2. 近衛騒動





 きらきらと輝く木漏れ日。そして今日も青い空に白い雲。
 昼寝から目覚めたシェルシマは、指の隙間から空を眺めて、目を細めた。
「昨日も平和、今日も平和。結構けっこう」
 呟きの最後の部分は、あくびと一緒に出てきた。風が吹き、葉が揺れる。
 なんということもなく銀髪の後ろ頭に手をやると、黒い破片が髪についていた。枕代わりにしていた枝の皮がはがれてくっ付いたのだろう。
「木の上での昼寝ってのは、気持ちはいいんだけどな」
 赤い瞳をこすり、服についていた小さな虫を払い、ついでに肩、胸、腰と順に埃をはらう。そして、いままで腰かけていた枝にまたがり直すと、ベルトに差していた小型の遠眼鏡を取り出して目に当てた。
 そして、丘にある木の上から、領地ハノンを眺める。
 どこまでも広がる空に、森と牧草地と、申し訳程度に散らばる農地。高い建物や洒落た建築物なんてない。けれど、今日も健全かつ健康に人が働き蠢いている。
 自分が王弟であるために、捨て扶持としてもらっている領地ハノン。王都から遠く離れた山間の盆地にあるこの土地は、都市の喧騒もない代わりに、さして目を引くものはない。猫の額程度の広がりの中に、わずかな農地と牧草地、そして自分たちの働きでどうにか食べていける人たちだけが存在している。
 ときおり、空を行く小鳥の声に混じり、牛を追う声が響いてくる。
「牧歌的……」
 シェルシマはまた呟いた。
 王都へ天覧剣闘試合を観覧に出かけて、領地を1週間ほど留守にしたシェルシマだったが、留守中とりたてて何もなく。戻ってきても、こうして何もない。まるで時間が止まっているかのような、これでもかというくらい典型的な田舎だ。
 この土地で生きる人々の気質は温厚、そしてそこそこに勤勉で、統治にはなんの問題もない。逆に言うと、これ以上のことをするべきでもない。この土地に必要なものはすべて行われているし、現状以上の何かを行っては今のバランスが崩れてしまう。だから、領主としてここにいるシェルシマには、やるべきことがない。
 あえて言うならば、何もしないことがやるべきことだ、とも言えるのだが。
 シェルシマが、王弟として王位継承権を残しながら、ハノン候を兼ねるようになったのは、1年前。それからずっと、こうして平和すぎる生活を、彼は送り続けている。
「ま、別に忙しいのが好きなわけじゃないしぃ。ただ寝て暮らしてればいいんだから――ラクなもんだ」
 まるで自分に言い聞かせるように呟いて、シェルシマはふたたび木の幹へもたれかかる。
「難しい領地でも、あのバルドに任せていれば何の問題もないんだろうし。良い学友に恵まれた」
 そして、ふたたび吹いた風、葉擦れの音に耳を澄ませながら、彼はゆっくりと目を閉じた。



                      ■□■



 二つの人影が、薔薇の園を歩いていた。
 良い庭師がいるのだろう。よく手入れがされた薔薇は、これでもかというくらい咲き誇り、やや乾いて埃っぽい空気に、かぐわしい匂いを放っている。
「――きっとシェルシマ殿下はあちらでしょう。すいませんねぇ、引き回してしまって」
 前を歩く青眼鏡の家宰が振り向き、困り笑顔でそう言った。よく踏み固められた道の両脇には、ペニチュアも植えられていた。
 家宰の後ろには、黒い軍服を着た女が歩いていた。彼女は、いいえと愛想笑いで首を振る。肩に垂らしている艶やかなブロンドが左右に振れた。黒の軍装は見るからに暑そうだが、今は鎧をつけているわけでもない。ただ多少窮屈な印象だけがある。
 青眼鏡の家宰は、バルド=ネビリムという。茶色の髪、そしてなにより印象的な銀縁の青眼鏡。王都でも切れ者で通っているハノン=トゥーレ家の家宰は、まだ若い。年の頃は、まだ30歳になっていないという。
 その切れ者の家宰が言う。声は穏やかで、物腰は紳士的だ。
「殿下は、剣だけはどうにか一人前なのですが、どうも習い事がお嫌いで。実は、いつも逃げ出してしまわれるんですよ。こんなふうにね」
 はあ、なるほどと軍服の女は相槌をうつ。頷いたときに鼻腔に入ってきた薔薇の香りが心地良いと女は思った。
「殿下は、どういった習い事がお嫌いなのですか?」
「文学詩文や外国語、数理は言うに及ばず、政治、経済、法学、それに礼儀作法に魔術」
 どこまでも続いていきそうな回答に、軍服の女が眉根を寄せる。
「それは、ひょっとして全部なのでは……?」
 バルドは愉快そうに笑い、惜しいと言った。
「体術と馬術、その他身体を使う習い事はこなしますよ。要は、頭を使うことが嫌いなのです。頭は悪くないのですが、馬鹿ですからね」
 頭は悪くないけれど馬鹿とは、どういうことなのか。意味をつかめなくて、軍装の女が質問しようとしたとき、家宰の視線とかちあった。女が驚き、思わず立ち止まったそのとき、家宰――バルド=ネビリムは、明るく言った。
「殿下に習い事をさせるのも、貴女の仕事のうちですから。雇用契約書に条項が入っていますから、あとで確認しておいてください。失敗すればお給金が減ります」
 ひく、と女の口の端がひきつった。確かにサインした契約書にそんな文章があったような気がした。
「でも、どうやって、習い事をするようにさせれば良いのですか?」
「貴女に任せます。どうやっても構いません。色じかけでもかまいません」
 その言葉は、軍服の女の癇に障った。
「確かに私は女ですが、軍人です。外敵から国を守るために日頃から厳しい訓練を受けています。それなのに『女』であることを利用してなどと――」
「ははは。では、殿下を叩きのめして授業に参加させるのでもかまいませんよ。その、日頃から鍛えていらっしゃる腕でね」

 死んでしまっては元も子もないですから、半殺しまでなら許可しますよ。
 さらっと述べられた物騒な家宰の言葉を、思わず女が聞き返そうとした、ちょうどそのとき。
 先行していた家宰が、一本の木の前で立ち止まった。
 その木の幹には、剣が立てかけてある。紺色の地に銀の飾りがついた鞘に納まって、立派なものだ。
 家宰は意味ありげに女の方を一瞥したあと、上を向いて妙に明るい声で呼びかける。
「でーんかぁ。お客様ですよー」
 ピチッ鳴いて鳥が一羽、木から飛び立った。
 そのまましばらく沈黙。
 小鳥は半弧をえがき、飛び去ってしまった。
 だがバルドは、空へと伸びる枝に、にこにことした顔を向けたままでいる。
「……どうしても思い出せない。うっかり招待状でも出してしまっていたかな。もしそうなら破り捨ててくれ。何かの手違いだ」
 ようやく、木の上から、声が降ってきた。若い男の声だ。
 バルドが明るい声音のまま答える。
「いやですね殿下。この方は私がお招きしましたから、殿下に招いた記憶なんてあるわけないじゃないですか」
「そう言っているご本人様が、一番の招かざる客だと思うが」
 木の上からの声。どうやら、話している相手はシェルシマ殿下らしい。
「もうシェルシマ殿下とは10年以上の付き合いじゃあありませんか。今更、客だなんて言われても困ってしまいますよ。照れます」
「気持ち悪い。照れるな」
 はは、と家宰は笑って、青眼鏡を押し上げてかけなおす。声は明るいままだが、鋭さが篭もる。
「さあ殿下。楽しい楽しい漫談はこれくらいにして、そろそろ降りてきていただけませんか? 本当のお客様が戸惑っていらっしゃいます」
 これ見よがしの盛大なため息のあとに、木ががさと揺れた。そしてその緑をかき分けるようにして、ひとりの若者がするすると降りてくる。そして、よっ、と気軽な声を出して、枝から男が飛び降りた。すらりとした肢体が音も立てずに見事に着地。
 さらりとした銀髪に、紅い目、高貴な血筋を感じさせる整った顔立ち。背も高く、太っても痩せてもいない均整のとれた体は、鍛錬が積まれた結果なのだろう。
「なんだってんだ、いったい」
 まるで昼寝から起こされたような不機嫌さ――実際そうなのかもしれない――を見せて、シェルシマが聞いた。しかし、青眼鏡の家宰は見事にそれを無視して、軍服の女に言った。
「こちらがシェルシマ殿下。私とは腐れ縁でもあります。お人柄は先程、充分にご説明致しましたよね?」
「……お前、俺の質問を完全に無視か。その女よりも主君である俺の紹介の方が先かよ、普通逆だろ? それと、初対面の女性に俺の何を吹き込んだ?」
 腕を組み、赤眼殿下が、古馴染の青眼鏡家宰を睨む。
「いやですねぇ、いっぺんでそんなにたくさん聞かないでくださいよ。がっついていると、嫌われますよ?」
「別にお前に嫌われてもかまわんがな。まあいい。いい加減、用件を話してくれ。疲れてきた」
 本当に疲れたのだろう、赤眼殿下は額を押えるような仕種をした。
 青眼鏡の家宰は口元から笑みを消して真面目な表情を作ると、右手で弧を描くようにして胸に当てて深々と低頭し、大仰に礼をした。そして、今までとはまったく違う、荘重さと威厳にあふれる声で、願い出る。
「ハノン候にして王弟であらせられる偉大なるシェルシマ=ドゥ=トゥーレ殿下。恐れ多くも家宰を拝命いたしますバルド=ネビリムの名におきまして、これなるアグスティア=フラーニアを殿下の近衛に推挙いたします。
 どうかこれなるものに殿下の近衛の任をご認可いただきたく」
「近衛ぇ?」端正な顔を歪ませて、シェルシマが言う。「なんで今さら。今までもいなかったし、そんなモン、必要ねーよ」
「――必要なのですよ。前々からそのことはご説明申し上げております」
 礼をして頭を下げた姿勢のまま顔だけあげて、バルドはシェルシマを見る。
 シェルシマは、端正な顔をゆがめる。先ほどまでとは違う、真面目な表情だ。
「ひょっとして、『例の件』か?」
「そうです――と言えば、ご認可いただけますか?」
 ふぃ、とシェルシマは横を向いた。
「そのことが理由なら、当然拒否だ」
「そう仰られると思いまして」バルドは微笑む。「彼女には、殿下のお目付け役を兼任してもらいます」
「どういうことだ、そりゃ」
「さて、どういうことでしょう」
「主君をおちょくるのも、たいがいにしとけよ、バルド」
 さすがに苛立ってきたのだろう。シェルシマが表情をひきつらせる。
「まあまあ」なだめるように、バルド。「――それより、フラーニア少尉。自己紹介を」
 バルドの後半の言葉は、軍服の女へと向けられたものだった。
 やはり見た目通りに軍人なのか、命じられてからの女の動きには迷いがなかった。かちりと背を伸ばし胸を張り、軍服の女――アグスティア=フラーニアが自分の左胸やや上に拳を当てる敬礼の姿勢をとる。
「自分はアグスティア・フラーニアであります。王宮近衛師団第1大隊第2小隊に所属しておりました。階級は少尉です。本日付けでシェルシマ殿下の近衛役を拝命いたします。――どうぞよろしくお願いします」
「いらん。帰ってくれ」
 にべもなく、シェルシマが言った。女――アグスティアは一瞬絶句したが、すぐに食い下がった。彼女の顔はやや紅潮していた。
「先ほどからの話ですが――いらんとは、どういうことでしょう?」
「そのままだよ。俺に近衛なんて不要だ――えーと、フラーニア少尉?」
「アグスティアと」
 敬礼のために胸に当てていた右手をおろし、黒い目を鋭くしながら彼女は言った。
「ファーストネームの方が、馴染みがありますので」
 言葉は親しみを求めるものだが、声には怒りがたっぷりこもっている。
 その怒りを平然と無視して、シェルシマが言う。
「それじゃ、アグスティア。もう一度言うが、俺には近衛は不要だ。王宮近衛師団に居たってことは、君は軍人の中では結構エリートなんだろ? だったら、そこへ戻った方が良い。こんな田舎は退屈だしキャリアにもならないし、君の昇進の役には立たない」
 青眼鏡の家宰は、何か反論するかのようなそぶりを見せたが、自分の腰の辺りで軽く指を回すと後ろで手を組み、休めの姿勢をとった。相手が目上ながらもいまにも飛び掛りそうなアグスティアの様子をみて、しばらく成り行きを見守るつもりらしかった。
 アグスティアはまなじりを鋭くして、赤眼殿下に食ってかかる。
「軍人のすべてが、昇進のことだけを考えているのではありません。少なくとも、私はそうではありません。私は、自分が正しいと思うことのために命を賭けていますし、また軍人はそうあるべきだと考えています。
 殿下のおっしゃられる軍人像は、恐れながら偏見です」
「一般的な軍人像の見解の違いについてはわかったよ」
 うるさそうに、シェルシマ。
「わかったよ、はっきり言おう。このハノンでは、俺を狙う脅威は存在していないし、また君に俺の近衛が勤まるような能力があるとも思えない。だから、必要ない」
 アグスティアの奥歯でぎりと音がした。怒りで飛びかかりそうになったところをこらえたようだ。それでも隠しきれない憤怒に声を震わせながら、彼女は聞く。
「――能力がないとは、どういうことです?」
「仕える主人より弱くちゃ、近衛は務まらないだろ?」
 さすがに、アグスティアの顔色が変わった。こうまであからさまに軽く見られては、侮辱以外のなにものでもない。彼女の波打つ豊かなブロンドも、今は燃えているかのようにざわついている。
「それは……、私が女だから、ということですか……?」
「女だからもなにも。俺の剣の腕は、自分で言うのもなんだがかなりのモンだぜ? なんなら、試してみようか、お互い」
 そう言ってシェルシマは木に立てかけてあった青い鞘に納まった剣をとると、挑発するように片手で鯉口を切って、それを掲げて見せた。
 アグスティアはその黒い目で青眼鏡の家宰を見る。視線を受けた家宰は軽く肩をすくめただけで、その場から後退した。その動きを、シェルシマは許可の合図と取った。
「決まりだな」
 シェルシマは大またで5歩ほど距離をとり、振り返ってアグスティアと対面した。そして、いつでもいいぜと言った。ブロンドの女軍人は反射的に剣の柄に手をかけたが、ふと、考え深げな表情を見せて動きを止めた。そのまま2秒ほど草の地面を見つめた後に、顔をあげてシェルシマを見た。
「確認しますが、真剣で行うのですね?」
「ああ。まさか、真剣は振ったことがないなんて言わないよな?」
「……それでは、僭越ですが殿下にお命を覚悟していただきます。――もし不幸にもお命を落とされることがあっても、お咎めなしということで……」
 剣を握れば無理やりにでも怒りを抑えられるのか。彼女は急に冷静だった。
「つべこべ言ってないで、かかってくればいいだろ。アグスティア」
 挑発するように、赤眼殿下が腕ごと手まねきする。
「そうまで……言われるのであれば」
 そう言って、アグスティアは腰の剣の柄に右手を当てると、さらにその上から白い左手を包むようにして添えた。
 そのまま、瞑目してまた2秒。

 こんなに早く。
 確かに、彼女は小さくそう呟いた。
 その呟きは赤眼殿下には聞こえなかったが、青眼鏡家宰の耳には届いた。
 しかし、家宰はその言葉の意味を問うたりしない。

 アグスティアは、構えを直すと、ゆっくりと――とてもゆっくりと、鞘を払った。
 片刃の剣を正眼に構え、アグスティアは赤眼殿下をじっと見据える。
 腰を落とし呼吸を整え、初撃に備えていく。

 対するシェルシマは、構えたアグスティアを見て、ようやく抜剣した。両刃の剣を片手で持ち、切先を地面に向けた自然体。
(改めて見ると、なかなか可愛い顔してんだな)
 正面の相手を見据えて呼吸を静めながら、シェルシマは思う。そんな風にどこか気を抜きつつも、青草を背に立つ正面の軍服の女の周りの空気が、徐々に張り詰められていくのを感じ取っている。春の太陽に暖められて間の抜けた空気が、いつの間にか耳が痛いほどの沈黙に置き換わっている。
 相対する女から出ている、ひたひたと迫り来る冷たい何か。
 その何かが、今まで感じたものとは量も質も異なることに気がついて、シェルシマが警戒のレベルをもう一段あげようとした、その瞬間だった。
 ブロンドを残像のようにたなびかせて、アグスティアが上段から斬撃を放ってきた。シェルシマは剣で受けて、いなすように弾く。鋭い金属音があたりに響いた。そして呼吸つく間もなく、胴へ二撃目。それも防いだが、たまらずシェルシマは後方へ跳ねた。
(予想通り早い……し!)
 胸中で舌打ちしながら、シェルシマは、追ってきたアグスティアの袈裟切りの軌道に合わせるようにして、剣を打ち合わせる。がぎぃ、と青い火花が散って刃が交わる音がする。
(意外に斬撃が重い)
 鍔迫り合いを受け流し、シェルシマが巻くようにして狙った篭手を、彼女は見事に防ぐ。剣を跳ねさせるようにして肩口を狙うが、これも防ぐ。さらに三度軌道を変化させて、彼女の側頭部を狙うが、これをアグスティアは体ごと沈めてかわした。
(言うだけのことはある腕前だ)
 身のこなしは速く、斬撃も重く、技の返しも軽い。
 数合打ち合って、シェルシマは舌を巻く。
(だが――)ぐっ、とシェルシマは蹴り足に力を入れる。(これはどうだ?)
 腰を粘りをこめて回転させて、左逆袈裟に思い切り切り上げる。容易く防げる剣筋だが、受け止めた剣ごと吹っ飛ばすつもりだった。
 シェルシマの渾身の斬撃を、彼女は受け止めた。そのまま耐えようとすれば、彼女の体重にすれば体ごと後方へ飛ばされていても不思議ではなかっただろう。
 だか彼女は、剣を受け止めると同時、体を思い切り後ろへと反らした。そしてそのまま、シェルシマの斬撃を受け流す。アグスティアの片刃の剣に、擦れて起こった青い火花が線のように走る。
 シェルシマの剣が、虚しく宙を切る。
(やべっ)
 シェルシマは自分の不利を悟る。ひと一人を吹っ飛ばそうとしていたのだ。思い切り振った剣を流されて、軸がずれて体勢が崩れる。受け流すために体を大きく反らしたアグスティアの体勢も整っているとは言い難いが、シェルシマよりはマシだろう。
 その有利を彼女も理解しているのだろう、不安定な体勢のままでも片手突きを繰り出した。シェルシマは頭を振ってそれを外したが、崩れた体勢はすぐには戻らない。しかし次太刀はすぐに来る。
 シェルシマは反射的に、アグスティアの軸足を蹴り崩した。これで不安定だった両者の体勢が決定的に崩壊し、二人ともがもんどりうって倒れ込む。倒れたのはほぼ同時だったが、起き上がったのは倒れることを予測できた分、シェルシマの方が速かった。
 ちょうど起き上がろうと頭をもたげた軍服の女の喉元へ、尖端を突きつけようとしたそのとき。

「それまで!」
 張りのある青眼鏡家宰の声が響いた。
「この勝負、引き分けとします」

 終了の宣言。同時に、試合当事者のふたりから異議が申し立てられる。
「なんでだよ!」
「まだ勝負はついていません!」
 バルドの審判に、両当事者から同時に異議の声があがった。
「私はまだまだやれます! 続行してください!」
「続行っていうか、今の状況だったらオレの勝ちだろうが! 勝ちを宣言しろよ!」
「ああ、ちょっと失礼。眼鏡が曇ってしまって」
 審判役に詰め寄る二人の勢いを、さらりと無視して家宰は眼鏡を拭く。
 そうして日に透かすようにして綺麗になったことを確認すると、バルドは青眼鏡をかけ、さて、と先ほどまで剣を交えていた二人に向き直った。
「この試合の本来の目的は、お互いの剣の実力を確認することだったはずです。もう、その目的を達成するには充分なほどに、お互い力を尽くせたのでは?」
「それは――」アグスティアは反論しようとするが、言葉を詰まらせる。
「本来の目的を見失っては、いけませんよね。それに、アグスティア=フラーニア少尉は、先の剣闘技天覧試合において、三位入賞の腕前。殿下としても、引き分けとしておいても名誉に傷がつかないのでは?」
「俺は認めねぇ」憮然とシェルシマが腕を組む。
「おやおや大人げない。それでは、王弟という権威で無理矢理勝ちにしますか? そちらの方が、よほど外聞が悪いと思いますけれどもねぇ」
「ぐっ……」
「なんにしろ、殿下がこの人事をこれほど拒まれるようであれば、私は彼女を殿下の傅役として推挙しなければなりません。教育係である傅役は、主人ではなく家宰が決定できると慣習法にありますからね。それでよろしいですか?」
「なるほど、本気なわけだな」
 シェルシマは、低い声で唇を尖らせる。
「だからぁ、最初に申し上げたじゃありませんかぁ」
 バルドはいかにも無邪気そうな声で言う。
 そしてシェルシマは、盛大にため息をついた後に、「わーった」と敗北宣言を出した。
「わかった。認める。アグスティア、君は今日から俺の近衛だ」
 すると、喜ぶかと思われていたアグスティアだったが。
「……複雑な気持ちです。あまり嬉しくありません」
「いったい何なんだ、お前らは」
 頭を抱えて、シェルシマはうめいた。