5. 襲撃事件





 秋になった。そしてその夜は、月が無かった。
 雲が厚く立ち込め、月の白光を完全に遮る。いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。ときおり冷たい風が鋭くなり、木々の枝を揺らす。その音に遠慮をしているのか、虫の声も聞こえない。誰もが寝床で毛布を体に巻きつけているであろう夜、ハノン候館の裏手で、人影が蠢いていた。
 人の背よりも高い、巨大な熊のように立ちはだかる白壁。一番上には、侵入者避けの杭が刺さっている。人影はその壁に沿って進み、立ち止まる。白い壁の途中、人間ひとりが屈んでようやく通れるような、潜り戸があった。その分厚い潜り戸は、普段、夜間は内側から施錠されている。
 ――その人影は、その潜り戸に手をかけると、ゆっくりと押した。
 きぃ、と小さな音を立てて、潜り戸が口をあける。
(手筈通りだ)
 人影は仲間に合図をする。暗闇の中、2つの人影が邸内に入る。
 その2人を、ひとつの人影が出迎えた。
「ご苦労。予定通りだな」
 出迎えたひとりに向かい、入ってきた人影が声を小さく声をかける。
 声をかけられた出迎えは、ただ小さく頷いた。
 館に侵入した人影のうちひとりが、指二本で、館を指した。
(行く)の合図。
 そして、人影は、再びふたりとひとりに分かれ、動き出す。
 そのとき、風が吹いた。風は高く鳴り、館の熱を奪うようにして、冷たい夜を通り抜ける。



                 ■□■



 シェルシマは夢を見ていた。

 そのとき、雪の降る冬には珍しく、ぽかぽかと暖かい日。
 トゥーレ王城の中庭も、青空に覆われていた。
 雪のように白い花のつぼみが、ほころびはじめていた時期だった。
 彼は、酒の入った杯を高々と掲げる。
「我ら4兄弟、ともにちからを合わせることをここに誓う。乾杯!」
「おいおいシェルシマ。勝手にひとりで乾杯するな。まだ皆に杯が回っていないぞ」
 苦笑してそう言ったのは、長男のウーノ。
「まったくだ。お前はいつも一人で先走る。もう少し自重することを覚えたらどうだ」
 隈のある目をゆがめ、説教をするのが三男のベルモット。
「だが、いい発案だ。どうだ、今のシェルシマの誓いに、乾杯しないか?」
 余裕のある笑みでそう言ったのは、次男のマルサスだった。
 いいだろう。誰からともなく同意し、酒がなみなみと入った金の杯を、4王子はそれぞれ掲げる。
「誰が発声する?」とベルモット。
「兄上だろう。次の王がそれをするのが相応しい」とマルサス。
 ウーノは、はにかむように、しかし荘重に頷いた。それでは。
「我ら、この国に生まれ、故にこの国のためにちからを合わせることを誓わん。……我らがトゥーレに栄えあれ!」
 栄えあれ!
 突き出した4つの杯が、がしゃりとぶつかりあって音を奏でた。

(そうだ……オレたちは誓ったんだ、あのとき。ちからを合わせてこの国を治めていこうって)
 夢を見ながら、もうひとりのシェルシマが思う。
(それなのに、どうしてだ……、どうしてだ、兄上)
 夢の中のシェルシマも、小春日和の空を見上げる。
 青い空の中にある太陽。その太陽が、どんどん大きくなる。
 どんどん、どんどん。
 いや、大きな火の玉となって、太陽がシェルシマの方へと落ちてきている。
 もう、触れそうなくらいに――。



                  ■□■



 反射的に、シェルシマは目の前のものを振り払っていた。
 鈍い手ごたえ。
 何かがひらりと飛んだ気がした。
 ――布?
 ベッドの中にいたシェルシマは薄目を開ける。目の前にはたじろぐように揺れる黒い影。
(誰かいる?)
 すぐさま、シェルシマは人影がいる反対側から転がり出る。だがしかし、身体に巻きつけていた毛布も一緒になって出てきて、身体の自由が思うようにならない。だがそれに構わずに、床に腰を下ろすような格好でベッドの外に出る。
 だれだ、と誰何の声をあげる暇もなかった。
 黒い影が、覆い被さるように飛び込んできた。こちらがベッドから転がり出る瞬間を狙っていたのは明らかだった。
 シェルシマは、転がり出ると同時に枕の下から引き抜いた剣――納刀されたままだったが――で、影を一突きする。一応喉の辺りを狙ったのだが、寝起きでしっかり目が開いていないのと闇夜の所為で相手のどこに当たったのかはわからない。
 だが、退かせるには成功した。影は一度仰け反ったあとに、たたらを踏んで一歩下がった。
 同時、きん、と短な金属音がした。どうやら部屋のどこかで誰か刃物を取り出したらしい。命の危険を感じると同時、自分は今まさに襲われているのだという認識が稲妻のようにシェルシマの全身を駆け巡る。
(ふたり……か? 頼むからそれ以上いないでくれよ!)
 シェルシマは祈るように気配を探る。彼は王族ながら剣の達人ではあったが、寝起きが良いほうではないと自覚もしていた。まだ重い瞼のせいで視界は半分くらいしか開いていないし、頭はぼんやりするし、肺に入る空気も充分ではない。
 シェルシマは、腰を下ろした姿勢で、剣の鯉口を切った。ほんの少しのあいだ、相手の出方を待つ。その間を活かして一呼吸すう。
 立ち上がりはしない。無理に立ち上がろうとすれば隙ができるし、何よりそのため時間がない。
 一度退けた正面の影が動いた。
 シェルシマは自分の足元にあった毛布を蹴り上げる。
 一瞬で相手の視界を遮ると、その浮き上がった毛布ごと、剣の石突で正面の影を諸手突く。充分な手ごたえがあり、相手はもんどり打って倒れる。
 だがシェルシマは正面ばかりを気にしてはいられなかった。寝台を踏み台にして、もうひとつの影が跳躍して上から襲い掛かって来た。
 手に何かを握っている。だがそれが何かは暗くて見えない。
 シェルシマは反射的に身を捻ってかわす。
 跳ねた影が着地した瞬間、どがん、と鈍い音がした。
 おそらく手に握っているものは黒く塗った刃だろうとシェルシマは思う。闇に溶けるように黒くしてあるのだ。
 シェルシマは腰をついたままの姿勢で剣を抜く。そして黒刃を床につきたてたままの影に向かって振った。腰も入っていないし型もなにも無かったが、威嚇には役にたった。人影はシェルシマの剣を嫌がって少し退く。その隙に、シェルシマはようやく立ち上がって剣を構えた。
 襲撃者は確かにふたり。
 認識すると、シェルシマは息を吸って横隔膜に力を込めて、人数を呼ぼうとした。
 しかし、その間はなかった。
 ふたつの人影は、爆ぜるように駆け出し――
 シェルシマの前を通り過ぎる。
 そしてそのまま、南に面する窓から外へと飛び出した。
 窓にはめ込まれていたギヤマンが窓枠と共に割れ、大きな音を立てた。
「誰か!」
 やっと邸内に向かって大声で呼ばわりながら、シェルシマは砕かれた窓へと駆け寄る。人影は既に狭い正面庭園を駆け抜け、正門へと達していた。そして正面にある正門は何故か開かれており、いつも交代で門を見張る役目の警士の姿も見えない。
「別働の仲間がいたってことか……」
 歯噛みして、シェルシマがうめく。
 人影はそのまま門を出た。おそらく、近くには逃走用の馬が用意してあることだろう。
「殿下! ご無事ですか!」
 足音の後、背後からよく通る女性の声。振り返らなくてもわかる。近くの部屋で控えているはずのアグスティアが、ようやくシェルシマの寝室へと駆けつけたのだ。
「二人の賊に襲われた。間に合わないとは思うが、急ぎ追っ手を出してくれ。奴らは正門から出て、東に向かった」
「……はっ!」
 アグスティアが駆け出した。シェルシマの命に従い、追っ手を出しに行ったのだろう。
 空は曇り、月も星も無い。そして秋の強い風が吹いているために、少し堅い道であれば足跡を辿るのは困難だろう。雨こそ降ってはいないが、いまにも降り出しそうな気配が漂っている。降ってしまえば、足跡など全くわからなくなる。
 シェルシマは部屋の隅に目をやる。暗闇なので見えないが、そこはランプが置かれているはずの場所だった。そこまで歩き、石を擦る。灯った小さな炎を、油の染み込んだ芯へと移し、充分に燃え始めたのを確認してから、ぱたんとギヤマンのケースをかぶせた。暗かった部屋に、ゆらゆらとした灯りが灯り、赤眼の男の姿が浮かびあがる。
「ベルモット兄上……なぜ」
 シェルシマは小さく呟き、部屋を照らす小さなともし火を見詰めた。



                      ■□■



「……どうでしたか、調査の結果は」
 書類から顔をあげずに、柔らかな陽光を背にした青眼鏡の家宰が聞いた。
 部屋に入ってきた、家宰補佐の少年への問いかけだった。
「詳細が掴めないのはやはり変わりません。しかし、気になる点が出てきました」
 家宰補佐の少年は、報告のために家宰の頑丈な机の前に立った。青眼鏡の家宰は別の書類仕事をしながら顔もあげず、こり、と一度こめかみのところを掻いて、彼は言った。
「報告を続けてください、カミルス。このまま聞きます」
 はい、バルド様――とカミルスと呼ばれた少年は返事をした。
 王弟シェルシマ襲撃事件から、3日が経っていた。
 身辺に警護をつけるのを嫌うシェルシマの態度がたたり、本人への直接の襲撃を許してしまった事件だった。襲撃されたと思われる時間が午前2時頃。襲われた本人の証言では、襲撃者は2人だったということだったが、襲撃者は少なくとも3人以上居たと思われる。何故なら、館の表と裏に配備されていた警士があっけなくも倒されていたからである。
 侵入者は屋形の裏手にある潜り戸から敷地内に侵入、その後館裏手にある使用人通用口の鍵を破って邸内に入り、シェルシマの寝室に至ったと思われる。
 襲撃は、特殊な薬品を対象にかがせて昏倒させる方法が取られている。正門と裏門の見張りについていた警士たちはその方法でやられていた。彼らの証言によれば、いきなり布を口元に押さえつけられ、そしてすぐに意識が遠のいてしまったのだという。
「誰も殺されていないことは、幸いでした」
 そうカミルスが書類をめくりながら言うと、
「人死にが少ないのは良いことです」
 家宰はそう答えて、青眼鏡を外そうとしたが――結局、かけ直した。
「殿下は、寝ているときに無意識になにか布のようなものを跳ね除けたと言っていました。特別な薬品でも染み込ませているのでしょう。正門を襲った賊と、殿下を襲った賊。やり口が一致しますね」
 カミルスは同意して頷き、そして疑問を呈した。
「賊は短刀も持っていたと聞きます。何故、それでいきなり殺してしまわなかったのでしょう」
「無音で人を確実に殺すというのは、結構難しい作業です。刺しどころが悪ければ相手は呻き声をあげるし、倒れ方が悪ければ大きな物音を立てる。下手に刺し殺すよりも、薬品を使って昏睡させた方が賢いのかもしれません。事実、成功していますしね」
 そこまで言って、家宰のバルドは一度言葉を切ったあと、小声でぽそりと付け足した。
「ひょっとしたら、実績のあるやり方なのかもしれない」
 ――実績?
 どういう意味なのだろう。その家宰の言葉が気になって、カミルスは質問しようとしたが、どう切り出すか戸惑うほんのわずかな間に、青眼鏡の家宰は報告を先へ進めるように促した。授業中に油断していたところをいきなり指名された生徒のように、カミルス少年は持っていた報告書のページを慌てて捲る。
「それから、屋形に外部から侵入した痕跡を探しましたが、発見することができませんでした。まあ、よほど上手く壁を乗り越えたか、もしくは――」
「誰か内部のものが手引きをした、ということですか」
 バルドが先回りした。声に、多少不機嫌なものがある。
「それもありますが、可能性としてもうひとつ。当日の昼間の訪問者が、夜まで邸内に潜み、鍵を開けたということも考えられます」
 ふむ、とバルドは小さく頷いた。その動作には、特に際立った感情は見えない。
「それで、当日の屋形の訪問者を探しました。聞き込みを行ったところ、食材などの日用品を入れている口利き商人が5人。その他に、銀食器などを扱う旅の商人がひとり、屋形を訪れています」
「旅の商人、ね」
「応対した家事女中によれば、ひょろりと背が高い男だったということです。こちらが何も買わなかったので、そのまま帰ったそうです」
「その後の行方は?」
「まだ確実な足取りはつかめていませんが、関所からの報告では、該当する人相の男は通過していないようです。まだハノン領内にいるのかもしれません。一応念のため、捜索の手配はしてあります」
 ふむ、とバルドは頷き、一瞬だけ何かを考えるような遠い目をして、
「その旅商人の捜索は続行してください。しかし、使用人たちの当日の夜の行動を洗い直してください」
「襲撃があった2時頃の、ということですね?」
「鍵を開けるだけならば、それ以前でもできます。ですから、あの夜、すべての時間帯の行動です」
 わかりました、とカミルスは頷き、
「他の使用人が手引きの犯人だとして――通常疑われるのは、鍵をかける係の警士か、新参者になりますか」
「普通に考えればその通りです。まあ、通常考えられることの裏をかくという発想もありますが、まずは可能性の高いところからつぶしていきましょう」
「最も新しい使用人と言えば――近衛の、アグスティア=フラーニア中尉ですか」
 頭の中の帳面を捲るようにして、カミルスが言った。
 青眼鏡の家宰は、書類をめくる手の動きを止め、目の前の少年へと視線を向けた。
「その通りではありますが、殿下がハノンへ移ってきてからわずか1年。わずかな古参以外の十余名をそのときに採用しましたから、誰も彼もが新参と言える。カミルス、君がよく話をしているメイドのマーシャ。彼女もそうですね」
「…………」
 まさか、というように暗い顔をして、カミルスは押し黙った。
 脅した家宰は軽薄な声を出す。
「たとえ話です。そんな顔をしないでください。――ですが、予断を持って調査は行わないように。いいですね」
 これが結論だとうように注意事項で話を締め、家宰は椅子に座り直すと、また新たに書類仕事にとりかかり始めた。
 せわしなく青眼鏡の奥の目を動かす家宰。その青眼鏡に向かって、家宰補佐の少年は戸惑いがちに問いかける。
「その……バルド様は、どう考えておられますか。身内の使用人が、手引きしたという説について」
 切れ者だと噂される家宰の答えはよどみない。
「可能性のひとつです。それ以上でもそれ以下でもありません。物理的に可能であれば、検討すべきでしょう」
 その回答で、報告は終了した。
 わかりました、と言ってカミルスは頭を下げた。ご苦労様です、とバルドが応える。
 回れ右をしたカミルスが部屋を出ていき、バルドと書類の山が残される。
 山から一枚書類を抜き取り、だが家宰はその姿勢で動きを止めて――虚空へ向かって呟いた。
 執務室に、彼の声だけが響く。
「身内を疑うのは、嫌なものですね――。貴方のおっしゃる通りですよ、シェルシマ殿下。ですが、それをしなければならないときも、あるのです。残念ながらね」