奴らというのは油断ならん。森の奥深くに潜み、我々を小ずるい狐のように付回し、そして必ずこちらが気を抜いたときを見計らって襲ってくる。一体、何人の同胞が、奴らの卑劣な罠にはまったことか。
 歴戦の将軍は、立派な口髭を撫で付けながら、実に口惜しそうにそう語った。






4.『勧告の使者』


 ノーヴ公国は、大陸にある西方諸国連盟に属する国だった。
 もともと、西方諸国連盟自体が都市国家レベルの政治体の寄り合い所帯だったから、その一国であれば、軍事力も経済力も、たかが知れていた。山脈を越えた大陸東方にある大国ガリカ王国になど遠く及ばなかったし、島国であるヴァレス神聖王国と較べても格下だった。ようするに、ノーヴ公国は、ありふれた小国に過ぎなかったのだ。
だが、新公が即位して、この国は変わった。
 ノーヴ新公、ナザール=ノーヴ。
 彼は、4男3女の次男であったが、父公の死後の公位継承で争い、太子であった兄と弟の一人を殺し、若干21歳にして公国の領袖に収まった。聖暦295年、ファリナが仮王に即位する5年前のことだ。
 ナザール=ノーヴは、どの国も身分制度を布いていた時代に先駆けて、身分を越えて優秀な人材を募集する制度を確立した。そして自分の命令を確実に遂行する官僚的な実行部隊を創設した。さらに各国を股にかけて活動する商人たちと結び、超国家的なネットワークを作り出した。そこから生み出される富を財源に、強力かつ専門職としての常備軍を創出し、そしてその軍事力を背景にして外交を展開し、ノーヴ公国の影響力を四方へと広げた。
 結果、またたく間にノーヴ公国は西方諸国連盟の有力国になり、さらに盟主になった。
 だがナザール=ノーヴはそれでは飽き足らず、自らが皇帝となることを宣言し、西方諸国の土地を自国の領土であると公式に宣言。国称もノーヴ帝国に改めた。
他国の領土を勝手に自分の所有とし、さらに帝位までを僭称する行為に、当然西方諸国連盟内で反発があった。当然のように軍事衝突にまで発展したが、ノーヴ帝国はこれに勝利した。戦勝の結果、ノーヴ帝国は、西方諸国連盟に加わるすべての国の土地を版図もしくは属国とした。後になって振り返ってみれば、帝位の僭称は、軍事的対決にもっていきたいがための挑発行為だったと分析する者もいる。
そして、その余勢をかって、ノーヴ帝国は西方諸国外へも覇権を広げるべく外交軍事の両面で活動している。
 聖暦1305年のヴァレス神聖王国への突然の派兵は、この対外活動の一環であると解釈された。



「続報はまだか! 彼奴らの目的はなんだ!」
「どうせ誤報だ。あわてる必要もあるまい」
「そうとも言い切れん。今からでも遅くない、大々的に傭兵をかき集めるべきだ」
「海軍3万と言えば相当な大軍、こちらから先制すべきだ。逸を以って労を撃つのだ」
「然り。ヴァレスは海洋国家で伝統的に海軍が強い。洋上での戦いに持ち込むべきだろう」
「いや、彼奴らはヴァレス島経由でガリカ王国に向かっていると聞いたぞ。ならば無用な刺激はしないほうが得策ではないか」

 ……。

 『ノーヴ海軍来たる』の報は、ヴァレス神聖王国の議会を混乱させた。
 緊急議会を招集して2刻。貴族たちの議論は、一向にまとまりそうにもなかった。仮の王であるファリナその無意味な議論を、唇を固く結んだまま聞いていた。
 彼女としては、早くヴァレス国軍を展開したかった。だが、ここでも彼女が仮の王であることが枷になった。軍隊は国家のものであり、王個人のものではない。まして仮の王が勝手に動かせるものでもない。軍隊をファリナが動かすには、議会の承認が必要だった。しかし、まともに承認を求めたのでは、うまく行かないことは目に見えている。だから、ファリナは一策を講じることにしたのだ。
 準備にかかると言われた時間は2刻。
 そろそろ、頃合だった。
 軽く深呼吸して気を落ち着かせると、できるだけ重々しく、ファリナは切り出した。
「ノーヴ帝国の意図が何にあるにせよ、強大な1艦隊がこのヴァレス神聖王国に迫りつつあることは事実です。ならば、こちらも最悪の事態も想定して動かねばなりません。そのためには、ヴァレス国軍の出動が不可欠です」
 ファリナは、そこで円卓につく議会の面々を見渡した。
「ですから、ここに『非常事態』を宣言し、暫定的国政元首である私、ファリナ=ヴァレスに、『独裁権』の付与を認めていただけることを、発議したいと思います」
 この提案に、一座は静まりかえった。
 独裁権は、非常事態に限り王が発動できる権利で、軍事内政外交等に関わる一切の専断権だった。この独裁権の発動が認められれば、どの決断も議会の承認を得る必要が無くなる。つまり、独裁権を得ることで初めて、ファリナは自分の好きなように国軍を動かすことができるようになる。
議会制は物事にバランスを与えるのに適しているが、総じて時間がかかる。平時はそれで構わないかもしれないが、軍事に関わることでは決定が遅すぎて使い物にならない制度だ。そのシステムの欠陥を補うものが、独裁権の発動だった。
 しかし、独裁権は、処理スピードに優れる半面、とても強力なものだ。それだけに、貴族たちがこの提案に難色を示したのは、無理からぬことでもあった。貴族の一人が、ゆっくりと発言した。
「確かに、独裁権の発動が必要な状況かも知れませんな。それには異論はありません。しかし、失礼ながらファリナ様はまだお若い。誰か、この議場のいる経験豊富な別のものに、独裁権を付与するのが適当ではありませんかな」
 その反論は、ファリナも同じように思っていることでもあった。だが喜ぶべきことなのか、長い平和で、貴族たちの中にも軍隊の指揮などとったことのあるものはいない。つまり経験豊富なものなど、端からいないのだ。そして残念ながら、この場にいる貴族たちの中には、指導力に長けたものも、突出した能力を持つものもいない、とファリナは思っていた。
「であれば私が、独裁権を持つのに適当であると考えますが」
「いやいや、貴公よりも小生のほうが」
「何をいう、私が」
 そしてファリナの予想通り、貴族たちはこぞって独裁権を持ちたがった。だが飛びぬけたものがいないために、誰が独裁権を持つのか一向に決まりそうもない。
小鳥たちがさえずるように、いかに自分が独裁権を持つにふさわしいかの貴族たちの自慢大会が始まっていた。
 このように自慢の応酬で時間が浪費される。残念ながらというべきか、この結果もまたファリナの予想通りだった。といっても、ファリナが強硬に事を進めてもうまくいかないことは目に見えていた。そのため、彼女は一計を案じていた。

 さあて、舞台は整ったわよ、ジークヴァルド。
 心の中で呟くと、ファリナは舌なめずりでもするように、その瞬間を待った。

 突然、議会場の外が騒がしくなった。
不審に思った議員の何人かが、扉の方へと顔を向けたかと思うと、議場の外から数え切れない足音がして、議会場の扉がばんと大きく開かれた。
 そこには、武装した近衛兵たちが整然と並んでいた。
 間違いなく百は越える数がいる。黒がねの装甲を着込んだ男たちが壁のように並ぶ姿は、壮観を通り越して凄みすら感じさせた。
 自慢大会をしていた貴族たちの一座は静まり返った。急な展開についていけない者があり、そしてこれから起こるかもしれない惨劇を想像して、固い唾を飲み込むものもいた。
 突然舞い降りた重い沈黙の中、近衛兵たちの先頭にいた白髪の壮漢が、書状を持って一歩前に出た。彼はヴァレス王国の近衛兵長だった。
 分厚い鎧を纏った白髪の壮漢――近衛兵長が、重々しく口を開いた。
「議会審議の最中失礼仕る。このような闖入は、本来ならば許されざる非礼と自覚しております。だがこれは、非常事態に及んでの愛国心の表れと思い、どうかご容赦いただきたい」
 貴族たちの誰もが無言でいる。火山流のような突然さで現れた兵士たちの圧力に気圧されてしまっているのか。それとも、事態へどう対処したらよいのかを決めかねているのか。とにかく、彼らはただ近衛兵長を見守っていた。
 貴族たちの視線を受けながら、近衛兵長は言葉を続ける。
「我々は、あるじたる王家、他国に類まれな美しい海を持つこの国、そしてそこで暮らすすべての人々を守るために剣を持ち、その腕を磨いてきました。だが今、その愛すべき祖国が危機にさらされている。ノーヴの如き輩に、剣の切先を向けられて、ただ座視していることは、軍属の身としてはおよそ耐え難きことです。事ここに至り、我々は同胞たる議会の皆様にお願いにあがりました」
 近衛兵長は、一度そこで言葉を切ると、巌のように強い視線を議会の面々に注いだ。そして、さきほどよりもさらに強い声を議場に響かせた。
「どうか、我らがあるじにあらせられるファリナ様に、独裁権をお認めください。そして、ただちに我々の出陣をお命じください! ひとたび拝命すれば、ヴァレス神聖王国近衛兵団、身命を投げうって戦うことを誓います!」
 そう言って、近衛兵長が跪き、礼をした。あわせて、後ろに控えていた百余りの近衛たちが同じ時宜で跪く。さすがに軍隊なだけに、その動きすら規律正しく整然としていた。
息詰まるように張り詰めた空気のなか、近衛兵団の中から長身の男がひとり歩み出た。ジークヴァルドだった。彼は、手に持った紙束を捧げるようにして、議場の机に置いた。
「これなるは、ファリナ様に独裁権を求める近衛兵たちの嘆願書です。近衛兵団全員の署名があります。どうぞ、ご確認ください」
 貴族たちは、誰も言葉を発しなかった。ここに至ってなお、気圧されているかのようだった。近衛兵たちは剣も抜いていないが、武装した兵という存在それ自体が、空気を重く張り詰めさせ続けているのは事実だった。
「――さて」
 張り詰めた鼓を打つかのように、ファリナは静かに声を出した。
 芝居の第一幕をひとまず幕とすべく。
「彼らの請願は終わったようです。我々は、我々の責任を果たすために、彼らの動議を検討いたしましょう」
 動議は、すでに決定されたも同然だった。


                        ◆◇◆


「お役に立てましたでしょうか」
「上出来よ。まさか近衛兵長殿が出てくるとは思わなかったわ」
 ヴァレスの王城の廊下を、彼女たちは早足で歩いていた。緋色の絨毯を蹴るようにして前に進むファリナのすぐ斜め後ろ、影のようにジークヴァルドが付き従っている。
「皆、署名にとても協力的でした。もともと私がやるはずだった役も、近衛兵長が自ら進んで立候補してくださいました。ファリナ様は、意外に、兵士たちに人望があるようですね」
「意外に、とは随分な言い草ね」
「これはご無礼を。しかし、正直な感想ですので」
「まあいいわ。今回は、貴方に助けられたわけだし」
「助けられたなどと。私は、姫様が命じられたままに動いただけです」
「そんな殊勝なことばっかり言っていると、もっともっと、無理を言いつけるわよ」
 そう言ってファリナがいたずらっぽく笑うと、ジークヴァルドは、
「望むところです。それが私の使命だと心得ていますから」
 と頭をさげた。
 へえ、とファリナは片眉をあげた。その反応の真意は知れない。



 非常独裁権を得たファリナは、海軍に第二戦闘配置を命じ、ただちに軍艦を出す準備をさせた。既に、小回りの利く中小型の三角帆型軍艦が、哨戒のために出港しており、続けて大型のガレオン型軍艦が出港される予定になっていた。ノーヴ帝国の意図が不明にせよ、最悪の事態――つまり戦争状態――を想定して動くのがファリナの方針だった。
 さらに、軍艦接近の報と同時に、その意図を問い合わせるべく、ノーヴ本国と、迫りつつある艦隊へと両方にヴァレス王国から使者を派している。この使者が、今後の方針を定める重要な情報をもたらすことは間違いなかった。その使者はもう2〜3日すれば戻ってくることになっていた。
 だが、事態の展開は、それよりももう少し早かった。

 ファリナが非常独裁権を得て軍を展開しはじめたその日の夕刻。ノーヴ帝国の軍使がヴァレス港に到着し、ヴァレスの元首に――つまりファリナに、ノーヴ帝国司令官の手紙を届けた。
 その手紙が届いたとき、ファリナは腹心たちと政務室で今後の対応を協議しているところだった。小姓が持ってきた銀盆に載せられた手紙を手ずから取りあげ、ファリナは蝋の封印を開いた。
 ざっと文面に目を通し、そしてあるところまで読み進めたそのとき、ファリナは突然体をこわばらせ、手紙を取り落とした。
 そのファリナに、いつものように近侍していたジークヴァルドが気付いた。
「どうかしましたか?」
 とはこの無口で無骨な武官は尋ねない。黙ってファリナに近寄ると、落とした手紙を拾い上げた。その手紙をファリナに手渡そうとしたが、ファリナは顔を蒼白にし、自分で自分を抱きしめるような仕草をしたままだった。彼女は、ジークヴァルドが近づいたことさえ、気がついていないようだった。
 長年仕えていたジークヴァルドだったが、ファリナがこれほど驚く様を見たのは、後にも先にもなかったとのちに語っている。
「……うそよ。うそに、決まっている……」
 ファリナは、怯えるように呟き、自らを抱く腕にちからを篭めた。
 ジークヴァルドは、数瞬逡巡したが、結局手紙に目を通した。そして、最後の使者の署名を見たとき、沈着な彼ですら、まるで頭を鉄槌で殴られたような衝撃を受けた。
 手紙にはこうあった。

『……以上、ヴァレス王に検討いただきたい儀あり。略儀ながら書面にて面会を求む。
 ノーヴ帝国皇帝名代 ノーヴ帝国第二師団師団長
 セレーネ=ヴァレス』

 何かの間違いでなければ、セレーネ=ヴァレスとは、8年前にこの国を飛び出した姫の名だ。ファリナの姉の名前でもある。そのひとが、ノーヴ皇帝の名代を名乗っている。
 いったいどういうことだ?
 ジークヴァルドは疑問を胸に抱え、傍らに立つファリナを見た。彼女はこんなときいつも、粉雪を掌で溶かすように、たちどころに疑問を解いて見せてくれた。今回もそれを無意識に期待したのだ。だが、彼女は、依然として驚愕から立ち直っていない。議論をしていた腹心たちも、異変に気がついたようで、彼女へと視線を向けている。
「うそよ……ねえさまが、そんな……、こんな……」
 ファリナはまた呟き、唇をきつく噛んだ。