羊飼いがいなくなってからは、羊たちは寄り集まって、ただそこに居た。その場所に生えている草を食べ尽くしてしまっても、羊飼いを失った羊の群れは、ただそこに居続けた。新たな羊飼いがやってくるまで。






5.『悩めるものたち』


 早朝、ヴァレス城の貴賓の間。
 ヴァレスの重臣らが居並ぶ中に登場したセレーネは、何かの間違いであって欲しいという期待を裏切って、ファリナが記憶していた通りの姿のままで現れた。
束ねられた長く艶やかな赤い髪、柔らかな顎のライン、白い首、青い目。いや、むしろ記憶よりも一層美しく、艶やかですらあった。
 ざわめく重臣を当然としているのか、無視しているのか、セレーネは一向に意に介さず、優雅にファリナに――つまり今のヴァレス国の元首に――礼をした。ただの一礼であるのに、その場の空気が、まるで舞踏会のそれのように華やいだ。
 もし、セレーネが身にまとっているものがノーヴの真っ黒な軍服でなく、また勲章や階級章をあれほど身につけていなければ、この場がこの国の元首と相手国の皇帝名代との面会の場面だとは誰も思わなかっただろう。
 だが、この場面は、軍隊という物理的なちからを背景にした、降伏勧告の場だった。
 姉と妹が、一国を賭けた敵味方の代表として向かいあっている。ヴァレスの姫君たちの、8年越しの再会は、こうして果たされることになった。
「ヴァレスの元首におかれましては、ご機嫌うるわしく」
 セレーネの発した声は、とても良く透る美しいものだった。ただそこに居るだけで、彼女の一挙手一投足がひとを惹きつける。
「……姉さまも、お変わりなく何よりです」
 ファリナは、礼法通りに友好的な笑みを浮かべた。立場は上のはずなのに、セレーネに威圧されているような気がして、ファリナは心中落ち着かなかったが、外面的には充分に平静を装うことができていた。
 双方が椅子に腰をかけた。ベージュとチャコールを基調にしたこの部屋は、さほど広くは無い。ふかふかの絨毯の敷き詰められた部屋の中央に長卓があり、その上に新鮮な薔薇が生けられている。卓の一番奥にあたるところに、ファリナとセレーネが並んで腰掛け、セレーネの随伴員とヴァレスの重臣たちが向かいあって座っている。重臣たちすべてが座れる数の椅子が無いので、何人かは立ったままだ。それでも入りきらない人数は、この会見に参加できていない。
「……まだ、わたしを姉と呼んでくださるのですね」
 セレーネは、少し寂しげな微笑を浮かべた。
「姉さまを忘れたことなど、この8年間、一度もありません」
 少し誇張してあるが、ファリナの言葉は嘘ではなかった。ヴァレス神聖王国にとっても、そして妹であるファリナ自身にとっても、セレーネの存在はとてつもなく大きいものだった。忘れたくとも、忘れられないぐらいに。
「ファリナ、貴女はとても頑張ったのね。噂は聞いています。お父様がお亡くなりになったあのとき、私は旅の途中で、その死をすぐに知ることができなかったわ。ごめんなさい。貴女には苦労をかけてしまったわ」
「いいえ、苦労だなんて」
「でもあのとき、貴女には本当に申し訳ないと思うのだけれど、父様の死を知っても、きっと私はここに戻らなかったと思うわ。私は一度家を捨てた身ですし、何よりも、私にはまだやらなければならないことがあった」
「ナザール=ノーヴ……ですか」
 ファリナは少し先回りをして、ノーヴ帝国皇帝の名前を出した。
 ただの思い出ばなしが、核心の降伏勧告へと少しずつ近づいていく。
「そう……。あのとき、彼はまだ継承権もない公子に過ぎなかった。けれど、私たちは彼の理想に共鳴し、その手助けをすることにした。つまり、争いの無い、誰もが平等な世界を作るということの」
「平等な……世界」
 その言葉は、ファリナにとって別に耳新しい言葉ではなかった。一般に、平等な世界は、神とひととの間での平等を指すが、人間同士の間でも平等を目指そうという思想があるということもファリナは知っている。王制の根本を覆す思想なので、危険思想とされていたが。
 一瞬皮肉な笑いがこみあげてきたファリナは、慌てて自制した。帝政国家で、しかも大陸を席巻する侵略国家の皇帝が、平等な世界を目指す人間であるというのだ。
 だが、セレーネは真面目な瞳を崩すことはなかった。まっすぐにファリナを見つめ続けるその視線に、ファリナは少し気圧された。そして、そうしてできたファリナの心に生まれた小さな隙に滑り込むように、セレーネはファリナに質問をした。その質問は、ファリナの関心を引くのに充分なものだった。
「ファリナ。どうして――この国では、主役が人間ではないのかしら」
「え?」
 ファリナは、答えるどころか質問の意味すらとりかねた。人間が主役でなかったら、この国の主役は誰だというのか。しかしファリナが問い返す前に、セレーネはもうひとつ問いを重ねた。
「神様は、果たして本当にこの世界にいらっしゃるのかしら」
 神は本当にいるのか。それは神がしろしめすヴァレス神聖王国では、禁忌の疑問だった。けれど、ファリナもかつて抱き、そして今も胸にある疑問だった。
 このヴァレス神聖王国では、国教が定められ、祭政一致の政体が取られている。だからこの国では神が主役となり、人間が脇に追いやられている、そうセレーネは言いたいのだとファリナは解釈した。そして、その質問の奥にあるものを思う。
 この国では、本来主役であるべき人間が主役ではない。主役の座に座るのは神だ。だがしかし、神は、この世に本当に存在するかどうかもわからない。この浮世に生まれて確かに存在し、労苦を味わい快楽を楽しみ、怒り悲しみして生きる人間が軽視され、誰もその存在を証明することができない神が、この国の中心に座っている。
 そんなことが、あって良いのか。
 ファリナは、動揺した。その疑問は、ずっとファリナ自身も持っていたものだったからだ。そして、その疑問を、偉大なる姉のセレーネが指摘したのだから、動揺は尚更だった。
 その心の動きを見透かしたように、セレーネは、ファリナの耳元へと顔を近づけると、耳打ちをするようにして再び呟いた。
「神は――本当に、この国にいるのかしら?」




 5日間の猶予。
 ファリナらが決断するまでにそれだけの時間を言い置いて、セレーネは洋上の小島に停泊を続けているというノーヴ艦隊へと引き返していった。
 要求内容は、ノーヴ帝国への協力と国教の放棄。国の基本統治機構のひとつである国教の放棄と、軍事力を背景にしたノーヴ帝国協力の依頼は、降伏勧告を超えて、事実上の国家解体勧告だった。
 その降伏勧告の場面――ファリナとの面会のとき――で、セレーネはファリナだけではなく、並み居る重臣たちに向けて、強い口調で降伏演説を行った。セレーネの言葉には力があり、断定的なもの言いにも優雅さがあった。それは、セレーネの類まれなカリスマ性と出自の尊さを示すものだった。
「尊きは神ではなく、人である。なぜなら、物事を為すのは常に人であり、神ではないからだ。であるならば、人の営みを司る政治において、なぜにヴァレスともあろう国家が、神に頼るのか。海洋国家として海に乗り出し、冒険心と進取の気風にあふれたこの国で、何故目に見えぬ者にすがるのか。
 神が助けてくれるなどまやかしだ。
 何故か? 神は目に見えぬからだ。何故目に見えぬか。それは、神が、神官たちが作り出した虚構に過ぎないからだ」
 この断定には、さすがに重臣たちは毛色ばんだ。しかし、セレーネは彼らにものを言う隙を与えず、畳み掛けた。
「愛すべき国民たちは神によって支配され、虐げられている。人間が軽視されている。才幹は地に埋もれ、才能は輝くことなくその生を終える。このままで、良いのか。いや、そんなはずはない。
今ならまだ間に合う。神にすがらず、自分の足で歩け。政治から神権を排し、自立した国を築くのだ。ノーヴ帝国は、理想国家を作るための援助を惜しむことは決してない」
 それがセレーネの勧告だった。要は、ヴァレス神聖王国の政治に深く関わっている現在の国教を捨て、ノーヴ帝国に協力せよと言う内容だった。
「祈りがなんの役に立つ? そして、役にたたぬ祈りを求める神が、またなんの役に立つと言うのだ」
 セレーネは弁を重ねた。人間は神から離れるべきだ。神から離れ、強くなり、自立するべきだ。ヴァレスは、人間の国となるべきだ。
 そして、彼女は述べた。これが最終通告だと。この勧告が受け入れられなかった場合、心苦しいが軍事的行動も辞さない、と彼女は言った。
 最後に、セレーネはファリナの手をとると、言った。
 自分は故郷を破壊することは望まない。セレーネの望む世界が、きっとファリナにもわかるはずだと。昔に出て行ってしまった自分にこんなことを言う資格はないのかもしれないが、まだ自分のことを姉と思ってくれているのならば、この理想に賛同し、協力して欲しいと。
「私は、貴女と争いたくない。貴女が私の言葉の何を疑ってもいい、けれどそれだけはまごうことなき本心だわ。それだけは信じて」
 実を言えば、ファリナはセレーネの言葉は正しいと理解した。そして、その理想に惹かれもした。
 だが、何かがファリナの中でひっかかった。
 ファリナは少しうつむくと、考える時間が欲しいと言った。こんな重要なことを自分ひとりで決めることはできない。議論する時間が必要だと言った。
 セレーネは、深く満足したように頷いた。
 そして、5日間の猶予をヴァレス神聖王国に対して提示し、自らは沖合いに停泊しているノーヴの軍艦へと引き返したのだった。


                            ◆◇◆


 ノーヴ帝国による降伏勧告の話は、緘口令が布かれたにも関わらず、あっという間にヴァレス国内に広がった。貴族から庶民、子供に至るまでそこかしこで囁きあうような議論が為され、そして紛糾した。
 勧告の内容そのものよりも、ノーヴ帝国の勧告者が、ヴァレス神聖王国のカリスマであるセレーネだったというその事実が、ヴァレス王国の群臣と国民に動揺を与えていた。今のこの状況は、姉姫セレーネと妹姫ファリナの、形を変えた王位継承戦である、と分析するものもいた。その一面は確かにあった。勧告の詳細がよく伝わらない庶民の間では、セレーネにつくのか、ファリナにつくのかという短絡に歪曲した議論が行われていた。
 一方で、勧告の内容に国教の廃棄が含まれていたことから、司祭などの聖職者階級からは徹底抗戦が叫ばれた。
「神を棄てて生きることはできるかもしれない。しかし、神を信じずに、死後に天国に行けると思うのか」
聖職者たちは、そう辻説法をして回った。もしヴァレス王国が勧告を受け入れたら、自分たちの地位が守れないことが明らかだったからだ。
 貴族たちも、自分達の地位を守るためということで徹底抗戦の立場を取るということでは、聖職者たちと同じだった。ただ、貴族の子弟の中には、純粋にセレーネの主張に共感し、同意を示すものも居た。彼らセレーネシンパの若者は、
「人間の国を!」
 このフレーズを繰り返し叫び、街の中央通りを行進した。

 そしてファリナは――迷っていた。
 勧告を受け入れるなどありえない。それはファリナにとって、この国を想う気持ちを無条件に投げ出してしまうことと同じだったからだ。けれど、そう思っていても、セレーネの勧告を即座に拒否することができなかった。それは、ファリナ自身が、セレーネの唱える理想に惹かれたからだった。
 ファリナはこの国で神官の最高位にありながら、実は神を信じていない。そんなものは存在しないと考えている。
 けれど、この国ではすべての人間が神を信じているし、それで害があるわけではない。だからファリナは取り立てて自分の考えを口にしないようにしてきた。むしろ、自分の気持ちは他へおいておいて、神を信じるように説いたりすることもあるし、熱心な信者であるように振る舞ってみせる。ファリナにとって、いつの間にか信仰は処世術になってしまっていた。神を信じるふりをして、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていた。
 神を信じないものなど、自分以外にいなかった。だから、セレーネが神の存在を疑った問いを発したとき、驚いたのだ。次に、共感した。そして、自分の仲間をようやく見つけたような、そんな暖かな気持ちになった。
 自分の偽りが、鋭い一条の光で開かれたような気がした。そして、セレーネの語る「神に頼らない人間の国」の理想に強い共感と興味を持った。それは、かつて自分が思い描いていたあるべき世界の姿と、同じだったからだ。
 ファリナは小さく溜め息を吐くと、辺りを見回した。頭を冷やして考えをまとめるために城内を散歩していたのが、考えることに熱中して、つい自分の居場所を忘れてしまったからだ。廊下の造りや部屋の並びから、城の西側の一角であることがわかった。この場所からだと、城の礼拝堂が近い。
 少し考えたあと、ファリナは礼拝堂へと足を向けた。

 礼拝堂は静かだった。天井近くの高い位置にあるギヤマンのグラスからは、柔らかな西日が差し込んできていた。その光が備え付けの椅子や彫刻を照らし、濃い陰翳を作り出している。日は傾いて来てはいたが、まだ灯火はともっていなかった。
 深い谷底にいるかのような錯覚と神聖な厳粛さを演出する広い礼拝堂。その中央の通路を、ファリナはゆっくりと歩いた。すると、前方に見慣れた背中を見つけた。
 跪いて祈りを捧げる、小さな背中。長い黒髪が彼女の背を覆っていた。
「シルフィ?」
 ファリナは祈りを捧げる幼馴染に声をかけた。
 シルフィと会うのは、実は久しぶりだった。ファリナが先王の跡を継ぎ、時間を経て公務が忙しくなればなるほど、シルフィと会う機会はめっきり少なくなっていた。理解ある幼馴染と過ごす時間が減ったことは、ファリナが国家元首になることで払わざるを得なくなった大きな犠牲のひとつだった。
 シルフィは振り返りながら立ち上がると、やがて微笑んで見せた。ギヤマンを通り抜けてくるオレンジ色の外光が、彼女の胸元を横切っている。
「お久しぶりです、ファリナ様」
「シルフィ、貴女にお久しぶりなんて言わなければならないのは残念だわ。もっと貴女とは一緒にいたいと思っているんだけれど」
 シルフィはくすりと笑って、
「ファリナ様はお仕事がお忙しくていらっしゃるから。でも、私たちが夫婦でしたら、離婚の危機です」
「ごめんなさい。でも、どうか許して。お詫びに、なんでもするから、ね?」
 そして、二人ともが笑った。

 階段をのぼる2つの足音が、暗く狭い通路に反響する。城壁の上へと続くこの階段は、入り口と出口からだけ薄く光が入ってくるのみだ。真ん中の辺りでは、壁を手探りしながらほとんど勘だけを頼りにして足を進める。
「ちょっと前まで、ファリナ様とよくふたりでこの階段をのぼっていましたね」
 足場を探るようにして階段をのぼりながら、シルフィが言った。ファリナはその言葉を背中で受けて言った。
「そうね。私もここに来るのは、随分と久しぶりだわ。昔は毎日ここを通っていたのに……。城壁の上でだらだらして、お話しして、お昼寝して。私も、大人になったってことなのかしら」
 よくわかりませんとシルフィは言った。
「ファリナ様がお忙しくなったのは間違いないと思います。けれど、昔よく訪れていた場所に来られなくなったことで、大人になったことを確認するなんて、少し寂しい気がします」
 そうね、とファリナは同意した。そしてシルフィが変わっていないことを思って安心をした。昔からの幼馴染は、相変わらず心の素直な部分で考えて、感じることを伝えてくれる。
「ところで、さっきシルフィは礼拝堂で何をしていたの?」
「平和を祈っておりました。ファリナ様と、私の家族と、この国の平穏がいつまでも変わらぬようにと」
(祈りだけじゃ、何も変わらない!)
 反射的に、ファリナはそう強く思った。礼拝堂にいたのだから、祈っていて当たり前なのだけれど、ファリナはそうは考えなかった。まるで爆薬の導火線に火がついたかのように、シルフィの言葉の何かが、ファリナの心のどこか大事なところに触れた気がした。
「来て」
 ファリナはすぐ後ろにいたシルフィの華奢な手首をつかむと、階段を駆け上り始めた。火花のように胸に浮かんだ違和感をぶちまけるには、この薄暗い階段通路ではふさわしくないと思った。
 出口はそう遠くはなかった。
 薄暗い中で階段を駆け足でのぼる。
 そんなファリナに引っ張られて、シルフィもおぼつかない足取りで階段をのぼる。
 かつてふたりでよく話した、海が見える城壁の上へと。

 隙間から光を漏れ放つ錆びた鉄扉を開けたとき、ファリナの目の前に広がったのは、夕陽を湛えるヴァレス湾だった。戦時だというのに、城壁から見た風景はいつもとそう変わらない。
 太陽は平時でも戦時でも人間の都合に関係なく、昇って沈むのだなと当たり前のことをファリナは思った。そしてヴァレスの国にも、たくさんの人間が生きている。誰かを守るものがいて、守られるものがいる。守られるものも、守るものの無事を祈っている。父親は妻と子を守り、妻は子を守り、子は母親を守り、妻と子は父親の無事を祈る。そんな単純な連鎖でこの世界は成り立っている。
「ひ、姫様……。痛いです」
「え? あ、ごめんなさい」
 ヴァレスの夕焼けに見とれながら思わず力をこめていた手を離し、シルフィの右手を解放する。シルフィはああ痛かったと呟きながら指の跡の残る白い手首をさすり、
「もう、突然なところは変わりませんね」
 と咎めるような口調で言って、けれど微笑した。
 ファリナは戸惑いながら、ごめん、とまた言った。
 そしてシルフィは祈るように胸の前で手を組んで目を閉じた。
「どうか姫様が、いつまでもこのままであらせますように」
 ひそめた呟きは、海風にかき消されることなくファリナの耳に届いた。シルフィの黒い前髪がわずかに風にそよいだ。
 ああ、この子は相変わらず優しい、とファリナは思った。
 とても純粋で、眩しいくらいに優しい。
 そして、この純粋な優しさがいつまでも在り続けて欲しいと願った。
 その瞬間だった。空気を震わせる鋭く風切る音が聞こえたかと思うと、続けて落雷のような轟音がした。
 ファリナが驚き周囲を見渡すと、西にある岩山の一角で、土煙があがっていた。街の方から、悲鳴があがっているのが聞こえる。その一方で、 全速でヴァレスから遠ざかっていく船が見えた。ファリナは慌てて城壁のへりに飛び付き、遠目をきかせた。
(砲撃?)
 どこの船かまではわからないが、速度の出る中型の帆船であることは確認できた。魔術でさらに増速できる仕様のものかもしれない。
「たいへん! わたし、怪我人がいないか、街の様子を見てきます」
 そう叫び、体を反転させかけたシルフィの腕を、ファリナが掴んだ。
「待って、わたしも一緒に行くわ」
「いいえ、いけません」シルフィは首を横にふった。「姫様にはやるべきことが他にありますでしょう?」
「でも、あなたが心配だわ」
「わたしには、神のご加護があるから大丈夫です。さ、姫様。お戻りになって、臣下の皆様に下知を」
 シルフィの言葉には、なぜだか説得力があった。黒髪の幼馴染はファリナの手を優しくはずすと、今度こそ駆け出した。足音が遠ざかっていくのが残されたファリナの耳に聞こえた。
「……そもそも、もう姫様じゃないってのに」
 呟きながら、ファリナは幼馴染の無事を祈る。
 そして、気がついた。こんなとき、神に祈ることしかできない自分に。
 自分のちからが及ばなくなれば、頼れるものは神しかいなくなる。
 彼女は海の上を漂う小船を想像する。風も凪ぎ、帰るべき方向もわからない。ひとの力が及ばないそんな場面など、たくさんある。
 今もそうだ。シルフィが一歩遠くなるごとに、ただそれだけで、ファリナは幼馴染を直接守れなくなる。
 一歩離れるごとに。
 ちからが、及ばなくなる。
 ああそうか、とファリナは思う。
 神が居るから祈るのではなく、祈るしかないから、神がいるのだと。
 ひとは万能ではない。だからこそ、ひとは神に万能を託すのだ。

 そう思うと、何かが、すとんとファリナの胸のなかに落ちた気がした。



 その日のうちに、砲撃はノーヴ帝国軍の威嚇行為であると判明した。
 そして、5日後。
 ファリナは、祖国防衛戦争の開始を宣言した。