「ずっとこのままで、永遠が続くのだと思っていた。永遠に生きるものなどいないと知りながら、死ぬものなど居ないと信じていた。あのころは無知で、無邪気で、だから眩しい希望に満ち溢れている」
3.『あの秋の終わり』
ヴァレス神聖王国のセレーネ姫が出奔して、3年が経った。その姫からは、相変わらず便りのひとつもない。けれど、その間にもときは過ぎ、いろいろなものが変わっていく。
状況も変わる。
海の向こうにある大陸の政情もずいぶんとキナ臭くなったと言われる。島国であるヴァレス神聖王国もいつまでも無関係ではいられないと、知識人階層が世論をあおり始めている。
そんな状況と関係がないわけでもないのだが、しかし、ヴァレス王国の妹姫ファリナも16歳を迎え、やるべきことに追われる日々が続いていた。様々な習い事をかけもちしながらも、これまで以上に、いろいろなことに興味を示した。1日が24時間ではとても足りないというくらい、彼女は忙しく日々を送っていた。
公式の場にも徐々にひっぱり出されるようになって、一国の姫らしい自覚もようやく出てきたようだと周囲は言う。
けれど、「姫様は、いくらときが過ぎても姫様のままで、一向にお変わりになりません」と、傍仕え役のシルフィはぼやく。
ともかく、ヴァレス神聖王国は、聖暦1300年を迎えた。100年の新しい節目を祝い、過ぎ去りし旧世紀を祝い、新たにやってくる次世紀を祝った。王国だけでなく周辺諸国でも、新年は今までにないお祭り騒ぎだった。次の聖暦1301年には、本当にやって来た新世紀を祝わなければならない。その年は、百年に一度のお祭りとお祭りに挟まれた、少し浮ついた気分が行き渡っている年だった。
◆◇◆
「姫様は、どうして魔術をお習いにならないのです?」
首を傾げて、シルフィが聞いた。背中まで伸びた髪をまとめた三つ編みも一緒に揺れた。
そこはファリナのお気に入りの場所。誰も来ない上に美しいヴァレスの海が見下ろせる、城壁の一角。ファリナは鹿の皮でできた布を広げ、そこに小さな金属部品を並べて、なにやら作業をしている。右目には、拡大レンズが入ったモノクロをつけていた。
「魔術ならやってるじゃない、あなたと一緒に。家庭教師がついているでしょ」
それだけ言うと、ほんの少しの短い時間シルフィを見て、すぐにファリナは作業に戻っていった。長いと邪魔だから、という理由で短くしている父親譲りのくすんだブロンドは、今のところ首から下へは領地の拡大を許されてはいない。
「そうではなくて……」シルフィは言う。「もっと本格的に学んだらいかがですか、っていう意味です。このヴァレスの王家は伝統的に魔術が得意ですし、姫様も先生から才能があると言われているじゃないですか」
そこでシルフィはひとつ溜め息をついた。
「それなのに、いつも……」
シルフィは、店を広げるファリナを見下ろす。ファリナは反抗的にくちびるをとがらせて頬を擦る。彼女の白い頬が黒い機械油で汚れた。しかしそれに構わず、ファリナはまた組み立ての作業に戻った。
これでも一国の姫なのだ。あまりと言えばあまりの姿に、シルフィはまた溜め息をつく。
「こんな機械いじりばかりして。もったいないですよ」
「んー、真円度が少し足りてないかなー……」
小さな歯車を日に透かすようにして確認し、ファリナが言う。あとは無言で、かちゃかちゃと組み立て作業を続けた。その様子を、シルフィはあきれたように眺める。そして、訊いた。
「何を作っているんです?」
「ん、懐中時計」
あまりにも簡潔すぎるファリナの答えに、シルフィはただ溜め息で応えた。
「時計は素晴らしいのよ。秒針・分針・時針を動かす機構がそれぞれ連動して、かつ精確に動く。そのためには、部品一品一品にもわずかな狂いもあってはならない。しかも、長期間の使用による磨耗も計算に入れてね。そして持ち運びをするものだから、対衝撃にも気を使って、機構はあくまでも簡潔に。整備もしやすいように作る。そうした複数の要素を考慮に入れつつ、しかも0.1秒の狂いもないものを目指す。こうして出来上がる時計は、寸分も違わない規律の中で時を刻む。――その中身は、まさにひとつの世界。ひとつの小宇宙」
熱っぽくファリナは語ったが、シルフィはまた軽く溜め息をついた。ファリナは時計の魅力を幼馴染に理解してもらうことを諦め、またもくもくと機械いじりの作業へと戻っていった。
機械いじりの姫は、またおもむろに話しを始めた。
「魔術は、誰でも使えるものじゃないわよね」
「そうです、だからこそ才能のある姫様は、もっと高等な魔術をお修めになるべきなんです」
少しとげがある調子でシルフィは答える。ファリナは意に介さずに続けた。
「でも、機械は違うわ。身分や年齢、能力にかかわらず、その使い方さえ知れば誰でも使える。非力な女子供でも、機構を組み合わせることで少ない力で使うことができる。たとえば、シルフィ、今あなたがウチの兵隊と戦って、勝つことができる?」
「そんなこと、できるわけありません」シルフィは即答する。「だって、相手は武器を持っているんですよ?」
「でも、それができる方法があるとしたら、どうする?」
食い下がるように、ファリナが聞いてくる。
「武器を持った兵隊さんに?」黒髪の三つ編みの少女が問い返す。
「そう」
「私が? 勝つ?」
「そう」
「そもそもそんな必要がありません」
「あるとして、よ。それができるのよ。この『火薬銃』を使えばね」
ファリナは、作業を途中で中断すると、腰のホルダーから黒光りする塊を抜き取り、シルフィの前に出して、ばーん、と撃つ真似をして見せた。
「南の大陸の一部では流通が始まっているらしいわ。魔力じゃなくて火薬を使って弾を放つものだから、習熟すれば誰にでも扱える。つい先日、ようやく一丁手に入ったから、こうして分解して構造を確かめているわけ。これがもっとたくさん出回るようになれば、軍属魔術師なんて皆な失業しちゃうわ」
「随分と小型なんですね。これで、きちんと弾が撃てるんですか?」
「もちろんよ。まあ、規格もまだ出来ていないけれどね。元込め6連装式で、連射可能型。『魔術銃』みたいに魔術師しか使えない、ってこともないし、発射までに間があったりしない。しかも習熟すれば結構な命中精度が出るらしいのよ、これが」
「でも、姫様なら、機械の研究をしながら、魔術の研究もできるんじゃないですか?」
黒髪のシルフィの言葉に、ファリナは奇妙な味の果実でも口に含んだような顔をした。
「今日は食い下がるのね、シルフィ」
「わたし、くやしいんです。だって、姫様はこんなにお綺麗だし、家庭教師を言い負かしちゃうくらい頭だって凄く良いのに、みんな、姫様の凄さを認めようとしないんですもの」
シルフィが続けた言葉は、身びいきだとたしなめようとしたファリナを止めるのに充分なちからを持っていた。唇を噛むようにしてシルフィは言った。
「みんな、セレーネ様セレーネ様って……」
黙って黒髪の少女から目をそらしたファリナは、銃をホルダにねじ込むと、時計組み立ての作業に戻っていった。小さな歯車を機構の中にそっと組み入れる。かちり、と小さな音がした。
姉姫であるセレーネがこのヴァレス神聖王国を出て3年が過ぎたが、ひとびとの間でその人気はますます根強く、伝説的なものになっている。この国の多くのものはセレーネ姫がこの国を継ぐべきだったと考えている。
その伝説的な存在となってしまった姉と比較されるのは、当然この国に残っている妹姫ファリナだ。なにかと比較されては貶められ、ファリナ姫ではこの国の舵取りはできない、ヴァレス神聖王国は今の代で終わりだろうと口さがないものは言う。
「だから、わたし、くやしくてくやしくて……。姫様が本気で魔術を修めれば、きっと、もの凄い魔術師になれると思うんです。そうなれば、姫様を悪く言うひとたちだって、居なくなるっ……て思うんです」
ぽろり、シルフィの黒い瞳から涙が零れ落ちた。
「あーあー。私のことで、どうして貴女が泣くのよ」
「だって……だって……」
両の手で涙をこすって止めようとするけれども、溢れる涙は止まらない。そんなシルフィの頭を、ファリナは優しく撫でた。
「ほらほら泣かないの。泣いていると可愛いのが台無しよ。ほら、貴女のバチェットが後ろに来てる。早く涙を引っ込めて! はーい、バチェット!」
そう叫んで、フィレスは手を挙げた。シルフィは慌てて涙をふいて、後ろを振り向く。
しかし、そこには誰もいなかった。ただヴァレス王国が誇る『女神の腕に抱かれし宝玉』、人々で賑わうヴァレス港が、見下ろせるだけだった。
「もう、誰もいないじゃないですかっ!」
からかわれて、シルフィが眉を吊り上げて頬をふくらませると、ファリナは頭に手をやって片目を瞑った。
「ごめんごめん。そう言えばシルフィの涙も止まると思ってさ。止まったでしょ、涙」
「姫様……、酷いです!」
「シルフィは可愛いわね。本当に良い女の子だわ」
突然、静かな目でファリナは言った。決して付き合いが短いわけではないのだけれど、ファリナは突然話を飛ばすことがあるので、シルフィは戸惑った。けれど、一見飛んでいるように見える話も、ファリナの思考の中ではあくまでも連続しているらしい。
このときもシルフィは戸惑いつつも、言った。
「そんな……、いきなり、何を言い出すんですか」
「いつも自分にも他人にも一生懸命で。素直に怒って、笑って、泣いて。そんな貴女を見ているとね、少しうらやましくもあるんだけどなにより、もっと頑張らなければ、って心からそう思えるの。――本当よ」
「そんな……私なんて……」
「貴女からたくさん元気をもらっているのよ。貴女がいて、本当に良かったと思うわ」
「ありがとうございます……姫様に、そんな風に思っていただけるなんて。わたし、光栄です」
艶やかな黒髪から湯気が出ているのが見えるかと思えるほど、シルフィは瞳を少しうるませ顔を上気させた。そんなシルフィに目を細めつつ、ファリナが独り言のように言葉を付け加える。
「貴女みたいな子を、お嫁さんにする男は本当に果報者だわ。私がきちんと思い知らせてあげなくちゃ。いいえ、思い知らせる前に、貴女に見合っているか、きちんと試験しなければいけないわね」
さきほどとは打って変わって、急激に冷たく鋭くなった姫の目つきに、何故だか獣めいた危険なものを感じ、シルフィはおそるおそる聞いてみた。
「あの……姫様、いったい何をされるおつもりなんですか……?」
「大丈夫よ、死にはしないと思うわ、多分」
「死ぬかも知れないことならやめてください!」
そうシルフィが叫んだとき、城壁の階段の方から、誰かが急いで駆け上がってくる音がして、ひとりの兵士が姿を見せた。長身に銀髪、浅黒い肌。ファリナの護衛役を務めるジークヴァルドだ。
「姫様! やはりここにおられましたか」
ファリナの姿を認めるなり、彼は口早に叫んだ。
「あらジークヴァルド、こんにちは。そんなに慌てて、どうしたの?」
のんびりしたファリナの挨拶には応えず、ジークヴァルドはつかつかとファリナの傍へと歩み寄る。そしてファリナの耳元へ身をかがめると、声を潜めた。
「急ぎお部屋にお戻りください。それから御身支度を整えられまして、王の寝室へ」
「寝室?」
怪訝に思ったファリナが問い返すと、ジークヴァルドの真剣な視線とぶつかった。
「お気を確かにお聞きください」
ジークヴァルドは、そこで唾を飲み込んだ。一大事を告げるに、相応しい間だった。
「王が、倒れられました」
◆◇◆
ヴァレス神聖王国23代目の国王であるデルダス=J=ヴァレスは、娘ファリナが16歳のときに崩御した。執務中に倒れ、その後3日ほど意識が戻らないまま昏睡状態が続き、逝去してしまった。聖暦1300年の秋のことだった。
王の遺書には、ファリナを仮の王とし、然るべき者が現れるまで彼女を盛り立てること、とあった。それがため、ファリナは議会の承認を受け、ヴァレス神聖王国の仮王――正式には暫定的国政元首兼最高神祇官――というなんとも珍妙な位置に付いた。そして、先王の人事をそのまま引き継いで、ファリナは事実上の治世をスタートさせた。
幸いにして先王は良き統治者であったので、ヴァレス神聖王国の財政にはほとんど問題がなかった。国庫には非常時に備えての蓄えもあった。さしあたり、ファリナがこなさなければならないのは、周辺諸国への就任挨拶と、来たる新世紀の祝祭の差配だった。
れっきとした王家の血筋のものとはいえ、小娘の年でしかないファリナに従うものは、そう多くはいなかった。貴族のお歴々が連なる議会は常に紛糾し、外交の場では、はっきりと表面には出てこないものの、ファリナは常に侮りを受けた。そのたびにファリナは歯を食いしばるようにして、ときに喧喧諤諤の議論をかわし、ときに心からの笑顔をつくった。
ファリナには、ヴァレス王国の著名な学者たちと交流があった。それは自分の家庭教師たちだけではなく、ファリナの「奇行」に分類されていた趣味である、機械いじりや異国趣味の仲間でのつながりだった。その人脈を使って、なんとか政務をこなした。普段の彼女を考えれば意外なことかもしれないが、ファリナ自身にも経綸の才能があったということなのだろう。
そうして、5年が過ぎた。
5年が過ぎても、ファリナに心服しない貴族は多かった。けれど、それでも彼女の実績をそれなりに認めるものは少なからずいた。なにより施療院の設立や貧民救済の小麦法の設立など、国民に心を砕くファリナの政治は、民衆への受けがよかった。それらは人気取りのための政策というよりも、少女時代から城を抜け出して城下町へ遊びに出ていた、『奇行姫』ならではの自然な発想だったのだろう。
このまま行けば、彼女の治世はまずまず順調なものとなるかもしれない。
そんな風に思われた、その矢先の出来事だった。
聖暦1305年の春。一隻の早船が、ヴァレス神聖王国に急報を伝えた。そしてその報せはヴァレス神聖王国に激震をもたらし、ファリナの運命を大きく揺さぶることになった。
報はこう伝えた。
『本日未明、ノーヴ帝国海軍、進発。
推定兵力3万。
目的地――ヴァレス神聖王国』
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