?)の血が騒ぐのか面白くなってしまい、撮影そっちのけで熱中す
る。
結構な量が採れた、家に帰るとマアが早速フルーツソースにするという。
採る時間の数倍をかけて鮮やかな色の野イチゴソースが出来上がった。こ
の種類のは、種が大きいし、酸味が強いので生食には向かない。だが、マ
アが仕上げたものは、果汁だけを絞って煮詰めた無添加の高級品、これで
ソフトクリームを食べるのだという。
「ヨーグルトにもいいね」出来栄えに満足したのか、マアの一言が付け加
えられた。
2005/09/11 小さい花を
マクロ撮影を意識していたところ、ちょうど撮りたい花があっていい練
習になった。
ミゾソバ、別名をウシノヒタイという小さな花なのだが、透明感のある
薄いピンクの色合いと姿がなかなか味わい深い。
一脚で支えて狙うのだが、身体も揺れる花も揺れるで微妙なピント合わ
せが難しい。これはしばらく訓練しないといかんわい、酸欠になりそうな
時間の後でしみじみと思うのだった。
2005/09/19 消滅
驚いて言葉もなかった、撮影ポイントだった林が消滅している。ササバ
ギンランを見つけて、初夏には必ず足を運んでいた登山道の林である。規
模の小さい林ではあったが、細い登山道を挟んだ河川敷の林と共に鬱蒼と
した空間を作っていた。
ササバギンラン、ベニバナイチヤクソウ、エゾノハナシノブ、ユキザサ、
カラマツソウ、クルマバソウ、コウライテンナンショウなどがすぐに思い
浮かぶ。
特にササバギンランはいろいろな意味で忘れがたい記憶を刻んでいる。
撮影を単にシャッターを押すくらいに考えていた頃、この林で出会ったサ
サバギンランが見事にその誤りを教えてくれた。
その場所では切り倒した木が積み上げられ、5人ほどが作業を続けてい
る。後は丸太を運び出せばあっという間に重機が整地する。多分10日内
外の作業日数だろう、長辺数百メートルのほぼ三角形をしたその林をなく
すのに。
木が無くなっただけではない、そこにあった草花や蝉など無数の生き物
が丸ごと生活を断たれる。ヒステリックに、だからダメだ、と言うつもり
はない。少なくとも合法的な所有者である地主の決断に異論を言う何物も
ないのだ。
一般論として、自然保護を語る者が「かけがえのない自然を守れ」とい
うのは、抽象論に過ぎると思う。この林は、この森は、この川は、と言っ
たところで、それは実態の追認をしているに過ぎないのだ。実態からどの
ような方向にどのように進むのか、その知恵を絞らなくては、「自然を守
ることが正しい」と語るだけのことで終わってしまう。
2005/09/26 花々の季節
ネットで全国の同好の士と交流しているお陰で、本州との花期のずれが
一様でないことに気づいた。花によって早かったり遅かったりする。遅い
春と早い冬の間短い期間に使命を果たさなければならない北海道の花たち
の宿命。
2005/10/05 世迷い言
後輩の不祥事に気が重い。巡る因果に放心の体の本人とその家族、そし
て助けようとする周囲の友人たち。非常事態に右往左往する人間模様が改
めて浮き世の姿を突きつけてくるようだった。
救済の道筋を話し合う中で、消費者金融のなんたるかも知らぬおじさん
も居れば、時間がないのに改心したのを見届けてからだと宣うおじさんも
居る。
定年近く、地位もあるおじさんたちの脳天気で浮世離れした話しぶりに
呆れたタカノハ、「改心したって誰が判断するのか?」と問い返せば、
「1、2年しっかりやるのを見届けて」と返ってくる。
職場の仕事は少しできるのかも知れないが、現実をまともに把握できな
いおじさん達に悶絶させられそうな一幕だった。
2005/10/17 ケリ
ケリがついたと言っても、その場限りの方向性ということでしかない。
機械的なリセットということは生命体にはあり得ないと考えるべきだろう。
それほどに融通の利かないもの、それほどに多様な情報によって作り上げ
られた唯一無二のもの。
2005/10/23 紅葉と黄葉
花を追いかけて夢中で過ごした日々も考えてみれば約6ヶ月、つまり半
年のことに過ぎない。ネット上のある知人が「花に流れる時間」というこ
とを何気なく示唆してくれたのだが、人に時間があるように花にも時間が
ある。
そう考えると、人の時間は実に曖昧だと思う。怠惰であり勤勉であり、
無為であり生産的である。歴史的に積み重ねられた社会的富は、人の想像
力を掻き立てて際限のない欲望を産み出していると見える。
原野風景が広がる或る場所で、一葉ずつの変貌が大きな風景を呑み込ん
でいく様を数日間見ていた。当然のように、一本の木でも枝でも多様な変
化が葉毎に見られ、全体として深い色合いが見られることになる。時間の
ズレが生じさせる多彩な変化はそれぞれの葉の生活史から来る個性の集合
であるとも言える。
2005/11/06 札幌
宮沢賢治さんに「札幌市」という短詩がある。
「遠くなだれる灰光と
歪んだ町の広場の砂に
わたくしはかなしさを
青い神話にしてまきちらしたけれども
小鳥らはそれを啄まなかった」(春と修羅第3集)
札幌の街路樹にそびえる巨木はその大きさで北海道という土地の広がり
を暗示しているようだ。夜だったが久しぶりに歩く街の印象は悪くなかっ
た。高い空に向かう黒々としたシルエットは、広い大地から生じて人と比
ぶべきもない大きさを見せる。
2005/11/14 初雪
昨年から2週間ほど遅れたようだが初雪。初雪ということにさしたる意
味を感じる訳でもないが、これから迎える冬に一つ背中を押された気分に
なる。馴染んだ山々が徐々に白くなっていく様に、冬空にそびえる銀嶺の
連なりを思い起こしている。
冬は好きとは言い難いが、青空と雪原という二色の世界は熱を冷ますよ
うな快さを感じさせてくれる。無機質な世界に惹かれることの由来は分か
らないのだが。
2005/11/16 肉眼とカメラ
散乱する光を浴びて、例えば風景は様々な輝きを見せる。その中で自分
が見るものはすべてではなくて、ある山の峰だったり木の一枝だったりす
る。そして視界の中のある部分を画像として切り取って来るのだが、それ
は正確な肉眼の像と同じものにはならない。
漠然とそう考えていたのだが、撮ってきた画像と記憶にあるシーンとの
違和感は、映し込めない人間の想像力と言うべきなのだろう。肉眼で焦点
を当てて見る物は意外に少なくて、充分に視界に入る物であっても実際に
見ている対象は一つにすぎない。二人並んだ人物の顔の細部までを同時に
見る人は居ないだろう。
交互に焦点を合わせることによってそれぞの人物がどんな顔立ちや眼差
しをしているか知覚するのであって、一瞥でその細部までを描写し終える
のではない。
早計かも知れないが、視野に入るその他の物は輪郭程度を視覚に捕らえ、
想像力によって配置されるのではないかと考えて見た。肉眼の映像は、読
み取った無数の点を積算した結果といってもいいのではないか。
2005/12/11 寒さ
今週は遂にまとまった降雪があって、枯れ野を銀世界に変えた。春から
夏、そして秋から冬への大きな転変の中で、見事に生命を伝えていく草花
に脱帽する思いがある。
冬という季節は草花にとってどんな意味を持つのだろうか?人に厳しい
生活条件だからといって草花全体もそうだとは言えないのかも知れない。
厚い雪と地面に敷き詰められた枯れ葉の下でそれなりに安定した環境とい
えなくもなさそうだ。
それはそれとして、単に休息だけの時間なのだろうか。この時期にしか
できない積極的な意味合いは全く無いのだろうか?
2005/12/16 柏林
11月から少々忙しい思いをしてきたが、昨日で一応のケリはついた。
再びの雪で新雪に覆われた風景が眩しい。
雪原と変わった中に立つ柏の木々が、いかにも十勝らしくて目が向く。
残り少なくなったと言われる防風林の柏も少し歩き回ればまだそれなりに
目にすることができる。本来春の新芽まで残るとされる葉は風のせいか殆
ど見られない木もある。
この木については、今年面白い話を聞いた。ある役所の森林担当者なの
だが、例えば落葉松の造林地を作ったつもりでいても、管理が行き届かな
い場所だと
柏の木が優先した状態になってしまうという。敬意を表して
「十勝の顔役」と思って居たのだが、やはり此処の風土に合う木のようだ。
2005/12/25 十勝晴れ
冬期間に晴れあがった天気を十勝晴れという。詳しくは知らないが、統
計で見ると6月から9月までに比して明らかに12月から5月辺りまでの
日照時間が長くなるのが十勝の気象だ。冬型の気圧配置で良く晴れること
を言うようで、確かに凍てつく冬の晴天と白く連なる日高山脈の姿はいつ
も目にしているような気がする。
大陸から吹きだしてくる北西の季節風も、北海道全体で考えると十勝は
最も遠い地域になる。その他諸々の地形がもたらす独特の天候なのだろう
が、その明るさは寒冷の地にあって大きな救いになる。