4. うわさ
絨毯がひかれた廊下を、背筋を伸ばして彼女は歩いていた。
窓から飛び込んでいる日差しはオレンジ色が混ざり、盛夏の頃に較べるとずいぶんと柔らかくなっている。最近では、夜中では肌寒い日も増えたと彼女は思う。
ブロンドを二房両肩に垂らし、黒い瞳を正面に、視線は廊下の奥へと真っ直ぐにして、彼女――アグスティアは、少し大またに歩く。軍靴はかすかな音を立て、黒い軍服からもわずかな衣擦れの音。わずかな音でも拾えてしまう静かな午後。
そんな静寂を破ったのは、若い男の怒号だった。
「もうさがれっ!」
突然の声にアグスティアはかすかに驚きの色を浮かべたが、その一方で声のした方向を注意深く探る。
声は、彼女の主、シェルシマのものだった。主は、聖人君子のような立派な人物とは到底言い難いが、かといって普段から怒鳴り散らしているような人物でもない。他人の癇に障るような挑発的な物言いはよくするけれども、彼が声を荒げるような場面には、アグスティアはまだ出くわしたことがなかった。
アグスティアは前方の廊下を見遣る。そこにシェルシマの居室があり、そこから誰かが話しているようなくぐもった声が聞こえる。彼女は少し迷うようなそぶりを見せたが、足音を忍ばせて居室のドアへと近づいた。もともと彼女もシェルシマに用事があったのだ。居室に近づいても何ら不思議はない。そんな風に彼女は心の中で自己弁護をした。近づくにつれ、くぐもった声が明瞭になってくる。
「その話は聞き飽きたと言っているだろう! もう聞く必要は無い!」
これはシェルシマの声だ。自分の銀髪をかきむしってでもいるのだろうか。相当いらついている印象を受ける。
「何度でも聞いていただくつもりですよ。殿下がお聞きとどけくださるまでね」
低めた声はひとの心に迫るような良く響くバリトン。
どうやら、主の相手をしているのは家宰のバルドらしい。
いつもは軽い調子で話すくせに、彼は肝心なところで声を低めてバリトンを使う。その落差は百舌鳥の急滑降のようで、驚かせられることもしばしばだった。
家宰はこの家の使用人を統括する立場にもあるので、アグスティアにとってみれば彼が実質的な雇い人だった。最初にハノンに来たとき以外は、実はさほど言葉を交わしたことがなく、バルドについてはアグスティアもよく知らなかった。彼は近づけば切れるかと思うほどに明晰な感じがしたし、それでいてどこか捉えどころがなく、どちらかと言えば、彼については少し苦手な印象を彼女は持っていた。
扉から、声が続けて聞こえてくる。
「いらん。バルド、命令だ。もう出て行け」
「しかしながら、殿下。信頼できる筋からの情報です。対策だけはしておいても損は無いかと」
「損とか得とか、そういうことじゃない。疑って身構えて腹を探り合うなんて、まっぴらだ」
「誰が画図しているかは問題ではないのです、殿下。危険が予期される以上、それに備える必要があります」
「さがれっ! 命令だ、2度も言わせるなっ!」
少しの間、沈黙。
ややあって、かちゃりとドアノブが回り、部屋の扉が開いた。
扉の前の廊下に居たアグスティアは、身を反らすように硬くして一歩後ろにさがった。
「……盗み聞きとは、あまり誉められた趣味ではないですねぇ」
扉を開けた家宰――バルドが穏やかにアグスティアに向かって言った。
「い、いえ、決してそんなことは。聞こうと思ったわけではなく……」
「聞こえてしまった、というわけですか?」アグスティアを先回りして、家宰が言う。「まあ、大声を出していた我々にも非があるわけですし。ここは、追及は避けておきましょう」
そうやって家宰はアグスティアの脇をすり抜けようとして、思い出したように言った。
「今が9月ですから、もう貴女が来てから半年近くが経つわけですね。もうここには慣れましたか?」
はい、おかげさまで、とアグスティア。
「それは何より。執政官殿よりご紹介いただいた貴女ですから、仕事で手を抜くということはないでしょうが、場所に不慣れでは任務をこなせませんからね。――期待していますよ」
彼女は黙って敬礼の形をとる。それを見て、家宰は身を翻して歩き始めた。遠ざかっていくバルドの背中を横目で見ながら、アグスティアは主の部屋の扉をノックしようとして手を振り上げ――思う。
もう半年経った。残された時間は少ない。
■□■
「第2王子失踪事件?」
「そうよ。マルサス殿下が失踪した事件よ。2年前の。知ってるでしょ?」
元々大きな瞳をさらに大きく見開いて、メイドの若い女性がぐいと顔を近づけた。しかし相手の少年は、迷惑そうな表情を見せる。
「わかったから、あんまり近づくなって」
メイドを押しとどめるようにして、少年。黒い髪に、異国情緒ある黒い切れ長の瞳。
「概要は知っているよ。でもこの国に来たのは1年前だから、詳しくは知らない」
「あんなにニュースになったのに? この片田舎のハノンにも噂が届いて、もうその話題で持ちきり大騒ぎだったのに?」
「だから、その騒いでいたころは、僕は国外にいたんだってば」
「へー。そーよねー。わざわざ家宰のバルド様に外国から招かれた、カミルス様ですもんねぇ。その年で家宰補佐役様だもんねぇ。あたしみたいな田舎者で冴えない家事女中をやっている人間とは、そりゃあモノが違いますよ」
「どうしてそういう言い方をするかな、マーシャは」
カミルスと呼ばれた少年は眉間に皺を作る。東方の血が混じっていると知れる、カミルスの浅黒い肌と黒い髪。そして、いかにも女性に騒がれそうな繊細な線で形作られている顔立ちには、知性が滲んでいた。
ハノン侯爵居館、つまりシェルシマの館。その玄関ホールに彼らは居た。
カミルスは陽の当たる窓辺に座り、メイドのマーシャは立てたモップに体重を預けて立ち、少年を見下ろす形になっている。白と黒の二色のタイルがチェス盤のように敷き詰められた床に、斜めから差し込む光と柱と窓枠の影が模様を作り、複雑な構図ができあがっている。
「僕は世間に疎いんだ。マーシャ、よかったらそのマルサス王子の失踪事件について教えてくれないか」
頼む、とカミルスがへりくだって教えを請うと、メイドはふふんと自慢げに鼻を鳴らし、胸の前で腕を組む。
メイドのマーシャは、着ていた白エプロンの胸部にあるフリルを指先で弄りながら、カミルスくんがそこまで言うんならぁ、ともったいつけて話を始めた。
「んー、確か、あたしが前のお屋敷にあがる前だから、10年前ね。そのときにね……」
ぺらぺらと喋った家事女中のマーシャの話をまとめると、つまりこういうことだった。
2年前の春、第2王子だったマルサス王子は数人の主従と共に狩りに出かけた。このマルサス王子は学芸と武芸に優れ、人望の厚い(マーシャが付け加えるなら素晴らしく美形の)立派な人物だった。そのマルサス王子が、狩りの途中で忽然と姿を消した。従者たちは、最初は王子が獲物を追って森の中に入っていったのだと思ったが、いつまで待っても王子は姿を現さない。慌てて従者たちは人手を集めて付近を捜索したが、乗っていた馬も王子本人も見つからなかったのだという。
「でもね」メイドのマーシャは得意げに話を続ける。「あたしたち庶民の間じゃ、これは暗殺事件だってもっぱらの噂よ」
「噂……ね」カミルスは言う。
「当時の王子様はマルサス様を除いて3人」
指を3の形にして、びしりと突き付けるマーシャ。
「太子のウーノ様。第3王子のベルモット様。それと、今は私達のご主人様でもある第4王子のシェルシマ様ね。この中で、マルサス様がいると都合の悪いひとがいたのよ。誰だかわかる?」
さあ、とカミルスは首を傾げた。
マーシャは得意の絶頂で、顎に拳の側面をつけて解説を続ける。
「それはね、太子のウーノ様よ。それは何故か?」
自分で聞いておきながら、年若いメイドは少年の答えを待つことはなかった。感極まった政治家のような陶酔で、目を閉じてメイドは話を続ける。
だがそのとき、家宰補佐役の少年は、独り芝居を続ける彼女の背後から近寄ってきた人影をみとめて、まるで猫のように音を立てずに気配をおさえそっとその場を離れた。
しかしマーシャはそれに気付かず、そのまま話を続ける。
「ウーノ様は、太子だけど昔から病気がちで無口で、あんまり人望がなかったの。でもそれとは逆に、弟のマルサス様には人望があった。これって、王位を継ぐウーノ様にしてみれば困ったことよね。マルサス様が、自分が持っている王位継承権をとっちゃうかもって疑っちゃったわけよ。わかる?
だから、マルサス様を邪魔だと思ったウーノ様は、人知れずマルサス様を連れ去って、殺しちゃったのよ! これで、ウーノ様の王位は安泰。マルサス様の影に怯えることはなくなった、というわけ。
どう? 面白いでしょう」
「なるほど。確かに筋は通っていて面白いですね。物語としては中々のものかもしれませんねぇ」
でしょう、とメイドのマーシャは言いかけて、ふと返答が背後からあったことを疑問に思った。カミルス少年は正面にいたはずなのに、いつの間にかいなくなっている。
それに、この飄げた声には聞き覚えがある気がした。
彼女は自分の背中からじわりと汗が滲むのを感じた。振り返って背後を確認する前に、ぽん、と両肩に手を置かれてしまった。
「しかし、マーシャ。あまり感心しませんねぇ、こんなおおっぴらな場所で主君のご親族の噂話とは」
「ばっ、バルドさま……」
確認するまでもない。いや、確認したくもない。メイドのマーシャの背後にいるのは、この家の家政をつかさどる最高責任者。洗い場担当の怖いおばさんよりももっと偉い、バルド=ネビリムそのひとだった。
がっちりと押さえて――というほどでもないが、メイドが逃げられないと感じる程度の重圧感は充分にかけながらバルドは、
「マーシャ。もしよろしければ、こんな話になった経緯を話していただけませんか?」
「あ、あの……」
「おやおや。先ほどの雄弁はどこへやら。仕方が無い、話のお相手に出てきてもらいますか」
家宰はメイドの頭越しに、天井を支える白い円柱へ視線を投げる。
「カーミールースー君。柱の影にいるのはわかっていますよー。出てきなさい」
声を低めた最後の言葉は、呼びかけというよりも命令だった。
それに抗うことなく、家宰補佐役のカミルスは柱の影からするりと姿を現わした。まるで影のように控え、恭しく目を伏せる黒髪の少年。彼に向かって、バルドは声をかける。
「君も情の無い人間ですね。まさかマーシャひとりに罪をかぶせる気だったのですか?」
「眼は閉じることができますが、耳を閉じることはできません。ですから、聞いてはいけないことを聞かないようにするために、柱の陰へ」
「そんな言い訳が通用するとでも? 君の耳は閉じられなくても、彼女の口を閉じさせるとはできたでしょうに」
言って軽く笑うと、バルドはメイドの女性の肩から手を離し、
「今の件は不問とします。もう行きなさい」
はいっ、という返事と共にマーシャはくるりと回って一礼すると、モップを片手に早足でその場を立ち去った。
まるで小太鼓のように俊敏なリズム、白黒の床を靴底が叩き、小さな背中が遠ざかる。その姿を横目で追いながら、バルドはカミルスに話しかける。戯れのように。
「今の彼女の話。君は信じますか?」
さあ、とカミルスは肩をすくめる。
「本当だとしても、証拠がありません。しかし少なくとも、マルサス王子がひとり世をはかなんで失踪してしまった、という話よりも現実味があります」
確かにそうですね、とバルドが後を受けた。
「まあ、そんなところでしょうね」と、バルド。「憶測のみで語れば、それこそ噂話に過ぎないものになってしまいますし。……まあ、私が気になるのは、その噂の出所ですかねぇ」
「噂の出所……ですか」カミルスが聞き返す。
「ええ。さきほどの彼女が言っていたウーノ様が黒幕だという内容が、どこから出てきたものなのか。まあ、国中を情報が駆け巡った衝撃的な事件ですから、自然発生的にあの話だけがでてきたのかもしれませんが」
バルドの話を聞き、なにやらぶつぶつと呟いたあとに、カミルスが尋ねた。
「バルド様。――貴方は、『例の件』にマルサス王子失踪事件が関連しているとお思いですか?」
「ふむ。『例の件』……ですか」とぼけるように、バルド。
「――シェルシマ殿下暗殺計画の噂です」
カミルスは声を潜めて言ったあと、切れ長の目で辺りを見回した。だいぶ影が長くなった昼下がりの玄関ホールには、他の使用人の姿はなかった。
現王ウーノが、王弟シェルシマを暗殺する計画を立てている。
今年の夏前からひそやかに流れ始めたその噂は、王都の要人ならば誰でも知っている噂ではあった。しかし、内容に具体性が乏しく、噂のままでなんら実行に移されず、処理されていた案件でもあった。
数瞬の間、バルドは青眼鏡を抑えて顔を俯け、やがてその姿勢のままでカミルスの質問に答え始めた。
「――予断をもって物事に当たるつもりはありません。事件同士の関連性が証明されない以上、別個の事件として扱うつもりです。ただ、あの殿下を殺して、いったい誰が得をするのか。それを考えているところです」
「ウーノ王が、シェルシマ殿下の人気を妬んでのことだという内容ですが……」
「そう言いますが、剣のみに長けている殿下の人気などたかが知れています。どう考えても、王位簒奪に繋がるような人気じゃない。家宰の私が言うのもなんですがね。――ですが、やはりマルサス王子失踪事件と筋書きが似ているように思えるのが気になりますね」
そこでようやく、バルドは顔をあげた。
「まあ、なんにしろ噂は噂。必要以上に過敏になる必要もないですが、対処をしておいても損にはなりません。あんな方でも一応、この国の要人のひとりであることには間違いありませんからね。それなのに、まあ……。ご本人はまったくそういった自覚がないようで、近衛をひとり付けるだけでも決闘騒ぎ。まったく、困ったものです」
言って、わざとらしくバルドは溜め息を吐いた。
このひとが困っていると口で言っても、全然困っているように見えないな、とカミルスは内心で苦笑する。
「僕は、話にしか聞いていませんが、アグスティア殿の剣はかなりもののようですね」
「性格の方は少し天然なようですがね」
家宰の容赦ない指摘に、カミルスは一瞬絶句したが、すぐに言葉を続けた。
「執政官殿の紹介者ですし、アグスティア殿が近衛であれば、シェルシマ殿下は安全と言えると思いますが……、別な心配もあります」
なにが、とでも言うように、バルドは不思議そうな視線を向けた。カミルスが答える。
「たったひとりの近衛が女性であることは問題だと思います。この館には他に何人か警士がいますから、彼らもかわるがわる殿下の身辺警護に当たらせた方が良いのではないでしょうか」
「君が何を懸念しているのか、実は私には良くわかりません。もう少し詳しく説明いただけますか?」
「そ、その」カミルスは、とても言いにくそうに、だがはっきりと言葉を紡ぐ。「シェルシマ殿下は女性に対して、なんというか、積極的な方ですから……。彼女に手を出すような危険が心配されるのでは、と思うのですが」
「ああ」
得心がいったようで、朗らかにバルドが声を出す。
「そういうことだったら、何も心配いりません」
カミルスは切れ長な目を少し丸くして、バルドを見る。
家宰の茶の髪は、秋の陽を受けて黄金色に輝き、その輝きが縁取りを作っている。そんな柔らかな神々しさを纏ったまま、家宰はにっこりと微笑んで、爽やかにとんでもないことを言った。
「彼女が、殿下のお手付きになったとしても何の問題もありません。他のところの神様がどうかは知りませんが、主神リュピテルを始め、我々の神は浮気し放題。貞操には寛大ですよ」
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