死ぬ間際、勇者は言った。「縛るならば縛ればいい。殺すならば殺せばいい。だが、貴様がどんな権力を持った暴君であったとしても、俺の心までは縛ることはできない。俺の心は、絶対の不可侵にして自由な聖域なのだ」






1.『はじまりは家出』



 そこは、ファリナのお気に入りの場所だった。
 ヴァレス神聖王国の王城をぐるりと囲む、城壁のその一角。
 海に面する絶壁、その上にそそり立つ白亜の壁の天辺からは、「女神に抱かれた宝玉」と形容される美しいヴァレス港を遠くに見下ろすことができる。貿易船で賑わう穏やかな海は、終わり始めた夏の日差しを受けて、今日もきらきらと輝いていた。
 けれど、そんな風景など目もくれず、今のファリナは有事には矢防ぎになる城壁のへりに寝転がり、ただひたすら読書に没頭している。左手でページを捲り、右手には何故か赤色のトンボを一匹、透明な羽根をつまんで捕まえている。
 誰かが見ていれば彼女の行儀の悪さを咎めただろうが、あいにくとこの13歳の少女を咎める人間はそこにはいなかった。咎める人間どころか、その城壁の一角にはファリナ以外誰もいない。実をいえば、景色よりもそのひとけのなさこそが、ファリナの望んでいるものだった。
 読書の行儀の悪さからは想像できないかもしれないが、ファリナは、ヴァレス神聖王国のお姫様だった。ただ、上に姉がひとりいるので、後継ぎではない。そのため身軽と言えば比較的自由な立場にあるが、年頃になれば然るべき家へ嫁ぐ身であるのは間違いない。もし万が一そうならなくとも、祭政一致国家であるヴァレス神聖王国において、王家の者であれば、宗教世界の高位につくことになる。
 そう思って見れば、寝転がってトンボを片手に読書をする彼女の姿は、そこはかとない気品が漂っているとも思えないこともなく、また彼女の容姿も、姫、と呼ぶには抵抗がないくらいには、整った顔立ちをしていた。くすんだブロンド、薄青と薄黄をあわせた、動きやすい半袖の服を身につけて、ときおり鼻歌を交えて彼女はページを捲る。
 指に巻きつけていたくすんだブロンドをほどいて、ファリナがページを新たに捲ろうとしたとき、彼女を呼ぶ高い声がやってきた。
「姫様! やっぱりここに居た――ファリナ様っ!」
「んー、なにー?」のんびりとした声で、ファリナ。
「んもう、姫様! どうしていつもいつもいつもいっっつも、そんなに飄々としていらっしゃるんですか! もうお城中大騒ぎだっていうのに!」
「どうしたの、シルフィ。あなた少し涙目になってるわよ」
 ずかずかずかと、城壁のへりに寝転がるファリナに向かって、侍女服の少女が近づいた。その勢いに、ファリナは苦笑いを浮かべた。
 シルフィは、いつもは垂れ気味のまなじりを、今はきっと吊り上げて、ファリナを睨んでいる。走って来たために、彼女の黒髪は乱れ、額はうっすらと汗ばんでいる。この黒髪のシルフィは、ファリナの乳母だったひとの子供で、つまり、黒髪のシルフィは、ファリナの乳姉妹となる。同い年であったために、彼女たちはまるで姉妹のように、一緒に育てられていた。
 シルフィは、息を整えるためか、数回深呼吸をして話しだした。
「いいですか、聞いて驚かないでくださいね!」
「うん」
 シルフィとは対照的に、軽いファリナの返事。
 そして、黒髪の少女は、もう一度深呼吸すると、思い切ったように言った。
「実は、セレーネ姫様が、家出なさったんですっ!」
「あ、それなら知ってる」
「そうなんです、だから城中おおさわぎで……って、え? 知って……る?」
「うん」軽くうなずいて、ファリナ。「昨日、セレーネ姉さまが挨拶に来たから」
 シルフィは絶句して、酸欠の金魚のように、ただぱくぱくと口を動かした。ちょうど5回、ゆっくりとくちを開閉し、ようやく少女は衝撃から立ち直った。声が出る。
「知っているなら、どーして止めてくれないんです、ファリナ様! こんなところに寝転がっている場合じゃないでしょう!」
「私はただ寝転がっているんじゃない観察をしているの。はきちがえないで」
 話の流れを無視して、鋭く警告するようにファリナが言った。
その鋭さに、シルフィは気圧されて言葉を喉に詰まらせたけれど、非常の事態だという切迫した気持ちがシルフィの背中を押した。
「わ、わたしが聞きたいのはそんなことじゃありません! ファリナ様はどうしてそんなに冷静なんですか! セレーネ姫さまは、ファリナ様の実のお姉様じゃありませんか! セレーネ様が家出されようとしているというのに、どうして止めようとなさらないのです! 妹として、いえ、ひととして、引きとめなければとお思いになりませんか?」
「――シルフィ。人は、束縛しようとすればするほど、自由になりたがるものよ」
 静かで冷静なファリナな声には、何故だか説得力があった。
 シルフィは、次ぐ言葉を失って黙った。ファリナが、続ける。
「それに、セレーネ姉さまは自分の意志で出て行くの。わたしには止められないわ」
 そんな、とシルフィは言った。
「そんなこと、ない、はずです。家族なんですから……」
 顔を真っ赤にして、シルフィは言った。下唇を噛みながら、身に付けていた侍女服の、白いフリル付きエプロンを両の手で握り締める。
「それよりも、見て。シルフィ」ファリナが言った。
 右手にずっと持っていたトンボを、シルフィへと差し出す。あわせて虫眼鏡を持ち出して、トンボの頭部を拡大してみせる。
「頭のところを見て……目の中に、細かい網があるのがわかる? これは複眼と言って、すべて目なの。とても数えられない。二つの目があればこそ物が立体的に見えるというけれど、これだけの目で見たら、いったいどんな風に見えるものなのかしらね。魔術器具で再現できないかなぁ」
 解説の途中から、ファリナがうっとりとした様子で独り言のように語る。それに腹を立てたのだろう。シルフィは、ファリナから、さっと赤いトンボを奪い取ると、ややヒステリックに大声を出した。
「姫様ッ! ですから、今はトンボどころでは……」
「あら、すごいじゃないシルフィ。あなたいつから、昆虫を素手で触れるようになったの?」
「へっ……?」
 ファリナの冷静な指摘に、シルフィが我にかえったようにきょとんとした顔つきになった。ファリナはそうではないが、シルフィは、世間一般の女の子の多くがそうであるように、昆虫が大の苦手だ。
 シルフィは自分がつまんでいるものを見る。
 トンボもその視線に合わせてシルフィを見る。
 彼女と彼(?)との目が合った。
 悲鳴が響きわたる神聖ヴァレス王国のその青い空を、解放されたトンボが泳ぐように横切っていった。


                               ◆◇◆


「なんということだ……」
 ヴァレス神聖王国王城、王の間。人払いをしたその部屋の、奥に高々と鎮座する玉座で、一人の王が頭を抱えて苦悩していた。
 王の苦悩の理由はひとつ。この国を継ぐはずだったセレーネが、国を出て行ってしまったことだ。
 容姿端麗才色兼備、付け加えて剣を使わせても並々ならぬ腕前を持つセレーネ姫は、父である王だけではなく、この国の宝だった。勤勉で賢く、気風も爽やか。表敬訪問に訪れた隣国の王に、男であれば軍の最高位である元帥が務まるとまで言わしめた姫だ。
 それだけに国民の人気も高く、その卓越した剣の腕から、「剣姫(つるぎひめ)」とも呼ばれ、愛されていた。
また社交的でもあるセレーネ姫は、独自の人脈網も持っていた。人脈というよりはセレーネ姫の熱狂的なファンとも言える人物が集まるサロンがあり、そこにはヴァレス王国の小麦輸出入を一手に請け負う富商カスラーン家の子供も居た。彼がひとり協力するだけでも、船を用意しセレーネ姫を別の国に住まわせる差配は容易いだろう。
 今現在、親衛隊を使ってセレーネ姫を捜させてはいるが、その行方は依然杳として知れない。
 実権が無いはずの姫の身で、これだけの行動が起こせるのだ。その大胆な行動力、構想力、そして構想を可能にする実力。これだけ見ても、ヴァレス神聖王国の将来における損害は大きいだろう。
「なんということだ……」
 再び、王は呟いた。

 こうなる兆候はあった。

 神に愛された如くに何でも備わっていたセレーネだったが、男子相続のこのヴァレス王国にあって、かの姫が将来しかるべき相手と婚姻し、その相手を王といただいて、ヴァレス神聖王国を治めていかなければならないという未来は決まりきったことだった。
 王は思う。セレーネは頭の良い娘だったから、自分の先が見えてしまうことがつまらなかったのだろう。
 1年ほど前、20歳を控えたセレーネに結婚話を持ちあがったのをきっかけに、かの姫は塞ぎ込むことが多くなった。会ったことも無い相手であれば不満に思うこともさもありなんと王は考え、当人同士を会わせて見たが、効果は無かった。むしろ以前よりも余計に塞ぎ込むようになった。相手が気に食わなかったようだ。
 望まぬならとその話は破談にしておいたが、かといってヴァレス神聖王国の姫の相手となるべき家と男子が、それほどあるわけではない。
 結婚をすれば、相手は遅かれ早かれ王となる。そしてその伴侶たるセレーネは、王たる婿を陰日向に支えなければならない。恐らく、自分に劣る王を。
 誰よりも優れた能力を持ちながら、決まった道を歩く。それが退屈であることは理解できる。ましてセレーネは20歳。まだ若く、未来への希望に燃えている歳だ。決まった道を歩くという退屈が、大いなる苦痛だと感じられるのも理解できる。しかし、それは人間の親としてだ。
 セレーネは王族だ。このヴァレス神聖王国の民を、神の教えに従いまとめ導くという責任がある。神の教えは尊いものだが、それだけでは人々は動かない。責任と力と権限をもつ者が、人々を教え導きその生活を豊かにし、ときには彼らを罰し、さらには外敵からは守らねばならない。
 そういう責任が生まれながらにしてあるのが、王族というものではないか。
 しかし、と王は思う。
 それを理解しないセレーネではあるまい。
 ということは、あれはもうこの国に戻ることはあるまい。一度道筋を外れ、さらにそれをもとに戻すようなことを嫌う、一本気で潔癖なところがあの娘にはある。一度この国を出るのであれば、それはすべて覚悟済みのことなのだ。
 王は、不意に襲う心の痛みに顔を歪ませる。
 男親などはこんなものか、と自嘲する。
 娘に見捨てられてしまった、という当たり前の認識と寂しさが彼を襲う。
 そうした当たり前の感情が一番最後に出てくるのかと思うと、またわびしくなった。
 ――。
 王は死んだ王妃の名を呟いて、熱くなった目頭を抑えた。
「――王様?」
 不意に、誰もいないはずの王の間に声が響いた。
 王が顔をあげて周囲を見遣ると、侍女服に身を包んだ黒髪の少女が立っていた。その少女には覚えがあった。妹姫のファリナに付けている、シルフィという少女だ。
 ファリナ姫の乳姉妹として、ファリナ姫とともに育ったシルフィは、王もよく知った存在だった。幼少の頃はファリナ姫の同年代の友人として、少し長じた今では、侍女兼話し相手として姫のそばに置いている。
 下の姫のファリナはけっしてできの悪い娘ではない。父譲りのくすんだブロンドの髪と母譲りの整った顔立ちは将来の美しさを予感させたし、頭脳も家庭教師が舌を巻くほど優れている。ただその頭脳の働きが鋭すぎて、ファリナ自身を奇行に走らせることがしばしばで、それは「ファリナ姫は少し変わっている」という不名誉な評価につながった。残念なことに、姉のセレーネの名声が高まるほど、まるで天秤が傾くかごとくに妹であるファリナの評判は下がる一方で、ついには、
『奇行姫』
とあだ名までついた。
 そのファリナとともにずっと育ってきたシルフィという少女は、少し頭の働きが鈍いようにも思われたが、それは他の2姫と較べてしまうからだ。彼女は心根のとても優しい素直な娘で、とても良い子だと王もつねづね思っていた。言っても詮無いことだが、もしシルフィが実の子であったならば、自分の悩みはどれほど少なかったろうと王は思った。実際、幼い頃から知るシルフィを、王は実の娘のように可愛がっていた。
「どうかしたか、シルフィ」
 つとめて優しい声で言葉をかけると、シルフィはそのか細い二本の足でふんばるように立ちながら、細い肩を震わせ始めた。くりくりとした黒い目は濡れて、まだ紅をさしていない薄紅のくちびるを強く噛み締めている。
「姫様が……」
「――ファリナが、どうかしたか?」
 言って、王は玉座から立ち上がると、シルフィへ近づいた。
 この城で通常「姫様」といったらセレーネを指すが、この娘の口からその言葉がでた場合はファリナを指した。不名誉なことだが、ファリナはこの城で「あっちの姫」と呼ばれている。
「わたし……わたし……ファリナ様のお心がわかりません」
 言いながら、シルフィの目からぼろぼろと大粒の涙が零れ出て、彼女が着る黒い侍女服に落ちた。
 王は、なんとも言いようも無い不安に取り付かれる。ファリナは、昔から捉えどころが無い娘だった。ひょっとして、セレーネに触発されて自分もこの国を出ると言い出したのでは? その不安は、そのまま王の口を動かした。
「あれは――ファリナも、この国を出る気ではないだろうな!」
 泣く娘の肩を、王が掴む。シルフィはただ首を横に振った。
「わたしには姫様のお心がわかりません……セレーネ姉さまは鳥だとか、心の自由はこの世で至高のものだとか、わたしなんかには難しい話ばっかりで……ぜんぜん心配しようともなさらないんです」
 すん、と鼻を鳴らし、シルフィは濡れた瞳をあげて王を見た。
「王様、わたしは心配です。セレーネ様が今どこにいらっしゃるのか、いったい安全に旅をなさっているのか。そしてセレーネ様がいなくなったこのヴァレス王国は、どうなってしまうのでしょう。こんなことを思う、わたしの方がおかしいのでしょうか。教えてください、王様……」
 その言葉を最後に、シルフィは両手で顔を覆って、わっと泣き出した。その少女の肩に、王はそっと手を置いた。
「大丈夫だシルフィ。儂も同じ気持ちだ」
 シルフィの言葉から、少なくとも今はファリナが国を出る気が無いことがして、王は心のなかでほっと胸を撫で下ろした。そして、自分と同じ気持ちの仲間を見つけた王は、救われた気分で、高い天井を見上げ神に感謝を呟いた。